2024年9月22日礼拝 説教「新しい神殿であるイエス様」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 黙示録21章22-23節, 22章3-5節
さ ん び Opening Praise 死を打ち破り
さ ん び Praise その日全世界が
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 讃美歌352番「あめなる喜び」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書2章12-22節
聖書の話 Sermon 「新しい神殿であるイエス様」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction クレイグ・ポール宣教師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますね。家のお掃除好きな人はいますか?掃除が好きな子供は、あまりいないと思いますね。では、汚くて、いろんなものが散らかっている部屋で遊びたい人はいますか?部屋を掃除しないと、楽しく遊べません!あるとき、私が子供たちと遊ぼうとしたとき、レゴピースが散らかっていて、それを踏んでしまって本当に痛くて、子供たちと遊ぶのをやめてしまいました。部屋を常に掃除していないと、楽しく遊べないし、他の人とも遊べませんね。神様とイスラエルが楽しく「遊び」、「交わり」をする場所は「神殿」というところでした。そして、神殿をきれいにするのは「神の民」の責任でしたが、彼らは神殿を全くきれいにせずに、自分勝手に使っていたのです。きれいにしていないと、非常に悲しいことが起こります。私がレゴピースを踏んで、子供たちと遊ぶのをやめてしまったように、神殿が汚すぎると、神様が神の民と交わってくださらない可能性があるのです。

 

ですから、イエス様はきれいにされていない神殿についたとき、「神様の家を早くきれいにしなさい!神様はもう交わってくだらないよ」と注意されました。しかし、神の民は、私たちのように、頑固な面倒くさがり屋です。そのため、神様は神の民とはもう交わってくださいませんでした。私たちも同じです。ですから、イエス様は私たちと神様の関係を救うために、新しい神殿を造ってくださるのです。思いっきり神様と時間を過ごしても、絶対に汚くならない、最高の神殿を造ってくださるのです。イエス様が新しい神殿を造ってくださるので、私たちは頑固な面倒くさがり屋でも、神様との関係を持てるのです。感謝ですね。今日の聖書箇所をゆっくり見ながら、その意味を見ていきたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記してあります。この「客観的な」歴史の記録には、ヨハネの「主観的な」目的が二つあります。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうか、という三つの選択肢があります。

ヨハネの福音書が記録している証言の中には、イエス様が行われた「奇跡」について証しされています。この前の話は、イエス様がとんでもない量の水をワインに変えたことによって、イエス様が「私はあなた方の想像以上に楽しいんだよ!」と私たちに教えてくださったことを見ました。飲み飽きてしまうような普通の「お酒」よりも、「私が用意する「良いぶどう酒」を飲んでみたらどう?」と、私たちをご自分の宴会に招いておられる、という話でした。本日の箇所は、イエス様が新しい「しるし」を示唆しています。話の流れを確認しながら、皆さんに覚えていただきたいことを、三つにまとめてみたいと思います。

 

旧約聖書では、「神殿」というのは、旧約の信仰の中心とも言えるぐらいに大事な場所でした。神殿は「神様の家」と呼ばれていましたが、神様に「家」が必要だったからではありません。神殿は、神様と神の民との親しい関係を表していました。新しい夫婦が親しい生活を始めるときに新しい「家」に住むように、神様が神の民と親しく歩まれ始めたとき、新しく親しい関係の現れとして「神殿」を建てられました。そして、その「神殿」で、生贄をささげながら、また、神のみことばを聞きながら、神様と民は深く親しい交わりを持ったのです。つまり、夫婦が関係を築く場が「家」であるように、神殿は、神様と民の関係を築く場だったです。

旧約聖書を信じるユダヤ人は、神様がくださった救いを祝う過ぎ越しの祭りを非常に大事にしていました。なぜなら、過ぎ越しの祭りは、ある意味、神様とイスラエルの親しい関係が始まるきっかけでもあったからです。過ぎ越しの祭りのとき、イエス様と弟子達は多くのユダヤ人たちと同じようにエルサレムに上り、神殿で生贄を捧げて、神様との深く親しい関係を楽しもうとしました。

 

その当時、ユダヤ人たちはローマ帝国のあらゆるところで住んでいたので、生贄の為の動物たちを連れて行くよりも、エルサレムに着いてから、「牛や羊や鳩」を買って、神殿で捧げる人たちが多かったです。そして、ローマ帝国にはいろんな通貨があって、神殿に献金する場合、神殿に捧げることができる通貨に替える必要がありました。この前、ある方がめぐみ教会にアメリカのドルで献金してくださったのですが、私たちは日本円に替える必要がありました。つまり、「牛や羊や鳩を売っている者たち」と、「座って両替をしている者たち」は、礼拝をお手伝いする人たちだとも言えました。しかし、イエス様は突然、「細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない!」 なぜ、イエス様はそうおっしゃったのでしょうか。

 

それまでにも、神殿の周りにはそのような店があって、神殿に向かう信者たちは、そのような店で必要な動物を買ったり、献金のために両替をしていました。そういう店が「神殿の中」で出店できたのは、神殿の管理者である祭司たちが許していたからです。そして、神殿の祭司たちが、過ぎ越しの祭りという繁忙期にそのような場所を無償で提供するとは、考えにくい事です。要するに、神殿の管理者たちは、神様と神の民の交わりを守る事よりも、金儲けを優先していたのです。その上、「モーモー」「メーメ―」と鳴いている牛や羊、大勢の人々がいろんな言語で熱く値段交渉する様子などを想像すると、神の民が神様に集中して交れるような場ではないと思うのは当然なことです。新婚の夫婦が幸せな夫婦生活を期待して買った家が、突然「商売の家」になってしまい、店を運営することでいっぱいいっぱいで、夫婦の会話もない日々が続くようなことです。しかし、これはご主人である神様がなさったことではありません。神様以外のことに心を惹かれてしまった、奥さんである神の民が、神様との関係を築くよりも、その関係を「ビジネスチャンス」として利用してしまったからです。これは本当に悲惨な関係です。ですから、弟子たちは、詩篇69篇9節を引用して、イエス様の様子を「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と描写したのです。つまり、イエス様は神様に対する熱い愛をもって、「なんで私と神様の交わりを邪魔するんだ!関係のない人はこの家から出ていけ!」と言いながら、神様と神の民との親しい関係を守るために、家をきよめ、神様との関係を築きなおそうとされたのです。

 

ある人は、イエス様のやり方はやりすぎだと思うかもしれませんが、ユダヤ人の答えを聞くと、彼らはそう思わなかったようです。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」(2:18)例えば、イエス様が罪を犯したのなら、誰かが彼を訴えることもでき、神殿の管理者か、ローマ兵が彼を逮捕することもできました。しかし、そのようなことはありませんでした。そして、イエス様がおっしゃったことに対して、ユダヤ人は何も言い返せませんでした。それどころか、何も否定出来ませんでした。なぜなら、イエス様は神様の熱心さ、ねたみ、怒りを自分のものにされ、御言葉通りに行動されただけだからです(民数25:11参照)。最後に、ユダヤ人がイエス様に「どんなしるしを見せてくれるのか。」 と質問したことによって、彼らがイエス様に何かしらの権威を認めていて、「この人は預言者かもしれません」とうっすら思っていたので、イエス様にしるしを求めた事が伺えます。しかし、なぜユダヤ人は自分たちの罪を否定しなかったのでしょうか?

 

神殿は、神様と神の民の関係を表すものです。神殿を維持するために、人、時間、お金をかけなければならないように、神様との関係を維持するために、神の民は自分たちの力、時間、労力を犠牲にしなければなりません。そして、神殿を放置してしまうと老朽化によってボロボロになっていくように、神様との関係を放置してしまうと、その関係もボロボロになってしまいます。旧約聖書の中で、神の民であるユダヤ人は神様と特別な関係が与えられましたが、神様との関係を放置してしまいました。その他の神に惹かれたり、忙しくなったり、生活が潤って神様を忘れてしまったり、理由は様々ありましたが、結果は同じでした。神様との関係を放置してしまい、その関係がボロボロになってしまったのです。

 

その結果、放置された神様は、神の民に「離婚届」を出され(イザヤ50:1、エレミヤ3:1)、ボロボロになった神殿を離れて(エゼキエル10-11)、異教の民によって神殿が破壊されるのを許されました(第2列25章、第2歴36章)。裏切られた夫が、今まで生活していたマイホームから出て、別居するという意味合いです。もし妻である神の民が悔い改めなかったら、神様は神の民に戻らないという意味です。神の民は、自分たちの罪を悔い改め、神様に立ち返り、神様との関係を回復させていただき、神殿を立て直そうとしましたが、二つ目の神殿は前の神殿ほど美しいものではありませんでした。また、彼らの、悔い改めも長くは続きませんでしたし、神様との関係は本質的に変わりませんでした。何の愛情も親しさもない、「形だけ」の夫婦関係のようなものでした。ですから、金儲けのために、神殿を「荒く」使っていた様子もその表れだと言えます。そのため、神様との関係と神殿を放置し続けた歴史を知っていたユダヤ人たちは、イエス様の訴えを否定しませんでした。

否定はしませんでしたが、プライドで頑なになっていたので、「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるんだ。」 とユダヤ人はイエス様に訴えました。その時のイエス様の回答は非常に興味深いものでした。まず、「この神殿を壊してみなさい。」(2:19)とおっしゃいます。誰が神殿を壊すのでしょうか?イエス様ではありません。ユダヤ人達です。最終的に、神様のさばきによって紀元70年に神殿は破壊されるのですが、それはユダヤ人達の罪の結果によるものでした。裏切られた夫が家を出ることになったとしても、その夫婦関係を壊したのは、裏切った妻だということです。

 

「形だけ」の関係で満足していたユダヤ人は、「形」だけにこだわります。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あんたはそれを三日でよみがえらせると言うのか。」 つまり、「私たちは46年間もかけて、頑張ってこの立派な神殿を立てた。あんたにそれができるのかい。」と自分たちを正当化しているように聞こえます。要するに、神の民は、神様との関係を放置してボロボロにしてしまったことや、その事について何とも思っていないことに、全く気づいていなかったのです。何十年もの間、インティマシーも愛も信頼もなかった夫婦が、離婚危機に陥て「46年も結婚しているのに何が問題なの?」と、浮気をした方が相手に対して開き直るようなことです。「形だけ」の関係で満足してしまうなら、「形」だけにこだわってしまいます。そうであれば、神の民が、神様との関係を破壊するのは確実です。

 

しかし、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」とイエス様は言われました。 イエス様が行われる「しるし」とは、神殿を三日後にー直訳すると「立ちあがらせる」、または「よみがえらせる」という意味です。神の民が破壊された神殿を「建て直す」という意味ですが、その真意は神の民の罪によって、死んでいた神様との「関係」をよみがえらせ、新しくするということです。そして、その手段がイエス様の復活なのです。

 

イエス様の死からの復活は、神殿の建て直しと、神様との関係の回復にどう繋がるのでしょうか?シンプルに言うと、その理由は二つあります。まず、「神殿」は、神様がくださった私たちの「体」を表しているからです。旧約聖書では、神殿は、私たちと神様の関係を築く「場」を表していますが、最終的に、神様は私たちと直接関係を持ってくださるので、私たちの「体」が、私たちの「神殿」だと言えます(1コリント3:16, 6:19)。次に、神殿または建物を維持しないとボロボロになってしまうように、もし神様との関係を維持しなければ、神様との関係も壊れてしまいます。それゆえ、汚れのない、罪のない、愛に満ちた「体」を持たなければ、神様との関係を持つこともできないし、神様の霊も私たちの中に宿る事は出来ないのです。しかし、イスラエルの歴史や、自分たちの人生をみれば、私たちが自分勝手な生活で「神殿」を壊してしまい、神様との関係を放棄してしまうのは明確です。神様との良い関係を築く事が、私たち自身にかかっているなら、神様は確実に私達の神殿から出て行かれるでしょう。

 

イエス様は、神様と私達の関係を救ってくださるために、二つの事をしてくださいました。私たちの「古い」、「汚れた」、「罪によって破壊」された「からだ」を十字架で廃棄してくださいました。そして、「新しい」、「きよい」、「義によって回復された」復活の体を、私たちのために獲得してくださったのです。イエス様の蘇りのからだが、私たちの「からだ」、私たちの「神殿」になるのです(エペソ2:20-22; 黙示録21:22参照)。そして、それは、感謝なことに、イエス様の完璧な歩みによって建て直された「神殿」「からだ」なので、私たちの罪、私たちの無関心さ、私たちの頑なさによって、神様との関係が破壊されることはありません。むしろ、イエス様の復活によって、私たちが経験したことのない、喜びに満ちた神様との永遠の関係を持つことができるのです。そのため、神殿がない所での神様との関係が成り立たないように、イエス様の復活のないキリスト教は成り立ちません。

 

本日の箇所から、覚えていただきたいことは三つあります。まず、一つ目のポイント。維持されていない建物のように、神様と人との関係も、そのままでは古びて壊れてしまいますが、神様と人間との関係は、冷めたい「形」だけのものではなく、熱い「愛」で保たれるのです。

 

時間をかけて愛情を注ぎ、犠牲を払わなければ、関係は築けません。何もしなければ関係は自然に冷めて老朽化してしまいます。これは親子関係、夫婦関係、兄弟関係、教会関係にも当てはまる事ですが神様と私たちとの関係においてはどの関係にも勝って言える事です。神様は忍耐深いお方ですが、神様をぞんざいに扱うことは、「無関心」という憎しみを神様に対して抱く事だとも言えます。私たちは、神様との関係をどのように放棄してしまっているでしょうか。

本日の箇所を読むと、神の民は熱心に関係を保とうとしています。ローマ帝国のあらゆるところから大勢の人が神殿に集まり、生贄を買い、献金を捧げ、礼拝しようとしています。ユダヤ人達は長い年月をかけて、犠牲を払って、愛情を注ぎ神殿を再建しました。しかし、神様はこうおっしゃいます。「わたしが喜びとするのは真実の愛。 いけにえではない。 全焼のささげ物よりむしろ、 神を知ることである。」(ホセア6:6)

夫婦関係に例えると、頻繁にデートしているか、何時間も話しているか、相手のために犠牲を払っているか、神様は私たちの表面的な行動だけを見ておられません。私たちが神様をそもそも求めているのか。私たちはを愛し、誰に惹かれているのか。私たちの心、私たちの目は、どこに向いているのか。神様は、本質的なところを見ておられます。自分の人間関係において、神様との関係において、私たちは「形だけ」の冷めた関係で満足していないでしょうか。「形だけの愛」で自分たちの関係を保とうとしていないでしょうか。

 

イエス様は私たちの冷めた「形だけの愛」で満足されません。むしろ、イエス様は、細縄でむちを作って、あなたの「宮」、あなたの「神殿」から、羊も牛もみな追い出され、両替人の金を散らされ、 いらないものを倒され、「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と熱心に叫ばれるのです。冷めた「形だけの愛」はいりません。私たちから熱い「真実の愛」、私たちの「ハート」を求めておられ、「神様だけをみなさい!」とおっしゃっているのです。

 

ここで二つ目のポイントに繋がります。「私たちは自分たちの神殿を守るか、イエス様の神殿により頼むか、選ばないといけません。」

 

最終的に、イエス様の問いかけを聞いたユダヤ人は、自分たちの力で作った神殿を守ろうとしました。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」 (2:20)私たちもそうではないでしょうか。「形だけ」かもしれませんが、一生懸命何十年も築き上げた人生なので、手放しがたいところがあります。

 

しかし、まず、認めないといけないのは、私たちがどれほど熱心に神様を慕い求めようとしても、イエス様にはかないませんし、イエス様ほど隣人を愛することはできません。弟子たちは、イエス様の熱心さをみて、「私もイエス様になろう」とは言いませんでした。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こし、イエス様の熱い「真実の愛」に圧倒されたのです。私たちもイエス様の熱心さに圧倒されているでしょうか?神様に対するイエス様の愛にはかなわない事を認めますか?

 

イエス様が建てられる神殿、イエス様が造り上げた「永遠のいのち」と「復活の体」は、私たちが築き上げる人生よりもはるかにいいので、変なプライドを持つ必要はないのです。もしそうであれば、自分たちが築き上げた「人生」にしがみつく必要があるでしょうか?

 

しかし、そう言われても、自分たちが築き上げた「人生」を手放すことは非常に難しいです。弟子たちも同じでした。ですから、最後のポイントは、もっとも重要なことかもしれません。それは、イエス様の死と復活を受け入れなければ、イエス様のことばと救いは信じることができない、ということです。

 

パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく...キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。」(1コリント15:16-18) と言っています。イエス様がもし蘇られなかったのなら、イエス様の神殿の話は「良いお話」、「熱心なイエス先生の教え」、「人生におけるいいアドバイス」と片づけられてしまうと思います。弟子たちも、この話を初めて聞いたとき、そのように聞いたかもしれません。

 

しかし、弟子たちはこう言います。「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。」(ヨハネ2:22)自分たちの先生が十字架にかけられ、完全に死なれ、三日後に蘇られたとき、イエス様のことばの重み、イエス様の救いの偉大さ、イエス様がくださる「永遠のいのち」の理解がガラッと変わりました。このように死から蘇った人はいません。イエス様の蘇りがあったから、弟子たちはイエス様の救いを「本当の意味」で信じることができました。

 

ヨハネの福音書は、クリスチャンのために書かれています。私たちが、イエス様の復活を事実として受け入れる時、イエス様に対する思いはどう変わるでしょうか?イエス様が復活されたのなら、自分の人生に対する愛着はどう変わるでしょうか?イエス様が復活されたのなら、イエス様がくださる「救い」の理解はどう変わるのでしょうか?180度変わると思います。ふわっとしていたもの、モヤモヤしていたものが、はっきりした、輝かしい、揺るがない希望になると思います。復活されたイエス様を仰ぎ見ながら、イエス様の教えを信じていきましょう。お祈りします。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church