2024年10月6日礼拝 説教「足を引きずりながら、神に勝つとは」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌1番「聖なる聖なる聖なるかな」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌307番「イエスの血に洗われ」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          創世記32章1-32節

聖書の話        「足を引きずりながら、神に勝つとは」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise教会福音讃美歌129番「暗闇に輝く灯」

聖晩餐式 Communion  マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction   マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

みんなに質問です。もし、食べたいお菓子が一つしかなかったら、誰が食べるかをどうやって決めますか?多分、じゃんけんをしますよね。人は「勝負」で決めることが多いです。「子供みたいだな」と思うかもしれませんが、実は大人になっても、大事なことを決めるときは、何らかの「勝負」で勝ち負けを決めます。みんなが行きたい大学があれば、学生たちは同じテストを受けて「勝負」し、点数で勝ち負けを決めます。クラスの中でも、友達の間でも、仕事場でも、人の目を引きたかったら、人は「見た目」「服装」「やさしさ」「面白さ」「空気を読む力」などで勝負をします。この世界では、世界一の「スポーツ選手」、世界一の「科学者」、世界一の「YouTuber」などをどのように決めますか?スポーツだったらオリンピック。科学だったらノーベル賞。YouTuberであれば再生回数。そのような「勝負」で、大人でも本気で戦って勝ち負けを決めます。特にみんなが一番欲しいと思うようなもののために。子供でも大人でも、自分の頭、自分の体、自分の言葉、自分のすべてを使って戦い、自分が勝利者にふさわしいとみんなに見せようとします。

子供たちにもう一つ質問します。もし天国が最高の場所で、みんなが行ってみたい場所だとしたら、勝負しないでも入ることができると思いますか? 実は、天国に入るためにも勝負が必要なのです。しかし、天国に入るためには、いったい誰と勝負しないといけないのでしょうか?聖書のヤコブは、周りの人と競争して勝たないといけないと思っていたようですが、神様はヤコブにこうおっしゃいました。「天国は私のものです。ですから、もし私の天国に入りたいならば、私と勝負しないといけません。私に勝ったら、天の祝福をあげましょう。」すると、神様はヤコブと、「格闘」し「相撲」を始めました。みんなは、もし神様と相撲をしたら、勝てると思いますか? もちろん、勝てません。ヤコブは完全に負けてしまいました。しかし、ヤコブは神様にしがみついて「私が負けたとしても、天の祝福が欲しいのです!」と言いました。すると、神様は「いいでしょう。では、私が負けます。あなたは私に勝ちました。ですから、あなたは天の祝福を受けます。」と決められたのです。つまり、天国に入るために神様に勝てる方法は、一つしかないのです。神様が自ら負けてくださり、私たちに勝利を与えてくださることなのです。今日の聖書の箇所を読んで、それについて一緒に見ていきましょう。

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単にこの書物の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時、人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの約束」をお与えになりました。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、アブラハムの一人の子孫が、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)を信じるならば、私たちも同じように天国を相続できるというのです。それは当時の信仰でもあり、21世紀に生きるクリスチャンの信仰の本質でもあります。

 

本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。弟のヤコブは、神様の恵みをいただく「長子の相続権」を兄のエサウからスープ1杯分の安値で買いました。後でその事を後悔したエサウが、弟ヤコブを殺そうとしたので、ヤコブは1000キロ北にあるパダン・アラムに逃げてしまいました。しかし、神様はご自分の約束をはたすために、必ずヤコブをカナンの地へ連れ戻し、ヤコブ家を守ると約束されました。そして、ヤコブはパダン・アラムで20年もの間、義理の父に苦しめられましたが、神様はヤコブ家を大いに祝福し、守り続けたのです。それゆえ、本日の箇所の前の創世記31章で、ヤコブは「パダン・アラム」から離れ、約束の地であるカナンに住み、神様がくださる恵みを待ち望む事を決断したのです。ヤコブ家の決断は、私たちがクリスチャンになることと非常に似ています。それは、私たちが自分の生まれ育った世界観や自然に身についた価値観や文化から「出て」、イエス様が約束してくださった天の約束の地へ「向かう」という決断です。

しかし、32章では、約束の地へ続く道に大きな壁が待ち受けていました。それは、ヤコブを殺そうとしていたエサウです。これはヤコブにとって、そして神に選ばれた家族にとって、絶体絶命の危機でした。もちろん、エサウがヤコブ家を攻撃すれば、ヤコブは財産を失うだけでなく、自分自身が殺される可能性もあります。さらに、愛する妻や子供たちも殺されるという考えたくもない可能性もあります。しかし、ヤコブにとって、そして私たちにとって、最悪の可能性は、神が祖父のアブラハムに約束された「恵みの約束」が成就されないことです。もしヤコブ家がここで全滅すれば、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するアブラハムの子孫が生まれないということになります(ガラテヤ3:16参照)。アブラハム家が待ち望んでいるメシアであり、救い主であるイエス様が生まれないということは、最悪の危機なのです。イエス様が生まれなければ、誰も救われないということです。

このような状況で、ヤコブは何をしたのでしょうか?多くの人は、クリスチャンとして「行動すること」と「祈ること」は相反するものだと考えがちです。しかし、ヤコブの良い模範は、その正反対を表しています。「危機に立ち向かうとき、祈りをもって、用意周到に、前進することです」。つまり、ヤコブは、戦わないといけないのです。

まず、ヤコブは危機に陥ったとしても、エサウから逃げませんでした。ヤコブは真正面からエサウと立ち向かい、エサウに自分の使いを送ったのです。なぜそのようにできたと思いますか?それは、「神の使いたちが彼に現れた」(32:1)からです。「神の使い」は、ソドムとゴモラを一瞬で裁く力がありました(創世記19章)。疫病で大勢の人を打つ力もあり(歴代誌上21:16)、炎の剣でエデンの園を守っていた存在(創世記3:24)であり、見えない天の軍の特殊部隊として、私たちの周りに陣を張り、強大な敵から神の民を守っているのです(列王記下6:17-20)。「主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される。味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。」(詩篇34:7-8) ヤコブは、主の使いが主を恐れる者の周りに陣を張っていることを信じて、前進する勇気が与えられたのだと思います。

しかし、ヤコブは無謀に、無計画で前進したわけではありません。私たちは、全ての手段を使って、知恵を持って行動します。ですから、ヤコブは、すべてのシナリオを考えつつ、知恵をもって、用意周到に計画を立てました。つまり、計画を立てることは不信仰ではありません。これもヤコブの得意な分野だと思います。エサウの気を和らげるために、先に膨大な量の「贈り物」を送りました(32:4)。エサウからの奇襲を生き残るために、ヤコブ家の宿営を二つに分け、例え、一つが攻撃されても、もう一つの宿営が逃げられるようにヤコブは計画を立てました。そして、エサウに贈り物を送るとき、距離を取りながら、一群れずつ送り出しました。それは、エサウがじっくりと贈り物を楽しむ時間を与えながら、次の贈り物を送るためでもありましたが、エサウの様子を用心深く伺うためでもありました。膨大な贈り物をエサウに献げておいて、自分の家族のいのちを守るために、エサウの機嫌が一番いい時に、先に家族を送ったのではないかと私は考えます。そして、自分の家族と奴隷の安全が確認されたとき、エサウの攻撃の的であったヤコブが、安心して最後にエサウに会うということです。ヤコブは知恵をもって、用意周到に計画を立てました。

しかしながら、どれほど用意周到に人生設計を立てて生きていても、人生は自分の思うようにはいかないものです。ラバンの20年間の悪だくみでそれは明らかになりました。前進しても、計画を立てても、主の恵みと守りがなければ、すべては無意味だとヤコブは確信したのです。ですから、20年間の試練で変えられたヤコブは、最後に主に祈るのです。しかし、祈ったかどうかではなく、ヤコブの信仰-つまり、祈りの内容-が非常に大事なのです。

ヤコブは、まず「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。 」(32:9)と祈ります。つまり、ヤコブは、神様は約束を破らないお方であること、そして、自分が神様ご自身の約束の内容により頼んでいることをはっきりと告白します。次に、ヤコブは自分が神様の恵みにふさわしくないものでありながら、神様の恵みをいただいていることを感謝しています。「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。」(32:10)そして、最後に、自分がもっとも恐れているものを主に告白し、神様の約束を引用して、主の守りを切実に祈り求めます。「 11  どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。 12  あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」神様と取引しているような祈りではありません。神様に甘えているような祈りでもありませんし、神様に不平を言っているような祈りでもありません。神様の恵み深さ、自分が神様の恵みにふさわしくないこと、神様の約束の一つ一つの言葉をしっかり見て、主に熱く祈り求めているのです。

ヤコブは、私たちの危機に完全に同情できる人です。ヤコブも経済的な危機に陥りそうでした。自分のいのちが狙われる立場にいました。自分の妻と子供たちが自分の敵に殺される状況にいました。自分が待ち望んでいた天の恵みを完全に失いそうになったのです。しかし、彼は「あなたはそれに立ち向かって、祈りをもって、用意周到に、前進しているでしょうか?」と私たちに問いかけているように感じます。自分の経済的、社会的状況のために。自分のいのちと人生のために。自分の家族ー親、兄弟姉妹、結婚相手、子供たちーの歩みと信仰のために。自分の信仰のために。私たちは、危機から逃げずに、あらゆる手段を用いて、神様の約束を唱える祈りをもって、前進しようとしているでしょうか。それとも、もうすでに白旗を振って、負けを認めているでしょうか。

しかし、ヤコブは希望をもって祈りましたが、ヤコブが期待していたような答えは神様からは与えられませんでした。神様が「人」の形となってあらわれ、突然ヤコブと格闘し始められたのです。ここで二つ目のポイントを見ていきたいです。「私たちが最もおそれるべき危機は、神様との勝負です。」

皆さんと同じように、なぜいきなり神様がヤコブと格闘し始められたのかを、私も長年不思議に思っていました。しかし、文脈から見て、当時の文化を考えると腑に落ちるかと思います。まず、ヤコブはどこにいたでしょうか?「ヤボク」という川ですが、それは、約束の地の境界線でもあります(民数記21:24参照)。しかし、ヤコブは「約束の地」を勝ち取る人としてふさわしかったでしょうか?ヤコブは「約束の地」ーすなわち、神様の恵み」ーをいろんな手段で、いろんな人を出し抜いて、獲得しようとしました。自分の兄エサウからずる賢く「長子の権利」を買ったり、巧妙な策略を立て自分の父イサクを騙したり、義理の父、ラバンの支配から上手に抜け出したり。ヤコブは、ヤコブの名前の由来の通り、生まれたときから天の恵みを獲得するために「ヤコブ」し続けた、つまり、「格闘」しつづけて来たのです。そのようなヤコブの前に神様は突然現れ、ヤコブと「格闘」し始められました。原語をみると、神様はヤコブと「ヤコブ」を始められたのです。それは「あなたは天の祝福を得るために、人ではなく、神様と格闘しないといけない」という意味でした。

当時の文化では、勝敗を決めるためには、「格闘」または「戦い」が必要でした。例えば、ぺリシテ人とイスラエル人の勝敗を決めるときは、ゴリアテとダビデの一騎打ちで正式な勝利が決められました。中東だけではなく、ヨーロッパや日本でも、そのような「戦い」で正式な勝敗で決まります。今は剣をもって戦いませんがが、今も、非常に大事な「勝敗」は戦いによってすべてが決まります。法廷は「言葉の格闘」をすることによって、非常に大事な出来事の勝ち負けが決まるところでもあります。それと同じように、ヤコブが「天の祝福」を表す約束の地を勝ち取る権利は、天の法廷で、神様ご自身との格闘で決まるということです(ヨブ40:7-9参照)。もちろん、これはヤコブにとって驚きの展開ですが、普通に考えれば、なおさらのことです。天国を相続したい人、または、天国に入りたい人は、神様と「勝負」し、神様を説得しなければいけません。

「25  その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」どの人が勝ったのでしょうか?「その人はヤコブに勝てないのを見てとって」の前半の部分だけを見て、「あ、神様負けそうになったから、卑怯なパンチで勝ったんだ」というふうに解釈する人がいるかもしれません。ヤコブもそう解釈しましたか?とんでもないです。負けた後で「すごく惜しかったのに、神様はずるい!」とは言いませんでした。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私の命は救われた。」と告白したのです。つまり、敗北者として命拾いしたという意味なのです。

つまり、神様は最初に手加減をしてヤコブを優勢にさせましたが、ヤコブをへりくだらせるために、一発で倒したのです。ただの一発で、ももの関節が外れたということは、相当な打撃だったと思います。それだけではなく、打ったところにも意味があります。「ももの関節」というのは、ももの骨と腰骨をつなぐところですが、それは男性の生殖器官の近くでもあります。つまり、神様は「あなたが待ち望んでいる一人の子孫」「あなたのメシア」「あなたの救い主」を打ち、あなたが待ち望んでいる天の恵みを取り除くことができるのだ」と、間接的にヤコブに示されたのです。ヤコブは神様に完敗しました。つまり、神様はヤコブに、そして、私たちに、「あなたはなぜ、自分が天国にふさわしいと思っているのか?もしそう思っているのなら、私に勝って見せろ。」とおっしゃっているのです。

私たちはいろんな問題に向き合っていますが、私たちの究極の問題は、「神様に勝てない」ということです。私たちは天の土俵での物理的な格闘を通しても、天の法廷での言葉の格闘を通しても、自分たちが天の祝福、神様の愛、神様の恵みに値する存在であることを神様に説得できるでしょうか?もし、そのような確信がないのなら、神様が私たちの祈りを聞いてくださるという保証も全くないということです。

しかし、興味深いことに、神様はヤコブを勝利者と宣言されました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」 (創世記32:28)これはインパクトのある一説ですよね。神様に勝つとはどういうことでしょうか。ここで最後に覚えていただきたいことは、「私たちは信仰のみによって、神と、または人と戦って、勝つことができる。」という事です。

まず、先ほどの説明と文脈を振り返ると、それが神様とヤコブの力勝負の話ではないことが分かります。この勝負は、ヤコブが約束の地、神様が約束された恵みを受けるにふさわしいかどうかを証明する勝負でした。ヤコブは完敗しましたが、興味深いことをします。勝利者である神様にしがみついて、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」というのです。要するに、金メダルを勝ち取った人に完敗してやけくそになった敗北者が「どうか金メダルをください」と、プライドを捨てて懇願するようなことです。しかし、興味深いことに、神様は、その信仰のことばを聞いた瞬間、神様は一方的に、敗北者であるヤコブに、勝利者の名「イスラエル」を与え、約束の地、天の祝福を得る権利をお与えになったのです。ですから、ヤコブは敗北者の印として、打たれたもものために足を引きずったとしても、ヤコブは神様の恵みを勝ち取った勝利者として歩んだのです。

ホセア12:3-4で、聖書はこの場面をこのように解釈しています。「3  ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、 その力で神と争った。 4  御使いと格闘して勝った、 泣いてこれに願った。」つまり、ヤコブは泣きながら「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と言っていたのです。格闘で神様に勝ったものは、泣きながら懇願しません。しかし、敗北を認めて、自分は天の祝福にふさわしくないと知った上で「泣いて願った」ゆえに、神様がヤコブに勝利を得させたのです。しかし、完敗したヤコブは、なぜ勝利の印である「天の祝福」を願い続けたのでしょうか?それは、ヤコブが「天の祝福」を受ける根拠が自分の内には全くない事を認めて、ただ神様が約束してくださったから、と信じたからなのです。これが信仰のみによる勝利ということです。それが信仰の「戦い」の本質なのです。信仰の戦いは、自分を信じることでもありませんし、自分が天の恵みにふさわしい存在になるために自分を磨くことでもありません。信仰の戦いは、自分が神様の恵みにふさわしくない現実を受け入れつつ、神様の約束にしがみつきながら、神様の恵みを待ち望みつづけることです(ローマ4:1-5参照)。

いかがでしょうか?危機に立ち向かうとき、皆さんはどのように戦っているでしょうか?古いヤコブの自分は自分の力で祝福を勝ち取ろうとして、必死に自分の技や手で、神様に、そして、人に勝とうとしていないでしょうか。それとも、新しい「イスラエル」のように、勝ち取る力がなくても、神様の約束に命懸けでしがみつき、涙を流しながら恵みを願い続けているでしょうか。これは放蕩する弟と努力家の兄の違いのようです。これが信仰による戦いと自分の力による戦いの本質的な違いです。私たちもヤコブのように、敗北者の印として罪によって足を引きずっているとしても、私たちは神様の恵みによって勝利者として歩んでいるのです!

しかし、ある人にとっては、府に落ちないところもあると思います。「なぜ敗北者ヤコブが勝利者になれるのですか?それは単純な論理を覆すようなことです。」本当にその通りです。神様に負けた人は、神様に勝っていないのです。天の祝福にふさわしくない人を、ふさわしいと定めることはできません。しかし、神様と格闘し、実際に「勝った」方がおられます。天の祝福がふさわしいと証明した方がおられます。そのお方が究極の「イスラエル」、イエス様です。

神様がヤコブの「もも」を打った理由は、これから生まれるヤコブの子孫、これからくるメシアを呪いで「打つ」という意味があります。そして、神様は、ももの関節を外すほどの打撃よりも、強力な呪いとさばきでイエス様を打たれました(イザヤ53:4)。つまり、十字架という土俵で、イエス様は、手加減なしの神様の御怒りと格闘されました。ヤコブの子孫であるイエス様は、ヤコブの代わりに、私たちの代わりに、神様の一撃を受けられたのです。しかし、イエス様はヤコブと違って、その打撃を受けられても、耐え抜かれ、ご自分が天のすべての祝福にふさわしい者である事を神様とすべてのものに証明されました。それはイエス様が復活されたことによって証しされました。ですから、神様は、アブラハムに約束された一人の子孫、メシヤであるイエス様に天の祝福をお与えになったのです(イザヤ53:11-12)。そして、圧倒的勝利者であられるイエス様は、その勝利の報酬を私たちに与えてくださったのです。イエス様の勝利は、私たちが勝利できる根拠なのです。イスラエルとなったヤコブのように、イエス様の勝利にしがみつきながら、信仰をもって戦い続けていきましょう。お祈りします。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church