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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 黙示録19章6-9節 |
さ ん び | Opening Praise | 主とともに歩む
-Tis so sweet to walk with Jesus- |
さ ん び | Praise | 驚き仰ぎ見る -I Stand In Awe Of You- |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌108番「ほめ讃えよ主の力」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書2章1-11節 |
聖書の話 | Sermon | 「イエス様の『良いぶどう酒』」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 聖歌273番「命の泉に」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますね。ラミークラブでイエス様が行われた「奇跡」をいくつか聞いたことがあると思いますが、その中で一番好きな「奇跡」は何ですか?湖の上を歩かれたイエス様。5000人以上の人々のために食事を用意されたイエス様。病気で亡くなってしまった女の子を蘇らせたイエス様。今日の奇跡は、イエス様のはじめてのしるしです。イエス様が、結婚式のお水をぶどう酒に変えられた奇跡です。ぜひ説教中に今日のお話の奇跡か、好きな奇跡を絵に描いてみてください。
今日の奇跡は、非常に大事なことを私たちに教えてくれます。特に教会で育った中学生、高校生、青年に聞いてほしいです。イエス様のイメージはいろいろあると思いますが、よくあるのは、堅苦しくて面白くない話を長々とするというイメージかもしれません。(それはイエス様ではなく、私のことだと思いますが!)しかし、この奇跡を通して、イエス様がどれほど、めちゃくちゃ楽しいお方なのかがわかると思います。どの文化でも、どの時代でも、「お酒」や「ワイン」というのは「楽しさ」を表しています。イエス様がとんでもない量の水をワインに変えたことによって、イエス様は、「私はあなたたちの想像以上に楽しいんだよ!」と私たちに教えてくださっているのです。ですから、飲み飽きてしまうような普通の「お酒」よりも、「私が用意する『良いぶどう酒』を飲んでみたらどう?」と、私たちをご自分の宴会に招いておられるのです。本日の箇所から、その意味について説明したいと思います。
「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、他の歴史の記録と同じように、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録していますが、同時に主観的な「目的」もあります。
多くの場合、私たちは信頼している人々の証言を聞いたり、当事者の話をよく聞いたりして、最終的に信じるか信じないかを判断します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある本です。ヨハネ1章では、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記してあります。ヨハネはこの歴史の記録をもって、二つのことを私たちに説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうか、という三つの選択肢があります。
ヨハネの福音書が記録している証言の中には、イエス様が行われた「奇跡」について証しされています。ここでは、「奇跡」を「しるし」と言っています。聖書には2000年ぐらいの歴史が記録されているのですが、ある「人」が奇跡を行うことは、非常に稀なことです。旧約聖書の奇跡を一つ一つ見ていくと、多くの奇跡が行われた時期は、モーセ/ヨシュアの時代とエリヤ/エリシャの時代という、非常に特別な時期でした。私が何を言いたいかというと、私たちのような普通の信徒はもちろん、「イザヤ」「エゼキエル」「エレミヤ」「バプテスマのヨハネ」のような有名な預言者でも「奇跡」を行うことはできませんでした。「モーセ」や「エリヤ」のような神様が遣わされた特別なしもべしか奇跡を行うことはできなかったのです。ですから、もしヨハネの福音書がイエス様が行った「しるし」の記録だとするなら、イエス様は、「モーセ」や「エリヤ」を上回る、それまでにはいなかった主のしもべであることを、私たちに説得しようとしていると言えます。
また、大まかに言うと「奇跡」や「しるし」には二つの目的があります。一つは、神のことばを初めて聞く人々に神のことばの信憑性を証明し、その理解を深めさせるために、預言者が「奇跡」を行ったという事です。例えば、モーセが神の民の前で杖を蛇に変えたとき。また、エリヤが奇跡的にびしょ濡れにされた捧げものを燃やしたときなどです。もう一つの目的は、民が神様が用意してくださる究極の救いに信頼できるように、その救いを表す「一時的な」救いを神の民に与えるためという事です。例えば、モーセが海を割って民を救った「奇跡」や、石を打って民に水を与えた「奇跡」などは、究極の救いを描く「一時的な」救いです。ですから、イエス様は「しるし」をとおして、①ご自身が「神のことば」を語る特別なしもべであることと、②神様が用意してくださる究極の救いに民がより頼むべきであることを私たちに教えようとしているのです。
本日の箇所では、イエス様の「最初のしるし」(2:11)が行われます。それまでは、自分の家族や、自分の弟子たちも、イエス様が行った「奇跡」を見たことがなかったということです。ですから、この箇所で行われる「しるし」は、イエス様の「デビュー曲」のようなものです。イエス様がどのように「最初のしるし」を行われたかをよく理解すると、イエス様がどのような救い主であられるのかもわかると思います。今日はこの箇所の流れを見て、覚えていただきたいことを三つにまとめてみたいと思います。
この前の箇所では、「イエスがメシアかもしれない」という噂が広まり、何人かの弟子がイエス様についていくようになりました。弟子たちには信仰の「種」はありましたが、まだ芽生えていない状態だったと言えます。イエス様とイエス様の母マリアは、ガリラヤのカナで親戚の婚礼に招待された可能性が高く、弟子たちも親戚の知人かイエス様の友人として招待されたかもしれません。つまり、イエス様はこの時点では、有名な預言者、「主賓」として招待されたのではなく、誰も知らない「最近、先生になった親戚のお兄さん」として招待されただけのようです。
習慣ややり方が違ったとしても、どの時代や、どの文化でも結婚式の雰囲気は似ている気がします。もちろん、結婚式のあとの宴会は、家族にとっても、結婚した2人の人生にとっても、特別で、最高のお祝いのときです。今までお世話になった人に感謝するときでもあり、おいしい食事やおいしいお酒が用意されます。そして、最初はかしこまった形で宴会が始まりますが、お酒が進むにつれて、場がなごんできて、自然に会話がはずみ、笑い、音楽、歌、踊りで宴会が盛り上がります。もっとお酒が進めば、宴会もにぎやかになりすぎて、荒れてしまうこともありますが、それも、宴会の1つの楽しみかもしれません。「お酒がないと楽しめない」というほど、どの文化でも婚礼のお酒というのは、宴会をなごませて人をつなげ、お祝いの喜びをさらに増し加えるものと見なされています。今でも、また当時の文化でも、このような飲み会は「罪人の溜まり場」だと見なす「宗教的な人」は多かったのですが、イエス様も、母マリアや弟子たちも、何のつまずきもなく普通に飲み食いしながら、そのような雰囲気を楽しんでいました。
しかし、致命的な問題が起こります。親戚の一人として、裏の事情を知っていた母マリアがイエス様に「ぶどう酒がありません」と言います。宴会でふどう酒がなくなることは、宴会のお祝いの雰囲気を完全に壊してしまうというだけではなく、花婿と花嫁、彼らの家族が、自分たちが今までお世話になった人たちの前で恥をかくという意味なのです。準備が足りなかったのか、予想以上の方々が来てしまったのか、理由は定かではありませんが、最高のお祝いのとき、それまでの喜びが、たったの一言ー「ふどう酒がありません」ーですべてが台なしにされます。皆さんは、人生の中で、そのような経験をしたことがありますか?
イエス様の母マリアがイエス様に助けを求めた理由は、具体的には書いてありませんが、はっきり言えるのは、マリアはそれまで、イエス様が奇跡を行ったのを見たことがなかったということです。しかし、同時に、主のみ使いの預言を信じて、処女としてイエス様を産んだマリアは、自分の子が特別な主のしもべになることを待ち望んでいたのです。その上、マリアの夫ヨセフが若くして亡くなってしまった可能性が高く、マリアは、夫の大工仕事を引き継いだ長男イエスに、夫の代わりとして何年も頼って来たとも思えます。そして、婚礼の場で、イエス様に弟子たちが従っているほど、預言者のような人物になっているのを見たマリアは、わくわくしていたかもしれません。親戚の家族が危機に陥りそうになったとき、心配性のマリアおばちゃんが「なんとかしてくれないか」と「主のしもべ」である、頼もしい息子イエスに無茶ぶりするような場面でもあります。
そして、(新改訳2017版とすこし違った訳ですが)イエス様はこう答えます。「女の方、このことは、あなたと私に何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」ちょっと冷たい反応ですね。なぜイエス様はこのように答えられたのでしょうか?「わたしのとき」というのは、イエス様がご自分の栄光を現わすときを指しています(ヨハネ17:1参照)。つまり、マリアが期待しているように、イエス様は、ご自分が神様の特別な主のしもべであると自覚されていましたが、ご自分が「預言者」としてデビューすることは、「わたしたちが選ぶ事ではない」と答えられたのです。「なぜ神様のタイミングを待たないのか。」と母を敬いながら、イエス様はマリアに注意されます。
しかし、イエス様が「わたしは何もしない」と言ったのにも関わらず、マリアは婚礼のウェーターたちにこう言います。「あの方が言われることは、何でもしてください。」話を聞いていなかったのか、せっかちなのか、母の愛なのか、わかりませんが、少なくともマリアにはイエス様に期待する熱い信仰がありました。 ある注解者(D.A. Carson)は、マリアの信仰は、マタイ15:21-28のカナン人の女のように立派な信仰だと言っています。なぜなら、マリアはカナン人の女のように、イエス様に「今ではない!」と注意されても、イエス様からの「食卓から落ちるパン屑」のような恵みでさえも、救いには大いに十分だと信じていたからです。母マリアの粘り強く、立派な信仰のゆえに、イエス様は動かれたのです。イエス様は、神様のタイミングを尊敬しつつ、ご自分のご栄光を派手に出すこともなく「奇跡」を行われるのです。
「ユダヤ人のきよめのしきたり」のための「石の水がめが六つ置いて」ありました。聖書では、汚れをおとす、水のきよめの儀式がありましたが、旧約聖書の先生たちが必要ないところで、神様が望まれていないところで、いろんなきよめの儀式をつくってしまいました。この六つの石の水がめは、その一つの例です。宴会につかう器具を水できよめるためにこの石の水がめに使われた可能性が高く、一つの水がめは80から120リットルの水を入れることが出来ました。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」とイエス様は言われました。宴会の真最中に、480リットルから720リットルぐらいの水を井戸から汲むことは大変なことです。そして、人々が頑張って汲んだ後、イエス様は水がぶどう酒に変わったことは告げずに、さりげなく「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言います。宴会の世話役はぶどう酒がなくなりそうになっていることで、パニック状態だったと思います。イエス様が何をされたか全く知らずに、ウェーターに差し出されたぶどう酒を飲んで、驚き、花婿を呼んでこういいます。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」 しかも、イエス様は、宴会の終盤のときに、ワインボトル約700本から1000本分のワインを用意されたのです。つまり、イエス様は、ただ、その宴会の雰囲気や家族の名誉を救っただけではなく、台無しになりそうだった婚礼の宴会を、イエス様の「しるし」によって、制限時間も、足らなくなることもない、最高級のワイン飲み放題に変えられたのです。世話役がそれをゲストに伝えたときから、宴会は更に盛り上がったことでしょう。
花婿も、世話役も、宴会のゲストの全ての人が、神様の御心通りにイエス様がなさったことを全く知りませんでしたし、イエス様の「栄光」も誰にも告知される事はありませんでした。しかし、マリアとイエス様の対話を聞いていた弟子たちは、これらを全て見たのです。「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)なんとなくイエス様を信じていた弟子たちも、「しるし」から輝くイエス様のご栄光を見て、イエス様がメシヤであることを確信できたと言えます。つまり、「奇跡」の第一の目的は果たされたのです。この「奇跡」によって、イエス様が特別な神のしもべであられることが証明されたのです。
すべての「しるし」は、これから来る究極の救いを描いているのですが、興味深いとは思いませんか。イエス様の最初のしるしは、「海を割る」ような派手なしるしではありませんでした。エリコの城壁を崩すような力強い救いでもありませんでした。海の上を歩いたり、死んだ人を生き返らせるようなドラマチックな「しるし」でもありませんでした。「ワインの飲み放題」を用意したというしるしです。イエス様はこの「しるし」を通して、何を私たちに教えているのでしょうか。
先ほど説明したように、ヨハネの福音書は、もし、私たちがイエス様を信じるなら、永遠のいのちを味わうことができると、私たちを説得しようとしているのです。色々な「しるし」や「証言」を用いて、イエス様がどのように「私たちの永遠のいのち」になられるのかを説明します。たとえば、イエス様は、水を汲んでいた一人の女性に、ご自分が「生ける水」(4:10)であられ、イエス様を信じるなら「いつまでも決して渇くことがない」と教えられます。そして、盲目な人を奇跡的に癒された時、私たちが御霊的に見えるように、「わたしが世の光です。」(9:5)とおっしゃいました。また、イエス様は飢えている5000人に奇跡的にパンを与えられたとき、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」(6:35)とおっしゃいました。そして、ラザロを死から蘇られせたとき、イエス様はこうおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(11:25)もしこのようにイエス様がしるしを用いて「私たちの永遠のいのち」について教えているのであれば、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。「私は、神様が最後まで取っておいた良いぶどう酒です」と、イエス様は、私たちに教えておられるのです。
この「しるし」の意味を三つの適用にまとめてみました。もし自分の人生を宴会に例えるのであれば、人生のふどう酒がなくなりそうになっても、イエス様はなくならないふどう酒です。
先ほど説明したように、ぶどう酒は、宴会を和ませたり、人と人とを繋げたり、お祝いの喜びをよりいいモノにする役割がある物です。人々の人生の「ふどう酒」で言うと、それはお金かもしれません。健康か美かもしれません。愛や恋かもしれません。また、仕事や仕事からの達成感かもしれません。家族かもしれません。それより、単純に、毎日の生きる喜びかもしれません。しかし、それらが突然なくなってしまうと、ふどう酒がなくなってしまった宴会のように、夢のようだった喜びから突然起こされてしまい、自分の喜びがどれほどはかないものだったのかに気付かされるのです。そして、人生におけるふどう酒が突然なくなってしまったときに、自分も、周りの人も恥をかいてしまうこともあります。そのようなとき、イエス様の母マリアのように、粘り強くイエス様に助けを求めることができます。「イエス様、私のふどう酒がなくなりました。なんとかしてください。」不器用な聞き方でも。わきまえのない言い方でも。イエス様の都合のわるいときであっても。ふどう酒のない宴会は緊急事態なので、イエス様も私たちのお祈りを聞いてくださいます。しかも、イエス様が与えてくださるぶどう酒はなくなりません。イエス様が1000本の最高級のワインボトルを宴会に持ち寄ってくださるように、イエス様ご自身は、私たちのいのちを永遠に盛り上げてくださる、尽きない喜びなのです。
しかし、イエス様はただの「ふどう酒」ではありません。イエス様こそが神様が最後まで取っておかれた、良いぶどう酒なのです。
イエス様は「きよめの水」を「宴会のワイン」に変えられました。その意味は、イエス様が与えてくださる恵みは、今までの恵みとは異なるということなのです。モーセから始まった古い契約では、自分で行うきよめや、律法を守ることによって神様の祝福を得るという約束でした。逆を言うと、律法を守ることができなかったり、丁寧に自分をきよめられなかったら、神様に呪われるという約束も含まれていました。モーセが怖くて震えるほど、恐ろしい約束(契約)でした(へブル12:21参照)。これが神様が最初に出された「恵み」です。しかし、イエス様が与えてくださるのは、「きよめの水」ではなく、「お祝いのワイン」なのです。イエス様にある新しい契約の恵みは、古い契約よりもはるかに美味しく、楽しい、充実感のある恵みなのです(ヨハネ1:16-17参照)。なぜなら、イエス様は、私たちの代わりに天の祝福を得るためのすべての条件を満たして下さったからです。ですから、私たちは最後の最後まで何も恐れる必要はなく、イエス様を「最後の良いぶどう酒」として飲み(ヨハネ6:53-57)、思いっきり祝うことができるのです。イエス様を信じる者は、生ける神の都である天のエルサレムで、無数の御使いたちの「喜びの集い」に加わる事ができる、イエス様のお祝いの婚宴に招かれているのです。「永遠のいのち」と「天国」は、静まった禅寺の庭で厳かに修行して、瞑想で悟りを得るような場所ではありません。イエス様の永遠のいのちは、ふどう酒と喜びにあふれた賑やかな祝宴なのです。
聖書では、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」(エペソ5:18)のような注意がいくつかあります。聖書はお酒に酔ってしまうことは強く禁じています。が、それでもイエス様はあえて、聖晩餐でご自分の血を良きぶどう酒に例えられました。
「みな、この杯から飲みなさい。 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」 (マタイ26:27-29)
イエス様が十字架で血を流された理由は、天国の最高の宴会で、ご自身によって流された血潮で罪赦された私たちとともに、最高のぶどう酒を飲みながら、永遠に過ごされるためなのです。イエス様は、「ぶどうの実からできた物を飲まない」とおっしゃるほど、その日を楽しみにされているのです。私たちもクリスチャンとして、その日を楽しみにしているでしょうか?
そして、最後に覚えていただきたいのは、「ふどう酒」はただのしるしだということです。イエス様のご栄光を現わすしるしです。ですから、イエス様を見失わないで、イエス様を信じて楽しみましょう。
イエス様がワインボトル1000本分のワインを用意されたとき、弟子たちはどうしましたか。ワインをがぶ飲みし始めましたか?ワインの次に、日本酒のしるしをお願いしたでしょうか?「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 」(ヨハネ2:11)弟子たちはしるしを信じたのではなく、イエス様を信じたのです。つまり、弟子たちは、奇跡的なほどおいしい「ふどう酒」を見たからではありません。弟子たちは、イエス様の栄光を現わす「しるし」を見たのです(ヨハネ6:26参照)。その様子を見た瞬間に、弟子たちの信仰の種が芽生えたのです。誰でも「しるし」の素晴らしさを受け入れることはできます。しかし、イエス様の栄光を見て信じるか、信じないかが決め手なのです。最後にイエス様のことばで締めたいと思います。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。… わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:53, 56-57)
クリスチャンの皆さん、イエス様の「しるし」を飲むよりも、イエス様「ご自身」を飲み、信じ、楽しみましょう。イエス様ご自身にこそ、まことの喜びといのちがあるからです。お祈りします。