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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | エゼキエル書37章11-14節 |
さ ん び | Opening Praise | わがたましい主をほめよ~How Great Is Our God~ |
さ ん び | Praise | ただ十字架のイェスにあり
〜Only A God Like You〜 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌167番「聖霊の神よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書2章23節-3章11節 |
聖書の話 | Sermon | 「イエス様が私たちに立ち向かう」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きますね。「進化」という言葉を聞いたことがありますか?科学では、何億年もかけて、弱々しいくらげが、力強いライオンに進化していくことを教えていますね。ポケモンでもよく見ますが「進化」は弱い生き物から、強い生き物に少しずつ変わっていくという意味です。では、今から私が話すことを想像してみてください。私が人の形をした石を、生きている人にするために、たくさんのお金、時間、力をかけて石を進化させようとします。どう思いますか?生きていない「石」を、生きている「人間」に進化させることができると思いますか?生きていない「モノ」を「生き物」にすることは、進化させるのではなく、いのちを「生む」、または、いのちを「創る」ことなのです。
今日の話は、イエス様とニコデモとの対話で、イエス様がニコデモに腹を立てる話です。ニコデモは、天の永遠のいのちをすごく欲しがっていました。ですから、ニコデモは自分の罪深い人生を永遠のいのちに進化させるために、たくさんのお金と時間をかけました。ニコデモは、イエス様の所へ自分を進化させる為のアドバイスを聞きにいったのかもしれません。しかし、イエス様はニコデモに会った時、腹を立てられました。なぜなら、ニコデモがしていたことは、生きていない自分の罪深い「石の心」を、生きている「肉の心」に進化させようとしていたからです。石を進化させるために何億年かけても、生きた人間は生まれません。イエス様はニコデモに「もし、天の永遠のいのちが欲しいのなら、自分を進化させることをやめなさい。私を信じることによって、神様があなたに永遠のいのちをあなたの内に創られます。それが永遠のいのちへの唯一の道です。」とおっしゃいました。本日の箇所を理解をするために、三つのポイントを見ていきましょう。
「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記してあります。この「客観的な」歴史の記録には、ヨハネの「主観的な」目的が二つあります。一つは「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうか、という三つの選択肢があります。
ヨハネの福音書の序論では、福音書の大まかな流れをこのようにまとめています。
9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
このことを私たちに証明するために、ヨハネの福音書は様々な証言や出来事を記録しているのです。前回の話はその証言の中の一つで、イエス様がご自分の民に立ち向かわれた話です。過ぎ越しの祭りのために、大勢のユダヤ人が「神殿」に集まり、神様に生贄を捧げようとしたとき、イエス様はその大勢のユダヤ人に立ち向かわれました。それは、神殿に集まっていたユダヤ人たちが、ただ神様を愛する「形」だけにこだわって「真実の愛」(ホセア6:6参照)で神様を愛していなかったからです。イエス様はそれをご覧になり、悲しまれ、正しい怒りをもって神の民を訴えられたのです。その群衆はその訴えを否定しませんでしたが、悔い改めることもしませんでした。本日の箇所は、イエス様と群衆との対話の続きです。
興味深いことは、イエス様がユダヤ人たちを熱く、激しく訴えられたのにも関わらず、なぜか、ユダヤ人達はイエス様を信じました。
23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
つまり、イエス様の教えを聞いたり、イエス様が行われた「奇跡」を見たりする事によって、イエス様がすごい人であることを大勢の人達が認め始めたのです。何も知らない私たちがこの様子を見たら、「これはリバイバルだ!」と思うかもしれませんが、イエス様は正反対の反応を示されます。
24 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、 25 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。
イエス様は察しておられます。この群衆が、興味深々でイエス様の教えを聞き、イエス様の奇跡と力に圧倒され、口ではイエス様の「名を信じた」と言ってはいますが、本当の意味では、イエス様の証言を受け入れてはいなかったことを、イエス様は見抜いておられました。
ヨハネの福音書は、「光」であるイエス様と、「暗闇」であるこの世との闘いを記録しているのですが、本日の箇所を読むと、イエス様が敵視されていた「暗闇」とは、私たちが思い描くようなわかりやすい「敵」のことではなく、イエス様を信じている群衆でさえ持っていて、すべての人のうちに潜んでいる「暗闇」のことなのです。では、イエス様が御覧になる、人のうちに潜んでいる「暗闇」とは、具体的に何でしょうか?イエス様はその「暗闇」を、なぜそこまで敵視されるのでしょうか?
ここで一つ目のポイントを見ましょう。イエス様は、私たちの内にある、「イエス様を拒む」という「暗闇」に立ち向かわれるのです。ここでニコデモという人物が紹介されます。
1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。
2:25で筆者のヨハネが曖昧に「イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」と書いた理由は、夜にイエス様のもとへ行ったニコデモという「人」の振る舞いを通して、人間の「暗闇」をもうすこし明らかにするためでした。ニコデモは、悪質なテロリストではありませんし、宗教を否定する無神論者でもありませんし、欲にまみれた罪人でもありません。人生をかけて聖書を学んできたパリサイ人で、神の民が認めたリーダーでした。そして、夜にイエス様のもとに行った理由は、もうすこし静かな所で、イエス様の教えについていろいろ聞こうと思っただけだったからだと思います。このニコデモは、本当にヨハネがいう、「光を圧倒したい暗闇」(ヨハネ1:5参照)なのでしょうか?
この箇所でのニコデモの一言で、彼の心に潜んでいる「暗闇」が明らかになります。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
礼儀正しくイエス様を敬っているような挨拶にも聞こえますが、イエス様の証言を否定していることもわかります。前に説明したことがありますが、旧約聖書の中で奇跡を引き起こすことができた人は、非常に稀で、モーセやエリヤのような、特別な預言者だけでした。ですから、「あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」とニコデモは認めます。しかし、ニコデモはイエス様の事を、メシヤでも、預言者でもなく、「ラビ」または「先生」と呼びました。皆さん、ニコデモも「ラビ」ですよ。彼はイエス様の事を、「神のもとから来られた教師」だと認めたとしても、自分と同類の「先生」であると思っていたのです。悪気がなくても、そのように思っていたことには変わりありません。今まで誰もしなかったように、イエス様は権威をもって御言葉を語っておられたのに、また、誰にもできないようなしるしを行われているのに、ニコデモは、イエス様が預言者やメシヤであるという可能性を受け入れず、「先生は本当に一流の教師ですね。どちらの神学校で勉強なさったんですか?」と、どうでもいいような質問をしているようなものです。
しかし、ニコデモが言わんとしいてることがあります。「イエス、お前は何者か?もっと私に証拠を見せろ」ということです。つまり、イエス様の話は興味深いとは思っているのですが、ニコデモも、群衆も、偉そうなお客のように、イエス様を上から目線で評価し、イエス様にいろんな条件をつけて、「もし、このようなしるしをくれたら信じるよ」というような態度でした。イエス様ご自身に対して、好意はあるもののメシヤとして、神様としてイエス様に従おうという気は全くなかったのです。イエス様ご自身を「受け入れない」ことが私たちの心の内にある「暗闇」なのです。そして、光であられるイエス様は、この「暗闇」を敵視されているのです。私たちも、口ではイエス様に好意を示しながら、イエス様ご自身を頑なに拒み続けるような性質がないでしょうか?
それゆえ、イエス様はニコデモの内に、また、私たちの内に潜んでいる「暗闇」に「光」を当てるために、突然、ニコデモに立ち向かわれます。
3「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
これは爆弾発言ですね。ここで二つ目のポイントを紹介したいと思います。神の国を見られる人は、良い人に「進化」していく人ではなく、神の霊によって新しく「創造」される人なのです。
まず、「神の国」とは、当時の人にとって、どういう意味だったのでしょうか?福音書を見ると、「神の国」「天国」「永遠のいのち」が、同じように使われる場面がよくあります(マルコ10:17-23参照)。そして、このヨハネ3章でも、イエス様は、「神の国を見る」(3:3,3:5)と、「永遠のいのち」(3:15, 3:16)という表現を同じように使われます。しかし、パリサイ人のニコデモにとって、「神の国」は最後の日を現わしていて、その日に「蘇り」があると信じていました。パリサイ人と多くのイスラエル人は、「神の国」に入るため、「天の富」を受けるため、そして「永遠のいのち」を味わうために、長年にわたって、少しずつ自分を磨き、神の国に値する人へと「進化」していくことを期待していたのです。ですから、イスラエル人として生まれ、聖書を徹底的に学んできて、熱心にきよい生活を守ってきたニコデモも、自分が神の国に入れると思っていたと思います。その根拠のない自信を指して、「あなたの血筋、あなたの聖書の知識、あなたの善い行いでは、神の国と永遠のいのちを見ることができない」とイエス様は断言されます。
全人類を代表して、ニコデモは、自分の本性をイエス様の前に見せ始めます。
「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
ニコデモは遠回しにイエス様の教えをちょっぴり馬鹿にしていますが、心の中では、全力でイエス様の「極端な」「意味が分からない」教えを拒んでいます。私たちもそういう時がありますね。しかし、イエス様はそれをすべて見抜いておられるので、再び、ニコデモに立ち向かわれます。
5「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
これはどういう意味でしょうか?神の国を見られる者は、この地上の「肉」で進化していく者ではなく、「天の神の霊」によって創られ、生まれた者です。ニコデモは自分の特別な血筋、自分の膨大な知識、自分のきよい生活がこの世で通用するだけではなく、天国でも通用するものだと思っていたのです。しかし、日本円がアメリカやヨーロッパで通用しないように、この地上で通用するものが、天国で通用するはずがないのです。ですから、神の国を見られる者は、天に宿っておられる聖霊様に造りかえられた人だけなのです。その上、風がおもいのままに吹くように、誰が神の国を見られるのか、見られないのかは、完全に聖霊様のおもいのままなのです。
イエス様は、なぜ、ニコデモに、なぜ、私たちに、そのことを特に強調されたのでしょうか?それは、私たちの目を覚させようとしたからです。「なぜあなたは、私の証言を評価できる立場にあると思っているのですか?なぜ、自分の行いで天国に入れると勝手に思っているのですか?のんきに私の経歴を聞いたり、私の教えについて細かい質問をしたりするよりも、自分の運命について考えたほうがいいんじゃないですか。」と強く注意されました。自分の「進化」は自分たちのコントロールのもとにありますが、神様が生み出される「新しい創造」は、完全に神様のご支配の中で、一方的に与えられるものなのです。自分の運命をコントロールできると思っている私たちの妄想から、イエス様は、私たちの目を覚まそうとしておられるのです。
もし、私たちの救いが霊的な「進化」からではなく、霊的な「創造」からくるものだとしたら、私たちの神様に対する態度はどう変わると思いますか?少なくとも、横柄な態度や、上から目線の話し方もできなくなると思います。そして、もし私たちの救いが霊的な「進化」からではなく、霊的な「創造」からくるのであれば、他の人に対する態度はどう変わるでしょうか?「あなたは、まだ私のように進化していないのか。」という態度ではなく、「風のような聖霊様によって造られる新しいいのちを待ちましょう。」という態度に変わると思います。いかがでしょうか?私たちは、自分の「クリスチャン生活」を無意識のうちに霊的な「進化」として考えてしまってはいないでしょうか?イエス様は、私たちの心の中に潜んでいるプライドと立ち向かわれているのです。
ここで、イエス様が、ニコデモと私たちに、最後のポイントを紹介してくださっています。「聖霊によって生まれる新しいいのちは、イエス様ご自身を受け入れることのみによって生まれます。」
イエス様の発言に、ニコデモは驚きます。「9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」 しかし、イエス様は動じません。「10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そんなことも分からないのですか。 」つまり、イエス様は「もし、ちゃんと旧約聖書を読んでいれば、私が言っていることがわかるはずです。」とおっしゃっているのです。
旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史を読むと、これはイスラエルの民の「進化」と言えますが、「罪の進化」の話だとも言えます。イスラエルという「神の民」が興されたときから、少しずつ、しかし著しく、神の民が、罪、プライド、欲、偶像崇拝へと没頭していく話です。ですから、預言書であるイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書はいずれも、神の民を救う手段は、霊的な「進化」ではなく、力強く超自然的で、抜本的な解決である「新しい創造」について預言していたのです。エゼキエル36‐37章には、二つの「預言」がはっきりと説明されています。
一つ目の預言(エゼキエル 36:25-27)は、罪と偶像によって、汚れて頑なになってしまった神の民の霊的に死んでいた「石の心」を造りかえることです。神様が「きよい水」と神様の「霊」によって「石の心」を生きている「肉の心」に造りかえるという神様の約束です。そして、生きた「肉の心」を持つ者は、完全に神様の教えに従うことができるようになるのです。
二つ目の預言(エゼキエル37:4-6)は、神の民を「すっかり干からびた」骨に例えます。つまり、神様は、神の民は、霊的に死んでいる「ゾンビ」だと言われるのです。しかし、神様はこうもおっしゃいます。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。 神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』」” (エゼキエル 37:4-6)
長年、ニコデモとイスラエル人は、このエゼキエルの預言が成就されることは「最後の復活の日」であると思っていました。それは間違ってはいません。しかし、イエス様は、驚くべきことをニコデモに教えられます。
11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
イエス様が示唆しているのは、ニコデモが待ち望んでいる「最後の復活の日」は、イエス様のことば、イエス様の証し、イエス様ご自身を受け入れるときから、始まるのです。しかし、何回説明しても、ニコデモは受け入れないと、イエス様は訴えます。イエス様ご自身こそが、私たちの「石の心」を「肉の心」に造りかえる「きよい水」であられ、私たちを創り直す事がお出来になる「神の霊」でもあられます。そして、イエス様ご自身こそが、私たちの「干からびた骨」に筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、息を与える事がお出来になる神様の息吹である「主のことば」なのです。イエス様がニコデモに、この事実をいろんな形で証されたにもかかわらず、この事実を無視し続けたのは、ニコデモの最も致命的な間違いだったのです。理解の問題ではないのです。ニコデモは信じたくないという問題なのです。ですから、イエス様は、ニコデモのイエス様に対する無関心さに立ち向かわれたのです。
繰り返しになりますが、ヨハネの福音書にはこう書いてあります。「12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与え….ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)本日、読んだ聖書箇所のあとの箇所にも、こう書いてあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
ヨハネの福音書は、クリスチャンのために書かれました。イエス様は「あなたがたは新しく生まれなければならない」と、私たちに命令されています。人にやさしくしても、新しく生まれることはできません。聖書を徹底的に研究しても、新しく生まれることはできません。積極的に教会で奉仕し、周りの人に認められて、教会で意義のある時間を経験しても、新しく生まれることはできません。「新しいいのち」「新しい創造」「天からの永遠のいのち」としてイエス様ご自身を受け入れることによって、新しく生まれるのです。ニコデモのように、口だけでイエス様を信じることは、「イエス様を受け入れる」こととは違います。イエス様は、ニコデモに問われたように、「私は何回も私自身のことについて教えて来ました。もう十分です。わたしはあなたにとってどういう存在なのですか?」と私たちにも問われています。ぜひその質問について今週考えてみてください。お祈りします。