2024年8月4日礼拝 説教「ヤコブ家の『出パダン・アラム』」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌184番「朝日が昇り」

開会の祈り Opening Prayer 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読           創世記31章17-51節

聖書の話     「ヤコブ家の『出パダン・アラム』」 マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 

教会福音讃美歌391番「主と主のことばに」

聖晩餐式 Communion                            マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                  マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、もし礼拝の後に、「明日、福岡に引っ越します。早く準備しよう。」とお父さんに言われたら、どう思いますか?まず、びっくりします。次に、「なんで引っ越すの?!」と思いますよね。そして、「なんでそんな遠いところまでいく必要があるの?!」と思うのは自然だと思います。実は、先ほど読んだ箇所で同じようなことが起こります。お父さんのヤコブが、12人の息子と一人の娘にそのように突然引っ越すことを決めて、旅の準備をしたのです。彼らは「パダン・アラム」というところに住んでいて、「カナン」というところに引っ越す必要がありました。約1000キロ離れているところで、海浜幕張駅から福岡駅までの距離でした。そして、らくだに乗って移動しないといけなかったのです。なぜ遠いところまで引っ越さないといけなかったのでしょうか?まず、お父さんのヤコブが子供たちにこのように説明します。①自分たちが生まれ育った町と家族は、神様のように愛してくださらないから。逆に、いろんな形でいじめられてしまいました。②今まで安全に生活できた理由は、神様が私たちを守り、愛してくださったからなのです。そして、神様が、もっといい街があると約束してくださったから、生まれ育った「パダン・アラム」を出ないといけないと、ヤコブお父さんが説明するのです。

 

ヤコブの引越しは、クリスチャンになる決断に似ています。クリスチャンになることは、生まれ育った「世界」から「天国」という新しいお家へ引っ越すことを決めるようなことです。非常に不便で、怖い決断です。しかし、この「世界」が神様のように愛してくださらないから、神様が私たちのために素晴らしいところを用意してくださったから、私たちは「天国」へ引っ越すことを決めました。それが、クリスチャンになることです。その意味を理解するために、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。

 

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単にこの書物の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時、人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの約束」をお与えになりました。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、アブラハムの一人の子孫が、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)を信じるならば、私たちも同じように天国を相続できるというのです。それは当時の信仰でもあり、21世紀に生きるクリスチャンの信仰の本質でもあります。

 

本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。ヤコブには、神様が約束してくださった「カナン」の地がありましたが、パダン・アラムに住んでいました。パダン・アラムは、ヤコブの牧者としてのキャリアが始まった町でした。パダン・アラムは、一目ぼれして、結婚したラケルと出会った町。わんぱくな12人の息子たちと、かわいい一人娘が産まれた町。自分のビジネスが大成功した町。ヤコブは20年もかけて、自分と自分の家族のアイデンティティーをパダン・アラムで築き上げてきたのです。彼は「カナン」生まれでしたが、「パダン・アラム」は自分の故郷と言えるほどの親しい思いがあったと思います。しかし、本日の箇所の17-18節で、ヤコブは「パダン・アラム」から離れる決断をしたのです。

 

繰り返しになりますが、ヤコブ家の決断は、私たちがクリスチャンになる決断と非常に似てます。クリスチャンになることは、自分が生まれ育った世界観、自然に身につけた価値観や文化を「出て」、イエス様が約束してくださった天の約束の地へ「向かう」、という決断です。アブラハムの信仰、ヤコブの信仰、モーセ時代の神の民、新約の時代にいるクリスチャンも同じ決断をしました。しかし、それは、軽い決断ではありません。むしろ、恐れ多い、犠牲の大きい決断であり、約束の地への道は、非常に長く、険しい道です。しかし、十字架で私たちのために命を捨てて下さったイエス様が、ともにいてくださるので、私たちは覚悟ができるのです。

 

私たちがヤコブ家のようにそのような決断をしたとしても、私たちもまた、ヤコブ家のように、まだまだ未熟なところがあります。この箇所を通して、神様がそのような弱いところを補い、成熟させ、恵みをもって私たちを導いてくださることを感じとることができると思います。三つのポイントに沿って、本日の箇所を見ていきたいと思います。

 

一つ目の適用ポイントです。自分の故郷を「出る」ということは恐れを伴うものです。それゆえに、私たちの「恐れ」が罪に走ってしまうことがありますこの箇所を通して、ヤコブとラケルの恐れを見て、一つ目の適用ポイントを考えていきたいです。

 

神様はヤコブに「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」 と命令されましたが、どのように約束の地へ帰るか、また、どのようにラバンに伝えるかはヤコブに委ねられました。ヤコブはどのような道を選んだのでしょうか?

「20 ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。21 彼は自分のものをすべて持って逃げた。彼は立ち去ってあの大河を渡り、ギルアデの山地の方へ向かった。 」

ヤコブらしいやり方ですね。「ラバンを欺いて」という表現は、ヤコブは「ラバンの心を奪った」と直訳することができます。ヤコブがラバンを「欺いた」または、騙したことは、ヤコブが隣人のラバンを「自分自身のよう」に愛さなかったという事で、神様の御心ではなかったと言えます。しかし、皆さんもヤコブがラバンをだました理由は、わからなくもないと思います。20年間もヤコブを騙し続け、奴隷として扱っていたラバンが、そう簡単にヤコブ家を自由にさせるはずがないと、考えられます。

 

ラバンが自分の娘たちを「私から奪い取りはしないか」と、ヤコブは恐れていたのです(31:31)。ですから、ヤコブは、神様の御心に沿ってはいないけれども、自分の愛する妻たちを失うことを恐れ、ラバンをだましたのです。

 

ラケルも同じようなことをしてしまいました。「19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈りに出ていた。ラケルは、父が所有しているテラフィムを盗み出した。」「テラフィム」とは何でしょうか?「テラフィム」というのは、自分の家庭に置いてある「偶像」です。日本で言うと、カバンに入れられるような「ミニ仏壇」や「お札」のようなものでしょうか。ラケルは、ヤコブの神様により頼むことを決めたのにも関わらず、なぜラバンの「偶像」を盗んだのでしょうか。

 

ラケルの立場を考えてみてください。夫のヤコブの神様が、不思議なできごとを通して、ヤコブ家をラバンから守り、恵んでくださったことは確かなことです。そして、約束の地を与えてくださることも、ラケルは信じられたと思います。しかし、パダン・アラムから約束の道までは、1000キロもありました。大事な12人の息子と一人娘、そして、自分たちの全財産をもって、盗賊やコヨーテのような野獣がいて、水も食べ物もない荒野を1000キロも移動する必要があったのです。ラケルは、万が一、ヤコブの神様が守ってくださらない可能性があるなら、「保証」や「お守り」として、小さいころから拝んできた偶像を持っていこうと考えたのだと思います。ラバンが盗まれた偶像を探していた時、ラケルは上手い嘘をついて、自分が盗んだ偶像を隠しました。

 

ヤコブとラケルが神様の御心に沿わない方法を選んでしまった理由は、神様がヤコブ家に「大まかな救い」を与えてくださることは信じられましたが、具体的な細かいところまでは守ってくださらないだろうと彼らが思ってしまったからです。つまり、神様の20年間の精密で誠実な守りを覚えて、神様により頼むことよりも、ラバンの悪質な?反撃と、荒野の険しい道への恐れの方が大きかったのです。

 

いかがでしょうか?皆さんもヤコブとラケルのように、自分の「出パダン・アラム」、そして、それに伴う恐れによって、罪に走ってしまうようなことはありませんか?自分の身を守るために、御心に沿わない手段を選んでしまった、または、選んでしまっていることがないでしょうか?それは、どんな手段でしょうか?私たちは、険しい義の道を選ぼうとする時、なぜ神様が脱出の道を備えて下さることを信じるのが難しいのでしょうか?ぜひ考えてみてください。

 

しかし、感謝なことに、私たちが「恐れ」によって罪に走ったとしても、神様は、変わらず脱出の道を備えてくださいます。「出パダン・アラム」の神様は、「出エジプト」の神様なのです。これが次の適用のポイントです。

 

ヤコブ家は密かに「パダン・アラム」を出ましたが、ラバンはどうしたでしょか?

「22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされた。 23  ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。」

地図を見ると、ギルアデの山地は約750キロ離れているところです。約束の地の入り口の前まで、ラバンはヤコブ家を追いかけたのです。この距離だけを見ると、ラバンは相当怒っていて、怨念を晴らすために復讐に燃えていたということが感じられます。この場面は、出エジプト記14章の内容と非常に似ています。十の災いで、完全な敗北を経験したエジプトの王がヤコブ家を奴隷制度から解放したのですが、怨念を抱いていたエジプトの王は心変わりをして、ヤコブ家を追及し、彼らをまた奴隷にしようと復讐を考えたのです。ラバンのヤコブ家の追及は、エジプトの王の追及の「兆し」なのです。

 

神様は、敵の復讐が来ることをご存じですし、全く恐れません。しかし、神の民は、それを見てしまうと、さらにパニックになってしまいます。復讐しに来たエジプトの王、ファラオが迫ってきたときの神の民の反応が出エジプト14章に書かれています。

ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(出エジプト14:10-11)

私たちの恐れが、神様に対する怒りに進化してしまうときがあります。創世記31:25のヤコブがどのように反応したかわかりませんが、ラバンがヤコブに追いついて、殺気に満ちたラバンの身内に囲まれたとき、ヤコブ、ラケル、レアはどう思ったでしょう。私たちが絶体絶命な状態に置かれたとき、私たちはどう思うでしょうか。

 

出エジプトで神の民がエジプト軍に包囲されたとき、神様の代表として、モーセはこう民に促しました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。 主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)そして、そのあと、神様が海を割られ、脱出の道を備えてくださいました。

 

ヤコブ家も同じです。私の想像では、剣と弓を持ったラバン家に包囲されます。そして、顔から殺気と怒りがにじみ出ているラバンが、剣を振り回しながらこう話し始めます。

「何ということをしたのか。私を欺いて、娘たちを、剣で捕らえられた者のように引いて行くとは。なぜ、あなたは逃げ隠れて私を欺き、私に知らせなかったのか。タンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送り出しただろうに。 しかもあなたは、私の孫や娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。 私には、あなたがたに害を加える力がある。」(31:26‐29)

そして、長い沈黙があります。ラバン家が剣と弓を構えます。ヤコブ、レア、ラケルが心の中で「ああ、もうだめだ。これで終わりだ」と思ったとき、「...が、昨夜、あなたがたの父の神が私に、『あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにせよ』と告げられた。」(31:29)つまり、十の災いを引き起こされた王様がラバンに、「私の民に手を出すとはいい度胸だな。夜道には気をつけろよ。」とおっしゃり、ジャイアンと出会ってしまったスネ夫のように、ラバンの態度がコロッと変わります。ヤコブ家の見えないところで、神様が働いてくださり、出エジプトのように、奇跡的な脱出の道を備えてくださいました。

 

忘れてはいけないのは、神様はただ約束してくださったことを、そして、20年間果たし続けてくださったことを、その日も、同じように果たしてくださっただけだということです。ヤコブが「それなのに、あなたたちの父は私を欺き、私の報酬を何度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えることを許されなかった。」(31:7)と言うほど、ヤコブ家は神様が脱出の道を常に備えてくださることを知っていました。それにもかかわらず、ヤコブ家が罪に走ったとしても、神様は変わらず脱出の道を備えてくださったのです。「出パダン・アラム」の神様は、約束を破らない「出エジプト」の神様なのです

 

私たちはどうでしょうか。私たちは「出エジプト」以上の救いを経験しています。十字架のような絶体絶命の状況から、イエス様が力強い脱出の道を備えてくださったのです。死からの脱出。罪のさばきからの脱出。サタンの支配からの脱出。ですから、私たちがまた敵に包囲されるとき、絶体絶命の状況におかれるとき、私たちが「恐れる」ことは、私たちの選択の機会なのです。私たちが見えないところで脱出の道を備えてくださっている「出エジプトのイエス様」を信じ、恐れずに待つか。それとも、脱出の道が見えない故に、恐怖に囚われるか。感謝なことに、例え、私たちが誤った選択をしても、イエス様は脱出の道を備えてくださいます。それは、最も驚くべきことです。恐れに囚われてしまうクリスチャンに対するイエス様の恵みです。

 

私たちに脱出の道が与えられるとき、私たちはどうするべきでしょうか。これが最後の適用のポイントです。神様の脱出の道が明らかにされるとき、私たちは悪が圧倒されるときを祝い、神様が私たちの苦しみと労苦を顧みられたことを感謝し讃美するべきです

 

ヤコブ家に復讐を下すことができなかった結果、やけくそになったラバンは、ヤコブを20年間を苦しめ続けたにもかかわらず、まるで自分が被害者のように、ヤコブを全面的に訴え続けます(31:26-28; 43-44)。そして、自分が被害者だから、ラバンはヤコブ家を辱めるようなことをします。小さな「お守り」を探すために、ヤコブ家の物を一つ残らず調べて、ヤコブ家のモノを荒らしたり(31:33,37)、何の根拠もない法的な契約を押し付けたり(31:43-54)したのです。ラバンは敗北したが、怨念を晴らすためにヤコブ家を攻撃し続けたのです。

 

しかし、この話のポイントを見失わないでいただきたいです。そのようなことがあったとしても、正義の神様は、ラバンの悪を完全に圧倒したのです。神様のあまりの強さに、手も足も出なかったラバンは完敗でした。そして、ラバンの振る舞いを見たヤコブの怒りのスピーチがこの話のクライマックスです。

「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」(創世記31:36-42)

ヤコブの話を聞くと、ラバンがどれほど被害妄想だったとしても、ラバンはとんでもない不義と悪をヤコブに行ったのです。神様のさばきは、ヤコブの救いでした。そのさばきと敗北を受け入れなかったラバンに対して、ヤコブは正しく怒っていたのです。善と悪、義と不義の存在を信じない人、または、必要性を感じない人は、当然、救いを必要としないと思います。しかし、ヤコブのように、長年、悪に迫害さえ、騙し続けられ、苦しめられて来た人には、悪が裁かれる日は、私たちの救いの日になるのです。

 

「悪が裁かれる」ということは、神様が私たちの苦しみと、私たちの労苦を顧みてくださる証拠でもあります。ヤコブが経験した神様の救いは、悪質なラバンが裁かれた日です。奴隷制度から解放されたヤコブ家が経験した神様の救いは、悪質なファラオが裁かれた日です。私たちが経験した神様の救いは、腐敗した社会、冷酷に私たちの命を奪う死、私たちをだまし続けるサタンが裁かれる日なのです。ですから、蘇りの日に、悪が裁かれるとき、パウロは、ヤコブと同じように、さばきの日をこのように祝うのです。

「死は勝利に吞み込まれた。」 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(1コリント15:54‐58)

いかがでしょうか。私たちは悪が圧倒されたこと、そして、神様が私たちの苦しみと労苦を顧みられたことを感謝し讃美しているでしょうか?ラバンのように、敗北を認めないこの世とサタンが私たちを訴え続けても、感謝し賛美し続けましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church