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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | マタイの福音書21章8-11節 |
さ ん び | Opening Praise | ホザナ -Hosanna- |
さ ん び | Praise | 新しい命 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 聖歌229番「驚くばかりの」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書1章35-51節 |
聖書の話 | Sermon | 「イエス様と出会うと...」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますが、「伝道」ということばを聞いたことがありますか?「伝道」というのは、イエス様を知らない人にイエス様について分かち合うことです。多くのクリスチャンは、「伝道しないといけないんだよね」と思ってしまって、「伝道」はやりたくない夏休みの宿題のように感じてしまうときがあります。一つの例にしましょう。自分のクラスに、ラーメン屋の子が二人います。Aくんのお父さんはAくんに「クラスのみんなにチラシを配りなさい!」と言いました。 Aくんは、あなたに声をかけて、チラシを配って、何時間も練習したかのように、自分のお父さんのラーメンの美味しさを、丁寧な言葉使いでペラペラと30秒くらいで説明して、礼儀正しくラーメン屋に誘います。Bちゃんは全くちがいます。Bちゃんのお父さんはチラシ配りを頼みませんでしたが、ある日、Bちゃんがこうあなたに声をかけます。「私のお父さんはね、料理が本当に下手なの。だけどね、この前、会社をやめてラーメン屋を開いたんだ。お父さんのラーメンなんて絶対にまずいと思ったら、めちゃくちゃ美味しかったの。ほんとに驚いたよ。信じられないでしょ?!放課後に来て、食べてみてよ。本当においしいんだから。世界一おいしいラーメンかもよ。」
どっちも行きたくなるかもしれませんが、興味がわくのはどっちですか?やはりBちゃんのお父さんのラーメンですよね?何が違うと思いますか?それは、Bちゃんの驚きと喜びです。話し方ではなく、驚きと喜びが大事なのです。今日の話は、4人の男性が誰かに伝道される話です。しかし、覚えていただきたのは、ここに出てくる人たちは「伝道しなきゃ」から始まりませんでした。イエス様に会った人が、驚きと喜びに満ち溢れ、ごく自然に、でも大胆にイエス様について周りの人に語ることから始まるのです。そして、それによって、4人の男性がイエス様に導かれるのです。皆さんは、イエス様にお会いするとき、驚きと喜びがあふれ出るでしょうか?もしそうでなければ、「伝道」する事は難しいです。本日の箇所を通して、それについて見ていきたいと思います。
今回のヨハネの福音書の箇所は、4人の男性ーアンデレ、シモン、ピリポ、ナタナエルーがイエス様とどのように出会ったかが記録されています。アンデレ、シモン、ピリポは、後に12人の弟子の一人になります。ナタナエルは、イエス様の弟子のバルトロマイの下の名前である可能性が高いと言われていますが、確実ではありません。しかし、この箇所の目的は、4人の男性がどのように弟子になったかというよりも、イエス様と出会うと、どのようなことが起こるかを明らかにすることでした。イエス様との出会い方は様々ありますが、4人のイエス様との出会い方は、多くのクリスチャンたちの出会い方を描いていると思います。ですから、この聖書箇所を通して、どのように私たちがイエス様を紹介され、どのように信仰へと導かれたか、その過程を学ぶことによって「信仰への道」についてより理解できると思います。
弟子たち一人一人の話を見るよりも、彼らの話を4つのステップにまとめたいと思います。① 信頼する人から、私たちはイエス様について聞き、② 半強制的にイエス様のところへ連れていかれ、③ イエス様のことばによって、自分が想像しなかったことが起こり、④「イエス様が救い主かもしれない」と周りの人に言い始めるのです。皆さんがどのようにクリスチャンになったかはわかりませんが、少なくとも、私はそうでした。大学一年生のときに、信頼するクリスチャンの友人に、半強制的に教会の修養会に連れていかれ、イエス様のことばにショックを受け、修養会の帰り道に、「この神様が本物かもしれない」と考え始めたのです。本日の箇所は、この4つのステップに沿って、見ていきたいと思います。
まず一つ目のステップ。信頼する人がイエス様の本性に驚き、私たちにイエス様について語ります。
この4人の男性の話を読むと、信頼している人がイエス様を紹介しています。師匠である「バプテスマのヨハネ」が、イエス様をアンデレに紹介します。アンデレが兄弟シモンに。アンデレとシモンは幼なじみのピリポに。そしてピリポが、友人のナタナエルにイエス様を紹介します。ここに非常に大事なポイントがあります。私たちは、「私はデータを見て客観的に判断し、周りの目を気にせず自分の決断ができる人間です。」と思いたいのですが、人間は社会性のある生き物です。例えば、私は小さい頃からカトリック教会に通っていましたが、神様の存在は「文化的」なものだととらえていました。自分がなりたいと思っていた「頭がよくて論理的で、社会的に成功する人は、神様を信じない」と自分の周りの人を見て、無意識に思い込んでいました。しかし、大学に入ったとき、自分よりも頭がよく、社会的に成功していて、尊敬している先輩や友人が、なぜかクリスチャンで、何の違和感もなく、文化的にではなく、本気で聖書を信じていたのです。そこで初めて、「あれ?キリスト教って、こういうものだったっけ?」と思ったのです。私は何回も、何回も伝道されていたのですが、全く聞く耳がありませんでした。理由はシンプルでした。語っている人を信頼していなかったからです。しかし、私の人生で初めて、自分が信頼している人が、それまで、なんとも思っていなかった「イエス」という人物を大事にしていたので、初めて客観的に、そして、偏見なしで、イエスの話を聞くことができたのです。皆さんも同じかもしれません。
では、「信頼する人」は、どのようにイエス様を紹介してくれたのでしょうか?それは、「驚き」をもってです。一人一人は、型にはまった、「営業」みたいな勧誘の言葉ではなく、心から驚きながら、イエス様のすごさを話したのです。バプテスマのヨハネは、「私自身もこの方を知りませんでした」(1:31, 33)、とつぶやきながら、イエス様をさして、「見よ、神の子羊!」と言いました。「私たちはメシアに会った!」と言ったアンデレ。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました!」と言ったピリポ。上から目線で何かを教えてはいません。「豆知識」「興味深いニュース」または「面白いうわさ」を、お茶会や接待の場で分かち合うようなものではありません。パンの山を見つけた物乞いが、驚きと喜びで友人の物乞いに言っているように聞こえます。このようにイエス様のことが広がるのです。
そして、もう一点。ストレートに「イエス様」のすごさを語っていますね。イエス様が与えてくださる恵みについてではありません。イエス様を信じることによってどんな「利点」をいただけるのか、のような事も語っていません。さりげなく、単純にイエス様がどういう方なのかをストレートに語っているのです。いかがでしょうか。クリスチャンになる前、あなたが信頼している人から、驚きを持って、ストレートにイエス様を紹介されたことがありましたか?または、そのように誰かにイエス様を紹介したことがありますか?
二つ目のステップは、イエス様ご自身に会わせるために、信頼している人が半強制的に私たちをイエス様のところへ連れて行きます。
自分が信頼している人が、「イエス」についていろいろ分かち合ってくれるのはいいのですが、どのように説明されても、私たちはなかなか受け入れません。そして、それは当然のことです。どんなに信頼している人からでも、会ったこともない「イエス」を、全ての人の罪を清める「神の子羊」、世界の平和をもたらす「メシア」、モーセのように十の災いを引き起こし神の民を解放する「預言者」として、紹介されたら、すぐには信じられないでしょう。皆さんも、初めてキリスト教について聞いたとき、そう感じたかもしれません。
その理由は、信頼している人の「イエス様像」と、話を聞いて自分が思い描いている「イエス様像」の間にギャップが生じるからです。例えば、師匠であるバプテスマのヨハネがイエス様を「神の子羊」と呼んだとしても、二人の弟子はイエス様をただ「先生」(ラビ)と呼びました。つまり、師匠がイエス様のことを「救い主」として信じていたとしても、その弟子たちは、イエス様を「新しい師匠」として扱っただけなのです。ナタナエルの例も非常にわかりやすいです。友人のピリポは、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」 と言いましたが、ナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と返します。ナタナエルは、信頼しているピリポの言っていることを理解していますし、否定はしていませんが、「そんな預言者が、誰も知らない田舎町のナザレから出るわけがないでしょ!」という疑問を持っていました。私も似たような経験がありました。信頼している友人といろいろキリスト教について話しました。最初は、すべてがちんぷんかんぷんでしたが、時間が立つにつれて、話が分かってきて、キリスト教の本質を適切に頭で理解できるようになりました。しかし、キリスト教を理解しても、「そんなことは信じられないよ。」と思っていた時期もありました。皆さんも似たようなことを経験したことがあるかもしれませんし、今、そのような時期にいるかもしれません。
そのように疑うナタナエルに、ピリポはこのように即答します。「来て、見なさい。」 つまり、ピリポは自分の言葉に限界を感じたのです。「もう自分のことばでは説得できない。イエス様に会わせるしかない。」と結論付けたのかもしれません。アンデレがどのようにシモンにイエスについて話したのかはわかりませんが、「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」という結論でした。アンデレとシモンが何についてピリポに話したのか、正確には言えませんが、ピリポは、イエス様ご自身と会ったのです。要するに、一人一人の目的は、ある「宗教的な教理」を教えて相手を説得し、信じさせる事ではありませんでした。一人一人の目的は、イエス様のことを理解はしているけど疑っている人たちを、ただイエス様ご自身のもとに連れて行こうとしているだけなのです。
しかし、21世紀にいる私たちはどうでしょう?イエス様ご自身と出会えるのでしょうか?二つの手段があります。一つは、「自分で聖書を読む」ことです。イエス様ご自身がどのようなお方なのか、また、何をなされたのかが具体的に書いてあります。先ほど、分かち合ったように、聖書はイエス様についての歴史の記録です。クリスチャンの話を聞くのはもちろん良いことですが、自分の目で確かめて読んでみてください。しかし、一人で聖書を読むのは難しいと感じる方もいらっしゃると思います。ですから、そのような場合のもう一つの手段は、「聖書を読む教会を見る」ことです。教会は、聖書を読む者たちの集まりですが、「キリストの体」と言われています。ですから、礼拝で、聖書の学びで、または、第3週にある「聖書の入門クラス」で、クリスチャンがどのように聖書を読んでいるかを知ることによって、「キリストの体」と出会うことができます。21世紀にいる私たちは、そうする事で「来て、見なさい。」のピリポのことばに応えることができます。
三つ目のステップは、イエス様がご自分から私たちに話しかけられ、そのことばによって、私たちが想像もしなかったことが起こります。
4人の話を比べると、色々な点で違いがありますが、一つ共通しているところがあります。連れてこられた人が自分が聞きたいことをイエス様に聞く前に、イエス様ご自身が語られるのです。そして、イエス様がおっしゃることは私たちが想像もしなかったことで、それによってイエス様の本性が明らかにされます。
バプテスマのヨハネの二人の弟子が、イエス様について行こうとしたとき、イエス様はそれを見て、突然振り向いて、こう質問されました。「あなたがたは何を求めているのですか。」非常にシンプルな質問ですが、心を裸にさせるような質問ですよね。熱心にバプテスマのヨハネに従おうとしていた二人の弟子が、ただ師匠のことばに従おうとしただけなのに、「なんでイエス様のところに来たんだろう。私は何を必要としているんだろう。」と思ったかもしれません。いずれにしろ、イエス様からの思いがけない質問を二人の弟子はかわそうとします。「先生、どこにお泊まりですか。」と聞いて、新しい師匠との新しいレッスンを求めて、質問には応えません。 しかし、イエス様も意味深な回答をされます。「来なさい。そうすれば分かります。」泊まるところが分かる?それとも、、、何を求めればいいかが分かる?というような曖昧な答え方ですね。そして、何時間もイエス様ご自身と話した結果、一人の弟子のアンデレが自分の兄弟に「イエス様は新しいラビ(先生)ではない。私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った!」と報告します。その数時間で何を話したかのかわかりませんが、想像もしなかったことが起こります。自分たちが求めていたのは「新しい先生」ではなく、「メシヤであるイエス様」だったんだと、気づくのです。
これを聞いたシモンは、兄弟アンデレについて行って、イエス様のところへ向かいます。しかし、またまた、想像もしなかったことが起こります。イエス様は、シモンを見て、突然こうおっしゃいます。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」 (ヨハネ1:42)聖書の中で、神様はこのように新しい名前を人に与えられることがあります。アブラムをアブラハムに。サライをサラに。ヤコブをイスラエルに。神様は、名前を与えることによって、その人に新しいアイデンティティーをお与えになります。それは、神様が与える恵の約束を名前に刻みこまれるようなイメージです。それと同じように、イエス様は神様と同等な立場で、シモンには会ったことはありませんでしたが、シモンの人柄も、彼の将来についてもよくご存じで、シモンに新しいアイデンティティーを与えられます。そして、神様の約束をシモンの新しい名前ーペテローに刻みこまれたのです。シモンが想像もしていなかったことが起こります。イエス様が自分に新しい名前、新しい人生を与えてくださるんだと、気づくのです。
そして、イエス様に驚いたアンデレとペテロは、ピリポをイエス様の元に連れていきます。イエス様は、ピリポがイエス様に何か質問する前に、「わたしに従って来なさい」と言われました。どういう文脈でイエス様がそうおっしゃったかはわかりませんが、ピリポの結論に大きなヒントがあります。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。」申命記18:18では、神様がいつか「【モーセ】のような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授け」、その預言者が「【神様】が命じることすべてを【神の民】に告げる」と約束しています。つまり、顔と顔を合わせて、神様と対話できたモーセ以上に、イエス様は神様と親しく歩まれ、神様ご自身のお言葉をそのまま私たちに語られる預言者なのだと、ピリポが想像もしなかった結論に至ります。エジプトからイスラエルを救い出したモーセ以上に、イエス様は、自分の人生をかけて従うに値する存在であると、気づいたのです。
そして、それに気づいたピリポは、ナタナエルをイエス様のところに連れていきます。イエス様はナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼にこう言われました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」 私たちから見ると、これは変わったコメントと思うかもしれませんが、イエス様を疑う気満々だったナタナエルの心に、何故か響いたのです。ですから、ナタナエルは「どうして私をご存じなのですか。」と聞きました。そして、イエス様は、またも変わったことを言います。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」 、ナザレ人のイエスを見下していたナタナエルは、それを聞いて「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 と告白します。ナタナエルにとって、想像もしなかったことが起こります。イエス様は、ナタナエルがそれまで会ったどの人よりも、ナタナエルを深く知っておられる事に気づいて、イエス様を自分の王様として信頼するべきだと、結論づけたのです。
イエス様を疑っていた4人は、イエス様のもとへ行き、想像もしなかった形によって話しかけられ、イエス様を受け入れるようになります。私たちも同じです。なぜなら、神様のことばは、様々な形で私たちの心を打つからです。迷っていた私たちに、イエス様が脱出の道を与えて下さるから。自分は何のために生きているのかと戸惑っていたとき、イエス様が生きる目的と、新しいアイデンティティーを与えてくださったから。ふわふわして、嘘っぽく感じるこの世界の価値観の中で、イエス様のことばが一番しっかりと感じるから。深い孤独を感じていた時、私を理解してくださっているイエス様の一言を聞けたから。皆さんは、どのようにイエス様に話しかけられましたか?そして、今、イエス様はどのように私たちに話しかけておられるのでしょうか。
最後のステップは、イエス様と驚きの対話を体験すると、「イエス様が救い主かもしれない」とつい周りの人に言い始めるのです。
もう、お気づきかもしれませんが、この4人の話は、驚きのドミノ倒しのようです。イエス様に出会うと、驚きの対話を体験し、その驚きを思わず周りの人に話して、その人たちをイエス様の下につれて行くと、また、驚きの対話が生まれるというサイクルが始まるのです。これがキリスト教の伝道の循環です。
しかし、皆さんに気づいていただきたいことは、この時点で、イエス様は「これが福音の4つのポイントです。マニュアル通りに伝道しなさい。」「地の果てまで、私の教えを広めなさい!」というようなことはおっしゃっていません。マーケティング戦略や営業ノルマも何もありません。福音書を読んでいくと、むしろ、イエス様はいつも「あまり私の話をあまり広めないでくれ」という場面がよくあるのです。
私は何が言いたいのでしょうか?イエス様の素晴らしさに圧倒されていないなら、伝道することが出来ません。イエス様と出会った人は、「伝道しなさい!」と言われなくても、イエス様ご自身のあり方に圧倒され、勝手にイエス様について周りの人に語っちゃうのです。イエス様の素晴らしさに圧倒されている人は、自分が言っていることが正しいかどうかや、周りの人がどう思うのかなどはあまり気にしません。伝道というのは、あせりや義務からするものではありません。ヨハネ1章を読むと、伝道は、驚きと喜びから始まっている事がわかります。イエス様のことを知れば知るほど、イエス様の素晴らしさにますます圧倒され、イエス様のことをますます語りたくなるのです。
「そうだよね。最初のころはそうかも。」と思う先輩クリスチャンがいらっしゃるかもしれません。しかし、この聖書箇所の最後で、イエス様は本当に興味深いことをおっしゃっています。
「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
つまり、こういう意味です。最初のころは、小さなことを見て、それに驚いて、それをいろんな人に分かち合います。しかし、イエス様ともっと時間を過ごすと「それよりも大きなこと」を見ることになり、分かち合うネタも多くなるはずです!ヨハネの福音書を読んでいくと、イエス様が行われた奇跡のスケールは大きくなり、最終的には、人の子であるイエス様によってもたらされた十字架上の赦しと復活の永遠のいのちによって、創世記のヤコブが見たハシゴのように、イエス様ご自身が天国への道を開いてくださるのがわかります。
ですから、クリスチャンとしての年月が経つと、私たちの驚きは、ますます大きくなるはずなのです。皆さん、今もイエス様の素晴らしさに圧倒されていますか?初めのイエス様への愛は、そのときよりも燃えていますか?もしそうなら、今週ぜひ周りの人にイエス様との驚きの対話を、喜びをもって話しましょう。お祈りします。