2024年10月13日礼拝 説教「恐れとの闘い:神の武具を身に着けるとは」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship エペソ人への手紙1章17-23節
さ ん び Opening Praise 希望の歌
さ ん び Praise いざ立ち上がり
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌350番「罪に悩み苦しむとき」
聖書朗読 Scripture Reading エペソ人への手紙6章10-13節
聖書の話 Sermon 「恐れとの闘い:神の武具を身に着けるとは」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌353番「あなたこそ我がのぞみ」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きますが、自分にとって、一番怖いものは何ですか?そして、怖いとき、どのように勇気をもってその怖い気持ちと闘いますか?ある夜、お風呂の時間に、娘が「お風呂入れない」とお母さんに言いました。「どうして?」と聞いたら、「暗いから怖い…」と答えました。「え?どうして急に怖くなったの?」と聞いたら、「おばけがいるかもしれない…」と娘が言うと、お母さんが「え?!おばけとママ、どっちがこわい?!さっさとお風呂に入りなさい!」と言ったので、娘はすぐにお風呂に入りました。(安心してください。娘と妻の許可をとりました。)つまり、自分の怖い気持ちを乗り越えるためには、もっと怖い存在を探す必要があります。3歳の息子が最近言うのは、「おばけはこわいけど、イエス様がパンチするから大丈夫。」

 

今回の修養会では、自分の心の内にある「恐れ」とどう戦うかを学びます。私たちの敵であるサタンは、悪霊や力のある者を使って、いろんな怖いことを私たちに仕掛けてきます。しかし、先ほど読んだ神の武具の聖書箇所を通して、パウロは私たちにこう言っています。「怖い、悪質なサタンと、死から蘇えられて、すべてをご支配されるイエス様の偉大な力と、どっちがこわい?さっさと、イエス様からいただいた最高の神の武具を身につけて、イエス様の後ろに隠れて、闘いなさい!」と。本日の聖書箇所から、聖書全体を見ながら「恐れとの闘い」について、4つの点を考えていきたいと思います。

 

まず、一点目。自分の恐れを乗り越えることは、恐れを無くすことではなく、正しく恐れることです。恐れには、いろんな形があります。恐れが爆発するような「パニック」もありますし、心の中に潜んでいるじわじわと出てくる「不安」や「心配」もあります。経済的に、自分の家族を支えられない、または、自分がやりたいことができない恐れ。楽しむことができない恐れ。一人になってしまう恐れ。自分、または、愛する人が、想像を超える身体的な、精神的な苦しみを経験する恐れ。独身として、夫婦として、家族として、自分が思い描いていたような人生を経験することができていない事などからの、いろんな意味での恐れ。今、私たちは、何に恐れているでしょうか?

目に見える、わかりやすい恐れもありますが、目には見えないけれど、根深い恐れもあります。社会と歴史を見ると、大事な「何か」が変わるのを恐れるのは「保守主義」であり、変化しないことで大事な「何か」を衰えさせてしまうのを恐れるのは「革新主義」です。自分の自由が失われる事を恐れる「個人主義」からの恐れや、和と秩序が保たれない事からの「集団主義」の恐れ。もっと身近な例えで言うと、自分が失敗することや間違うこと、負けることや十分ではないことを恐れることは「罪悪感」や「劣等感」になります。また、周りの人から笑われたり馬鹿にされ、見下されることを恐れることは「恥」となり、自分が愛されていないことや、周りの人が自分を見てくれないことは、「孤独感」に繋がります。今、私たちが最も恐れている「見えない」ものとは何でしょうか?

このように恐れを具体的に挙げてみると、恐れることは悪いことではないことがすぐにわかります。むしろ、「恐れ」は、自分の身を守るのに必要なものであり、恐れることによって、人は成長するとも言えます。例えば、親の注意も恐れず、車も恐れず、自分がケガすることも恐れないで、横断歩道を渡るような子どもは、「勇気」があるとは言えませんね。聖書では、恐れのない人は、未熟で、傲慢で、愚かな人と見なされます。そう考えると、恐れを乗り越えることは、恐れをなくすことではないと言えます。

しかし、誰でも「悪い恐れ」が存在することも知っています。悪い恐れは、不安、弱さ、麻痺、怒り、ストレス、パニック、暴言、暴力、死などをもたらすのです。しかし、「良い恐れ」は、強さ、冷静さ、勇気、平安、喜び、バイタリティー、いのちをもたらします。例えば、東日本大震災で亡くなった防災対策庁舎で働いていた、遠藤未希さんの勇気ある行動について聞いたことがあると思います。自分が避難するよりも、24歳の命を懸けて、防災無線のマイクを握って、「逃げてください!」と津波にのみこまれるまで避難を呼びかけ続けた方です。そのとき、彼女も、自分も溺れてしまうこと、婚約者と結婚できないこと、自分が思い描いていた人生を送ることもできない、という恐れが当然あったでしょうが、何千人のいのちが失われることをもっと恐れ、命を懸けて自分の仕事を果たされたのです。「勇気」「雄々しさ」「強さ」というのは、様々な恐れの中で、最も正しい、最も良い何かを恐れることを選ぶことなのです。

つまり、「恐れ」というのは「愛」と非常に似ているものなのです。「愛すること」自体が「良い」ものなのではなく、「何」を愛し、「どのように」愛するかがすべてなのです。例えば、「人を殺すこと」を愛することや、歪んだ形で「子供」を愛することが、「悪」であることは誰も否定しないでしょう。同じように、「恐れること」自体は悪いものではなく、「何」を恐れているのか、「どのように」恐れているのかが重要なのです。

 

それでは、「正しい」恐れとは何でしょうか。聖書には、「正しく恐れること」について書かれている書物は、箴言です。いくつかの箇所を引用します。

1:7「主を恐れることは知識の初め。 」

14:27「 主を恐れることはいのちの泉、 死の罠から離れさせる。」

15:16 「わずかな物を持って主を恐れることは、 豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。」

23:17「 心のうちで罪人を羨んではならない。 いつも、ただ主を恐れていよ。」

「主を恐れること」によって、知恵、正義、平安、謙遜、安心、喜び、感謝をもたらすのです。つまり、恐れを乗り越えるとは、恐れを無くすことではなく、正しく「主」を恐れることなのです。

しかし、そう聞いたとしても、何の助けにもなりませんね。ですから、二つ目のポイントを覚えていただきたいです。「強く雄々しくなるとは、自然に湧いてくる感情なのではなく、恐れと闘うことを決心することです。」

まず、言えることは、私たちが恐れを感じるのは当たり前のことで、ストイックに恐れをできるだけもみ消そうとするのは不可能です。例えば、職場で自分が突然、異動させられたり、クビにされそうなとき。自分の子供が重い病気だと診断されたとき。愛する人に拒否されたとき。そのような時に恐れを抱いても、それを止めることはできませんし、私たちは自分が何をどう感じるかを選ぶことはできません。けれども、私たちは何を一番に恐れるべきかを選ぶことはできます。意図的に選ぶか、感情に流されてしまうかは全く関係ありません。いろんな恐れを感じる中で、私たちが何を一番恐れているかは、私たちの行動から来る決断によって現れます。

例えば、民数記で12人の偵察隊が約束の地を偵察した時、その12人全員がカナンの巨人の強さを見て、恐れを感じたと思います。その内の二人は「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 (13:30)と主の強さを恐れながら、再び上ることを選びました。残りの10人は「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」と上らないことを選んだのです。それだけではありません。カナン人を恐れ続けて「私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」と民に言って民をパニックに陥しいれ、恐れた民は、最終的に神様にこう言ったのです。「なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」神様は、それを聞いて、「状況が状況だから、そのように怖がるのはしょうがないな」と言われたでしょうか?とんでもないです。神様は、パニックに陥った民が反逆を選んだと受けられました。要するに、「恐れ」は、自然に湧いてくる気持ちではなく、どの「恐れ」に聞き従うかという決断なのです。

 

本日の箇所は、私たちに「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」と命じています。よく教会の中で「雄々しく、強くあれ」という聖句を聞きますが、文脈をよく読むと、そこには具体的な意味があります。それは「リスクをとりなさい」、「怖がってはならない」、「勇敢になりなさい」という意味ではありません。「ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。」(ヨシュア1:7)つまり、主の力を畏れ敬い、主の命令を聞き、信頼し、従うことが、聖書の「雄々しさ」「強さ」「勇敢さ」なのです。そして、主に聞き従わないことは、「めめしさ」「弱さ」「臆病さ」ということなのです。

ですからークリスチャンとして、日々感じていると思いますがー私たちは自分たちの心の中の嵐や不安に翻弄されたり、恐怖の波にもまれたりしますが、その風や波に流されるか、主の力に立って闘うかは、自分自身で選ぶ必要があるのです。「闘い」や「戦」ということばに抵抗のある方もいらっしゃるかもしれませんが、ガラテヤ5:16-17は私たちの戦をこのように描いています。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。

私たちの罪深い性質は、「主を恐れること」を自然には選びませんし、この世も、私たちの肉もそうするようにとは私たちを励ましません。私たちの恐れは重力のようなものです。何もしないと、私たちはこの世が恐れるものをそのまま恐れてしまうのです。もう少し単刀直入に言いますと、「恐れとの闘い」の真っただ中にいる私たちは、「平和ボケ」になってしまう傾向があると思います。「闘い」の存在自体を否定したり、「闘わない」ことを選ぶことは、「恐れとの闘い」に即負けてしまうことを意味します。

 

しかし、例え決心したとしても、闘い方を知らなかったら、恐れに打ち勝つことはできません。何の準備もなく、何の戦略もないままで恐れと闘うのは、裸で戦に挑むようなものです。私も含め多くのクリスチャンは、このような状況にいると思います。三つ目のポイントは、「恐れと闘うには、自分の敵を良く知る。」ということです。

 

私たちの敵はどんな存在でしょうか?

11  悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。 12  私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

私たちの敵軍の支配者は、「悪魔」またはサタンと呼ばれ、「支配」、「力」、「暗闇の世界の支配者たち」、「天上にいるもろもろの悪霊」がその支配下にあります。現代の日本に住む私たちにとっては?このようなキーワードを聞くといろんなイメージが思い浮かびます。しかし、聖書はなんと言っているでしょうか?

まず、サタンは「策略者」です。ですから、サタンの考えていることは全く読めないし、理解することもできません。サタンの攻撃は非常に巧妙なので、気が付かないほどです。例えば、サタンはイエス様をどのように攻撃しましたか?強制したりせず、様々な聖書箇所を引用しながら、イエス様を罪に導こうとしました。そして、サタンの最後の一撃は、弟子たちが最も信頼していた会計係のユダを裏切らせるということでした。ですから、サタンは、「吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」(1ペテロ5:8-9)、「羊の衣を来た狼」(マタイ7:15)として私たちの陣地に入りこんで、エデンの園のへびのように、私たちの味方に化けて、私たちを誘導しようとするのです。サタンを甘く見ると、私たちはすぐに負けてしまいます。

サタンが攻め上ろうとしている「陣地」とは、「血肉」や「地上」の陣地ではなく、霊的な「陣地」です。サタンは、教会がどこに開拓されているか、何人礼拝者がいるのか、リーダーが何人いるのか、目に見える教会の成長にはあまり興味を持っていません。なぜなら、サタンは簡単に宗教的なものに入り込むことができるからです。サタンがねらっている陣地は、私たちの「魂」なのです。私たちの「魂」が「闇のわざ」へ導かれるように、様々な手段を使います(ローマ13:12; エペソ5:11)。では、「闇のわざ」とは具体的になんでしょうか?コロサイ3章やエペソ4-5章には「闇のわざ」の長いリストがありますが、最も短くまとめられているのは、ガラテヤ5:19です。「19  肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 20  偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21  ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」サタンの最強な「霊的な攻撃」は、わかりやすい「病気」とか「悪霊に取りつかれる」というようなものではありません。もっとシンプルで、根深いものです。私たちが愛している何かや、恐れている何かを徹底的に変えさせて、私たちを根深い罪に導くことがサタンの狙いなのです。そのようなサタンの狙いを誤解してしまうと、私たちは上手く戦うことは出来ません。

サタンはあらゆる「支配」、「力」、「この暗闇の世界の支配者たち」、「天上にいるもろもろの悪霊」を使って私たちを攻撃することはできますが、私たちの中に既に潜んでいる罪に油を注ぐくらいのことしかできません。ヤコブ1:14-15はこう書いています。

14  人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。 15  そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

サタンは、ユダの心にあるイエス様に対する憎しみとユダの貪欲さに油を注ぎながら、ユダを巧妙に支配したのです。また、サタンは、ペテロの変なプライドを上手く利用して、イエス様が十字架へかけられるのを止めさせようとペテロを使ったのです。しかし、逆を言うと、私たちが罪を選ばず、主を恐れることを選べば、サタンの攻撃はすべて無効になります。例えば、サタンはヨブに考えられない試練と誘惑を与えましたが、最終的にヨブは神様を呪うことを拒否し、主を恐れ、主を褒めたたえることを選びました。ですから、私たちは、サタンがどのように自分を誘惑しているか、そして、自分がどのように対抗できるかを意識していなければ、闘うことはできないのです。

 

ここで、皆さんに考えていただきたいのは、もし自分が「サタン軍」だったら、自分のどの弱点を狙うと思いますか?ぜひ真剣に考えてみてください。「どの恐れ」に集中的に油を注ぐと思いますか?私たちが気付かないうちに、今、サタンはあなたを「闇のわざ」ー特に不健全な恐れーへと導こうとしていると思いますか?そして、あなたは、自分の知恵と力で闘えるという自信がありますか?修養会の交わりのときに、それを分かち合う時間を設けたいと思っています。

 

敵の策略を良く知るだけでは、まだ敵に勝つことは出来ません。最後のポイントは、6:13にあります。「邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」つまり、4つ目のポイントは、恐れと闘うとき、神のすべての武具を取り、良く知り、固く立つことです。

「邪悪な日」、つまり、サタンと対抗する日が必ず来ます。むしろ、もう来ているのです。皆さんは、闘うための武具をいつ身につけますか?戦いが始まってからですか?それとも、戦いが始まる前ですか?奇襲してきたサタンに「タンマ。タンマ。まだ武具を着てないので、もう少々お待ちください。」と言うことができるでしょうか?今のうちに武具を身に着けましょう。

次に、もしサタンが「最高」の策略者だったら、どの方向から、どのタイミングで攻撃してくるか全くわかりません。「サタンは真正面から来るから、後ろは裸でもいい」というような兵士は、誰でも愚かだと思うでしょうが、霊的な闘いにおいて、私たちは自分が裸の王様のように歩き回っていることに気づいていないかもしれません。武具は部分的に着るものではありません。私たちの弱点が守られていなかったら、どれほど強い武具を身に着けていても、サタンはその弱点を狙うだけですぐに闘いが終わります。ですから、「一切を成し遂げて堅く立つことができるように、」神のすべての武具を取りましょう。

そして、びっくりしないでください。神の武具は「見えない」武具です。この世では私たちは目で見ることができる、ぴかぴかでずっしりした武具をすぐに思い浮かべます。サタンとこの世は、見えない「神の武具」を身に着けている私たちを見て、ゴリアテのように、「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」と私たちをあざ笑うでしょう。でも、動じないでいただきたいです。ダビデも「神の武具」を身に着けていました。サタンもゴリアテも、あざ笑いましたが、長くは続きませんでした。それを忘れないでください。

 

神様のすべての武具を身に付けるだけではなく、私たちは一つ一つの武具の使い方をよく理解し、武具をもって闘う練習をする必要もあります。修養会のためのデボーションガイドに、各武具の目的と使い方の説明を書きました。明日の交わりで、ローラ宣教師の証しを聞きながら、自分がどの武具をうまく使っていないか、また、それぞれの武具をどのように使うべきかを一緒に考えていきたいです。

神の武具を身に着けたとしても、私たちはまた敵を見て、怖くなってしまうことがあります。私たちは、よく忘れてしまいますが、これはどなたの武具だったでしょうか?「神の武具」です。イエス様の武具です。イザヤ書59:17を見ると、神様が送ってくださるメシヤが武具を身に着け、神の民のために救いと永遠の命を勝ち取るのです。イエス様はこの「見えない」武具を身に着けて十字架の上で、罪、死、サタンと奮闘され、復活を勝ち取られたのです。私たちがイエス様と同じ武具を身に着けているなら、私たちは敵の火矢を怖がる必要があるでしょうか?私たちが身に着けている同じ武具で、イエス様は敵をすでに倒されたのです。負けたサタンがやけくそになって、私たちに反撃しているだけです。

それゆえ、私たちが神の武具を身に着けるとき、私たちの王からの命令は、「攻め上りなさい」ではなく、「堅く立ちなさい!」なのです。つまり、私たちの戦闘態勢は、基本的に「守備」なのです。それは、私たちが「不利な」状態にいるからでしょうか?とんでもないです。モーセも海を割る前に、同じような命令をしました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ている【敵】をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」 つまり、私たちが「堅く立って」、守備体制を整える理由は、私たちはイエス様の最後の一撃を待っているからです。再臨の日に、イエス様はご自分の武具で敵を倒されるので、私たちは、恐れず、黙って、主の救いを見るのを待つだけです。神の武具を身に着けて「堅く立つ」人は、パニックに陥り、やけくそになる人ではありません。イエス様がすでに勝利されたことを信じ、平安の中で、恐れたり心配することなく神様のみわざを待ち望む人です。私たちも、そのように自分の心の内にある恐れと闘っていきましょう。ペテロはこう私たちを励まします。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(1ペテロ1:13)お祈りします。

 

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church