2024年11月17日礼拝 説教「イエス様を『信じる』とは?」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ダニエル書7章13-14節
さ ん び Opening Praise 死を打ち破り
さ ん び Praise その日全世界が
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美122番「主イエスの死なれた」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書3章12-15節、 民数記21章4-9節
聖書の話 Sermon 「イエス様を『信じる』とは?」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、神様にとって、私たちの中で一番嫌なことは何だと思いますか?ちょっと考えてみてください。今日のお話に出てくる人は、ニコデモと言います。ニコデモは毎週教会に行っていました。ラミークラブの毎週の暗証聖句を、言われなくても、毎週覚えるような人でした。しかし、イエス様はニコデモに、旧約聖書の話をして「あなたはいつも神様に文句を言うイスラエルのようだ。神様に文句を言った人たちがどうなったか分かるかい?あるとき、毒蛇にかまれて死んだんだ。神様からの罰を受けたんだよ。だから、あなたも神様の罰から救われる必要があると思わないかい?」と言いました。ニコデモにとって、これは驚きでした。そして、ラミークラブに通っているみんなも同じかもしれません。

 

嫌なことがあったとき、「神様を信じます!」と口で言っても、「神様、なんでこんなことをするの?私だったらしないのに!」と心の中で叫んでいるのを、神様は全部知っておられます。みんなに聞こえるところでも、家の中でも、心の中でも、「文句」を言わない人はいません。しかし、神様への「文句」は、神様が最も嫌われることなのです。なぜなら、神様の力と知恵を疑うことだからです。これが、すべての罪の原因だとも言えます。残念ながら私たち人間は、神様に対する「文句」を言わないようにする事はなかなかできません。でも、イエス様を信じれば、神様の罰から救われると、イエス様は約束されます。「イエス様、私、教会へ行ってます!」ということが信じる事ではありません。「イエス様、助けてください!」ということがイエス様を信じる事なのです。「イエス様を信じる」とはどういう意味なのかを、今日見ていきたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。この「客観的な」歴史の記録には、ヨハネの「主観的な」目的が二つあります。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうかという三つの選択肢があります。

 

前回は、イエス様についての証言を信じたくなかった人の話でした。その人の名前は、ニコデモです。ニコデモは、自分がイエス様の「敵」だとは思っていませんでした。むしろ、イエス様に好意を持っていて、その教えについてもう少し聞きたいと思っていた聖書の先生でした。しかし、イエス様は、ニコデモを敵視されました。ニコデモが何度もイエス様の話を聞き、しるしを見たにも関わらず、イエス様の自分と同類の「聖書の先生」に過ぎないとしか思っていなかったからです。ニコデモはイエス様の事を、神様に遣わされた一人の先生だとは信じていましたが、イエス様と弟子たちが証ししていたような、この世を救う救い主としては受け入れていませんでした。

 

ですから、イエス様はニコデモに立ち向かわれたのです。そして、「御霊によって、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と、強く、熱くニコデモに訴え続けました。そのように訴えられたニコデモは、「そういわれても、、、どのように御霊によって新しく生まれるのですか?」と疑問に思ったと思います。今日の話は、その疑問に対する答えです。そして、その答えを一言で言うと、「新しく生まれる」ことは、「イエス様を信じる」ということなのです。

 

今まで読んできたヨハネの福音書には、イエス様と様々な人との対話が書かれていましたが、ヨハネ3:12‐21は、この福音書の中のイエス様の最初の「教え」、「説教」のような箇所です。このデビュー説教で、イエス様はニコデモのように、なかなか信じることができない人たちに知ってほしいことをまとめられ、イエス様が私たちのためにどのような救いを用意されたかを教えてくださっています。そして、ここでニコデモに、三つの驚くべき対照的な事実を教えられるのです。この三つの事実を受け入れられることができれば、「御霊によって新しく生まれた」ということです。

 

まず、イエス様の教えはこのように始まります。

12  わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

聖書の教師として、ニコデモは、旧約の預言がどのように成就するか、どのように神様がこの世を裁かれ、どのように神の国が再建され、待望のダビデの子孫である新しい王「メシア」がどのように神の国の「王座」へ昇るかを、イエス様に聞こうとしていたのだと思います。つまり、ニコデモは、自分が待望している「将来」について聞きたかったのです。しかし、イエス様は「天上のこと」、「将来のこと」よりも、まず、目の前の「地上のこと」を気にしなさいとおっしゃいました。そして、「御霊によって、新しく生まれなければ、あなたが待望している神の国にそもそも入ることはできません。」とニコデモを注意されました。

 

そして、イエス様は続けられます。

13  だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

ニコデモが徹底的に学んでいた旧約聖書の中に、ダニエル7章という有名な預言がありました。その預言では、全知全能の神様が、御自分の王国の支配をある「人の子」に、お委ねになるという約束があります。

13 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、 その前に導かれた。 14  この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。 (ダニエル7:13-14)

ニコデモとイスラエルは、この「人の子」ーつまり、人間の子―が天に上って、神の王国を相続することを待ち望んでいたのです。しかし、イエス様は、「天に上って」神様から神の国の権利を相続する人間はいないと宣言されます。ニコデモとイスラエルが待望している「王」は、普通の「人間」ではないのです。これが、イエス様が最初に紹介された驚きの事実です。「天から下って来られ」た「人の子」しか、私たちが望んでいる「将来」、「救い」を果たすことができないということなのです。

 

私たちは、いろんな輝かしい「将来」を思い描いていて、ある「人」がそれを与えてくださると妄想してしまいます。イエス様は、私たちよりも現実的です。「そのような事を、人間が果たすことができますか?『天から下って来られ』た『人の子』しか果たす事はできません!」と訴えられます。しかし、「『天から下る人間』なんて、そもそもどこにいるのでしょうか?」と、ニコデモも疑問に思ったかも知れません。その疑問には答える事もなく、イエス様は淡々と説教を続けられます。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

イエス様は、突然、「人の子」の預言とは全く関係のないような、荒野でのモーセの話を引用されます。司会者が先ほど読んだ、民数記21:4-9です。どういう内容だったでしょうか?神様は、力強い救いの御業によって、神の民を430年ものエジプトの奴隷制度から解放され、神様が約束されたカナンの地へ導かれました。荒野では、水も食べ物もありませんでしたが、石から水を出したり、天から「マナ」というパン種を降らせたりと、神様は奇跡的に、必要な水と食糧を民にお与えになったのです。

 

しかし、約束の地への道のりは、予想以上に時間がかかってしまいました。そして、民数記21:4-5では、「民は、途中で我慢ができなくなり、 5  神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」と、神の民の不満、じれったさ、うんざり、いらだちが描かれています。神様は、それは、単なる「愚痴」ではなく、神様のご支配への民の訴えでした。民は神様の御救いを忘れ、神様が与えてくださった奇跡的に与えられたパンを侮り、「わたしだったら、こんな計画を立てない。もっといい神がいるはずだ。」と訴えたのです。これは自分たちの王を転覆させるクーデターの幕開けでした。ですから、神様は、御自分の王国を守られるために、罰として「燃える」神様の御怒りを現わす、「燃える」毒蛇を神の民に送られたのです。

 

なぜ、イエス様はいきなりこの聖書箇所を引用されたのでしょうか?聖書を徹底的に学んできたニコデモ。一生懸命、神様に従い続けてきたニコデモ。イエス様に好意を持って、神の国について聞こうとしているニコデモ。そのニコデモに、面と向かって、「あなたは気づいていないかもしれないが、あなたは神に逆らっている民と全く同じだ。」とイエス様はおっしゃるのです。これがイエス様が教えてくださる二つ目の驚きの事実です。イエス様は、私たちに面と向かって、「自分でも気づいていないかもしれないが、あなたは常々、自分の日々の苦難を見て、神様にうんざりして、聖書の神様が用意してくださった道のりを嫌なんでしょ?」と私たちに言っておられるのです。

 

たとえ私たちがニコデモのように、聖書を神のことばとして信じていても。大きな犠牲を払って神様に従おうとしていても。または、異教の偶像を拝んでいなくても。この世の欲に溺れていなくても。それは全く関係ないのです。放蕩する弟の兄が、自分の父親に対してうんざりしていたように、私たちクリスチャンも心の中で神様に対して心のどこかに根深い苦味と怒りを抱いているのです。カオスのような世界。愛する人が患っている病気。自分の家庭環境。家族の経済的状況。抜けられない孤独と難しい職場。トラウマをもたらした人間関係。これらはすべて、これら一つ一つの全てが、神様が定められたご計画の中にあることなのです。神様のご計画に対して、何か言いたいことがありますか?大声で言わないかもしれません。しかし、正直になれば、みんな同じことを言うでしょう。まず、自分の力では抜け出すことができなかった状況から救われたときの事を完全に忘れてしまいます。そして、毎日、いただいている恵みを侮りながら、「神様、なんでこんな計画を考えたんですか?絶対、他に違う方法あるんじゃないですか?!」と私たちは神様に逆らって訴えるのです。ある意味、それは、アダムがエデンの園で犯した罪でもありますが、私たちが日々、犯している罪でもあるのです。そういう訳で、私たちも、アダムや荒野で神に逆らった民と同じように、神様の罰に値する者なのです。今、私たちに罰がない理由は、ただ、神様が私たちの罪を忍耐してくださっているだけなのです。しかし、民数記の話は、さばきだけで終わったでしょうか?民は自分たちの罪に気づき、モーセにこう言いました。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」

 

ですから、イエス様がニコデモに教えられた二つ目の衝撃的な事実は、「私たちは神様とイエス様を非難していることを認め、神様に罰せられないように主の憐れみを求める必要がある。」ということです。そして、忘れていけないのは、これが、ニコデモのように誠実に礼拝に通って、聖書をよく読んでいる「きよい」クリスチャンたちに向けての教えだと言う事です。いかがでしょうか。自分の心の中に、間接的にではあっても、心の中に秘めている苦味が熟されて、神様を日々非難していることを私たちも認めますか?

 

民数記で、神様はどのように罪人のために神様の罰からの救いを用意されたでしょうか?神様が用意された救いの手段は、人間が思いも付かないような、非常に面白い手段だと思いませんか?神様の罰と御怒りを現わす「燃える蛇」を旗ざおの上に付け、神様の罰を受けた人が頭を数センチちょっと上げて、その「燃える蛇」を自分の救いとして「仰ぎ見る」だけで、神様の永遠に燃える御怒りが一瞬でなくなるのです。

 

イエス様は神様の究極の救いをこの蛇の話に例えられます。

14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

聖書をよく勉強しているニコデモにとって、これは困惑をもたらす一文です。先ほど読んだダニエル書の預言では、「人の子」は天に上り、神様がこの「人の子」に「主権と栄誉と国が与えられ」、その上、「諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕える」と預言されています。しかし、その「人の子」が王座へ上る手段は、呪いの象徴である「燃える青銅の蛇」が旗ざおに付けられたように「上る」ことと、イエス様が教えられました。「神の栄光と王国を相続する人の子が、呪いの蛇になる?!」とニコデモは思ったでしょう。

 

イエス様の意味をすぐに察した方がいらっしゃると思います。イエス様は、十字架のことを示唆されているのです。イエス様が十字架にかけられることは、神様の御怒りと罰と呪いを、私たちの代わりに受けられるということなのです。旧約聖書には「木にかけられた者はみな、のろわれている」(申命記21:23)と書いてあり、十字架にかけられたイエス様は、「燃える蛇」のように、神様に呪われた者の象徴になるのです。これが「メシア」である「人の子」の王座への上り方なのです。

 

次の聖書箇所に、このようにまとめられています。

16  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 17  神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 18  御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

これが、イエス様が教えてくださる、最後の驚きの事実なのです。「私たちを神の罰から救うために、神の国を相続する人の子が、旗ざおに付けられた呪いの蛇のように、十字架にかけられたのです。」

 

この三つの事実を聞いた私たちは、何をすればいいでしょうか?一言でいうなら、イエス様を信じることです。これが「御霊によって新しく生まれた」証拠なのです。皆さんは、イエス様を信じているでしょうか?

 

「信じる」ということは、この蛇の話で説明されています。信じるとは、「燃える蛇」である十字架にかけられたイエス様を、ただ仰ぎ見るだけなのです。もう一度言います。信仰は、十字架にかけられたイエス様を、自分の救いとして仰ぎ見るだけです。ウエストミンスター小教理問答問86は、信仰は、「福音において提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみより頼む」と定義づけています。

日本語では「仰ぎ見る」という言葉は、ただ上を向くという意味ではありませんね。そのような信仰は、サタンにもあります。サタンも、イエス様には私たちを救う力があると知っています。しかし、サタンは、イエス様を自分の救い主としてより頼んでいません。それが、「仰ぎ見る」のもう一つの意味です。イエス様を「仰ぎ見る」信仰は、イエス様を自分の救い主として受け入れて、より頼むということです。蛇の話に例えると、「神様、私はあなたを非難して、あなたの罰に値するものです。私はあなたの罰によって今すぐ死ななければなりません。しかし、あなたが用意してくださった青銅の燃える蛇を仰ぎ見て、救われることを期待します!」ということが「仰ぎ見る」信仰です。「より頼む」信仰です。

しかし、「仰ぎ見る」信仰のみの救いは、信仰の「深さ」によって救われるものではありません。救いの「対象」によって救われるのです。感謝なことに、からし種のような信仰でも、目をあけて、数センチ頭に上を向けて、青銅の蛇であるイエス様を仰ぎ見て、「どうかわたしを救ってください」とより頼めば、永遠に救われるのです。なぜなら、自分の信仰の「深さ」によって救われるわけではないからです。信仰がより頼む「イエス様」が私たちを救ってくださるのです。この世界では、このような「信仰のみの救い」を提供する宗教、価値観、哲学はありません。

しかし、私たちは、ニコデモのように罠にはまらないように気を付けなければなりません。信仰はイエス様を自分の救いとして「仰ぎ見る」ことで、イエス様のために「何かをする」ということではありません。教会で毎週欠かさず礼拝しているとしても。教会で身を粉にして奉仕しているとしても。聖書を全部丸暗記したり、毎朝、熱く兄弟姉妹のために祈ったとしても。セルで親しく交わりをしているとしても。惜しげもなく教会や貧しい人に献金しているとしても。そのような「良い行い」は、あなたが神様のために何かをしている証拠ですが、イエス様を仰ぎ見ている証拠にはならないのです。前回のヨハネの説教で言いましたが、信仰は、「イエス様はあなたにとってどういう存在なのですか?」に対する答えなのです。「神様」は、あなたにとってどういう存在なのかという質問ではありません。(全知全能である創造主は、他の宗教でも信じることができます。)「聖書」または「聖霊」は、あなたにとってどういう存在なのかという質問でもありません。「教会」、または、海浜幕張めぐみ教会はあなたにとってどういう存在なのかという質問でもありません。私たちに問われているのは「イエス様」はあなたにとって、どういう存在でしょうか?」という事です。十字架を仰ぎ見た使徒パウロは、その質問にこのように答えました。

7  しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 8  それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 9  キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。(ピリピ3:7-9)

死ぬべき者であった私たちを救ってくださったイエス様を、自分の救いであり、自分のすべてとして仰ぎ見ることができれば、感謝なことに、あなたは御霊によって新しく生まれたのです。お祈りします。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church