2024年6月30日礼拝 説教「嘆きから賛美へ」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ローマ人への手紙8章18節、35節、37~39節
さ ん び Opening Praise どうしてそこまで

You Are My King (Amazing Love)

さ ん び Praise 喜びの声上げて
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 聖歌476番「やすけさは川のごとく」
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇13篇
聖書の話 Sermon 「嘆きから賛美へ」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌402番「歌いつつ歩まん」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、牧師のお仕事というのは、何だと思いますか?「聖書の先生」というのが一番思い浮かびやすいかもしれないし、牧師の「牧」をとって「牧会者」ー主の羊をお世話する人ーと思い浮かべる人もいると思います。私がクリスチャンになったばかりのとき、ある牧師先生が自分の仕事のことをこのように説明してくれました。「私の仕事は、クリスチャンたちが、いろいろな困難(難しいこと)を、上手に乗り越えることができるように励ます事です。」と。本当にそうだなと私も感じ始めています。聖書を読むと、クリスチャンにとって最も難しいことは、困難なことに向き合うことではないのです。実は「神様は、私たちを愛して下さっているのに、なんでこんな難しいことから守ってくれないのですか?」と思うときなのです。私たちは、自分の信仰が試されるような、思ってもみないような困難と向き合う準備はできているでしょうか?

 

難しいことと向き合うときーたとえば、小さな船に載っていて突然嵐が来たとすればー、よくある反応が三つあると思います。一つ目は「逃げる」ことです。嵐と向き合わず、Uターンして嵐から逃げること。二つ目は「戦う」ことです。例えば、嵐に真正面から向き合い、乗り越えるために漕ぎまくる。三つ目は「あきらめる」ことです。逃げたり戦ったりしないで、自分がもう溺れると諦めて、何もしないで最後のひとときを楽しめると決めることです。しかし、イエス様が教えてくださる困難を乗り越えるための手段は、この三つの手段ではなく「祈り」です。(ルカ 22:40)。

 

では、「祈り」はどのように困難を乗り越える力を与えることができるでしょうか。ただ「私を試みに合わせないで、悪からお救い下さい」と繰り返して唱え続ければ、全部解決するのでしょうか?今日は、詩篇13篇の祈りを学びますが、クリスチャンの苦難の中の嘆きが、祈りを通して、讃美へと変えられます。詩篇13篇の三つの祈りを通して、三つの力が与えられるということを、覚えていただきたいです。子供たちもよく聞いてください。

①「神様、いつまで私を一人にするんですか?!」と祈り叫ぶと、神様に期待する力が与えられます。

②「神様、あなたを見ることができるように、信仰を強めてください!」と助けを求めると、苦しみと向き合う力が与えられます。

③「神様、怖いけど、私はあなたにより頼みます。」と祈ると、苦しみの中でも歌える力が与えられます。

では、詩篇13篇を具体的に見ていきましょう。

 

まず、最初2節をお読みします。13篇は「嘆き求める祈り」で始まります。

主よ いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。 いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。 私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」(詩篇13:1-2)

もし、日本の首相やアメリカの大統領に何かをお願いしたかったら、まず、礼儀正しくあいさつし、自分の立場をわきまえながら感謝を述べます。そして、機嫌をとりながらユーモアを折りまぜて自分の難しい状況と今後の可能性を説明しつつ、タイミングを見極めて上手に話を本題に持っていって、自分のお願いしたい事を言うのは、この世の中の常識だと思います。では、全知全能の神様にお願いするときはどうでしょう?詩篇13篇はその正反対ですね。「主よ いつまですか。」といきなりはじまり、かなり突発的ですよね。イエス様が弟子たちに祈り方を教えられたとき、ことば数が多いことで聞かれると思っていることは間違いだと注意され「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:7‐8)とおっしゃいました。ですから、私たちはすぐに自分が願っていることを祈り求めてもいいのです。

 

しかし、ある人は「言い過ぎではないか?」と思うかもしれません。 たった2節で、4回も「いつまでですか?!」と繰り返しています。「あなたは私を永久にお忘れになるのですか」「御顔を私からお隠しになるのですか。」「私は自分のたましいのうちで 思い悩まなければならないのでしょう。」「敵が私の上におごり高ぶるのですか。」と次々と神様に訴え続けます。神様に不平を言いつつ、せかしているように聞こえますね。しかし、これは不平ではありません。不平というのは、神様が与えてくださっていることに満足せず、神様が約束されていないことを欲しがり、神様に「良い神様ではない」と訴えることです。荒野でよくイスラエルの民は神様に不平を言っていました。しかし、この祈りは、不平ではなく、神様に対して、自分の「嘆き」と「助けを求める」祈りなのです。

 

「嘆き」というのは、自分が経験している痛み、苦しみ、孤独、疲れ、恐れ、悲しみを具体的に言葉にし、神様に真摯に質問することです。ケガをした子供が、自分のケガを見て親に「何でこんなに痛いの?痛くて我慢ができない。怖いよ。」と聞くようなことです。民が王様に、「敵が私の村に侵入してきたのに、王様、なぜ、あなたは助けてくれないのですか?理由があるのですか?」と質問するようなことです。しかし、この質問の裏には、不平とは根本的に違うものがあります。神様に対する不平は「こんな苦しいことを赦すあなたは、良い神様ではない。」と神様に訴えることです。「あなたは良い神様です。だからこそ、願います。早くわたしを助けてください!」という嘆き求める祈りの根底にあるのは、神様の愛と誠実さに期待している信仰です。

 

「嘆き求める祈り」は、私たちが困難と向き合うとき、神様にしてほしいことを求める祈りではありません。「嘆き求める祈り」は、困難と向き合うとき、御言葉に書かれている神様が約束されたことを具体的に思い出し、「なぜ神様は、この約束を守られないのですか?いつ成就するのですか?いつまで待たないといけないのですか?」と質問し、信仰と希望と期待をもって神様の答えを待つことです。たとえば、「神の子を見捨てないと、約束してくださいましたが、なぜ神様は御顔を隠され、私は、あなたのご臨在を遠く離れていると感じるのでしょうか。」「試練は私の益のためにだと約束されたのに、この状況は本当に私のためでしょうか?」「教会は信仰によってこの世に打ち勝つと約束されたのに、なぜこの世の悪にこれほど力があるのでしょうか。」「私がこの罪の状態で歩み続けることは、主の栄光につながるでしょうか?聖霊様は、私の中に宿っておられないのでしょうか?」というような祈りです。

 

クリスチャンは自分の痛みを忘れるために、快楽や落ち着く趣味、または、「きよめ」の儀式や修行によって現実逃避をする事はしません。クリスチャンは、「精練された」方法で自分の痛みを無にして、ストイックに、自力で、問題を解決する事もしません。クリスチャンは、「神様は、自分の困難から私を救わないんだろう」と諦める事もしません。クリスチャンは、①自分の痛みと苦しみに真正面から向き合い、②神様の約束を思い出し、③「主よ、いつまでですか?」と嘆きながらも、助けを祈り求めます。それが、クリスチャンの困難との向き合い方です。そして、このように神様に嘆き祈り求めるとき、「神様にさらに期待する力」がより湧き起こってくるのです。

 

親子の例えを使いましょう。例えば、子供が自分が感じている痛みや苦しみに真摯に向き合うなら、自分では解決できない事や、誰かからの助けが必要である事が分かってくるでしょう。そして、痛みを感じれば感じるほど、親が助けてくれると約束してくれたことを思い出し、本当に親の助けが必要だと心底感じるでしょう。でも、そこまで感じても、助けてくれる親がいないことに気づくと、「痛いよ!パパ!ママ!どこにいるの?!」と叫び出します。泣いてはいますが、結果的に、叫び始めることによって、自分の傷や痛みから目をそらし、親を探し求めて親の助けを期待し始めるのです。自分ではどうする事もできない状況と向き合う時、現実逃避せず、自分の力で解決しようとせず、諦めないで親の助けを熱心に求め始めることは、一番健全なことではないでしょうか。私たちと神様との関係も同じです。「神様、いつまで私を一人にするんですか?!」と祈り叫ぶとき、神様に期待する力が与えられます。

 

詩篇13篇の次の2節を読むと、嘆き求める祈りから、「神様、あなたを見ることができるように、信仰を強めてください!」という祈りに変わります。これが13篇の二つ目の祈りです。

「私に目を注ぎ私に答えてください。私の神主よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように。「彼に勝った」と私の敵が言わないように。私がぐらつくことを逆らう者が喜ばないように。」(詩篇13:3‐4)

興味深いことは、ダビデが「生き残ることができるように」「敵が倒されるように」「信仰がぐらつかないように」「困難がなくなるように」「苦しみが取り除かれるように」などとは祈らなかったという事です。彼はそのような結果を望んでいましたが、最終的には、「私の神主よ。私の目を明るくしてください。」と祈り求めました。

 

「私の目を明るくしてください」とは、どういう意味でしょうか?もちろん、「死ないように助けてください」という意味ではありますが、イキイキと、元気よく生きるという意味もあるのです(1サムエル14:13;箴言29:13)。しかし、それだけではありません。詩篇 19:8とエズラ 9:8を、「私たちの目を明るくする」とは、主にある「喜び」と、主にある「守り」を経験したことを思い出すことを指しています。つまり、「私の目を明るくしてください」というのは、ただ自分のいのちだけを守ってくださいという意味だけではなく、困難のなかでも、イキイキと元気よく、喜びと希望をもって歩むために、「目を明るくする信仰を強めてください。」という祈りなのです。

 

このことをわかりやすく表現している旧約の話があります。神の民はその時、敵軍に包囲されて、馬と戦車の軍隊に完全に囲まれていて、絶体絶命の状態でした。すると、預言者の若い助手が、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言いました。 すると預言者は、このように答えました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(2列王記6:17)

この話を分かりやすくするために、親子の例えに戻りましょう。「痛いよ!パパ!ママ!どこにいるの?!」と叫んでいる子供がいるとします。そのとき、パパとママはどこにいるか、パパとママは何をしているのかを知りたいのです。もしパパとママが、後ろにいれば、子供はほっとしますね。もしパパとママが薬と絆創膏を持って来る途中であれば、子供も泣き止むと思います。なぜなら、親が何をしているかがわかれば、自分の傷の痛みにもう少し耐えられるからです。

 

困難という嵐に向き合うときに、クリスチャンは、目をつぶって現実逃避しようとはしません。目を開けて、目の前の問題をみて、自分で解決しようともしません。自分の周りの悲惨な状況をみて、あきらめようともしません。クリスチャンは、目をあけて、自分の目の前の問題周りの悲惨な状況をしっかり見て、それを真摯に受け入れて、嵐のただ中でも、天を仰ぎ見て、「どうか神様、私の信仰の目を開いて、神様の御力と働きを見失わないようにしてください。」と祈るのです。そして、「神様、あなたを見ることができるように、信仰を強めてください!」と助けを求めると、苦しみに向き合う力が与えられるのです。クリスチャンは困難という嵐がおさまることを祈り求めません。心の中の嵐ーつまり、困難の中で経験する恐れ、不安、不信仰ーがおさまることを私たちは祈り求めるのです。

 

短い祈りですが13篇の最初の4節は、「主よ、いつまでですか?!」「主よ、信仰をお与えください!」と嘆き叫びながら祈っているように感じます。しかし、5-6節で突然、ピタッと叫びがとまって平安と確信からくる、力強く信仰深いささやきに切り替わります。詩篇13篇の最後の2節を読みたいと思います。

「私はあなたの恵みに拠り頼みます。 私の心はあなたの救いを喜びます。

私は主に歌を歌います。 主が私に良くしてくださいましたから。」

激しい心の嵐が一瞬で収まったように感じますね。「神様、あなたを見ることができるように、信仰を強めてください!」という祈りから、困難の中でも「神様、怖いけど、私はあなたにより頼みます。」と主を賛美する祈りに変わります。なぜ心の嵐がこのように収まったのでしょうか?「信仰の目をお与えください」と祈った人は、何かが見えるようになったからです。5-6節で二つのことが見えるようになったのです。それは「主の恵み」と「主が私に良くしてくださった」ということです。それは具体的にどういうことでしょうか?

 

「主の恵み」は、訳すのが非常に難しい言葉ですが、クリスチャンが時々、耳にするヘブル語で「ヘセッド」と言います。私はこの前の説教で「へセッド」の事を「揺るがない誠実さと不撓不屈(ふとうふくつ)の思いをもって、私たちに値しない赦しを与え続ける恵み」と描写しましたが、この性質が「ヘセッド」の意味です。旧約聖書では、神様は、何のためらいもなく常に姦淫を犯す遊女を、誠実に愛し続け、赦し続ける夫に例えられています(ホセア書1‐3書、エゼキエル16章、エレミヤ2‐3)。「主が私に良くしてくださった」ということを見ることは、今まで自分が、神様から具体的にどのように愛を受けてきたのか、どのように救われたのか、どれほど自分がそのような恵みに値しない者であるのかを思い出すことです。詩篇103:10-11に同じ表現が使われていて、「主の恵み」と「主が私によくしてくださった」という意味がもう少し表されています。

「私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。 天が地上はるかに高いように 御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。」(詩篇103:10-11)

つまり、この詩篇13篇の祈りを捧げた者は、神様が、このどうしようもない自分に、どのように誠実に愛を注ぎ続けて下さったのかを具体的に思い出し、「揺るがない誠実さと不撓不屈の思いによって、私たちには値しない許しを与え続けてくださる神様の愛」を、信仰の目で見ることができたのです。

 

その瞬間、心の嵐がピタッととまり、心の湖が穏やかになったのです。それは、主の恵み(ヘセッド)により頼んだからなのです。この「より頼む」という意味は、敵軍に囲まれていても、高く堅固な城壁に「より頼み」、安心する、というイメージです(申命記33:12, 士師8:11参照)。主の恵みに「より頼む」ことは、子供がお父さんとお母さんを見て、それまで受けてきた愛と守りを思い出し、ホッとするようなことなのです。

 

しかし、それだけではありません。「主の恵み」(ヘセッド)により頼んだ結果、「私の心はあなたの救いを喜びます。 私は主に歌を歌います。 」と最終的に祈ることができたのです。困難の中でも「神様、怖いけど、私はあなたにより頼みます。」と祈ると、主を褒めたたえたくなるのです。嵐の中であっても、祈りを通してクリスチャンの嘆きは讃美へと変わるのです。新約聖書では、このような表現がよくあります。「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:2-3)「キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい」(1ペテロ4:13)  「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ 1:2)

 

クリスチャンは苦しみが好きだから、苦難を喜びとするわけではありません。クリスチャンは苦難と向き合うときに、詩篇13篇のように祈れるからです。苦難の嵐の中で、私たちの究極の拠り所は、究極の喜びが自分の環境を変化させることではなく、神様の揺るがず、変わらない愛にあるのだ、と祈りの中で気づき、私たちは最終的に大いに喜ぶことができるのです。ですから、パウロはこう言うのです。

「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)

苦難の中の祈りは、信仰の目の霊的デトックスとも言えます。自分の希望をさらにクリアにできるからです。

 

しかし、非常に大事なポイントを忘れてはいけません。クリスチャンが祈れる理由は、神様がご自分の愛を私たちに、具体的に分かりやすく目に見えるようにしてくださり、永遠の救いと喜びをもたらしてくださったイエス様の十字架の復活と救いがあるからです。もし、十字架と復活がなければ、どれほど神様に嘆いても、どれほど信仰の力を祈り求めても、どれほど神様の愛により頼んだとしても、神様が私たちを恵んでくださり、私たちを救ってくださり、私たちを顧みてくださる保証は全くありません。私たちの祈りはただの妄想にすぎないということになります。

 

しかし、イエス様が私たちのために十字架で死んでくださり、私たちの永遠のいのちのために蘇ってくださったことは客観的な事実であり、神様が私たちを愛してくださっている揺るがない証拠であるからこそ、私たちは嵐の中でも、主を全力で褒めたたえることができるのです。ですから、迫害を受けて、いろんな困難を通っていたパウロのように、わたしたちもローマ8:31-39をのみ言葉の通りに祈ることができます。

 

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

 

こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、 屠られる羊と見なされています。」 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 

困難と向き合うとき、ぜひ、自分の嘆きが讃美へと変えられることを期待して、イエス様の十字架を仰ぎ見て、祈ってみてください。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church