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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙5章6-11節 |
さ ん び | Opening Praise | どうしてそこまで ~You Are My King~ |
さ ん び | Praise | 喜びの声上げて |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌319番「主イエスのみ声は罪ある者を」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書3章16-21節 |
聖書の話 | Sermon | 「神様の『愛』とは」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますね。誰かにー好きな人、お父さんお母さん、お友達ー「愛されている」と感じるときはどういう時でしょうか?私は三つのことが重要かなと思います。まず「特別に」愛されることが重要ですね。もし、クラスにいる好きな人に「マークくんのことが好きだよ。クラスのみんなと、学校のみんなと、世界のみんなと同じぐらい好きだよ。」と言われても嬉しくないと思います。「愛される」という事は相手から特別な愛をいただくことです。次に、それは、義務からではなく、相手の自発的な、心からの愛が重要です。もし、私の母が「マークのこと愛している理由は、自分が好きとか嫌いとかは関係なく、親としての責任だから。私はあなたを愛さなければならないの。」と言われたら、子供としては、全然嬉しくないですね。「あ、私は母の負担なんだ」と思ってしまいますね。ですから、「愛されている」と感じるときは、「相手が自分で決めて、心から私を愛してくれているんだ!」と感じるときです。最後に、自分自身をを愛してくれる愛が重要ですね。例えば、もし自分の友達に「マークくんといるとき、あんまり楽しくないけど友達になってあげるよ。」、または「マークくんは勉強できるね。私の宿題を助けてくれたら、友達になってあげるよ。」と言われても、あまり嬉しくないですね。なぜかというと、その友達は「マーク」そのものを愛してくれてないですよね。「神様からいただく愛」も同じです。神様に「愛されている」と感じるときは、「特別な」愛をいただくときです。義務ではなく、神様ご自身が心から私たちを愛すると決められたとわかったとき。そして、自分を「自分」として神様が私たちを愛してくださるときです。その三つがあるとき「神様に愛されている」と感じますね。
しかし、子供たちに言いたいのは-大人の皆さんにも言いたいのですがーそのように神様に愛されることは、当然なことではありません。クラスメイトに、または、すごく偉い人に、「何で自分から、特別に、私をありのままに愛してくれないんですか?!」と私たちから言うのは、ちょっと不自然ですよね。しかも、私たちは神様をいつも無視して、自分勝手に生きていて、神様に常に逆らっているのです。ですから、神様にもそのような事は言えません。そもそも、神様が私たちを愛さなければならない理由などないのです。しかし、神様が私たちを愛する唯一の理由があるのです。それはイエス様のゆえに、私たちを、特別に、自発的に、私たちを愛することです。本日の箇所を見ながら、「神の愛」とは何なのかを見ていきたいと思います。
本日の箇所は、キリスト教の中でも一番有名な箇所です。それは、ヨハネ3:16です。そこに「神は、実に...世を愛された」と書いてありますが、神様が愛された「世」はどういうものなのかを見ていきましょう。最初のポイントはこれです。「この世界は神様のことを愛していません。むしろ、神様と神様の光を憎んでいるのです。」
21世紀の日本にいる私たちにとって、「全世界」「グローバル」は中立的な響き、または、ポジティブな響きがあるかもしれません。ですから、「神は、実に...世を愛された」と聞くとき、「神様の愛は世界にわたる、グローバルな愛を持っていらっしゃるんだ」と捉えてしまうかもしれません。しかし、それは福音書を書いたヨハネの観点ではありませんし、イエス様ご自身の観点でもありません。
ヨハネはこの福音書の序論にこのように私たちの「世界」を描きました。ヨハネ1:9-10をお読みします。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」つまり「まことの光」であるイエス様がこの全世界を作られたのにかかわらず、この世界はイエス様の存在をなんとも思わなかったのです。
イエス様もヨハネと同じ観点を持っていらっしゃいますが、本日の聖書箇所でもうすこしストレートにおっしゃいます。ヨハネ3:19‐20をお読みします。
「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。 」
要するに、この世界の人々は、ただイエス様を無視するのではなく、イエス様ご自身とイエス様の教えを「憎み」、この世の「闇」または「悪の行い」を愛した、イエス様がおっしゃいます。なぜこの「世界」はそこまでイエス様を憎んだのでしょうか?イエス様は弟子たちにこのように説明されました。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(ヨハネ7:7)イエス様は、私たちの自分勝手な歩みをすべて見ておられます。そして、はっきりと、私たちに面と向かって、「時間とお金の使い方をみれば、私と神様を優先していないのはわかる。何と誰を愛しているのか、あなたがちっとも私に向いていないのもわかる。そして、心の中で何を望んでいるのかを見て、あなたは私に望みを置いていないこともわかる。あなたは私と神様を憎んでいる。」と、おっしゃっているのです。
ヨハネの福音書を読んでいる人々も、イエス様が誰に向けて言っておられるのかが分かります。道徳的で宗教的な、ちゃんとしているニコデモに話しているのです。イスラエルの中でも、忠実に聖書を読んで神様を礼拝しようとする人で、イエス様にも好意を持っている人です。しかし、イエス様は、「あなたもこの世界の一人であり、光を否定しようとする暗闇だ」とニコデモを注意されたのです。私たちクリスチャンにも、イエス様はおっしゃっているのです。「あなたはこの世から来た人だ。私を憎んでいることを認めますか?」
もし「世界」が神様を憎む存在であれば、少なくとも、神様が「世界」を愛することは当然なことではないと言えますし、神様が「世界」を愛する義務もありません。ロシアによって自分の町が破壊され、自分の家族が殺されたウクライナ人が、ロシアを愛することは「当然」のことでしょうか?イスラエル人がハマスを愛すること、または、パレスチナ人がネタニヤフ大統領を愛すること、それは「当然」のことでしょうか?とんでもないです。同じように、もしこの世界ーつまり、私たちーが、神様のことを愛せず、むしろ、神様を憎んでいるのであれば、私たちが「神の愛」を期待できないのはなおさらことです。
しかし、それだけではありません。次のポイントはこれです。「神様がこの世界を愛すること、または、救うことは、想像を超えるものだけではなく、不可能なことです。」
もしこの世界が「闇」を愛するのであれば、神様は誰を愛されているのでしょうか?ヨハネが書いた書物を読むと、神様の特別な愛、自発的な愛、純粋な愛は、「イエス様のみ」に与えておられるのです。ヨハネ3:35「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。」ヨハネ5:20「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」
むしろ、神様は、この世界からくる欲を何も愛されませんし、イエス様に与えられた特別な愛は、この世には与えられません。ヨハネはこう説明します。
あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(1ヨハネ2:15-16)
その理由は、ヤコブ4:4にもうすこし、はっきりと書かれています。
「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」
「節操のない者」の原語の意味は、「姦淫する者たち」という意味です。つまり、イエス様を愛さず、この世を愛する者は、姦淫と同様であり、イエス様よりも浮気相手を愛することによって、イエス様を敵に回す事になると聖書は書いています。
もう一度いいます。私たちは、私たちの罪と憎しみによって、神様を敵に回してしまいます。一つの例えをします。自分の最愛の人がいて、その人と住んでいるとしましょう。結婚相手、子供、親、友人かもしれません。しかし、その人はあなたを心の底から憎んでいます。それだけではありません。あなたにいろんな形ー言葉で、暴力で、振る舞いでー精神的、身体的な害を与えようとします。そして、あなたがどのように説得しようとしても、あなたがどのよう振舞っても、最愛の人があなたの存在を消そうとします。もしそういう状態にいれば、自分の身を守るために、警察を呼ぶ必要があります。相手に対する愛は変わりませんが、相手の悪質な憎しみは、自分の判断ではなく、正義をもって裁かれる必要もあります。自分がどれほどその人を愛したとしても、最愛の人の憎しみによって、その人は自分の敵になってしまったのです。そして、最愛の人であっても、正義と法律を無視することはできません。
神様は、この例えと似たような立場におられます。神様を憎み、この世が愛していることを愛し、悪を行ってしまった私たちです。この世界は、神様の光と義を拒み、神様の王座を圧倒し、自分たちの世界にしようとしているのです。もしそうであれば、神様を圧倒しようとする世界を、御自分の栄光と王国を守られるために、この世を阻止されることはなおさらのことではないのでしょうか。そして、もし神様ご自身が正義をもたらす裁判官であれば、最愛の人が自分の義と光を破壊しようとするのであれば、最愛の人を裁く必要になるのは、なおさらのことではないのでしょうか。「悪しき者を正しいとする者、 正しい人を悪いとする者、 主はこの両者を忌み嫌われる。」と箴言17:15に書いてあります。ですから、「さばきのためにこの世に来られた」(ヨハネ9:39)イエス様は、正義と光をもってこの世界を裁かれ、この世の悪を滅ぼすことを宣言されました(ヨハネ5:27-29; 16:8-11; 16:33)。それ以外のことはできないのです。ですから、神様と神の子であるイエス様は、この世界を愛すること、または、救うことは、想像を超えるものだけではなく、不可能なことです。
一つ目と二つ目のポイントを考慮すると、ヨハネ3:16ー17はどれほど驚きの2節なのかがわかります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)
不可能なのに、神様がどのようにこの世を救われ、愛されたのでしょうか?それが三つ目のポイントです。「神様は唯一残された手段を選ばれ、御自分のひとり子を信じる者を、ひとり子にあって愛されたのです。」
新改訳2017版では、「神は、実に...世を愛された。」と訳していますが、文脈を読むと、「神は、【このように】...世を愛された。」のほうが正しいと思います。(英語版のESVでは、その別訳が※として書かれています。)しかし、「このように」はどのような意味をもっているのでしょうか?二つの意味があります。
まず、イエス様を信じているから、神様が私たちを愛することができるという意味です。イエス様は、あとで、弟子たちにこのように説明されました。「父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。」(ヨハネ16:27)そして、ヨハネ17:25-26で、イエス様はこのように祈られました。「正しい父よ...あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」つまり、イエス様を信じる者にはイエス様と結ばれることによって、イエス様に対する特別で、自発的で、純粋な神様の愛が、一方的に私たちに与えられるのです。
しかも、私たちはイエス様の「ひとり子」に対する御父の愛をいただいているのです。「ひとり子」がいただく愛というのが、どれほどの愛かを考えたことがありますか?私は5人子供がいます。5人全員を同じように愛していますが、世界の子供たちに対する愛と、自分の子供に対する愛は完全に違う次元だと言えます。そして、もし子供がひとりしかいなかったら、5人に対する愛は、ただ一人に集中されるということです。神様の「ひとり子」であれば、神様の膨大、無限、不変、永遠の愛がひとつの点に集中するようなものです。神様の特別で、自発的で、純粋な愛は、「いまだかつて…見た者はいない」のですが、「父のふところにおられるひとり子」、最愛のイエス様しか知ることができません(ヨハネ1:18参照)。だれもその愛をいただいたことがありません。しかし、イエス様を信じる者がイエス様にあって、神の子にされるのです。それゆえ、私たちは「神のひとり子」に対する愛を受けることになるのです。普通に考えれば、とんでもない、考えられない話です。しかし、そもそも、なぜ「ひとり子」のように愛される必要があるのでしょうか?
ここで3:16の「神は、【このように】...世を愛された。」の「このように」のもう一つの意味を理解する必要があります。「ひとり子にあって」愛されることは、この「世界」が救われ、愛される唯一の手段なのです。文脈を理解するために、3:14‐16をまた読みます。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。16 神は、【このように】、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
前回のヨハネからの説教では、民数記21章の話について聞きました。イスラエルが神様のご支配に反抗してしまい、毒蛇にかまれ裁かれましたが、神様を憎む私たちも同じ裁きに値します。つまり、このままでは、神様を憎むこの「世」として、私たちは神様のさばきに滅ぶ運命です。しかし、そのような罪人たちを救うために、モーセが呪いの蛇を旗ざおにつけたように、「人の子」も、私たちのために呪われた者として十字架につけられなければならないのです。それ以外の手段は、神様ご自身の正義を裏切り、神様を忌み嫌う悪を許すことをなってしまうのです(箴言17:15参照)。14節が意味しているのは、この「世界」の膨大な罪を償えるものは、ご自分の最愛の「ひとり子」だけだということです。しかし、神様はご自分のひとり子を捧げられるほど、イエス様を信じる者を愛されたのです。皆さん、そのように、自分の最愛のひとり子をささげるほど、誰かを愛したことがありますか?そのような愛を人から受けたことがありますか?
もう一度言いますが、神様の愛は、特別なものです。神様は、「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」のです。神様は、この宇宙、動物たち、天使たちをそのようには愛されませんでした。その上、夫が特別に妻を愛するように、イエス様は教会を愛され、ご自分を献げられたのです(エペソ5:25参照)。
神様の愛は、自発的なものです。神様には、神を憎む世界を愛する義務はありませんし、そのような世界のためにご自分のひとり子をささげないと言う自由もあります。むしろ、この世をそのまま裁かれることは、正義を満たすことでした。しかし、義務感からではなく、世界が罪に堕落する前に、神様は、ご自分のひとり子イエス様とご一緒に、何があっても、イエス様にあってこの世を愛することを決められました(エペソ1:3-5、2テモテ1:19参照)。
神様の愛は、私自身を愛する純粋な愛です。私たちが「弱かったとき」、私たちが「不敬虔な者」「罪人」であったとき、イエス様が「私たちのために死なれたことによって、神様は私たちに対するご自分の愛を明らかに」されたのです(ローマ5:6-8参照)。神様は私たちを罪人であっても、私たちを無条件に愛し、救ってくださったのです。なぜなら、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなこと」だからです。(ローマ5:10)
もしこれが「神様の愛」ならば、この素晴らしい愛を知った者として、どうすればいいのでしょうか?これが、最後のポイントです。「神様の愛を受けるものは、自分の現実を受け入れ、神様がなされた救いにより頼み、光であるイエス様に変えられた人」ということです。
イエス様のニコデモへのメッセージ、または、説教の最後の招きはこれです。「真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(ヨハネ3:21)本当に面白いことに、3:20の「悪を行う者」の対比は、「義を行う」人ではなく、「真理を行う」者なのです。「真理を行う」とは、自分の義や、きよさは明らかにされずに、「神にあってなされたことが明らかになる」という行いです。それは、どういう意味でしょうか?真理を行う者は、「光の方」であるイエス様の方へ行く者であるという事です。
そして、具体的な例があります。このイエス様の教えを聞いていたニコデモは、イエス様を信じない「人」(ヨハネ2:25-3:1)の代表でした。福音書の中で、ニコデモはもう2回しか出てこないのですが、その二つの箇所(7:50-51)を見ると、イエス様の「神様の愛」の話を聞いてー時間はかかりましたがー、イエス様に変えられ、「真理を行う」人になったのです。
イエス様の話をよく聞いて、ニコデモは、イエス様が憎む存在ではないと認めたのです(ヨハネ7:50-51参照)。むしろ、イエス様の話を聞いたほうがいいと考えはじめたのだと思います。そして、祭司長たちとパリサイ人たちがイエス様を十字架にかけ、弟子たちも含めすべての人が彼を見捨てたとしても、ニコデモは、イエス様のもとへ行き、イエス様を仰ぎ見てご遺体を埋葬したのです(19:39参照)。それは、ニコデモが、私たちが想像以上に罪深いという「真理」を受け入れ、自分たちの「義の行い」では罪を償うことができず、神様とイエス様の愛以外には希望がないという「真理」を受け入れたからです。
つまり、ニコデモは、ヨハネの福音書を通して、21世紀にいる私たちへのイエス様の証人になったのです。「神は、そのひとり子をお与えになったほどにあなたを愛されたのです!最初は私は全身全霊で否定したけど、自分に神様の愛が必要だとやっと認めることができた。ですから、もし神の裁きに滅びることなく、永遠のいのちが欲しければ、イエス様を信じなさい!そうすれば、あなたは神様の愛を受けることができる!」と私たちを説得しているようなものです。私たちもニコデモのように、イエス様を最初拒んだとしても、自分の現実を受け入れ、神様がなしてくださった救いにより頼み、光であるイエス様を仰ぎ見て行きましょう。