2024年5月19日礼拝 説教「闇の中に輝いている光」

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

 

礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙1章11‐14節
さ ん び Opening Praise ただ十字架のイエスにありOnly A God Like You
さ ん び Praise 暗闇に輝く灯The Power of the Cross
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌177番「愛するイエスよ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書1章5-13節
聖書の話 Sermon 「闇の中に輝いている光」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きたいのですが、皆さんは日本で生まれたことや、日本で生活できることを感謝していますか?感謝していなかったら、感謝しましょう。私は最近のウクライナ戦争、パレスチナ戦争を見て、その戦争に巻き込まれてしまった子供たちが本当に可哀そうと思います。ミサイルやドローンに家が壊され、家族や友人が殺されるのを自分の目で見ること。その日の食べ物を探すことにいっぱいいっぱいで、学校へ行くことや将来のことを考えられないこと。安定した、平和な環境の中で育つのではなく、戦争が続く毎日の中で、憎しみしか経験しないような環境で、子供たちはどのように育つのでしょうか?どんなに良い子であっても、そのような環境に育った子供たちは、一生涯背負っていくであろう体や心のキズ、戦争によって自然に身についてしまった悪い習慣や考え方、希望のない将来と世界に対する不信感などを、引きずってしまうと思います。本当にかわいそうですよね。じゃあ、数万人の子供たちを戦争から救い出すために、例えば、1000人の戦争から避難して来た子供たちが海浜幕張に引っ越して来たら、または、一人の子がいきなりあなたのお家に住むことになったとしたら、どう思いますか?ある人々は、「なぜ私たちは自分たちの特権と恵みを、関係のない子たちに分け与えないといけないのですか?」と心の中で思うと思います。しかし、もっと難しい質問があります。もし、それが「敵」の子供たちで、私たちの町にきて、私たちに助けを求めきたら、どうしますか?おそらく「私たちの子供たちの喜びを奪った敵の子供たちに、なぜ私たちの喜びを与えないといけないのか」と思うでしょう。それは、当然の事だと思います。

 

皆さんは、私たちが霊的な戦争のただ中にいることを知っていますか?いろんな表現の仕方がありますが、この戦いは、神様の「光の王国」とサタンの「闇の王国」との戦いに例えることができます。今日読んだ箇所では、「光の王国」の王であるイエス様が、闇の王国に下られたことが分かります。しかし、「闇の子」は、全力でイエス様に対抗し続けるのです。「闇の子」は闇しか知らないので、「光」に対抗するのも当然だと言えます。しかし、イエス様は「闇の子」をすぐには裁かずに、まず「闇」から抜け出すチャンスを与えるのです。闇の子がイエス様に対抗し続けたのにも関わらず、イエス様は、イエス様を信じる子供たちに「光の子」になる特権、そして、「光の子」としていただく事ができる祝福と喜びを約束されました。イエス様はなぜそれがお出来になるのでしょうか?それは、「光の子」であられるイエス様ご自身が、その特権を「闇の子」に分け与えたからなのです。それが今日の話のポイントです。そのことについて、詳しく見ていきたいと思います。

 

先月から読み始めているヨハネの福音書は、他の歴史の記録と同じように、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録していますが、同時に主観的な「目的」もあります。その目的は、二つのことを私たちに説得しようとしています。一つは、「イエス様は「神の子」であり、救い主である」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる」ということ。ヨハネの福音書の短い序論は、ヨハネの福音書の21章分の内容をぎゅっと数節に要約している箇所です。この序論から「イエスは何者であり、何者ではないのか」という疑問に答えていきたいと思います。

 

1:1-2から、「イエスは初めにおられた神のことばである」と学びました。また、1:3‐4から「イエス様は、光といのちの唯一の源であられる」ということも学びました。今回は、1:5から13までを見て、「イエスは闇の中に輝いている光である」ということを学びます。

 

一つ目に覚えていただきたいことは、私たちは、ただ「神のことば」である「光」を浴びるのではなく、「光」を聞き、信じ、従うことが必要だということです。

 

ちょっと不思議に思いませんか。目には見えない「神のことば」は、通常耳で聞きますが、ヨハネ1:5では「神のことば」は目に見える光のように輝くと描写されています。なぜでしょうか?聖書において、クリスチャンは、神のことばを「目」でみるのではなく、「耳」で見るからです。なぜなら、クリスチャンにとっての光の源は、太陽ではなく「神のことば」だからです。「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」(詩篇119:105) と、聖書にあります。そして、1:6‐7に書いてあるように、ーヨハネの福音書を書いたヨハネとは違う人であるーバプテスマのヨハネは、「光について証し」しましたが、「光」は具体的な人物ーイエス様ーを指していて、イエス様を信じるようにと、私たちを説得しようとしているのです。

 

この福音書を書いたヨハネも、「光」という比喩を使うとき、イエス様を見る人はただ「光」を浴びるのではなく、「光」であるイエス様に応答する責任があることを常に示しています。(ヨハネ8:12)イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』(ヨハネ12:46)わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。つまり、私たちが日向ぼっこするとか、ソーラーパネルのように何もせず「光」を自然に吸収するようなイメージではないということです。光は「神のことば」であるので、「光」はただ見るものではなく、聞き従うものなのです。

 

しかし、なぜ私たちが光に聞き従う必要があるのでしょうか?ヨハネ1:9-11に理由が書いてありますが、「光」を信じ、従う理由は、三つあります。一つ目の理由は、10節に書いてあるように、「世はこの方によって造られた」からです。イエス様はこの「世」という傑作を造られた創造者と言えます。二つ目の理由は、9節に書いてあるように、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来よう」としたからです。その意味は、イエス様は、まことの「いのち」の源であり、全ての人がそのいのちをいただくことができるように、へりくだってくださったということです。要するに、イエス様は、私たちに最高の恵を与えてくださるお方なのです。そして、三つ目の理由は、11節に書いてあるように、私たちがイエス様の「ご自分のもの」だからです。新改訳2017版のヨハネ1:11には、米印があります。それは、もう一つの読み方もあるという意味なのですが、「この方はご自分のもののところに来られた」と読むことができるのです。その意味は、イエス様は私たちを治め、守ってくださる良き王であり、私たちはイエス様の民であるということなのです。そして、それが一番適切な訳だと思います。イエス様は、私たちの「創造主」、「最高の恵を与えるお方」、「良き王」であられるので、私たちはこの光を信じ、従う必要があります。ですから、ヨハネ1章の「光」を人格のない「モノ」としてとらえてはいけないのです。この「光」は、「創造主」、「最高の恵を与えるお方」、「良き王」から輝き出る「栄光の光」なので、「栄光の光」を見る者として、私たちは応答しなければなりません。

 

前にも何回も言いましたが、ヨハネの福音書は未信者のための伝道の本ではありません。クリスチャンのために、書かれたのです。なぜなら、私たちクリスチャンは、このような基本的な事実を忘れてしまうからです。神のことばである「光」が来られて、イエス様が求めておられるのは、私たちがイエス様の下で日向ぼっこすることではありません。イエス様ご自身のことばを、聞き、それを信じ、従う必要があります。

 

この箇所が強調している二つ目のことはこれです。闇は、最も悪質なものだけを指すのではなく、光を受け入れず、光に打ち勝とうとする「世」を指しています

 

どんな宗教や哲学、また、どんな価値観でも「光」と「闇」という例えが使われると思いますし、誰でもすぐに理解できると思います。しかし、先ほどのポイントですこし感じたかもしれませんが、キリスト教の「光」と「闇」の定義を聞くと、かなり極端に感じる方も多いと思います。

 

キリスト教で言う「闇」とはなんでしょう?ヨハネ3:19に具体的な説明があります。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」 (ヨハネ 3:19) つまり、「闇」の一つ目の特徴は、「光」であるイエス様を憎み、「闇」であるイエス様以外のものを愛することです。多くの人々、または多くのクリスチャンは、「私はイエス様を憎んでいる」と積極的に、はっきりとは言わないと思います。しかし、憎んでいるかどうかがはっきりわかる質問があります。「あなたには、イエス様よりも愛している人や存在がありますか?」という質問です。もし自分の夫や妻に「あなたよりも愛している人がいる。あなたを憎んでないけど、その人と結婚したい」と言われたら、どのように感じますか?相手に「憎んでいないよ!」と何回言われても、普通に考えれば、裏切りだと思いますし、相手の自分への無関心さが、憎しみのように感じます。

 

「無関心」という形で現れる憎しみが理解できるなら、ヨハネ1:9-11に記されている、この「世」の憎しみの深さがもう少しわかるかもしれません。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハネ1:9-11)

創造主であるイエス様。最高の恵を与えてくださるイエス様。私たちを守り、愛してくださる王なるイエス様。その方がこの世に来られたのに、「ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」人々は、冷たく、なんとも思わず、イエス様をガン無視するのです。存在を受け入れないことは、「いてもいなくても変わらない、価値のない存在」と見なすことであると言えるかもしれません。

 

ヨハネ3:20には、二つ目の「闇」の特徴が描写されています。「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(ヨハネ3:20)「闇」とはイエス様の教えに相反することを行っていることを知りながら、自分の「悪」を明るみに出したくない人たちのことなのです。つまり、人間がイエス様を憎むもう一つの理由は、イエス様の前で自分が「悪い人」であることを認めたくないからなのです。

 

闇は、約80年前のナチスのユダヤ人の虐殺のような、自分から遠く離れているような「悪」のことだけではありません。キリスト教で言われる「闇」は私たちの心にも潜んでいる、身近にいる隣人を憎む心なのです(1ヨハネ2:9,11)。「誰でもそうじゃん!」「自分の憎しみはそんなひどくない」と私たちは言うかもしれませんが、なんとなく自覚していると思います。私たちがいろんな言い訳をしたくなるのは、自分の悪い行いを明るみに出されることを恐れているからだと思います。少なくとも、私自身についてはそう感じます。そして、裁かれるのを恐れているので、私たちは全力で、自分たちの悪さを隠して、光であられるイエス様を拒もうとするのです。

 

「闇」の二つ目の特徴ーイエス様よりも他の何かを愛していること、自分の悪い行いをイエス様から隠そうとすることーを理解すると、特定な人が闇なのではなく、すべての人が闇の中にいることと、この「世」は闇の中にあるということを認めざるを得ないのです。そのため、イエス様はこうおっしゃいます。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいますわたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(ヨハネ 7:7)そのため、イエス様を愛さない、受け入れない「世全体は悪い者(サタン)の支配下にある」(1ヨハネ5:19)と、ヨハネは結論付けるのです。「すべての人はサタンの支配下にいる」と聞くと極端すぎると感じるかもしれませんが、イエス様を愛さないし、イエス様の教えも拒むこの世を、ヨハネはこのように描写しています。「神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」(1ヨハネ5:10)

 

それゆえ、イエス様を愛さず、イエス様の教えを拒む「闇」は、ヨハネ1:5のことばを借りると、光であるイエス様に「打ち勝とう」としているのです。ヨハネの福音書を読んでいくと、イエス様に対抗する様々な様子が見られますが、皆さんはどのように対抗していますか?ニコデモのように、イエス様が話された「生まれ変わり」についての話に首をかしげますか?(ヨハネ3:4)。自分の罪ーサマリアの女の人の場合、何人もの男性と寝ている罪ーを聖書的な話を持ち出して隠そうとしていますか?(ヨハネ4:16-17)。パリサイ人たちのように、イエス様が盲人を癒されたことを受け入れたくないために、イエス様に癒された方がいるのにもかかわらず奇跡を否定しようとしますか?(ヨハネ9:18)。真実を語ろうとするイエス様に対して、ピラトと同じように「真理とは何なのか」とお茶を濁そうとしていますか?(ヨハネ18:39)

 

しかし、ヨハネが宣言するように、闇は光に打ち勝ちませんでした。つまり、光も反撃し、闇に打ち勝つのです。十字架にかけられたイエス様は、三日後に蘇られました。しかし、イエス様の反撃はそこで終わりません。「神のことば」「真の光」は、対抗してくる「闇」を温かく受け入れ、「悪」を微笑みながらハグしてくれる存在ではありません。科学的に言えば、光が闇の中で輝くと、闇はどうなりますか?完全になくなります。闇は光に対抗することはできません。黙示録19:11-16を読むと、「神のことば」であるイエス様が、「王の王、主の主」として、鉄の杖で、正義と真実をもってすべての人を裁かれるのです。闇はまことの光と共存することはできないのです。なぜなら、王と反逆者は共存できないからです。王が裁かれるか、反逆者が裁かれるかだけです。極端に聞こえるかもしれかもしれませんが、これは私の考えではなく、ヨハネ1:5ではっきり書かれているイエス様の教えなのです。

 

なぜ、クリスチャンはこのような事を聞く必要があるのでしょうか?それは、元々闇から来たものとして、私たちは全てを曖昧にしたいからです。曖昧にすることで得られると思っている事が2つあります。一つは、曖昧にすることで、イエス様よりも愛しているモノを闇の中で愛し続けることができます。もう一つは、自分が罪人であることに真摯に向き合うことも、罪を悔い改める必要もなく、自分の悪を明るみに出さずにプライドも守れます。私たちは、どのように光と闇の二極を曖昧にしているでしょうか?イエス様以外のモノを愛し続けるために、自分のプライドを守るために、私たちはどのように光に打ち勝とうとしているでしょうか?

 

今までの話を聞いて、自分は絶対に裁かれると思うかもしれませんが、ここで最後のポイントを紹介します。「神のことば」を信じることは、神によって生まれた証拠であり、神の子どもとしての特権をいただいている」ということです。

 

イエス様を信じる前の私たちは、闇の中に生まれたものであり、この「世」の子であり、サタンの支配下にいたものです。今の時代には聞きがたいことばですが、イエス様は、この世の人は「悪魔である父から出た者」(ヨハネ8:44)で、この世の欲望と振る舞いしか知らない私たちは、周りの「闇の兄弟姉妹」をただ見習っている、とおっしゃいます。(エペソ2:1-3にも似たような内容がかいてあります。)ですから、私たちが光を拒むのは当然なことです。しかし、そうであれば、誰にも希望がないと言えます。闇の子である限り、誰も光を聞き、信じ、従うことは出来ません。完全に不可能なのです。

 

それゆえ、私たちの唯一の希望は、「神によって新しく生まれ変わる」ことだけです(ヨハネ3:8参照)。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8:47)しかし、私たちは生まれたとき、自分の意志によったでしょうか?自分の意志で親を選ぶことはできませんし、いつ生まれるか自分で決めることもできません。ですから、同じように、神によって生まれたものは、「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:13)のです。つまり、私たちの社会的地位や教育、私たちの計画性や努力、私たちの積極性や行動力とはまったく関係ないのです。私たちが神様によって生まれるかどうかは、神様のご意志なのです。

 

では、もしそうであれば、私たちはどのように神によって生まれるのでしょうか?不思議なことですが、それは、闇が対抗していた「神のことば」「まことの光」を聞くことによって、 闇の子が、光の子として生まれ変わるのです。生まれつき死んだ「石の心」を持って闇の中で生まれた私たちですが、「神のことば」を聞くことによって、聖霊様のお働きで、その「石の心」が取り除かれ、新しい霊による生きた「肉の心」が与えられるのです。イエス様のことばを聞いて「光」を受け入れ、信じたそのときから、「闇の子ども」から「光の子ども」として生まれるのです(ヨハネ12:36)。もし今日、みことばを聞いて、初めて「信じたい」「従いたい」という気持ちが湧き出始めたら、それは生まれたての赤ん坊が初めて息をするのと同じことなのです。クリスチャンとして何年も歩んだ方々が、今日もまた「神のことばを信じたい」と思うなら、それは、神によって生まれた「光の子」として生きている証拠なのです。

 

しかし、忘れていけないのは、もし「まことの光」がこの世に来られなかったら、「闇の子」である私たちには何の希望もないということです。「光が闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)という意味は、「闇を裁く」という意味だけではなく、「闇の子」を「光の子」に変えるという意味でもあります。要するに、究極の「光の子」「神の子」であられるイエス様が、「まことの光」と「まことの神の子の特権」を、私たちに分け与えてくださらなかったら、「闇の子」である私たちは全く救われませんでした。これは本当に大きな、大きな恵みなのです。

「11  この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 12  しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」

この12節の「しかし」が「闇の子」にとっての救いなのです。イエス様を「受け入れる」ことによって、自分の父と家族、自分の立場と将来、自分の特権を、イエス様の父、イエス様の立場と将来、イエス様の特権と全て取り替えて、頂くことができるのです。その上、私たちはただの「神の被造物」としてではなく、「神のこども」として、真の光といのちを相続し、楽しめる「光の子」になるのです。聖書の違う箇所で、光の子としての恵をこのように描写しています。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14-15)このような想像を絶する恵はどこに存在するでしょうか?イエスの光によって「光の子」として生まれた恵を感謝しつつ、「光」であるイエス様を信じ、従い続けて行きましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church