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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌245番「御名をほめ讃える歌声より」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌322番「こひつじ主イエスの」1~4番
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記30章25節-31章16節
聖書の話 「父ラバンと、父なる神様」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌412番 「主とともに歩む」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子供たちに聞きます。ある悪いことをやめたほうがいいと思いながらも、ついやり続けてしまうことはありませんか?たとえば「嘘をつきたくないけど、いつも嘘をついてしまう」「この人にいつもいじめられるけど、なぜかこの人の近くに行ってしまう」「教会へ通うことや聖書を読むこと、イエス様を信じることはいいことだとわかってるけど、なかなか、そんな気持ちになれない」というような事があるかもしれません。実は、今日の話の登場人物ーヤコブ、レア、ラケルーも同じような思いがありました。ヤコブ一家は、ラバンといういじわるなお父さんの下で一生懸命に働いていました。しかし、ラバンはヤコブ家をいつも騙して、給料を安くしてしまいました。ヤコブ一家は、いじわるなラバンから離れて、神様が約束してくださるカナンの地へ帰ることもできたのですが、そうしませんでした。
なぜだと思いますか?それは、ヤコブが「神様の約束の地へ帰る!」と言うと、ラバンは「おお、そうか。じゃあ、欲しいモノを何でもあげるよ」と約束してくるのです。危険な道を辿って、遠い神様の約束の地へ帰るよりも、目の前にあって触れるラバンのお金のほうがいいと、ヤコブは考えてしまって、なかなか神様のところへ帰ることができませんでした。しかし、神様は、私の言葉で言い換えると、ヤコブにこのように語りました。「目の前にあるお金が欲しくなるのはよくわかるが、そのお金をくれる義理のお父さんラバンが、どれほどあなたを愛していると思っているのか?神である私が、どれほどあなたを愛していると思っているのか?」その時、ヤコブ一家は、どう考えてもラバンは自分たちを愛してはおらず、神様の愛に勝る者はいない、ということに気がついたのです。そして、ラバンからついに離れることができたのです。悪いことがやめられないとき、「この人、この罪、この何かは、私をどれほど愛してくれているのだろうか?十字架の上にかけられたイエス様は、どれほど私を愛して下さっているのだろうか?」この質問を自分に問いかけてみてください。今日の聖書箇所はかなり長いですが、三つのポイントからじっくりと、話の流れを見ていきたいと思います。
創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかも知れませんので、簡単にこの本の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時(そして、今も)、人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの約束」をお与えになりました。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、アブラハムの一人の子孫が、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)を信じるならば、私たちも同じように天国を相続できると言うのです。それは当時の信仰でもあり、21世紀にいるクリスチャンの信仰の本質でもあります。
本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。ヤコブは神様の約束を信じていましたが、残念ながらヤコブの信仰は、落ち着きのない未熟な信仰だったので、美しいラケルの「姿」と「顔立ち」(29:17)に見惚れてしまい、諸突猛進に進んだ結果、ラケルの父、ラバンの罠にはまってしまいました。まず、ヤコブはラケルと結婚するために、ラバンの羊飼いとして7年間働くことになりました。7年間頑張って働いたのに、叔父ラバンの非常にずる賢いテクニックで、ヤコブは美しい妹のラケルではなく、「目の弱い」姉レアと結婚する羽目になってしまったのです。その上、妹ラケルと結婚する事と引き換えに、ヤコブはラバンにもう7年間の労働を押し付けられてしまいました。
この家族によって12人の息子が産まれ、神の民の始まりとなったのですが、それは、罪のカオスのただ中で始まったと言うことがわかります。ヤコブ、レア、ラケルの結婚は、一人一人の「曲がった愛の追及」の現れとも言えます。「曲がった愛」に支配されてしまった三人でしたが、神様の揺るがない純粋な愛によって、この家族は変えられるのです。この家族の歩みは、クリスチャンのあり方と、クリスチャンがどのように神様に変えられていくかを描写しています。本日の箇所でも、神様の愛がどのようにヤコブ、レア、ラケルの心を変えていったのかがわかります。三つのポイントにそって、説明します。
まず、一つ目のポイントは、私たちが悪の支配の下から離れられない理由は、悪が約束する祝福を近くに感じ、神様が約束される祝福を遠くに感じているからです。
ラケルが12人目の息子、ヨセフを産んだとき、ヤコブは義理の父ラバンにこう言います。「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください。 妻たちや子どもたちを私に下さい。彼女たちのために私はあなたに仕えてきました。行かせてください。あなたに仕えた私の働きは、あなたがよくご存じなのですから。」(30:25-26) そして、ラバンは「私の願いをあなたがかなえてくれるなら──。あなたのおかげで主が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」と答えました。ラバンのことを全く知らない人にとっては、この対話は、礼儀正しいクリスチャンではない親と、クリスチャンの義理の息子との対話とも見えますが、実は、これは非常に複雑で、不健全で悪質な関係なのです。
先ほど、説明したように、ラバンは自分の次女ラケルをエサとして利用し、ヤコブを騙し、長女レアとの結婚を押し付けて、14年間の無償労働をさせました。この箇所の後半でわかりますが、ヤコブは、レアとラケルにこう言います。「あなたたちがよく知っているように、私はあなたたちの父に、力を尽くして仕えてきた。 それなのに、あなたたちの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた。」(31:6-7)と。つまり、美しい次女ラケルと見せかけて、「目が弱い」長女レアと取り替えたように、何回も、何回も同じようなことを繰り返して誠実に働いていたヤコブを騙したのです。レアとラケルも同じように感じていました。「私たちの父の家には、相続財産で私たちの取り分がまだあるでしょうか。 私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。あの人は私たちを売り、しかもその代金を食いつぶしたのですから。」 (31:14-15) 要するに、ラバンは悪質な男で、自分の義理の息子と二人の娘を奴隷のように圧制していました。ヤコブ一家はラバンの下から離れたい気持ちが絶対にあったと思います。また、ヤコブが待ち望んでいた「約束の地」へ戻ることもできたと思います。しかし、なぜ、彼らはラバンの下から離れなかったのでしょうか?
それはラバンの答えにありますね。「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」という約束です。ヤコブは約束の地へ帰らず、すぐに交渉に入り、最終的に「私は今日、あなたの群れをみな見て回りましょう。その中から、ぶち毛と斑毛の羊をすべて、子羊の中では黒毛のものをすべて、やぎの中では斑毛とぶち毛のものを取り分けて、それらを私の報酬にしてください。」 (30:32-33) そして、ラバンは、「よろしい。」(30:34)と即答します。つまり、ヤコブがラバンに何度も何度も裏切られながらも、ラバンの下にいつづけた理由は、ラバンがいつも、すぐに手に入って楽しめるような、ヤコブが欲しがりそうな報酬を約束するからでした。ヤコブはもちろん、約束の地、神様の恵みを受け取りたかったと思います。しかし、大事な家族と自分の資産を持って、危険で、険しい荒野を約700-800キロも辿って、まだ所有してもいない土地を待ち望むということは、非常に大きなリスクでした。遠くにある、抽象的な恵みよりも、近くにあって、目に見える恵みを選んだほうが安全だとヤコブは思ったので、20年もラバンの悪質な支配下にい続けられたのだと思います。
そう思いながらもヤコブはラバンの悪質な考え方をよく理解していたので、自分の知恵と力で自分を守ろうとしたのです。「斑毛とぶち毛」のあるヤギを報酬としてお願いしたのは、もし、ラバンと一緒に群れを確認する時、すぐに見分けられるし、騙されることもないと、ヤコブが考えたからだと思います。「今度こそ、ラバンは私の報酬を変えないと信じたい」と思って、ラバンに報酬のお願いをしたのだと思います。が、取引が成立したその日、ラバンはこれまでと同じように、ヤコブの報酬を変えました。ラバンは、自分の「斑毛とぶち毛」のあるヤギを自分の息子に与え、ヤコブの報酬をゼロにしようとしたのです。そして、ヤコブが報酬をもらえる可能性をゼロにするために、息子たちの群れとラバンの群れの間に三日分の距離を置いたのです。その結果、残念ながら、ヤコブはまた、もう6年間、ラバンのもとで働き続ける羽目になってしまいました(創世記31:41)。
皆さんも似たような経験があるかもしれません。なかなか抜けられない環境。不健全な人間関係。何度も戻ってしまう悪い癖。常に犯してしまう罪。私たちは何をしたらいいか自分でもわかっているのですが、なかなかそれができないのです。なぜなら「良いこと」がもたらしてくれる利益、祝福、恵みは、遠くに感じるので、リスクや、失うことが多すぎるように感じてしまうのかもしれません。そして、私たちは自分にこう言い聞かせます。「前はうまくいかなかったけど、今回は違う」「あの人には悪いところもあるけど、この前、こんなことを私に約束してくれたんだ」「不健全な環境ではあるけど、知らないところよりも、ここのほうが自分の環境をコントロールしやすい」そう、考えがえてしまうのです。表面では、そう言いますが、心のどこかで「自分はまた騙される」「自分をただごまかしている」と自覚していると思います。それでも、なかなか、私たちは神様が差し出してくださる恵みを選ぶことができないのです。ラバンとヤコブの関係は、罪と私たちの関係を表しています。心の中では、自分がやっている事が悪い事だとわかっていますが、罪は常に私たちに新しい報酬、新しい約束を与えてくれるのです。しかし、罪はラバンのように、何回も私たちを騙します。そして、最終的に与えられる罪からの報酬は、自分を破壊する「死」です。それが、わかっていながらも、そこから抜け出せない自分がいるのです。私たちがヤコブと同じように、罪の支配の下から離れられない理由は、悪が約束する祝福を近くに感じ、神様が約束される祝福を遠くに感じるからでしょうか。
次に覚えていただきたいポイントは、悪の支配の下から離れられたきっかけは、神のことばです。神のことばによって、悪の本性と神様の誠実さが明らかにされるという事です。
ラバンが悪だくみを働いたとき、ヤコブは、不思議で首をかしげるようなことをします。
ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剝いで、若枝の白いところをむき出しにし、 皮を剝いだ枝を、群れが水を飲みに来る水溜めの水ぶねの中に、群れと差し向かいに置いた。それで群れのやぎたちは、水を飲みに来たとき、さかりがついた。 こうして羊ややぎは枝の前で交尾し、縞毛、ぶち毛、斑毛のものを産んだ。(創世記30:37-39)
これは、科学的な因果関係なのか、そのとき流行っていた羊飼いの「言い伝え」なのか、ただの偶然なのかはわかりませんが、結果は同じです。何もないところから、突然ヤコブに報酬が与えられたのです。ラバンはヤコブを虐待し、略奪し、踏みつぶそうとしたのですが、ヤコブは、非常にシンプルで不思議な手段を通して、一瞬でゼロから逆転勝ちをし、フェアプレーでラバンから、すべてを勝ち戻すのです。最終的には、ラバンの息子たちが悲鳴をあげます。「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物で、このすべての富をものにしたのだ」(31:1) 何が起こったのでしょうか?そのとき、神様がヤコブに語られます。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」 (31:3)要するに、神様は、ヤコブの不思議な「わざ」を用いられ、希望のかけらもなかったヤコブ一家をラバンの支配から救い出されたのです。
神様の一言で、「あっ!」とヤコブはラバンの支配から目を覚まし、信仰の目が開かれたのだと思います。そして、そのあと、ラケルとレアを自分の群れに呼び寄せて、気づいたことを分かち合います。
私は、あなたたちの父の態度が以前のようではないのに気づいている。しかし、私の父の神は私とともにおられる。 あなたたちがよく知っているように、私はあなたたちの父に、力を尽くして仕えてきた。それなのに、あなたたちの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった。 彼が『ぶち毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、群れのすべてがぶち毛のものを産んだ。また、『縞毛のものはあなたの報酬になる』と言えば、群れのすべてが縞毛のものを産んだ。こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。 (31:4‐7)
ヤコブは神様のことばによって、ラバンの存在と神様の存在を比較することが出来ました。「ラバンは、近くにいて親しいと感じていましたが、私たちを顧みてくださいませんでした。しかし、神様の存在は、今まで感じていませんでしたが、神様は私たちとともにいてくださいました。私は、ラバンに忠実に仕えて来ましたが、ラバンは私たちを騙し続け、何の報酬も与えてくれませんでした。私たちはいろんな形で神様に背いて来ましたが、神様は私たちを守り続けてくださり、むしろ、ラバンを圧倒し、私たちを大いに恵んでくださったのです。」ヤコブは、そう結論付けました。つまり、神様のみことばを通して、神様の存在を意識することによって、もうラバンの下にはいられなくなったのです。
この逆転勝利は、これから来る出エジプト記にある逆転勝利の兆しです。ラバンの家からのヤコブの脱出は、エジプトの「奴隷の家」からのイスラエルの脱出に非常に似ていますし、聖書の中でも比較されることもあります(ホセア12:12‐13、申命記26:5‐8参照)。
「私の父(ヤコブ)はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。 しかし、エジプト人は私たちを虐待し、苦しめ、私たちに激しい労働を課しました。 私たちが私たちの父祖の神、主に叫ぶと、主は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と虐げられている有様をご覧になりました。 そこで、主は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出す」
そして、ラバンの下から脱出したとき、ヤコブがラバンから財産を「はぎとった」ように、イスラエル人はエジプト人の財産をすべて「はぎ取る」(出エジプト3:21-22)と神様は約束されたのです。
出エジプト記の救いの御業は、イエス様の救いの御業のひな形でもあるのです。イエス様は、この世へ寄留し、この世に辱められ、虐待され、虐げられました。神のことばであるイエス様がこの世に来た時、悪の本性が明らかになったのです。そして、私たちは、はじめて気づくのです。悪は私たちの事などなんとも思ってなく、イエス様だけが私たちを顧みてくださるのです。その上、私たちが首をかしげるような不思議な「十字架の御業」によって、イエス様が悪の一時的な勝利をひっくり返され、死が死に吞み込まれ、罪が十字架にかけられ、究極のラバンであるサタンの力が無になるのです。そして、私たちを顧みて、救い出してくださるイエス様は、悪の栄光をはぎとり、王の王として、圧倒的勝利者になられるのです。
しかし、忘れていけないのは、ヤコブがこの事に気づけたきっかけ、私たちがこの現実に気づけたきっかけは、「神様のみことば」であるという事です。いかがでしょうか。私たちは毎週の礼拝で、また、日々聖書を読んでいる中で、神のことばによって、悪の本性と十字架にかけられたイエス様の誠実な愛が明らかにされているでしょうか。
最後に覚えていただきたいことは、神様のみことばを信じている証しは、自分の故郷を出て、寄留者として約束の地へ向かうということです。
悪の本性と神様の誠実さに気づいたとき、ヤコブはラケルとレアに、神様に教えられたあることを分かち合います。当時、聖書はなかったので、神のことばを聞く手段は夢でした。神様の使いが夢に現れ、ヤコブは、最終的にラバンの家から出ることと、約束の地へ帰ることを勧められました。これは簡単なことではありません。ラケルとレアにとって、自分が生まれ育った故郷を離れることです。また、ヤコブにとっても、自分のキャリア、アイデンティティー、家族を築き上げて20年間も住んでいた「故郷」でもあるのです。私たちも自分たちの「故郷」を出て、イエス様が約束してくださった「永遠のいのち」を、寄留者として待ち望まなければなりません。これは非常に難しく、大きな犠牲のかかることです。
しかし、神の使いは、5つの理由をあげて、ヤコブ一家がラバンの家から出るように促し、勧めました。
① まず、自分の状況から目を離し、目をあげて、神を仰ぎ見なさい。(31:12)自分の目の前にいるラバンに囚われず、あなたを愛して下さっている神様を仰ぎ見ることで、ラバンの家から出ることが大したことではないと気づきます。
② 神様を仰ぎ見るとき、神様がくださった大いなる恵みを思い返しなさい。(31:12)神様が与えてくださる恵みは、ラバンの家で受けた恵みよりもはるかに大きいので、ラバンの家から出ることは、それほど大きい犠牲ではないのです。
③ ラバンがあなたにしてきた、辛くて、酷い、悪質なことを、正義の神様がすべて御覧になったことを覚えなさい。(31:12) ラバンではなく、神様が私たちが経験した苦しみ、痛み、孤独に同情してくださり、神様が私たちのために働いておられます。恐れる必要はありません。
④ ヤコブが神様に誓願したことを思い出しなさい。(31:13)「ヤコブは誓願を立てた。『神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、 石の柱として立てたこの石は神の家となります。』」(28:20-22) 神様は約束された通りにすべてを誠実に果たされたので、聖書の神様を自分の神様として従うべきなのです。
⑤ 神様はラバンの家から出て、「神の家」であるヤコブの故郷に戻りなさい、とヤコブに命じられました。(31:13) つまり、ラバンの家はもう自分の故郷ではなく、「神の家」がヤコブの故郷になったのです。ですから、ラバンの家に残る必要は全くないのです。
約束の地を見たことなかったレアとラケルは、どう答えましたか?
「私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか…神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものです。さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさってください。」
つまり、レアとラケルは、正式に信仰告白をし、自分の故郷から出て、720キロ離れている約束の地へ向い、ヤコブの神様により頼むことを決心したのです。私たちクリスチャンも同じです。イエス様の愛とこの世の愛を比較し、イエス様の誠実な愛により頼みました。その決断によって、この世は私たちの「家」ではなくなり、「神の家」が私たちの家になるのです。私たちもレアとラケルと同じように、私たちの母国の者から「よそ者」と見なされ、この世でラバンのように、いろんなものを取り上げられました。ですから、自分の母国を捨て、イエス様が命じられた通りに生きることを決心したのです。それは、イエス様が私たちのためにこの世の富みを上回る、永遠のいのちと「神の故郷」を与えてくださったからです。主に感謝して、今週も寄留者として歩んでいきましょう。お祈りします。