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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コロサイ人への手紙1章18-20節 |
さ ん び | Opening Praise | その日全世界が |
さ ん び | Praise | ワン・ボイス |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌229番「キリスト教会の主よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一12章12節、27節
エペソ人への手紙1章21‐23節、4章15-16節、5章29-32節 |
聖書の話 | Sermon | 「あなたがたはキリストのからだである」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌230番「確かなもとい ただ主に置き」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
2001年5月27日に、海浜幕張めぐみ教会の設立式が行われました。中台先生が設立式をして下さり、廣橋嘉信先生が牧師として招聘され、5人の教会員がめぐみ教会という群れに加わりました。その設立式の写真を毎年のスライドショーで見る度に、いつも「すごいな。そのとき、みんなどんな気持ちだったのかな」と思っていました。2024年2月25日、私は、みどり台教会の板倉先生と一緒に東関東中会の代表として大舘牧師のお宅に行って、クライスト・センター・チャーチ(CCC)の設立式と初礼拝に参加させて頂きました。そのとき、大舘牧師が牧師として招聘され、7人の教会員が加わりました。私はそこで教会設立式のためのメッセージをしたのですが、設立式は教会の「出生届」のようなものであると話しました。つまり、設立式の日は、正式に、また公に、「キリストの体」に加わる日であり、天の区役所で三位一体の家族の「戸籍」に加わる日でもあります。設立式の礼拝中、大舘牧師と宣教師たちは、様々な不安を抱えながらもうれし涙を流しながら、主を褒めたたえていました。初めて親になるような気分なのかな、と私は思いました。そして、クライスト・センター・チャーチの設立式を通して、2001年のめぐみ教会の設立式の雰囲気をすこしだけ味わえたような気がしました。
本日の創立記念礼拝は、海浜幕張めぐみ教会の誕生日です。この会衆が正式に、公に、「キリストの体」に加わった日をお祝いし、神様がくださった23年間を感謝しつつ、不安を抱えながらも、これからの成長を展望する日でもあります。しかし、そもそも、教会とは何なのか?自分にとって、教会はどういう存在なのか?教会はどのように成長するのか?私はどのように教会と関わるべきなのか?その4つの質問に答えるために、「教会は、キリストの体である」ということを思いめぐらしながら、教会にある恵みを考えていきたいと思います。
まず、一点目。教会が「キリストの体」であることがいかに壮大なものであるかを理解しなければなりません。クリスチャンとして「教会がキリストの体」だということを聞き慣れてしまっているという現実もありますが、「キリストの体」はイエス様との共同相続人という意味なのです。
コロサイ1:18を読むと、「キリスト」は死を打ち破って、「すべてのことにおいて第一の者となられ」た王様であることが分かります。また、エペソ1:21には、イエス様が「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた」存在であり、「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせた」とあります。イエス様は、世界の権力者ーバイデン大統領、イーロン・マスク、柳井社長などーよりも力のあるお方です。
変な質問になるかもしれませんが、キリストがそのようなお方であるなら、キリストの「頭」だけが王座に座しているでしょうか?いいえ、とんでもないです。キリストの「頭」も「体」も王座に座しています(エペソ1:22‐23参照)。つまり、キリストが所有しておられる名誉、栄光、権力、祝福は、「頭」だけではなく、キリストの「体」にも分け与えられているのです。もし誰かに「私はバイデン大統領の後任です」、「私はユニクロの柳井社長の後継者です」、「私はイーロン・マスクの遺産を相続する者です」と言われたら、「え!そうなの?!本当かよ?」と思うことはなおさらです。しかし、もし教会がキリストの体であるならば、イエス様が御父からいただいたものを、教会もすべて相続しているのです。パウロは、夫婦は一体であり、夫は「頭」で、妻は「体」であると教えました。ですから、教会はキリストの花嫁なので、花婿が所有しているものは花嫁のものでもあると言えます。
教会は「キリストの体のような」のものではありません。「教会は花嫁のような存在」でもありません。イエス様は教会がキリストの体であり、キリストの花嫁であるとおっしゃっています。教会が「キリストの体」であるという信じがたい壮大な事実を忘れてはいけません。どれほど小さい群れであっても、また、大きい群れであっても、どれほど若くても、また、老いていても、どれほど活気があっても、また、なくても、教会が「キリストの体」であることは変わりません。感謝しましょう!
私たちは、キリストの想像を絶するほどの恵み深さを思いめぐらす時、「私たちはイエス様のことが好きだし、イエス様に従ってるから、当然、イエス様の体であり、イエス様の花嫁でしょう。」とは、軽々しく言えないと思います。エペソでのパウロの言葉を借りるなら、創立記念に於ける私たち教会の姿勢はこういうことだと思います。「私たちは罪の中に死んでいたものでした。自分の肉の欲のままに生き、サタンの下でイエス様に敵対していたものです。しかし、あわれみ豊かな神の大きな愛のゆえに、イエス様は、十字架でご自分を献げられ、教会をご自分の体、ご自分の花嫁にしてくださいました。私たちがイエス様を好きになって、『花嫁にしてください』とプロポーズしたわけではありません。汚れて、罪深い私たちのために、イエス様は十字架で流された血によって、汚れて罪深い私たちのために、隔ての壁である敵意を打ち壊し神と和解させてくださり、婚姻届に自分のハンコを押して、私たちにプロポーズしてくださったのです。そのおかげで、教会が設立されたのです。創立記念日は、イエス様が一方的に23年間愛し続けてくださったことを、私たちが感謝を持って祝う日なのです。」
次のポイントはこれです。一人のクリスチャンが「花嫁」なのではなく、教会は「体であるキリストの花嫁」なのです。
これは非常に基本的な質問かもしれませんが、イエス様は何体の体をもってらっしゃると思いますか?一体ですね。では、イエス様は花嫁を何人もってらっしゃると思いますか?よくありがちな考え方は、各会衆、または各クリスチャンが「花嫁」で、イエス様に花嫁が複数いるというイメージです。しかし、キリスト教は一夫多妻を禁じているので、「体であるキリストの花嫁」は一人しかいません。ですから、世界にわたる公同の教会がキリストの花嫁なのです。海浜幕張めぐみ教会は、キリストの体の「一部」です。そして、海浜幕張めぐみ教会に通っている私たちはその「一部」の「一部」とも言えます。
1コリント12章のパウロの言葉を借りるなら、どれほど重要な体の一部であってもー例えば、「脳」や「心臓」が―体に向かって「あなたはいらない」とは言う事はできません。なぜなら、「脳」や「心臓」が体から離れてしまったら、どうなりますか?死んでしまいます。しかし、逆のことも言えます。もしあまり重要そうでもない体の一部ー例えば、足の小指とか、髪の毛一本ーが、「私は脳や心臓のようではないから、からだに属さない」と言ったら、どうなるでしょう。からだから離れた「脳」のように、死んでしまいます。このことは、一個人としてのクリスチャン単位においても言えますし、各会衆の単位においても言えます。成熟した教会員であっても。信仰的に弱っている教会員であっても。大きくて活気のある教会であっても。縮小しているが成熟している教会であっても。私たちは同じようにキリストの体が必要なのです。
つまり、過度の自信でからだから離れる「脳」であれ、過度の劣等感でからだから離れる「小指」であれ、どのような理由や状況があったとしても「キリストの体から離れる」ということは、「自分一人でもクリスチャンとして自立できる」という考えから来ているのです。そして、極端に言うと、その考えは、自殺行為に近い、非常に危ないことなのです。他の教会と関係を持たない「単立教会」や、教会に通わない「無教会主義」のクリスチャンは存在しますが、長老教会では、教会として他の教会との深い繋がりを持たなかったり、教会員として他の兄弟姉妹との深い繋がりがなければ、信仰が弱って病気になってしまい、信仰が死んでしまうと考えます。ですから、もし自分の霊的ないのちを大切にしようと思うなら、どのような難しさがあっても、海浜幕張めぐみ教会に限らず、キリストの体につながることが私たちの信仰の生命線なのです。
しかし、なぜクリスチャンには、それほどまで教会が必要なのでしょうか?それは、イエス様のみこころが、私たちを「個々のクリスチャン」として救うだけなのではなく、一つの「キリストの体」として救い、養い、成長させる事だからなのです。アグスティヌス、カルヴァン、多くの改革主義神学者たちは「もし神様が私たちの御父であるなら、教会は私たちの母だ」とよく言います。肉の母親と同様に、欠けだらけの教会であっても、教会なしにクリスチャンは生まれることはできませんし、生きることも成長することも不可能です。教会の中で、クリスチャンが救われるのは、ただ神様の完全で、誤りのない救いのご計画によることなのです。
しかし、私たちは頭で理解しても、自分の教会をみて、「えー、〇〇さんと〇〇さんがいる、この教会が私の母なの?」と思うかもしれません。しかし、パウロはこういいます。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです、、、実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」(1コリント12:13,18)。神様は何の目的もなく、常にぶつかり合うクリスチャン、性格が合わないクリスチャン、賜物が違うクリスチャン、社会的に何の関係もないクリスチャン、を適当につなぎ合わせたのではありません。教会は、神様の最高傑作であり、イエス様の最愛の花嫁であり、聖霊様が宿る聖所なのです。三位一体の神様は、今ある教会に喜んで宿っておられ、最高の愛と知恵と力で、一人一人をその場に招き、最善の仕方でつなぎ合わせてくださっているのです。教会は、一人一人をつなぎ合わせ、私たちの信仰を養う「胎」とも言えます。ですから、私たちは三位一体の神様の働きに期待しながら、希望をもってキリストの体に深く関わることができるのです。
次のポイントはこれです。キリストの体は、それぞれの部分がその分に応じて働き、愛をもって真理を語ることによって、成長するのです。
洗礼を受けたばかりのクリスチャンや、転入したばかりのクリスチャンから、よくこのような質問を聞きます。「海浜幕張めぐみ教会のために何かをしたいのですが、奉仕や助けられることなど、何かありますか?」つまり、海浜幕張めぐみ教会をより良い教会にするために、または、教会の成長のために何か奉仕したいという思いなのです。その質問に答えるために、私はいつもエペソ4:15‐16を読みます。
15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。 16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
私は、この聖句を読んで、洗礼を受けたい方、信仰告白したい中学生、教会に転入する元長老か元執事に、同じことを言います。「教会員としての第一の責任、最も欠かせない奉仕、教会の成長に最もつながる助けは、一クリスチャンとして本気で、キリストに向かって成長することです。」エペソ4:16に書いてあるように、「それぞれの部分がその分に応じて」働かないのなら、成長するのはむずかしいです。例えば、10歳の子供が5歳の心臓を持っていたら、成長するのは難しいでしょう。同じように、もし各々がちゃんと成長しなければ、他の教会員も成長しずらくなるのはなおさらのことです。ですから、私たち一人一人のクリスチャンとしての責任は、本気で神のことばをよく知り、神様ご自身と深く交わること。本気でイエス様の救いと導きにより頼み、本気で自分の罪を悔い改めること。本気で神様と兄弟姉妹を愛することです。あなたの歩みによって、キリストの体も自然に成長すると、みことばは約束しています。皆さんも、そう感じたことがあるかもしれません。本気でクリスチャン生活を歩もうとしている兄弟姉妹に出会うと、自分も励まされ、自分も本気でクリスチャン生活を歩みたくなると思いませんか?繰り返しになりますが、海浜幕張めぐみ教会の成長に最もつながること、最も欠かせない奉仕、教会員として第一の責任は、クリスチャンとして本気でキリストに向かって成長することです。それができれば、海浜幕張めぐみ教会は成長します。私はこの4年間で、皆さんの歩みを見ることによって、それを実感することができました。
一クリスチャンとして成長することは、一人で個人的なデボーションをきっちりすることだけではなく、キリストの体の中で成長するということです。パウロのことばを借りると、教会員としての第2の奉仕は、他の兄弟姉妹と「愛をもって真理を語り」合うことです。「愛をもって」とはどういう意味でしょうか?パウロは1コリント13でこう説明しています。「4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。 」では、エペソ4:16がいう「愛をもって真理を語る」とはなんでしょうか?コリント13章の愛の定義を読むと4‐5節はよく理解できると思いますが、6節を見過ごしてしまう傾向がよくあります。もう一度お読みしますね。愛とは「不正を喜ばずに、真理を喜ぶ」ということなのです。「愛をもって真理を語る」とは、第一に、罪人である兄弟姉妹に対して忍耐し、親切に接することですが、それだけではなく、兄弟姉妹が犯している罪を喜ばず、みことばの真理ーイエス様の完全なる赦しと聖霊様がもたらす悔い改めーを語ることでもあるのです。つまり、愛と真理を引き離してはいけないのです。なぜなら、イエス様ご自身が「恵みとまこと」(ヨハネ1:17)を実現された方だからです。
教会の交わりはそのためにあります。私たちは礼拝後の交わりや祈祷会、教会学校やセルで、何時間も兄弟姉妹と時間を過ごします。関係づくりのため、お互いを知り合うため、楽しい時間を過ごすため、祈り合うためなどです。しかし、「愛をもって真理を語り」合わない限り、キリストの体は成長しないとパウロは言っています。キリストの体の一部一部が語り合うことは、相互的な関係なのです。つまり、片方だけが語り、片方だけが聞くのではないということです。一般の礼拝出席者だけではなく、教会のこどもたち、教会学校の教師やヘルパーたち、賛美奉仕者たち、祝会や会堂、礼拝のためにいろいろ準備する方々、セルリーダーたち、執事たち、長老たち、宣教師たち、牧師の私でも、キリストの体から愛にあふれた、神のみことばに立った真理を聞く必要があるのです。ぜひ愛をもってみことばの真理によって、キリストの体の一部一部を励まし、キリストの体の一部一部から励ましのみことばを受けてみてください。しかし、それをするためには、第一の奉仕であるーいちクリスチャンとして本気で、キリストに向かって成長することーが欠かせません。それなしでは「愛をもって真理を語り」合う事はできないと思いますので、お互いに第一の奉仕を忘れないで歩んで行きましょう。
では、最後のポイントを紹介します。「キリストの体は、主の花嫁です。キリストの花嫁として、教会を愛しなさい。」ということです。
私は、クリスチャンになったとき、本当にうれしかったです。でも、クリスチャンになって2年が過ぎた頃、イエス様のことは大好きでしたが、教会の事は嫌いになってしまいました。私が所属していた教会の中でいろいろな事があったので他の教会の牧師に、教会を移ったほうがいいかどうか相談しました。その時、その先生はこうおっしゃいました。
「イエス様が選ばれた花嫁は、ゴメルのような淫らな遊女でした。私たちは、教会の罪に驚く必要はないし、イエス様も驚かれてはいません。そして今、この教会の罪に最も悲しんでいる人、教会の頑固さを最も耐え忍んでいる人、教会をきよくするために最も犠牲を払っている人、教会の成長のために最も労苦されている人は、私でも、あなたでもありません。花婿のイエス様なのです。教会を移ったほうがいいかどうかは、私には全くわかりません。しかし、その決断をする前に、あなたは自分の教会、または、これから移りたい教会を、イエス様の花嫁として愛する覚悟を持っていますか?」と私に聞きました。自分の教会の弱いところを私が指摘したことが正しかったとしても、私は、まず、自分自身の教会に対する態度を改める必要があったのです。
海浜幕張めぐみ教会、または、それぞれの会衆には、いろんなしみ、しわ、傷、汚れなどがあります。教会生活が長くなるほど、教会という淫らな遊女の歩みを知ることになります。いろいろ知れば知るほど、私たちは教会と教会の中にいる人を見下したり、さげすんだりする誘惑もあります。しかし、イエス様はこうおっしゃっています。「私はこの教会を愛し、教会のために自分自身を献げた。私がそうしたのは、私のことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の花嫁を、自分の前に立たせるためです。教会は私の妻であり、私の体です。 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。私の愛する花嫁、私が育てたい「キリストの体」、あなたを生んだ母なので、同じように愛しなさい。」(エペソ5:25-33参照)
教会は、そして、この会衆は、「キリストの体」です。それを忘れないでください。「キリストの体」としての壮大な特権、「キリストの体」に加えられた恵み、「キリストの体の一部」としての責任、「キリストの体」に対するイエス様の熱い愛を忘れないでください。海浜幕張めぐみ教会の兄弟姉妹とともに、これからも教会生活を送ることができるのは大きな恵みと祝福であると思います。