2024年9月29日礼拝 説教「私は乏しいことがありません」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 黙示録7:9-12
さ ん び Opening Praise 詩篇100篇
さ ん び Praise 大いなる方に Give Thanks
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 詩篇歌 2A
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇23:1-6
聖書の話 Sermon 「私は乏しいことがありません」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌188番「主はわがかいぬし」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますね。一番簡単で、誰でもできるクリスチャンらしいことは、何でしょうか?考えてみてください。それは、「祈る」ことです。聖書を読んで理解する前に、歌を覚えて歌う前に、牧師先生の話を理解できる前に、みんなの前で信仰告白する前に、お祈りはできます。2歳の子供でも、目をとじて、手をくんで、「神様、感謝します。アーメン。」と言えますよね。「ことば」を話すことができれば、クリスチャンとしてもう「お祈り」ができるのです。

 

また、子供たちのみんなは、どのように祈れるようになりましたか?クリスチャンのお父さんやお母さん、教会学校の先生やヘルパー、教会のお兄さんやお姉さんのお祈りを聞いたり、同じことばを使ったりして、祈れるようになったと思います。聖書に書いてあるお祈りを暗記している人はいますか?例えば、「天にいます私たちの父よ…」ではじまる「主の祈り」は、子供たちもぜひ今日の詩篇23篇を読んで覚えてみてください。もし、先生のお話がわからなくなったら、23篇を絵に描いてみましょう。

 

詩篇23篇は非常にわかりやすくて短いお祈りですが、この祈りを、「自分の祈り」とするのは、実は非常に難しいのです。まず、いろんな物が必要で、お腹がすいているのに「主は私の羊飼い。私は必要なものをすべてもらっています。」と祈ります。また、いろんな怖いことや、危ないことが起こって、いろんな心配があったとしても、「私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」と見えない神様に祈るのです。そして、持っているもの全部を失いそうなときや、失敗しそうなときでも「神様は、私の前で勝利のお祝いを準備してくださいます。いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。」と祈るのです。詩篇23篇は、子供でもわかるような「簡単」な祈りのようですが、実は、難しい「大人の祈り」なのです。なぜこれが「大人の祈り」なのか、なぜ暗記して祈る価値があるのかを一緒に学んでいきたいと思います。

 

まず、聖書の「詩篇」を初めて読む方がいらっしゃるかもしれないので、詩篇という書物の簡単な説明をします。よく教会には、有名な讃美歌が書かれている「讃美歌集」が置かれていますね(海浜幕張めぐみ教会は「教会福音讃美歌」をよく使います)。そして、多くの教会は、毎週、その本から歌う賛美の歌を選び、会衆として共に歌います。「讃美歌」というのは、歌ですが、内容としては、「祈り」なのです。多くの場合、讃美歌の内容は、まず、神様の前で、自分が抱えている悩みや罪を打ち明け、いただいた救いが何であるかを思い出し、希望をもって歩むことを確信するという流れです。そして、子供からお年寄りまで、同じ讃美歌を歌うことによって?祈り、一つの会衆として祈り歩むことを表しているのです。

 

「讃美歌」という概念は、聖書からくる概念です。なぜなら、聖書の中に「詩篇」という「讃美歌集」があり、150の詩篇が書かれています。旧約時代では、詩篇を自分たちの「讃美歌集」として使っていました。そして、実は、初代教会から4世紀の終わりまで、教会は詩篇だけを歌っていました。16世紀の宗教改革のはじめから200年も、プロテスタントの教会は、日曜礼拝で詩篇歌だけを歌うのが主流でした。先ほど、この説教の前に詩篇歌を歌いましたが、教会は、なぜ主に詩篇を歌っていたのでしょうか?それは、聖書のことばをよく覚え、よく知り、よく吟味するためでした。詩篇を知れば知るほど、主が望まれるような、み言葉で満ちあふれた「成熟した大人の祈り」ができるようになるのです。

 

讃美歌集にいろんなジャンルの歌があるように、詩篇にもいろんなジャンルがあります。6月の第5週で学んだ前回の詩篇ー詩篇13篇ーは、自分の難しい状況をみて、主に嘆き、助けを叫び求めるような祈りでしたが、今回の23篇は、順序としては逆です。まず、神様を見て、自分の難しい状況を見る祈りです。順序を変えただけで、祈りの難しさがぐんと上がります。子供と大人の例えで言うと、はじめて遊園地の乗り物に乗った子供が、怖いところだけを見て「お父さん、助けて!」と叫びます。しかし、乗り物に乗ったことのある大人は、怖くても、1周したら終わることを知っているので、前を向いて、その乗り物を楽しむことができます。それが13篇の祈りと詩篇23篇の祈りの違いかもしれません。

 

23篇の中には三つの祈りに分かれていますが、三つとも、神様のご性質を確信し、自分の状況と向き合うような祈りです。ここで、詩人は神様のどういうところを見ているのでしょうか?それを見ていきたいと思います。

 

まず、最初の2節から最初の祈りを読むことができます

主は私の羊飼い。 私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。(23:1-3)

ここでは、イエス様はすべてを備えてくださる羊飼いであり、私を必要を満たす場へ導いてくださる、と祈っています。3節には、いつも戸惑ってしまう文があります。「私は乏しいことがありません」なぜ私は戸惑うのでしょうか。それは、私にはこの詩人のようには全く感じられないからです。すべての面において常に「足りていない」、「これが不足している」、「欠けだらけだ」と感じてしまいます。もっと時間がほしい。もうすこしお金がほしい。もうちょっと楽しみたい。愛をもっと感じたい。もうすこし自分を成長させたい。しかし、ここで作者は「私は乏しいことがありません」ーつまり、すべてが満たされているーと断言してしまっています。私は、この節はなかなか自分のことばとして祈ることができないと感じてしまいますが、皆さんはいかがでしょうか。

 

しかし、原語を読むと、そして、3節まで読むと、なぜ作者がそこまで言えるのかがわかります。これから主が私を「緑の牧場に伏させ」てくださる。これから主が私を「いこいのみぎわ」に導いてくださる。これから主が私の乏しいたましいを生き返らせるために、私を導いてくださる。つまり、「今、乏しさを感じていない」という祈りではありません。イエス様という良き羊飼いが、グーグーお腹がなっている私たちのために、必要が満たされるところへ導いてくださっている、という祈りなのです。私たちは今、その道を歩いていて、現在進行形なのです。ですから、安心して、「私は乏しいことがありません」と祈れるということです。

 

例えば、生後1か月の赤ちゃんは全身全霊で泣きわめくときがあります。怒りの泣き声のような、パニック状態です。しかし、乳児がそのように泣いているからと言って、悪いのはお母さんなのでしょうか?お母さんがミルクを用意しているかもしれません。お母さんがげっぷをさせようとしているかもしれません。おむつを替えている途中かもしれません。赤ちゃんは、お母さんがもうすでに面倒を見てくれていることが認識できないから、泣きわめいているのです。子供が少し大きくなれば、お腹がすいていてもお母さんが食事を用意していることが分かります。お腹がグーグーなっていても「わ、おいしそう!楽しみ!」と言えるのです。これが23篇の「大人のお祈り」だと言えます。

 

イエス様は、今、私たちのためにどのようなことを用意してくださっているのでしょうか?まず、体を養い、疲れをほぐす「緑の牧場」と、おいしいお水のある「憩いの水」を用意してくださいます。次に、私たちの精神を休ませ、私たちのたましいを生き返らせるような「憩い」と平安をもたらす場へ導いてくださいます。そして、最後に、自分と自分の周りを破壊してしまう罪深い傾向を取り除き、私たちを回復と最善の楽しみへと導くために、「義の道」をも教えてくださいます。イエス様は、私たちの「体」、私たちの「霊」、私たちの「生き方」に必要なものをすべて備えてくださるのです。イエス様は、ふわっとした、神秘的で、哲学的で、宗教的な先生ではありません。イエス様は、具体的な形で、体をはって、私たちを直接的に支えてくださる羊飼いなのです。 詩篇23篇を祈る人は、自分の乏しい状況を見ているのではなく、イエス様がこれから導いてくださる「最終目的地」を見ているのです。

 

「マークさん、私たちは最終目的地を見ることもできませんし、『緑の牧場』、『憩いのみぎわ』、『義の道』も全然イメージできません。イエス様がどのように私の必要を満たしてくださるのかも全くわからないです。今が辛すぎて、そんな話は聞きたくありません」と思う方がいらっしゃるかもしれません。

新約聖書の中には、詩篇23編を引用している箇所は、実は一つしかありません。それは黙示録7:14-17です。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。 御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

大きな患難を通って疲れ果て、傷だらけの人達とは、私たちのことです。そして、私たちの「最終目的地」は、イエス様の御座の前なのです。御座に座っておられるイエス様は、子羊でありながら、私たちの大牧者なのです。子羊であるゆえに、すべての面において同情してくださる大牧者です。それゆえ、大牧者が、ご自分の血を流され、私たちの罪を洗い、私たちを白くされたのです。私たちが飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、私たちを襲うことないように、イエス様が「憩いの場」を確保してくださり、永遠のいのちの水である聖霊様へと私たちを導いてくださいます。そして、すべての悪をさばかれたことによって、イエス様は、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださいました。イエス様が私たちをこの「現実」へ導いてくださるので、「私たちは主は私の羊飼い。 私は乏しいことがありません。」と祈ることができるのです。いかがでしょうか?私たちは自分たちの「最終目的地」であるイエス様の御座を見て、祈っているでしょうか?

 

私たちがどれほど「最終目的地」を見て祈っているとしても、変わらないことは、私たちがまだそこに着いていないこと、私たちがまだ大患難の真っただ中にいるということです。4節の祈りは、こう続きます。

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

ここでは、イエス様は、ともに歩んでくださる羊飼いであり、すべての悪から私たちを守ってくださる、と祈っています。

 

「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても」は、またまた難しい祈りだと思いませんか?谷は、二つの崖の間か、山の間を歩むことですが、そこには大きな岩などがあるので「陰」ができます。そこには盗賊や狼やクマなどの危ない敵が潜んでいて、自分のいのちが奪われる可能性もあります。「死の陰の谷」とは、「『死』が陰に潜んでいる谷」という意味です。「わざわい」は「悪」と訳すこともできるので、悪質な存在が陰の中に潜んでいると解釈することもできます。「敵」「悪」「死」それ自体が怖いものかもしれませんが、それ以上に怖いのは、「陰」を見るたびに、敵がいてもいなくても、緊張し、不安や恐れ、パニックを常に感じてしまうようなことです。

 

長い道のりをたどって「緑の牧場」や「憩いのみぎわ」へ向かう時、誰でも平たくて安全な道を歩みたいのは当然です。しかし、もうこの時点で作者は「死の陰の谷」を歩む覚悟をしています。なぜなら、「敵」や「死」が存在しない道はないとわかっているからです。しかし、もっとすごいのは、「死の陰」を見るたび、「私はわざわいを恐れません」と、告白できることです。「あなたが ともにおられますから」と理由付けしています。頭で理解はできますが、やはり自分の肌で感じることができないので、変な例えを思いつきました。私たちはいつも「緑の牧場」や「憩いのみぎわ」のような観光地へ行くために、飛行機に乗ってそこまで行くことがあります。飛行機に乗ることを恐れる人はあまりいませんが、冷静に考えればとんでもなく危ないことをしていますよね?私たちは、数トンの重さのある金属の筒に約200人の乗客と共に缶詰めにされ、地上から12キロ(スカイツリー19個分)の高さの上空で、時速800キロメートル以上の猛スピードで空を駆け抜けます。強力なエンジンと複雑な機械の絶妙なバランスによってのみで安全が保たれていて、ほんの小さな人的なミスで全てがダメになる恐れもあるのです。しかし、私たちは恐れることなく飛行機を利用します。なぜでしょうか?それは、パイロットや整備士が丁寧にすべてを確認し、守ってくれることを信頼しているからです。それと同じように、私たちも、「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても」、イエス様がともにおられることを知っており、イエス様を信頼しているので恐れる必要はないのです。

 

では、なぜ恐れる必要がないのでしょうか?「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」羊飼いのむちと杖は、羊を守る道具で二通りの使い方があります。一つは、羊が自分でおいしそうな草を見つけようとして、危ないところへ行こうとしたとき、その道を正す使い方です。つまり、羊を自分の愚かさから守ることです。もう一つは、狼や獅子が羊を狙って襲おうとするとき、それを追い払う使い方です。「それが私の慰めです」とありますが、ただの「むちと杖」が慰めなのではなく、「あなたのむちと、あなたの杖」が慰めになるのです。

 

イエス様はこのようにご自分のことを説明されました。

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます… わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:11-15,27-28)

 

イエス様の杖は雇い人の杖とは違います。良き牧者の杖です。それゆえ、イエス様のむちと杖は慰めなのです。十字架でご自分のいのちを捨ててくださるほどに、イエス様は私たちを命がけで守ってくださいます。全ての敵、全ての悪、死をもたらす全ての物に立ち向かい、ご自分のむちと杖を振りながら、「だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」とおっしゃいます。ですから、私たちは恐れません。

 

いかがでしょうか?私たちは、この人生という「大患難」を通っている中で、「陰」に潜んでいる「悪」を見て恐れてしまう時、私たちに先立って歩まれている良い牧者の杖を見て、「死の陰の谷を恐れない!」と祈れるでしょうか。杖を持っておられる良い牧者を見ることは非常に難しいとは思いますが、それ故に、詩篇23編を暗記する価値があります。なぜなら、私たちは自分の恐れに捕らわれてしまい、イエス様がどういうお方なのかを忘れてしまうからです。恐れて、怖がっている皆さん、イエス様はあなたにとってどういうお方でしょうか?

 

しかし、大牧者の杖を仰ぎ見ながら「大患難」を忍耐し続けるのは、あまり楽しくないと思います。ですから、23篇はこのように締めくくります。

5  私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。

6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

ここでは、たとえ敵に囲まれていても、イエス様が私たちに勝利の祝宴でもてなしてくださる羊飼いであると信じ祈ることです。大患難の中や、死の陰の谷を歩んでいるとしても、クリスチャンはただ「生き残ろう」としているのではありません。イエス様は、私たちがそのような患難の中や死の陰の谷の真っただ中であっても、敵の前で、私たちのために大ご馳走を用意してくださり、パーティーのために私たちを香油で洗ってくださり、私たちの杯をおいしい飲み物で溢れさせてくださるのです(もちろん、これはお水ではありません)。これはどんな状況でしょうか?イエス様は、勝利の祝宴で私たちにもてなそうとしくださるのです。

 

旧約聖書では、王様は羊飼いに例えられていますが、どんな王様が、敵の前で、このような勝利の祝宴を開くことができるでしょうか?敵を完全に圧倒した王様。敵よりもはるかに強い王様。無限の富を持っていて惜しげもなくご自分の民を祝福する王様。それは、私たちが敵に囲まれていたり、死の陰の谷を歩んだりしていながらも、「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)としてパレードしているようなことです。完全な余裕をもって、大患難を楽しんでいるのです。毎週行われている礼拝や交わりは、その勝利のパレードの延長線上なのです。毎月行われている聖餐式は勝利の祝宴なのです。私たちはただ「生き残る」ために礼拝するのではありません。イエス様が勝ち取られた勝利をお祝いし、味わうために礼拝するのです!

 

私たちはなぜ、この世の「空気」を読むこともなく、のんきにこのように歩めるのでしょうか?私たちの心は罪だらけです。いろんな欠点があります。やりたいけど、できないこともあります。自分が思うようには、上手くいかないかもしれません。自分の人生を見ても、何かを勝ち取ったわけでもないように感じます。むしろ、私たちは、義の道から遠く離れてしまって、戻ることもできずにさまよっている一匹の羊のようです。しかし、たとえ私たちがさまよっているとしても、良き羊飼いであるイエス様の「いつくしみと恵みが私を追ってくる」ことを私たちは確信しています。イエス様は、いなくなった一匹を見つけるまで探し続けられたように私たちを探してくださり、私たちを見つけ出してくださいます。そして、私たちを喜んでその肩に担いでくださり、家に戻って友だちや近所の人たちを呼び集め、「一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言われるのです(ルカ15:4‐6)。

 

この詩篇は、1‐3節に書かれていた私たちの「最終目的地」で終わります。「私はいつまでも 主の家に住まいます。」イエス様は最終的に私たちを天の「主の家に」連れて戻ってくださいます。イエス様は、何千万のみ使い達を勝利の祝宴である「喜びの集い」(へブル12:22)に招集し、天の婚宴(黙示録19章)で、花嫁である私たちが救われたことをお祝いしてくださるのです。私たちが、「緑の牧場」「憩いのみぎわ」である「主の家」で、復活によっていただく新しい「体」と新しい「たましい」をもって、イエス様との永遠のいのちを楽しむ、その「現実」が、この祈りの最後の一説なのです。まさしく、これからいただく勝利を、、私達は大患難のただ中で味わっているのです。

この世での歩みが険しい「死の陰の谷」であることには変わりませんが、それでも私達は、イエス様との「永遠のいのち」を今、楽しむことができます。楽しくイエス様と歩みたいですか?「大人の祈り」とは、「死の陰の谷」で、イエス様との歩みを楽しむことです。ぜひ詩篇23篇のことばをもって、イエス様の勝利の祝宴に入り、イエス様の大ご馳走を食べ、イエス様の香油を受け、イエス様の最高のワインを楽しんでください。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church