2024年6月2日礼拝 説教「家庭崩壊パート3:ヤコブ家の愛憎劇」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌1番「聖なる聖なる聖なるかな」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」

転入式 Membership Transfer Ceremony  

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読  創世記29章31節~30章24節

聖書の話「家庭崩壊パート3:ヤコブ家の愛憎劇」マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌353番「あなたこそわが望み」

聖晩餐式 Communion  マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction   マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに質問です。教会で「罪」とよく聞きますが、どういう意味だと思いますか?「悪いことをすること」「神様の教えを守らないこと」と考える子供たちがいると思います。今日の箇所では、「罪とは、すごくいいモノを、変に使うこと」だと言っています。すごくいいモノを、変なふうに使うこと。例えば、車はすごくいいモノで、便利です。でも、もし車を変なふうに、例えば飛行機として使ったり、船として使ったり、自分の家として使ったりとすると、車は壊れるか、危ないものになるか、人の迷惑になることでしょう。

 

今日の話には、ヤコブ、レア、ラケルという3人のクリスチャンがいます。神様はこの三人にいろんな良いモノを与えます。恋。結婚。家族。子供。幸せな家庭。輝かしい将来。「愛」。特に最後の「愛」を、ヤコブも、レアとラケルも、一番大事にしていました。しかし、ヤコブ、レア、ラケルは、車を船として使う例えみたいに、「愛」を変なふうに使ってしまいました。車が海の中では壊れてしまうように、ヤコブ、レア、ラケルが愛を変なふうに使ってしまったので、自分たちの家族も完全に壊れてしまいました。ヤコブ、レア、ラケルがすべての人間関係を壊してしまう様子は、私たちの日々の生活を描いているようです。しかし、感謝なことに、神様は「愛」の正しい使い方をこの家族に示し、神様の最高の愛を注がれたので、家族は変わります。そして、時間はかかりましたが、神様の愛によって、この壊れた家族は回復し、神様に救われました。実は、その家族は「教会」という家族になったのです。「『神様の愛』だけが私たちの壊れた『愛』、壊れた人間関係を治すことができ」ということを覚えて欲しいです。今日の聖書箇所はかなり長いですが、じっくりと、流れを見て、3つの適用をお話ししたいと思います。

 

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかも知れませんので、簡単にこの本の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時(そして、今も)、人類は、自分たちの行いやきよさによっては天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの約束」をお与えになりました。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、アブラハムの一人の子孫が、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)を信じれば、私たちも同じように天国を相続できるのです。それは当時の信仰でもあり、21世紀にいるクリスチャンの信仰の本質でもあります。

 

本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。ヤコブは神様の約束を信じていましたが、問題児でした。ヤコブという名前は、「兄弟を出し抜く人」または「だます人」という意味です。しかし、ずる賢い、やんちゃなヤコブは「自分の限界と自分の罪から逃げることはできない。」という事に気がつき、自分の罪を認め、神様の約束を信じ、自分のペースではなく、神様のタイミングを待ち望むように歩み始めたのです。

 

本日の箇所、29章は、ヤコブの嫁探しの話です。以前のヤコブと29章のヤコブは、別人のようです。信仰をもって歩み始めたヤコブは、自己中心的に考える事もなく、自分の力で突き進むのでもなく、隣人のために積極的に行動し、神様の約束を信じながら歩み進んでいました。が、残念ながらヤコブの信仰は、落ち着きのない未熟な信仰だったので、叔父の娘である美しいラケルの「姿」と「顔立ち」(29:17)に見惚れてしまい、諸突猛進に進んだ結果、叔父ラバンの二つの罠にはまってしまいました。まず、ヤコブはラケルと結婚するために、ラバンの羊飼いとして7年間働くことになりました。そして、7年間頑張って働いた後、叔父ラバンの非常にずる賢いテクニックで、ヤコブは美しい妹のラケルではなく、「目の弱い」姉レアと結婚する羽目になってしまったのです。そして、妹ラケルと結婚するために、ヤコブはラバンにもう7年間の労働を押し付けられたのです。

 

これまでの創世記の話は、ヤコブが主人公でしたが、本日の箇所だけは、ヤコブの二人の妻、姉のレアと妹のラケルに焦点が当てられます。しかし、この話に入る前に、覚えていただきたいことが2つあります。この話は、21世紀にいる私たちには、旧約聖書の一夫多妻、奴隷制度、登場人物の発言や振る舞いについていくつか疑問を抱くかもしれません。まず、覚えていただきたいことは、聖書を総合的に見れば、一人の男性と一人の女性の結婚が神の御心であり、隣人を自分自身のように愛さないことー人間を奴隷にすることーも御心に沿っていないことだということです。ヤコブがレアとラケルと結婚したことは、神様の御心に反しているということです(レビ18:18参照)。そして、次に覚えていただきたいことは、旧約聖書では、神様は御心に反することを行っている者をも用いられることがありました。しかし、それは、神様が御心に反していることを許容しているという意味ではありません。神様は、御心に反する行いをしてしまう私たちにも、その過ちを用いられ、逆に私たちを祝福してくださることがあります。けれども、祝福してくださったからといって、御心に反した行為を行ったことは変わらないのです。そのことを覚えていただくと、この話を読みやすくなるかもしれません。

 

今日の話は、ヤコブ家に12人の息子が与えられる話ですが、当時の価値観で言うと、非常にめでたい話ですが、蓋を開けてみると悲惨な状況でした。ヤコブは、姉レアと先に結婚しましたが、ヤコブは、「レアよりもラケルを愛し」(29:30)、レアを「嫌っていた」のです(創世記29:31)。しかし、神様はレアの悲惨な状況を御覧になられ、レアの胎を開かれたのです。そして、神様の溢れる恵みによって、続けて4人の息子ールベン、シメオン、レビ、ユダーが与えられました。ぱっと見ると、神様の恵みによってレアが救われたように思えるのは当然なことですが、最初の三人の息子の名前の由来を見ていくと、レアが根深いものにまだまだ囚われていることがすぐにわかります。

 

「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と思ったから、ルベン(=子を見よ)。「主は私が嫌われているのを聞いて、この子も私に授けて下さった」と言って、シメオン(=聞く)。「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と思いながら、レビ(=結ぶ)。レアは神様に感謝していましたが。レアの心はじわじわと湧き出てくる夫に愛されること、認められること、結ばれることだけに囚われていたのです。そして、その思いは「今こそ」、「今度こそ」と繰り返され、どんなに「息子」が与えられても夫の愛を得ることができない為、あせりにあせって、必死に子供を産み続けようとします。レアにとっては困難から救い出してくださるはずの神様も、自分が産んだ子供たちも、夫の愛を手に入れる手段に過ぎず、「夫に息子を与えて愛される妻」と立場が自分の苦しみからの究極の救いだと考えていたのです。夫に愛されることは良いことですが、自分の孤独、心の傷、悲しみ、恥、劣等感、不安、恐れなどからの究極の救いではないことは明らかです。そのため、レアは常に失望し続けていました。私たちも似たような経験があるかもしれません。

 

では、妹のラケルはどうでしょう?ラケルは「不妊の女」(29:31)だったので、妹ラケルも、どうしても子供を欲しがっていた夫ヤコブの期待を裏切ってしまったのです。ですから、レアが4人の息子を産んだとき、ラケルは姉に嫉妬したのです。「私に子供をください。でなければ、私は死にます。」とヤコブに訴えました。皮肉なことに、ヤコブに特別に愛されていたにもかかわらず、ラケルは、ヤコブに嫌われたレアと同じ劣等感、あせり、不安、恐れを抱えていました。

 

ラケルは、自分の生きる意味と存在価値を「夫からの愛」だと信じ、その愛を得るには、夫に子供を与えることだけだと結論付けてしまいました。そして、子供も与えることができないなら、死んでもいいとまで言い切ります。姉レアと同じように、妹ラケルも自分の孤独、心の傷、悲しみ、恥、劣等感、不安、恐れからの究極の救いは、「愛」だと思っていたのです。

 

ヤコブはどうでしょう?「ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。『私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。』」(創世記30:2) ヤコブの焦りと神様に対する苦味も爆発してしまいます。前回の創世記からの説教で感じ取れたと思いますが、ヤコブはラケルと結婚するために7年間無償で働くと自分から言いつつ、その7年間を「数日のように」(29:20)感じたほど美しいラケルを愛していたのです。その上、叔父ラバンの詐欺によって姉レアと結婚する羽目になったとしても、何のためらいもなく、もう7年間ラケルのために働いたのです。ヤコブは、全身全霊でラケルからの愛で自分を満たそうとしていたから、ラケルを喜ばせようとしたのです。ですから、愛するラケルとの子供が欲しくてしょうがなかったと思います。しかし、何年も子供が与えられないので、ヤコブは神様に最終的に訴えます。「胎の実をおまえに宿らせないのも、私たちに幸せな家庭を下さらないのも、神なのだ」とヤコブは怒りで爆発してしまいます。私たちも、自分の思うような「愛」が与えられなかったという理由で、このように神様に対して怒ったことがないでしょうか。

 

しかし、これは家庭崩壊の始まりにすぎません。レア、ラケル、ヤコブの「愛の追求」によって、父イサク家と祖父アブラハム家に倣い、アブラハム家あるあるの家庭崩壊がまた起こってしまいます。やけくそになった妹ラケルは、自分の女奴隷を差し出し、「彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」 とヤコブに言います。ヤコブの祖母サラが、過去に同じようなことをしてしまって何の解決にもならなかったこともよく知っていながら、ヤコブとラケルはこの手段をあえて選んだのだと思います。そして、女奴隷ビルハに男の子が与えられた時、ラケルは「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と思い、その子をダン(=正しくさばき)と名づけました。そのあと、女奴隷ビルハにもう一人の息子が与えられた時は、「私は姉と 死に物狂い の争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリ(=争い)と名づけたのです。「愛の追及」が、愛のための「争い」に堕落して行ったのです。ラケルは「神様の恵み」を、姉レアに打ち勝つための精錬された武器ぐらいにしか考えていませんでした。

 

姉のレアも負けじと、反撃します。自分の女奴隷ジルパをヤコブに差し出し、ジルパに二人の息子が与えられました。「幸運が来た」と思ったレアは、一人をガドと名づけ、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言い、もう一人をアシェルと名づけました。神様に感謝を捧げているように聞こえますが、文脈をよく読むと、神様からの恵みを妹ラケルと女奴隷ビルハに対して、自分の幸運を見せびらかす「飾り」としているようにも聞こえます。

 

姉レアの長男ルベンが、子供ができやすくなると思われた「恋なすび」を見つけた時、妹のラケルはプライドを捨て、レアに乞いて頼みました。「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私に下さい」と。しかし、レアは嘆きます。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびまで取り上げようとするのですか。」(30:15)レアはヤコブとの間に6人もの子供が与えられていましたが、毎晩、ヤコブは美しいラケルと過ごしていたのです。言葉にできない程の失望感、孤独、戸惑い、劣等感を毎晩感じていたレアは、切羽詰まって、また同じように、ヤコブに子供を与えようとします。それゆえ、息子が見つけた恋なすびで、レアはヤコブとの一夜をラケルから買い取りました。夕方になって、野から帰って来たヤコブにレアはこう言いました。「あなたは私のところに来ることになっています。私は、息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから。」(30:16)追い求めていた夫からの愛が、徐々に、徐々に、レアの心の中で、自分の存在価値を証明するトロフィーになってしまいました。

 

それにもかかわらず、「神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子」(30:17)を産みました。イッサカル(=報酬を与える)と名づけたのは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」からなのです。6番目の息子も与えられ、「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶでしょう」と期待してゼブルン(=ともに住むでしょう)と名づけたのです。最後の二人の息子の名前はレアの心情を表しています。8人の息子も与えられたのにも関わらず、ヤコブに愛されなかったレアは、「今度こそ…」と期待しながら、「夫に尊ばれて、ともに住む将来」という「報酬」を空しく待ち望んでいたのです。

 

そのあと、神様は自分の子を持っていなかったラケルに目をとめてくださり、ラケルもついに身ごもりました。「神は私の汚名を取り去ってくださった」と喜び叫びました。しかし、ラケルは何年も待ち望んだ「幸せな家庭」という恵みに満足すると思いきや、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」という願いを込めて、息子にヨセフ(=加える)と名づけました。ラケルは私たちの飽くなき欲求の心をよく表していると思います。

 

なぜ私たちはこんな家庭崩壊の話、ドロドロした愛憎劇を日曜日の朝から聞かなければならないのでしょうか。この12人の息子は、イスラエルの12部族の頭です。ヤコブ、レア、ラケルの間から、「神の民」または「教会」が生まれるのです。そして、この家庭崩壊、この愛憎劇が、教会の「原点」とも言えます。しかし、ヤコブ家の自己中心的で破壊的、不健全な、曲がった愛の嵐の中で、神様の惜しみない、いのちと希望を与えるほどの純粋な愛がより明らかに輝きます。神様は表舞台には出られませんが、この話の主人公は神様です。神様がこの家族を無条件に選ばれ、この家族の罪に動かされることなく誠実に愛し続け寄り添われつつ、この民を何百年、何千年もかけて、徐々に作り変えられて救いへと導かれます。

 

ところで、この箇所には、神様の恵み深い愛が、ヤコブ家に健全な信仰と純粋な希望の種を芽生えさせる瞬間があります。姉レアの4番目の息子の名前はユダと言いますが、レアはどういう思いでこの名前を付けたのでしょうか?彼女は「今度は、私は主をほめたたえます」(29:35)と思ったのです。「今度こそ夫が私を愛してくださる」と常に思っていたレアが、ここで「今度は、希望を夫におかず、主により頼み、主をほめたたえます」と決心するのです。この箇所での、信仰深い発言です。

 

それゆえ、神様はレアのからし種のような信仰を御覧になり、想像を超える祝福をお与えになりました。神様は、12部族から、神の民を治める特別な部族を選ばれました。しかし、この特別な部族は、長男ルベンの家族ではありません。ヤコブが愛したラケルの長男、ヨセフ族でもありません。かわいい末っ子のベニヤミン族でもありません。神様の祭司であり忠実に奉仕するレビ族(レアの三男)でもありません。嫌われていたレアの四男、「主を褒めたたえる」ユダ族が選ばれたのです。このユダ族からイスラエル王国を統一した初代の王様、ダビデ王が生まれます。(日本に例えると、ダビデは徳川家康のような存在です。)そして、そのダビデ王の家系から、アブラハム家、イサク家、ヤコブ家が待ち望んでいた救い主、天の王家、天の御国、天の約束の地を勝ち取る王、イエス様が産まれます。そして、イエス様が天にのぼられ、天の右の座につかれ、天の救いを勝ち取られた瞬間、天の座を囲むものがこのように宣言します。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したのです。」(黙示録5:3)

 

もし、レアがそのとき天にいたとして、自分の息子の名前が救い主の名前とともに呼ばれたら、どういう気持ちだったと思いますか?レアは一生「今度こそ愛される。今度こそ大事にされる。今度こそ認められる。今度こそ喜びと幸いを味わえる」というあせりと劣等感を感じていたのです。イエス様が天地にいるすべてのものに「レアは私の母です」と宣言されたとき、御父、聖霊、何千億人の天使たち、そして、ヤコブとレア、「レアは、神に特別に愛された、幸せ者だ」というでしょう。そのとき、レアは気づくと思います。夫の愛では、自分をこのように満たすことは出来なかった、と。神様の誠実で力強い、無条件の愛で十分だった、と。むしろ、最終的にレアは、「究極のレアの子、ユダ」であるイエス様を見て、もう一度言うと思います。「今度、私は主をほめたたえます」と。レアと同じように、私たちも神の子、イエス様の花嫁、聖霊様の最高傑作として愛されていることに気がつくと、自分の悲しみや劣等感を全て忘れ、喜びをもって、主だけを褒めたたえることができます。

 

最後に、三つの適用に絞ります。まず、罪とは、「曲がった愛」に支配されるこということです。「曲がった愛」によって、私たちは盲目になり、周りの人や、神様さえも、自分が望む「愛」を得る「道具」として利用してしまいます

 

罪というものは、興味深いことに、いつも良いモノから始まります。夫に愛されること。子供が与えられることを祈り求めること。幸せな家庭を築くこと。周りの人に認められ、愛されること。しかし、それを曲がった形で、良いモノを自分の救いのための究極のモノにしてしまうと、盲目になり、周りの人や神様をただの「道具」として扱ってしまい、その関係を壊してしまいます。そして、この箇所は信仰を持たない人の話ではなく、立派に信仰を持っている人たちの話です。愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちはレアのように劣等感と不安によって盲目になっていないでしょうか?切羽詰まったラケルのように、私たちは嫉妬と妬みによって心が徐々に腐敗していないでしょうか?または、ヤコブのように、積み重ねた失望が怒りで爆発しそうになっていないでしょうか?もしそうであれば、「曲がった愛」に支配されているかもしれません。

 

ですが、感謝なことに神様の愛は「曲がった愛」ではありません。神の「純粋な愛」は、レアのように、曲がった愛を持つ私たちを「贖われた花嫁」に変えてくださいます。私たちの「曲がった愛」は、悪い方向に自分も周りの人をも変えてしまいますが、神様の純粋な愛は違います。赦しの愛は、私たちを罪悪感から解放してくださいます。私たちを清める愛によって、自分や他人からの曲がった愛によって傷つけられた心を癒してくださいます。私たちをご自分の栄光に満ちた花嫁にしてくださる愛によって、私たちが囚われている恥、劣等感、不安をすべて取り去ってくださるのです。すぐではありませんが、神様の愛は、ヤコブ家を徐々に変えてくださったように、今も私たちを変えてくださっているのです。ですから、焦って「曲がった愛」を追い求めるよりも、安心して、もう既にいただいている神様の「純粋な愛」を浴び続けましょう。

 

最後に、私たちの信仰と救いは、私たちの罪のカオスのただ中に芽生えます。

私たちは、ヤコブ家の家庭崩壊と愛憎劇に、少し親しみを感じたかもしれません。なぜなら、私たちの人生も、育ちや環境も、同じように「曲がった愛」によって破壊され、ごちゃごちゃにされ、廃墟のようになってしまっているかもしれないからです。しかし、安心してください。ヤコブ家のカオスのただ中に、からし種のようなレアの信仰が芽生え、救い主を生むユダが産まれたのです。神様は私たちのカオスを恐れておられませんし、それによって揺るがされる事はないお方です。神様は私たちの罪のカオスに信仰と救いの種を蒔き続けてくださいます。ですから、私たちも希望をもって、神様のお働きを期待し、レアと同じように主だけを褒めたたえていきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church