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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ルカの福音書11章27~30節 |
さ ん び | Opening Praise | 聖歌593番 ああ恵み! |
さ ん び | Praise | 主イェス神の愛 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書1章14~18節 |
聖書の話 | Sermon | 「恵とまことに満ちておられた方」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 聖歌229番「驚くばかりの」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますが、みんなにとって、聖書の中で一番信じるのが難しいことは何ですか?私にも、信じるのが難しいところもあります。例えば、この前、士師記15章を読みました。サムソンという人が300匹のきつね(ジャッカル)を捕まえて、しっぽとしっぽをつなぎ合わせて、その間にそれぞれ一本のたいまつ(トーチ)をくくり付けて、それに火をつけて敵の麦畑の中に放ったという話です。どう考えても、本当に信じられない話ですよね。クリスチャンでもそのような疑いを持つことがありますよね。そして目には見えないし、会ったこともない神様を信じるのは難しいという人もいます。神様が、宇宙をたったのひとことで造られたことを信じるのが難しいという人もいます。神様が「父、子、聖霊」であること、三位一体であること、聖書が誤りのない神のことばであること、イエス様のいろんな奇跡、イエス様が死から蘇ったことなどなど。そのようなことを信じることが難しいと思う人もいます。
でも、みんなに言いたいのですが、聖書の中で一番信じにくいことは、私たちが一番信じたいことかもしれません。それは、イエス様の愛と恵みの深さです。イエス様は私たちを愛するために、三つの信じがたいことを行われました。①まず、イエス様は神様なのに、自分からちっぽけな人間になられ、私たちとこの地上に住まわれたのです。ちっぽけなアリを愛するために、アリになる人間はいませんね。②次に、私たちがイエス様と永遠に住むことができるように、イエス様は、人間の代わりに、完璧で罪のない人生を人間として歩まれました。つまり、私たちみんなが天国に入れるように、イエス様はご自分のためではなく、私たちのために100点満点の人生をがんばって歩まれたのです。③最後に、イエス様は、お父様から特別に与えられた愛を、ご自分から全ての人に分け与えられました。私たちもお父さんとお母さんから、その子供として、自分だけがもらえる特別な愛をもらっていますよね。イエス様も同じで、お父さんである神様から、最高で特別な愛を神の子としていただいています。しかし、イエス様はその愛を私たちに分かち合うために、私たちを自分の兄弟にしてくださったのです。自分のお父さんが世界一いいお父さんだとしても、他の人を自分の兄弟姉妹にするほど、お父さん大好きな人はあまりいないんじゃないですか。私が言いたいのは、イエス様の愛は本当に変わった、信じにくい愛です。私たちを愛してくださるイエス様の愛は、見えない神様の存在や三位一体の神様、死からの蘇り、しっぽとしっぽでつなぎ合わされた300匹の狐のお話よりも、信じがたいものです。イエス様の愛は、世界一信じられないようなものだという事を忘れないでください。今日の箇所を通して、それについて見ていきたいと思います。
ヨハネの福音書をはじめて読まれる方がいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、他の歴史の記録と同じように、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録していますが、同時に主観的な「目的」もあります。キリスト教だけではなく、科学、法廷、政治、ビジネスでも同じ事をします。客観的な「データ」、「証拠」、「歴史」、「結果」を差し出し、ある主観的な目的をもって、相手を説得することは、社会の根本的な仕組みとも言えます。ヨハネの福音書も、二つのことを私たちに説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。そして、ヨハネの福音書の短い序論(1:1-18)は、ヨハネの福音書の21章分の内容を数節に要約している箇所です。この序論から「イエスは何者であり、何者ではないのか」という疑問に答えていきたいと思います。本日の説教は序論の最後の部分です。
序論を通して、今までに三つのことを学んできて、キリスト教のユニークさ、独特さがよく伝わったと思います。①イエス様は、預言者でも、御父である「神様」でもなく、「初めにおられた神のことば」であるということ。②イエス様は、最高の力でも最高の喜びでもなく、「光といのちの唯一の源」であること。③「闇の中に輝く光」であるイエス様は、私たちを温かく見守る中立的な存在ではなく、「闇」に打ち勝ち、「闇の子」を「光の子」にしてくださる存在である。このようなことを学んできました。
①イエス様は神秘的な奥義深い存在で、②私たちに力といのちを与えることができるお方で、③悪と闇から私たちを救い出すことができる存在である、とだけを聞くと、他の宗教やカルトによくある表現が入り混じっているような印象を受けるかもしれません。本日の箇所を通して、「イエス様は恵みとまことに満ちておられたお方」であることが、どれほど信じがたいことであるかを見ていきたいと思います。要するに、聖書の中で最も信じがたい、理解しづらいことは、イエス様の恵みなのです。
「恵みとまことに満ちているお方」という言葉だけを聞いても、抽象的過ぎて、キリスト教のユニークさはあまり伝わらないと思います。「恵みとまこと」、この二つのことば」は、旧約聖書で神様の性質を表すためよく使われることばです。「恵み」という言葉は、自分に値しない好意、慈愛、赦し、愛を指しています。「まこと」という言葉は、神様の最もいい意味での「不撓不屈」(ふとうふくつ)なところ、揺るがない誠実さと信頼性を指しています。しかし、「恵みとまこと」は、よくペアで使われて、それぞれの性質を指さないで、一つのことを指しています(出エジプト34:6-7; 詩篇25:10-11, 40:11-12参照)。それは、イエス様は「揺るがない誠実さと不撓不屈の思いをもって、私たちに値しない愛と赦しを与え続けてくださるお方」という意味です。旧約聖書で、神の民は何度も神様を霊的に裏切り続けるのですが、神様は揺るがず、愛を注ぎ続けられます。それが旧約聖書の神様のあり方なのです。旧約聖書では、神様は、何のためらいもなく常に姦淫を犯す遊女を、誠実に愛し続け、赦し続ける夫に例えられています(ホセア書1‐3書、エゼキエル16章、エレミヤ2‐3)。「これは神様の「fanatical love」(直訳:熱狂的な愛)である。」と、Ed Clowneyという神学者のすこし大げさな表現を聞いたことがありますが、それに近いかもしれません。イエス様は、どれほど「恵みとまこと」に満ちておられるのか?また三つのポイントでお話ししたいと思います。
まず、「恵みとまこと」に満ちておられるイエス様は「神のことば」のご栄光を、神様のご性質ではなく、「人のからだ」を通して表されました。
もう一度1章14節をお読みします
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
「神のことば」ー神とはじめにおられ、神様と同等の存在ーが、宇宙の全ての力を造られ、すべてのものにいのちを与えられたにもかかわらず、自ら「人」となられたのです。私にとって、三位一体の神学よりも、これは信じがたいことだと思います。
つまり、こういうことです。私たちは、今、4次元の世界に住んでいます。物理的に言えば、点(1次元)、線(2次元)、縦・横・高さのあるモノ(3次元)、時間(4次元)を経験することができます。先ほど、子供たちに、「神様が人となったということは、人間がアリになったというのと似ています」と説明しましたが、それは間違っていると最近気づきました。人間とアリはどちらも4次元に住んでいる生き物です。自ら自分の4D世界を離れて、時間もなく、何も動かない3次元の世界に住むことは考えられないことですよね?皆さんは、自分から時間もなく、世界が一直線で成り立つ2次元の世界に住みたいと思いますか。自分の世界がたった一点におさまる1次元の世界に住みたいですか?人間でも、アリでも、4次元の世界を経験したら、3次元、2次元、1次元の世界は窮屈すぎて、自分からそのような世界へ下るのは想像しにくいことです。神様が何次元の世界に住まわれているかはわかりませんが、私たちの4次元の世界に下って来てくださったということは想像を超えることです。その上、「神のことば」は、当時世界一強いローマ帝国の帝王として生まれたのでもなく、神の民というイスラエル王国の王として生まれたのでもなく、だれも聞いたことのない田舎町の「ナザレ人のイエス」という、ごく普通の一般人として生まれました。
しかし、なぜ神様が人となったのでしょうか?それは、「私たちの間に住まわれる」ためだと、ヨハネが書いています。ギリシャ語で旧約聖書を読んでいたユダヤ人にとって、これも非常にショッキングな展開です。「住まわれる」という表現は、「テントを張る」という意味なのですが、旧約聖書の「幕屋」と同じ語源なのです(出エジプト25:9)。「幕屋」とは何でしょうか?旧約聖書では、神様がイスラエルという民を特別に愛し、彼らをエジプトの奴隷制度から救い出し、ご自分の選ばれた民にされたのです。神様は、イスラエルをご自分の民とされたシンボルとして、民のただ中に「幕を張り」、ご自分の栄光とご臨在を表す「栄光の雲」をその「幕屋」またはテントに宿らせました(出エジプト40:34-38)。そして、神様はこのように宣言されたのです。
「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖なる者とする主であることを知る。」(エゼキエル 37:27-28)
要するに、「幕屋」は、この地上での王室を表す神様の「聖所」であり、神様が民とともに住まわれる限り、イスラエルは神様に特別に愛されていた民であるという証拠だったのです。
神様が「私たちの間に住まわれる」ことは恵みですが、神の民にとって非常に難しい問題がありました。神様のご栄光は、恐れ多くて近づきにくく、非常に危険な存在です。幕屋にある神様の王座を表す「契約の箱」は、誰も直視することができませんでした。大祭司だけが、一年に一回のみ見ることができましたが、イスラエルの民は見ることは出来ませんでした。神様のご栄光が現れたとき、「その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは『私は怖くて震える』と言いました」(へブル12:21)。もし、自分の身体と歩みを清めることなく、神様の幕屋に近づいてしまったら、即死です(主エジプト19:22参照)。それだけではなく、幕屋の周りで罪深い淫らなことを行ったら、イスラエルの全ての民に疫病を送ることもあったのです。ですから、何百年も神様とともに住んだイスラエル人は、「神様の栄光」とともに住むことがどれほど緊張感のある日々だったのかも実感していました。
その文脈の中で、1章14節は、驚きの一節です。「(神の)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」つまり、神のことばが「ナザレの人イエス」としてお生まれになったからこそ、恐れ多くて近づきにくく、非常に危険な神の栄光を、恐れおののくことなく、裁かれず、死なず、自分の顔を隠すために覆いをすることもなく(2コリント3:13‐15参照)、自分の目で直視できたということでした。「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」の実物を、罪深い人間でありながら、直接見ることができたのです。神のことばが凡人の「ナザレ人のイエス」になられたからこそ、私たちは神の栄光を見ることでき、イエス様の「恵みとまこと」を経験することができたのです。この聖書を信じるかどうかの前に、三位一体という理解しづらい奥義よりも、神様からの一方的な「恵とまこと」の方が信じがたい事である、と感じていただきたいのです。皆さんは、そのように感じているでしょうか?
イエス様の「恵みとまこと」はそれだけに留まりません。ますます満ち溢れます。次のポイントはこれです。イエス様は、律法(神のおしえ)という「古い」恵みではなく、イエス様ご自身という「新しい」恵みを与えられたということです。
もう1度、ヨハネ1章16-17節をお読みします。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」
この箇所の「恵みの上にさらに恵みを受けた」を「恵みの代わりに恵みを受けた」と訳す人もいてかなり訳しづらい節なのですが、どういう意味なのでしょうか?訳しづらくても、その意味は17節にはっきり説明されています。要するに、イエス・キリストがくださる「恵みとまこと」という新しい恵み(エレミヤ31:31参照)が、モーセによって与えられた「律法」という古い恵み(エレミヤ31:32参照)を「上回った」、または、「取り替えた」という意味です。では、モーセの「律法」とイエス様の「恵みとまこと」の違いは何なのでしょうか?また、「新しい恵み」と「古い恵み」はどのように関係しているのでしょうか?それを理解することができたら、イエス様の恵み深さをより深く理解できると思います。
先ほどのポイントで、神の民としての最高の恵みは、神様ご自身と共に住み、神様との親しい関係を楽しむことであると説明しました。神様と共に住むことが、「永遠のいのち」なのです。しかし、神の民としての第一の課題は、神様と共に住み続けることができるかという問題でした。もし神の民が神様のみこころに反することを犯し続け、罪の中を歩み続けるのであれば、聖なる神様に裁かれ、御前から追い出される羽目になってしまいます。それゆえに、神様が、出エジプト記19章で、モーセを通して、初めに「律法」という「恵み」を与えてくださったのです。イエス様と律法の専門家はこのように一つの掟にまとめました。
イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(ルカ 10:26-28)
神様の御心である律法の本質は、最大限まで神様と人を愛することで、神様が求めておられる愛を実行すれば、神様とともに歩むいのちが得られるということです。それは、モーセがくださった「初めの恵み」です。
しかし、ヨハネ1章17節によると、イエス様が来られたことによって、モーセがくださった教えを上回る、または、「代わりになる」という「新しい恵み」が与えられたと宣言されています。へブル8章13節の表現を借りて「新しい恵み」と呼ぶことで、 「初めの恵み」を古いものとされたのです。つまり、モーセがくださった律法という「初めの恵み」は、年を経て古びたものになったのです。極端に聞こえるかもしれませんが、イエス様ご自身がおっしゃったこと(ヨハネ5:39-48)をもう少しかみ砕いた形に言い換えると、こういうことになります。
「モーセがくださった律法を毎日読んでいるあなたたちは、神様が求められている愛を実行して、神様とともに過ごせる永遠のいのちを得ようとしています。しかし、あなたたちは知らないのですか?神様がモーセに律法を与えてくださったとき、神の民はその律法を果たすことができないと神様が律法に書き記されたのです(申命記29:16-28, 31:16-39参照)。 律法が指している「いのち」は、私自身です。私が律法を全うした結果ーつまり、私の義ーは、私を信じる者に与えられるのです(ローマ10:4)。しかし、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。そして、いのちを与えることができない律法に戻っているのです。わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。」
モーセの律法は「いのち」への道を示すことはできましたが、誰も律法を通してでは「いのち」を得ることができませんでした。私たちが神と人への愛を実施できなくても、モーセの律法を全うできなくても、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる」ということです。イエス様の「新しい恵み」は、理解しにくい「熱狂的な愛」のようです。 恵みとまことに満ちておられたイエス様は、揺るがない誠実さと不撓不屈の思いをもって、私たちに値しない愛と赦しを与え続けてくださるお方なのです。
そして、イエス様の「恵みとまこと」はそれだけに留まりません。ますます満ち溢れます。イエス様は、神のひとり子しか知らない特別な愛を、全てのものに説き明かされました。これが最後のポイントです。
ヨハネ1章18節をもう一度お読みします。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
神様と共に永遠に住み、神様との親密な関係を永遠に楽しめる人は、誰一人いません。これも意図的であり、なおさらなことだと思います。花婿の特別な愛をもらえるのは花嫁だけです。親の特別な愛をもらえるのは子供です。そして、御父である神様の特別な愛は、神のひとり子であるイエス様しかいただくことができないのです。「永遠のいのちである神の子」として神様と親密に歩むことは、神のひとり子、イエス様だけがお出来になることです。
「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた」というみ言葉の意味は、御父からいただいた特別な愛をご自分のものだけにせず、イエス様を信じるものにも分け与えられたということです。ヨハネ1章1-18節の序論の核心は、1章12節だと言われています。もう一度お読みします。
「しかし、【イエス】を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
私たちに「神のこども」としての特権を与えることは、財布にあるお金を取り出して、渡すような簡単な話ではありません。私たちを神の子にするために、三つのことがなされる必要があります。①まず、神の子が私たちの間に住まわれ、人になられる必要がありました。つまり、4Dなお方が、3Dまたは2Dの世界に下る必要がありました。②次に、人として、人間の代わりに神様の「愛」の掟を完全に全うし、その結果を私たちに与える必要がありました。③最後に、イエス様が神様の律法を全うしてくださった結果、イエス様は、神様の長子として、神様の右の座に座ることができ、神様と親密な関係を楽しめる特権を得られました。が、そのとき、その特権を自分だけのものにされず、イエス様を信じる者たちにも分け与えることを選ばれたのです。この三つの条件がそろわないと、私たちはイエス様が御父からいただいた特別な愛を、いただくことができません。イエス様のように、御父からの愛を他の人たちに分かち合おうと思ったとしても、このような辛くて面倒で、想像を絶するほどの犠牲的なプロセスを誰が負いたいと思うでしょうか。
ヨハネは、いろんな信じがたいことを私たちに説得しようとしています。しかし、イエス様が「恵みとまことに満ちておられた方」である、ということが最も信じがたいことだということ忘れないでいただきたいです。その「恵みとまこと」のあり方を、このヨハネの福音書で、ヨハネは説得し続けていますが、この信じがたい「恵みとまこと」を私たちもクリスチャンとして、日々受け入れ、信じ続けることができますように、お祈りします。