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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇135篇5-7節,15-21節 |
さ ん び | Opening Praise | ただ十字架のイェスにあり
〜Only A God Like You〜 |
さ ん び | Praise | 驚き仰ぎ見る ~I Stand In Awe Of You~ |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書1章19-28節 |
聖書の話 | Sermon | 「イエス様の良き証人」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスにだけある」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますが、教会で「証し」という言葉を聞いたことがありますか?私があるキャンプに参加したとき、「証し会」があって、自分がどのようにクリスチャンになったか「証しをする」という時間でした。すごく楽しい時間だったし、お互いを知り合って、神様がくださった救いを感謝する時間でした。次の教会の修養会で「証し会」もしたいなと思っています。しかし、聖書では、「証し」という言葉にはすこし違った意味があります。「証し」というのは、何かを証明するために、ある人が自分が見たことを分かち合うことです。例えば、あるとき、私の娘が「宿題終わったよ!」と言ったのに、私はそんなに早く終わるはずがないと思って、「えー、本当に?」と言ってしまいました。あとで、娘が「お母さん、私宿題終わったよね?」と聞くと、お母さんは「うん、終わったよ」と言いました。つまり、お母さんが娘のために「証し」をしたのです。お母さんの「証し」によって、娘が本当のことを言った事が、証明されたのです。
聖書では、いろんな人がイエス様のことを「証し」しています。しかし、イエス様が宿題をしたかどうかということを証明していません。もうすこし信じるのが難しいことを証明しようとしています。イエス様は本当に永遠のいのちをくださることができるのか。イエス様は本当に世界を救う神の子なのか。本当にイエス様が死んで蘇ったか。そのような信じるのが難しいことを証明している人が何人かいます。今日の聖書箇所では、バプテスマのヨハネという人が、「証し」をしています。しかし、バプテスマのヨハネの「証し」は、とても面白いことに、自分のことについては全く話していません。なぜだと思いますか?それは、イエス様の話が本当で、イエス様の救いがどれほどすごいものなのかと言うことだけを、ヨハネが証明したかったからです。なぜなら、イエス様は私たちの想像を超えた救い主だからです。バプテスマのヨハネは、その事実をできるだけ多くの人に証明したかったので、自分のことは、あまり話したくなかったのかもしれません。本日は、バプテスマのヨハネの証しの仕方から、クリスチャンとして、何を学べば良いかを三つのポイントに絞って見ていきたいと思います。
「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、他の歴史の記録と同じように、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録していますが、同時に主観的な「目的」もあります。キリスト教だけではなく、科学、法廷、政治、ビジネスでも同じ事をします。客観的な「データ」、「証拠」、「歴史」、「結果」を差し出し、ある主観的な目的をもって、相手を説得することは、社会の根本的な仕組みとも言えます。ヨハネの福音書も、二つのことを私たちに説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる」ということです。
私たちは、大事な決断をするときに、いろんな証拠を取り入れて決めますが、100%の正確性で証明できるような証拠はなかなかありません。科学的な証拠は重要なものですが、私たちが根本的に信じていることを証明する力は限られています。例えば、自分以外の「人」のからだは見えますが、その「人」の「人柄」が実際に存在しているかどうか、それは物質的にも、科学的にも証明することはできないのです。しかし、私たちは、それが証明できなくても、人間には目には見えない「人柄」があると、私たちは信じます。つまり、基本的に私たちは100%の正確性で証明できる証拠を求める事はありません。もしそうだったら、私たちの生活と社会は成り立ちません。ですから、私たちは、キリスト教に対して100%の正確性のある証拠を求めることができないことをまず認めなければなりません。
多くの場合、私たちは信頼している人々の証言を聞いたり、当事者の話をよく聞いたりして、最終的に信じるか信じないかを決断します。政治家に投票するとき。ビジネスで大事なことを決めるとき。法廷である人を有罪か無罪かに決めるとき。科学者やお医者さんが、私たちに何か重要なことを教えるとき。付き合っている人が自分にあった結婚相手なのかを見極めるとき。子どもたちに合った学校や、進路を決めるとき。私たちが人生に関わる重要な判断をする時、大半は、ある人の話をよく聞いて、信じるかどうかで決めます。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言とイエス様ご自身の証言が並べてある本で、話を聞いている私たちは、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうか、という選択肢があるのです。
本日の箇所では、最初の証人が紹介されます。バプテスマのヨハネといいます。バプテスマのヨハネは、福音書を書いたヨハネを指しているのではなく、イエス様の前に誕生する、神に遣わされた預言者でした。バプテスマのヨハネが現れる前、イスラエルには約400年も預言者が現れませんでした。なぜなら、イスラエルは神様のみことばに沿わない歩みをしてしまい、長年悔い改めなかったからです。しかし、神様がいつかご自分の約束を思い起こし、世の終わりに神様がご自分の民を救い出される事、それを、イスラエルは待ち望んでいたのです。
ですから、バプテスマのヨハネが現れて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」という教えをユダヤの荒野で宣べ伝えたとき、神の預言者が現れたことによって、世の終わりが来ると、多くのイスラエル人は思っていました。ヨハネは、らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていたという、非常に独特な預言者でしたが、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました(マタイ3:4‐6)。ヨハネは、その当時、イスラエル人が神に遣わされた預言者として信頼していた人物でした。ですから、イスラエルの首都の律法学者やパリサイ人たち(宗教的なリーダーたち)は、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わし、「あなたはどなたですか」とヨハネに尋ねさせました。
その時のバプテスマのヨハネの答えは、非常に面白いと思います。彼は、「私は預言者です」「私は主のしもべです」「私は真の光を証しするものです」というようには答えませんでした。「私はキリストではありません」と、何のためらいも無くはっきりと、告白しました。それは、自分は神の民を救う者ではない、ということを宣言したことによって、これから来られるイエス様にスポットライトを当てるような名乗り方でした。バプテスマのヨハネの答えに満足しなかった祭司たちとレビ人は、質問し続けます。「あなたはエリヤですか。」「違います。」「では、あの預言者ですか。」「違います。」「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」「違います。」というたった一言で答えるヨハネに対して、祭司たちとレビ人たちがイライラしたのは当然だと思いますが、ここに大事なポイントがあるのです。400年もイスラエル人は、「キリスト」、「エリヤ」、「あの預言者」という人物たちを具体的に待ち望んでいました。一人一人の人物の名前の具体的な意味を理解すると、イスラエル人はどれほど壮大なことを待ち望んでいたこと、どれほどヨハネに大きな期待をもっていたかがもうすこし理解できると思います。
「キリスト」というのは、神様が召された「油注がれた」王を指しています。もう一人のダビデ王、またはソロモン王がやってくるという意味ではありません。イザヤ書では、油注がれた者ーギリシャ語ではキリスト、ヘブル語ではメシヤーは、民の涙をぬぐい取ってくださり、民を圧制する者を撃破し(62:8)、贖いと裁きのわざを行なわれます。(63:1-6)そして、最終的に神様がこの「キリスト」を通して、世界を新しく造られ、「新しいエルサレム」を世界の中心(65:17-25)とされると約束されています。もしイスラエルを現代のウクライナに例えると、キリストは、ロシアを倒し、圧倒的な勝利と平和をもたらす、「新しいゼレンスキー大統領」のような人物です。はい、この世に存在しない人物です。この「キリスト」は、神様に「わたしの子」(2サムエル7:16、詩篇2:7、89:26-27)と呼ばれるほど神様に愛されたしもべで、神の民は、その「神の子」であるキリストが与える勝利を待ち望んでいたのです。
「エリヤ」というのは、旧約聖書では非常に有名な預言者でした。いろんな奇跡を起こし、霊的に堕落し、腐敗してしまった神の民を悔い改めに導こうとし、イスラエルの復興を望んでいた預言者でした。つまり、イスラエルを現代の日本に例えると、腐敗している政府と政治家をすべて立て直し、「純粋で、正当なリーダー」のような存在です。またまたこの世に存在しない人物ですね。旧約聖書の最後の書物、マラキ書の最後の2節には、イエス様の言葉でまとめると、この約束された「エリヤ」が「すべてを立て直す」(マタイ17:10、マルコ9:12)という預言なのです。ですから、新しい預言者が現れなかった400年の間、旧約聖書の預言を引き続き期待していたユダヤ人たちは、この壊れた世界を立て直してくれる「新しいエリヤ」を探していた事でしょう。
「あの預言者」とは、申命記18:18に書いてある、モーセを上回る預言者がまた来るという預言を指しています。イスラエルでは、モーセを上回るような人物はいません。モーセは、430年間もエジプトの奴隷として歩んでいたイスラエル人を解放するために、十の災いを引き起こした預言者です。羊飼いの杖一本で、海を割り、世界最強のエジプト王国を圧倒した預言者です。「人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせて」(出エジプト33:11)神様はモーセと対話し、モーセは神の民のために律法を書き記し、何百万人のイスラエル人を約束の地まで導いた、預言者でした。しかし、申命記18章では、十の災いと出エジプトの出来事を上回る「救い」をもたらす「一人の預言者」が約束されていました。またまたこの世に存在しない人物ですね。ですから、ローマ帝国に圧制されていたイスラエルの民は、囚われた自分を自由にしてくださる「新しいモーセ」を待ち望んでいたのです。
旧約聖書の色々な事をまとめてお話しました。そして、イスラエル人は、「勝利」、「回復」、「自由」をもたらす人物を探していて、バプテスマのヨハネに尋ねてきたのです。しかし、バプテスマのヨハネは、淡々と「違います」と言いますが、最後にはこう答えます。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」これも衝撃的な発言です。三人ではなく、一人の人物によって成就されると言うのです。そして、その方のレッドカーペットを敷いている者が自分なのだと、バプテスマのヨハネは明言しているのです。バプテスマのヨハネが爆弾発言をしたのにもかかわらず、祭司たちは、ここで面白い反応をします。つまり、「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 当時、バプテスマ(洗礼)を受ける儀式はよくありました。自分をきよめる為、または、自分の悔い改めを表す為のような儀式でした。しかし、当時、洗礼は自分で授けるものだったそうです。ですから、パリサイ人に遣わされた祭司たちの言葉は、「もしお前が何の権威もないしもべであれば、なぜ上から目線で、人に洗礼を授けているのか!俺たちの弟子たちを奪っているんじゃないか」と、言っているようにも聞こえます。
しかし、バプテスマのヨハネは動揺せず、自分にスポットライトを当てることもしないで、これから来られるイエス様にスポットライトを当てます。26節―27節を私の言葉で言い換えますと、バプテスマのヨハネはこのように答えます。「はい、そうです。私は水でバプテスマを授けています。しかし、あなたたちは、私のあとに来られる方の存在をまったく見ていません。水のバプテスマはこれから来られる方のレッドカーペットなのです。あなたたちが待っていて、勝利を与えてくださる「キリスト」、全てを立て直される「エリヤ」、自由を与えてくださる「あの預言者」とは、この人物を指しているのです。その方が実際に私たちの中に立っておられ、もうすでに来られたのです。なぜそれに驚かないのですか?なぜ、私のことを指して小さなことにいちゃもんをつけるのですか。あなたの相手は私ではありません。あなたの相手は、これから来られる、私などが履物のひもを解く値打もない、尊い「キリスト」「エリヤ」「あの預言者」なのです!」
これがヨハネの福音書の最初の証人、「バプテスマのヨハネ」の証言です。そして、他の福音書を読むと、バプテスマのヨハネの証言を裏付ける出来事があります。マタイ17章で、イエス様はペテロとヤコブとヨハネの福音書を書いたヨハネだけを連れて、高い山に登られました。そして、弟子たちの目の前でその御姿が変わったのです。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなったのです。そして、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエス様と語り合っていたのを見たのです。その意味はイエス様がエリヤとモーセを上回る「新しいエリヤ」「新しいモーセ」である、と弟子たちに証ししたのです。そのあと、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がしました。 神様が「わたしの愛する子」とイエス様を呼ばれたことは、イエス様が「キリストである」と神様が証明されたという意味です(詩篇2:7)。ですから、偶像または人を絶対に拝むことのなかったユダヤ人の弟子たちは、すぐに、イエス様を恐れ敬い、イエス様にひれ伏したのです。つまり、バプテスマのヨハネだけではなく、12人の弟子たちも、イエス様ご自身が、自分たちがその履物のひもを解く値打もないお方、勝利を与えてくださる「キリスト」、全てを立て直される「エリヤ」、自由を与えてくださる「あの預言者」である事を証ししたのです。
バプテスマのヨハネの証言から何が学べるでしょうか。まず、イエス様に尋ねる者は、自分たちの力では手に入れることの出来ない、壮大なものを具体的にイエス様に探し求めることになると言うことです。
社会的に成功すること。楽しく、自由に過ごせる人生を得ること。平均以上にいい人になり、世界に貢献すること。幸せな家庭を築くこと。周りの人に認められること。良いコミュニケーションを取るコツを学ぶこと。そのようなことを求める人達は、イエス様には全く興味はないと思います。それは当然なことです。なぜなら、そういう物を得る為のいい手段は、もっとたくさんあるからです。
しかし、イスラエル人の質問をよく聞いてみると、壮大なことを具体的に探し求めている事がわかります。全世界が認めるような圧倒的で、栄光に満ちた永遠の勝利(=キリストがもたらす勝利)。この腐敗している社会を立て直して、人間関係と社会の壊れているところをすべて回復させること(=エリヤがもたらす回復)。悪、権力、欲に圧制されている人々を解放する手段(=モーセがもたらす自由)。人類がどれほど発展したとしても、どれほど革命や改革を引き起こしたとしても、人類はイスラエルがもとめる勝利、回復、自由を手に入れることはできません。それゆえ、残っている方法もないので、おのずとイエス様に、壮大なことを具体的に探し求めることになったのです。
私たちクリスチャンは、バプテスマのヨハネの証言から、シンプルな質問を問われているような気がします。「あなたはイエス様に壮大なことを探し求めていますか。」生きる目的。無条件の愛。完全なる正義。神様を知り、親しく歩むこと。弱者の救い。死からの復活。永遠のいのちと喜び。罪のゆるし。人生が180度変えられること。世界の平和。世界の回復。世界の救い。もしそのような事を求めているのであれば、イエス様に探し求めるべきです。そうでなければ、イエス様以外に手段を求め始めることは当然なことだと思います。
バプテスマのヨハネの証言から、次に学べる事は、私たちが探し求めているあらゆる壮大な事柄は、一人の人物によって成就されるという事です。
はい、私は自覚していますよ。一人の人物が先ほど挙げたような壮大なことを成就することが、どれほど難しくて、信じがたい話なのかは。100%自覚しています。バプテスマのヨハネにとってイエス様は、勝利をもたらす「キリスト」、すべてを立て直す「エリヤ」、自由を与える「預言者」であり、それ以下ではないのです。私たちはバプテスマのヨハネの証言に驚く必要があるのです。もしそれ以下のイエス様だったら、聖書がいうイエス様ではありません。バプテスマのヨハネが明言している驚きの事実を、私たちが受け入れやすいような形に変えてはいけません。
イエス様を信じない人は当然いらっしゃると思います。しかし、それと同時に、イエス様が永遠の勝利、完全なる回復、悪からの自由をお与えになることができるお方であるならば、信じたくなるという気持ちもわからなくはないと思います。もしイエス様が本当にそのようなお方であれば、バプテスマのヨハネと同じように、「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と告白することは当然なことです。私たちにとって、イエス様はどのようなお方でしょうか。聖書がいうイエス様と、私たちが信じているイエス様は同じイエス様でしょうか。
バプテスマのヨハネの証言から最後に学べる事は、イエス様を証しする者は、野望が全くなく、自分は何にも提供できないと断言し、しつこく、粘り強くイエス様だけを指し続ける人であるということです。
証人の役割は、自分が見たり、経験したりしたものを証しすることです。もし法廷を想定して考えると、関係のない話をする人、自己アピールするような人、または、自分が言いたいことから話をそらすような質問に答えてしまうような人は、あまり良い証人とは言えません。ですから、イエス様の偽証人はすぐに見つけられると思います。クリスチャンだと言って、クリスチャン用語を使いながらも、「イエス様」のお名前を一回も使わなかったり、イエス様がなされたことを一切話さないで、おもに自分のことや他のことについて話すような人です。
しかし、バプテスマのヨハネは、素晴らしい証人です。関係のない質問には、たった一言で答えます。「あなたはキリストですか。」「違います。」と。話を変えようとする質問をされても、キッパリとイエス様の方に話を持っていきます。「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」 「私は水でバプテスマを授けていますが、イエス様は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」 バプテスマのヨハネの証しの仕方は、クリスチャンの生き方、クリスチャンの証しの仕方の良い模範を表していると思います。私たちは、勝利を与えるキリストではありません。私たちは、すべてを立て直すエリヤでもありません。私たちは、自由を与えるモーセのような預言者でもないのです。ですから、もし相手が壮大なものを求めているなら、自分たちの話はどうでもいい話です。自分ができること、教会ができることに対して、変な野望を抱く必要はありません。クリスチャンとして、教会として、私たちは、しつこく、粘り強くイエス様だけを指し続けます。なぜなら、死に打ち勝たれ、全てを立て直され、罪人に自由を与えられる救い主はイエス様しかおられないからです。そのお方を仰ぎ見て、証し続けていきましょう。お祈りします。