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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌76番「もろびとごぞりて」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌59番「久しく待ちにし」1-3番
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記33章1-20節
聖書の話 「変えられたヤコブの信仰」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌324番「イエスよこの身を清めて」1,2,4番
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子どもたちに質問です。こんな風に思ったことはありませんか?「もしイエス様を信じるだけで、どんな悪いことをしても許されるなら、どうして心を改めて悪いことをやめなきゃいけないんだろう?」と。ご安心ください。大人だって、同じようなことを考えたことがあります。たとえば、とても貧しい家庭で育った子がいたとしましょう。その子は、お腹がすいて、ついスーパーで自分のご飯のためにおにぎりを盗んでしまう癖がついてしまいます。もし、神様がその子に、「毎日、あなたが盗んでも盗まなくても、十分なお小遣いをあげ続けることを約束する。だから、もう盗まなくてもいいよ」と言ってくださったら、どうでしょうか?もしその子が、「神様からお金をもらえるんだから、これからも盗んでもいいや」と思ったとしたら、それは神様の愛の深さと、そのお小遣いが十分であるとわからないからなのです。神様からもらった恵みの価値を信じれば、もう盗む必要がないと感じるはずです。神様の愛の大きさ、神様の約束の価値を知れば知るほど、その子のように必ず変わります。本日の話は、ヤコブが神様の恵みに変えられた話です。神様が、イエス様の約束された救いを通して、天国の恵みを一方的に与えてくださるとヤコブに約束されました。どれほどヤコブが罪を犯しても、無条件に天の恵みを与えてくださると、神様が約束しました。そして、ヤコブは、イエス様にある無条件な愛によって、大きく変えられ、今までと違う道を歩む勇気が与えられた話です。今週も三つのポイントにそって、その話を見ていきたいと思います。
創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかも知れませんので、簡単にこの書物の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時、人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの契約」をお与えになりました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、アブラハムの一人の子孫が、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)を信じるならば、アブラハムの子孫も同じように天国を相続できると言うのです。21世紀に生きるクリスチャンも同じ信仰をもっているゆえに、私たちも「アブラハムの子孫」であり(ローマ4:16参照)、私たちも創世記に出てくるアブラハムの子孫と同じように、天の約束の地を相続することを待ち望んでいるのです。
本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。弟のヤコブは神様の恵みをいただく「長子の相続権」を兄のエサウからスープ1杯分の安値で買いました。後でその事を後悔したエサウが弟ヤコブを殺そうとしたので、ヤコブは1000キロ北にあるパダン・アラムに逃げました。しかし、神様はご自分の約束をはたされるために、必ずヤコブをカナンの地へ連れ戻し、ヤコブ家を守ると約束されました。そして、ヤコブはパダン・アラムで20年もの間、義理の父に苦しめられましたが、神様はヤコブ家を大いに祝福し、守り続けられました。それゆえ、ヤコブは「パダン・アラム」から離れ、約束の地であるカナンに住み、神様がくださる恵みを待ち望む事を決心したのです。
しかし、パダン・アラムから離れて約束の地に入る前に、神様は突然ヤコブと格闘されました。それは、神様が、ヤコブにーそして、私たちにー大事なことを教えられるためでした。それは、天と約束の地を相続する前に、天と約束の地をご支配される神様に、自分が天と約束の地を相続するのにふさわしい者であることを証明しないといけない、ということです。
そして、それを証明するには、神様との勝負に勝つことでした。えこひいきされない神様も容赦はしません。ヤコブは神様に勝とうとするのですが、もちろん完敗でした。しかし、涙を流しながら、「私が負けたとしても、天と約束の地を相続したいです」とヤコブは足にしがみつきながら懇願します。すると、神様は、「いいでしょう。では、私が負けます。あなたは私に勝ちました。ですから、あなたは天の祝福を受けます。」と言われました。つまり、天と約束の地に入るために神様に勝てる方法は、一つしかありません。神様が自ら負けてくださり、私たちに勝利を与えてくださることを信じることです(ローマ4:5参照)。私たちもヤコブと同じ信仰を持っています。神様に完敗した私たちも、足を引きずりながら、神様に勝たせていただいた者であり、勝利の報酬を待ち望んでいる者なのです。
しかし、神様の祝福を相続できたらヤコブと私たちは、そのあと、どうなるのでしょうか?天を相続する特権をいただいて、それを相続するまでただ時間を潰すのでしょうか?とんでもないです。これが一つ目のポイントであり、本日のメインポイントでもあります。「神様がすでに勝利を与えてくださったので、ヤコブは悔い改めと約束の地へ向かう力と勇気も与えられます。」つまり、ありのままでいられない、自分が変わる必要があると思ったのです。
神様が天を相続する権利を確実に与えられるなら、人が変わらない訳がありません。例えば、私が宝くじであたった10億円を誰かに与えると約束したら、その人が今向き合っている課題の向き合い方は完全に変わると思います。
神様と格闘して一生足を引きずるケガをしたとしても、また、絶望的な状況に置かれたとしても、ヤコブは「神様に勝った」人なのです。どのようなものを失ったとしても、神様から勝ち取った祝福には勝りません。ヤコブの歩み方は、33章で変わったと言えます。ヤコブと同じように、私たちもイエス様の救いをいただいた者として、人生の向き合い方が変わったのです。本日の箇所の流れを解説するより、ヤコブがどのように変わったかに焦点を当てたいと思います。そして、ヤコブの変化を通して、私たちもどのように神様に変えられたのか、これからどのように変化できるのかがわかると思います。
一つ目の変化。神様から勝利をいただいたゆえに、負けず嫌いなヤコブは兄エサウと和解するために、自分から負けを認めることができたのです。忘れていけないのは、ヤコブという名前の由来です。ヤコブは、負けず嫌いで、常に周りの人を出し抜こうとした人です。特に、兄に対していつも対抗意識があり、負けたくありませんでした。今までのヤコブの話を読むと、負けを認めることや、自分の間違いを認めることがどれほどヤコブにとって難しいことだったのかが想像つくと思います。しかし、神様からの勝利をいただいたヤコブは、「兄に近づくまで、七回地にひれ伏し」(3節)、自分の兄を「あなた様」と呼び、自分を「あなたのしもべ」とも呼び、プライドを捨てて、へりくだって、全身全霊で、真心からエサウに謝ることができたのです。
二つ目の変化。神様から勝利をいただいたゆえに、自分中心だったヤコブは、自分の命をかけて家族を守ることができました。今までのヤコブは、自分の家族をないがしろにしてきました。兄エサウを騙してきたし、自分を守るために自分の罪の責任を母に負わせました。また、天の祝福を得るために、父に対して詐欺をも行ったのです。そして、自分の欲を満たすために、一人目の妻レアと二人目の妻リベカを自由にもてあそんだようにも見えます。これ程、自分中心だったヤコブが、神様から勝利を与えられたゆえに、犠牲的に、自分の命をかけて家族を守る覚悟ができたのです。このようにも変えられました。
三つ目の変化。神様から勝利をいただいたゆえに、お金が大好きなヤコブは、神様からいただいた物理的な恵みを全部手放すことができたのです。ヤコブは、どんな手段を使っても利益を絞り出せるほど非常に優秀なビジネスマンでした。ヤコブは、青年の時から、天の祝福を欲しがっていましたが、霊的な恵みのためというよりも、神様からの物理的な恵みを狙っていた可能性が高いと私は思います。しかし、ヤコブがエサウにおくった贈り物が膨大で、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」とエサウが尋ねたほどです。エサウがヤコブの贈り物を断ろうとしたときに、ヤコブがしきりに勧めたゆえに、エサウは受け取ることができたのです。神様から勝利をいただいたゆえに、ヤコブの物理的な恵みへの愛着が完全に変わったのです。
四つ目の変化。神様から勝利をいただいたゆえに、自分の努力に頼っていたヤコブは、自分の努力をなんとも思わず、神様に常に感謝できました。ヤコブは、14年間労働する事によって、二人の妻と結婚することもでき、12人の子供も与えられました。そして、パダン・アラムでは、自分の策略で叔父ラバンから膨大な財産を勝ち取ることができたのです。叔父ラバンの財産は、ヤコブが20年間ラバンに仕えた結果とも言えます。ですから、ビジネスマンとして誇ることができ、その結果、20年間、神様からの助けを求めなかったのです。しかし、変えられたヤコブは、自分の子供たちを指して、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」、400人ほどの奴隷と財産を指して、「どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」つまり、神様の勝利はヤコブにとって「すべてのもの」であり、それは一方的に与えられたので、自分の努力などは、何ほどでもないと思って神様の恵みを褒めたたえたのです。
五つ目の変化。神様からいただいた勝利のゆえに、自分の利益しか考えなかったヤコブは、関係を修復するために、エサウと和解しました。ヤコブは、それまで自分の利益を考えて、人とかかわってきた人でした。周りの人は自分の利益をあげるための「コマ」に過ぎませんでした。しかし、ヤコブがエサウと和解したかった理由は、将棋の手筋の展開の一つとしてではなく、ただただエサウとの関係を修復するためでした。「私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」とヤコブは真心から言いました。つまり、ヤコブは神様からいただいた勝利のゆえに、自分の利益を手放し、自分の兄を愛するために、また、その関係を楽しむために、和解を求めたのです。
六つ目の変化。神様からいただいた勝利のゆえに、人を恐れていたヤコブは、人を恐れるよりも、神様の約束を選ぶことができたのです。縁を切った自分の家族と和解でき、新しい関係を築くことができたら、私たちはその関係を楽しもうとするのはなおさらなことです。しかし、エサウが、ヤコブと一緒に自分の故郷セイルに戻ろうとしたとき、ヤコブは一緒に行きませんでした。理由は、シンプルです。エサウが神様の約束を捨てて、約束の地よりもいい土地に住んだからです。神様からいただいた勝利のゆえに、ヤコブは自分の家族よりも神様からいただいた約束のほうが大事だと決心することができたのです。
七つ目の変化。神様からいただいた勝利のゆえに、ヤコブは、すぐに神様に礼拝を捧げました。ヤコブは、今まで奇跡的に神様から恵みをいただいてきました。奇跡的に同じ信仰を持つ妻が与えられました。奇跡的に、何もない荒野をさまよう物乞いから大金持ちに変えられました。ラバンがヤコブ家を奴隷としてまた捕まえようしたとき、奇跡的に救われました。それまで、どのような時も、ヤコブは自分から神様に感謝の祈りを捧げませんでした。しかし、神様からいただいた勝利のゆえに、ヤコブは、自分から祭壇を築き、「私の神様、イスラエルの神だ!私に勝利を与えてくださる神!」と賛美を捧げたのです。
ヤコブは、神様からいただいた勝利のゆえに、これ以上自分を変える必要はない、とは思いませんでした。むしろ、神様からいただいた勝利によって、いろんなことができる自由が与えられ、自分を変える自由が与えられました。もし、神様の勝利がこのようにヤコブを変えることができるのであれば、私たちも、このように変わることができるのです。いかがでしょうか?ヤコブの7つの変化をみて、神様がこのように自分を変えてくださっていると感じますか?皆さん気づいていないかもしれませんが、もうすでに神様からいただいた勝利によって変えられているかもしれません。ですから、ヤコブと同じように、神様からいただいた勝利がもたらす勇気をもって、自分の罪を悔い改めて、天の約束の地へ向かっていきましょう。
私はここで説教を終わらせることができます。しかし、私も含め、クリスチャンがよく誤解しがちな点があります。これが本日の二つ目のポイントです。神様からいただいた勝利のゆえヤコブは大きく変えられましたが、ヤコブはまだまだ変えられていない罪がたくさんあります。
創世記29章の説教で、ヤコブは、未熟なクリスチャンとして変えられましたが、まだまだ罪が残っている事をお話しました。それを聞いて、「成熟したクリスチャンはそれほど罪が残っていない」と思われたかもしれません。残念ながら、創世記33章で私が分かち合いたいのは、ヤコブが、成熟したクリスチャンとして大きく変えられたとしても、まだまだ罪が残っているのははっきりわかるという事です。深くは見ませんが、この箇所から五つの罪が見えると思います。
一つ目の罪。何回も神様に奇跡的に守られたのに、ヤコブは神様が守ってくださらないことを恐れていました。エサウがヤコブのところへ近づいたときに、一緒に四百人の者がいました。ヤコブはそれをみて、「ああ!エサウは私を攻撃しようとしているんだ!」と思い、自分の家族をいくつかの群れに分けて、いつでも逃げられるように準備をしました(33:1)。つまり、神様がご自分の約束を果たされない可能性を恐れていたのです。神様の約束に対する不信仰がヤコブの行動からわかります。
二つ目の罪。ヤコブは、自分勝手な基準で家族を愛していました。ヤコブを殺そうとするエサウが近づいたときに、「女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。」と33:2に書いてあります。ヤコブの自分勝手な罪が見え見えですね。夫として、親として、すべての家族を自分自身と同じように愛しなさいという神の基準があるのにもかかわらず、えこひいきしてしまうヤコブでした。
三つ目の罪。ヤコブは、人に嘘をつき、人をだます傾向がなかなかやめられませんでした。エサウが愛をもってヤコブを許してくれて、「さあ、旅を続けて行こう。私があなたのすぐ前を行くから」とやさしくヤコブを助けようとしてくれたのにもかかわらず、ヤコブは「あなた様は、しもべより先にお進みください。私は、前を行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなた様のもと、セイルへ参ります。」 と嘘をつき、約束の地へ向かうのです。ここでは、エサウに「私は約束の地へ行きます。」というべきでしたが、ヤコブはエサウの怒りをまた恐れ、自分が考えていることを言えず、お茶を濁すような嘘をついてしまいます。
四つ目の罪。ヤコブは、すぐには約束の地へ行きませんでした。ヤコブはスコテへ移動するのですが、地図を見ると、スコテはヨルダン川の東にある町です。ヨルダン川を東から西に渡ればいい話なのですが、ギリギリのラインでスコテに留まり、しかも、そこで家を建て、家畜のための小屋も作リました。レースに例えると、43キロのフルマラソンを走っていたヤコブが、ゴールラインの手前のあとちょっとのところで、「ちょっと待って。疲れた。ちょっと休憩。」と、そこでテント張って、ご飯を作って、寝るというようなことです。考えられない話です!
五つ目の罪。ヤコブは、約束の地へ着いたのですが、神様に誓ったことを最後まで守る気はありませんでした。ヤコブは青年の頃、神様の約束を聞いたとき、神様の約束のことばをいただいたべテルで、祭壇を築くことと、父イサクのところへ帰ることを誓ったのです(創世記28:21-22)。ヤコブは約束の地に着いたとき、シェケムに留まり、祭壇を築きました。その理由は、家畜を育てるのに良い地だったからだと思います。しかし、シェケムの約50キロ南は、べテルなのです。もう一日頑張れば、べテルに着くこともできましたが、「もうここでいいや。」とヤコブは思って、べテルではなく、適当にべテルの近くにあるシェケムで祭壇を築くのです。その上、父イサクと母リベカの元に戻る気もなさそうでした。ヤコブは神様に対する誓約を守らなかったのです。
この五つの罪を見て、私が言いたいのは、成熟したヤコブであっても、突っ込みどころ満載だという事です。「え、本当にヤコブ変わったの?」と思えるぐらい、いろんな罪が残っているのです。私たちも、教会の兄弟姉妹も、教会史に名を残すようなクリスチャンでさえも。私たちはどれほど成熟しても、どれほど神様の恵みに変えられたとしても、とんでもないほどの「罪」が残ってしまうのです。私たちはそれに驚いてはいけません。それが二つ目のポイントです。
しかし、それを聞いて、「え、じゃあ、ヤコブとエサウもあまり変わらないじゃないですか。エサウも自分の怒りを制して、ヤコブを赦したんじゃないですか。むしろ、エサウのほうが優しいじゃないですか。」と思う方もいらっしゃるかもしれません。本当におっしゃる通りです。この世の中でも、キリスト教を信じなくても大きく変わる人もいますし、むしろ、キリスト教を信じていない人のほうが優しい場合もあります。もし「人を道徳的な変化」で図るのであれば、キリスト教と他の考え方には、それほど大きな差はないかもしれません。しかし、それはキリスト教の本質を誤解している可能性があると思います。
本日の最後のポイントは、最も重要なポイントです。「ヤコブとエサウの違いは、道徳的な変化ではなく、イエス様からいただく勝利に価値を置いているかどうかという事です。」
ヤコブとエサウの本質的な違いは、道徳的な振舞いではありません。「信仰」なのです。何も信じていない無宗教の人も信仰をもっています。信仰というのは、誰に、または、何を、自分の希望や価値を置いているのかということです。すべての人は何かに希望や価値を置いています。
先ほど説明しましたが、ヤコブの信仰の対象は、神様の約束でした。アブラハム家のために、天国を相続できる特権を勝ち取り、いつかくるアブラハムの子孫に、希望を置いていたのです。しかし、この箇所を見ると、エサウはそれに対してなんとも思っていなかったようです。ヤコブが何回も神様の恵みの素晴らしさを証ししたとしても、エサウは全く反応しませんでした。ヤコブがエサウの「天国を相続する特権」を奪ったとしても、エサウは「返せ!」とも言わなかったのです。むしろ、ヤコブからいただいた物理的な恵みで満足でした。ヤコブが自分の故郷セイルではなく、約束の地へ帰ったとき、エサウはヤコブを探しに行きませんでした。なぜなら、エサウは約束の地に興味がなかったからです。
エサウは、そもそも、神様が約束してくださる天の祝福に興味を示しませんでした。興味を持たなければ、その祝福を一方的に与えてくださるイエス様にも興味をもたないのはなおさらのことです。エサウは違う信仰をもっていたのです。天の祝福よりも、目に見える祝福に希望を置いていたのです。イエス様にしがみついてより頼むよりも、自分の努力と人の力に価値を見出したのです。
クリスチャンとしての信仰は全く同じです。自分たちは、その特権にふさわしくなくても、神様の約束とイエス様の十字架と復活にしがみつくのです。私たちの誇りは、自分がどれほど道徳的に変えられたのかではありません。それは全く違う信仰です。道徳に頼る信仰なのです。しかし、私たちの信仰は、十字架にかけられたイエス様です。ヤコブのようにどれほど罪深い者であったとしても、私たちの信仰の対象であられるイエス様に希望を置き、ヤコブのように何回もこけたとしても、自分の足を引きずりながら、イエス様からいただいた勝利を誇り続けて歩んで行きましょう。お祈りします。