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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヨハネの福音書1章9-13節 |
さ ん び | Opening Praise | 希望の歌 |
さ ん び | Praise | ただ十字架のイエスにあり
Only A God Like You |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌69番「いま来たりませ」1-5番 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書3章22-36節 |
聖書の話 | Sermon | 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますね。クリスマスが嫌いな子どもはあまりいないと思いますが、みんながクリスマスが好きな理由は何ですか?正直に言ってもいいですよ。心の声が聞こえます。たくさんのプレゼントをもらえるからだと思います。でも、ちょっとこんなふうに想像してみてください。あるクリスマス礼拝の前に、クリスマスツリーの下にあった、あなたが1年も楽しみに待っていたプレゼントを、お母さんがパッと取って、「クリスマス礼拝はイエス様のお誕生日だから、あなたのプレゼントをイエス様にあげるね」と言ったら、どう思う?あまり嬉しくないよね?「ちょっと待って、なんで私のプレゼントなの。何でママのお金で献金しないの?!」と、私だったら言っちゃいますね。だけど、お母さんが「クリスマスだから、イエス様は大きくなり、私たちは小さくならないといけないんだよ!」と言って、喜んでお金とあなたのプレゼントを礼拝で捧げてしまいます。そんなクリスマスだったら、どんな気持ちになるかな?ちょっと複雑な気持ちになるよね。でも、もしイエス様があなたの家族(お父さん、お母さん、兄弟姉妹)を交通事故から救ってくださった方だったら、私たちの態度も変わると思います。もしイエス様がめちゃくちゃ楽しいお友達で、ディズニーランドで一日過ごすよりもイエス様と1時間過ごすほうが楽しいと思えるほどだったら、そのプレゼントをあげてしまっても、イエス様と一緒にいることを楽しみにすると思います。
今日の話は、バプテスマのヨハネと彼の弟子たちの話です。弟子たちは大事にしていたものをイエス様にあげなければいけなかったので、弟子たちは悲しくなり、イライラしてしまったのです。しかし、バプテスマのヨハネも同じものをイエス様にあげたのですが、なんとも思いませんでした。なぜかというと、イエス様ご自身が自分の喜びだったからです。それがクリスマスの意味とも言えます。それについて、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。
「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3章の前半は、なかなかイエス様を信じられなかったニコデモとイエス様の対話が記されています。この「客観的な」歴史の記録には、ヨハネの「主観的な」目的が二つあります。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうかという三つの選択肢があります。本日の箇所は、バプテスマのヨハネに戻りますが、この箇所は1‐3章の証言の結論のような役割があります。本日の話の流れを見ながら、私たちがイエス様についての証言を聞くときに、二つのリアクションがあり、なぜその二つのリアクションに分かれるのかを学ぶことができます。
バプテスマのヨハネはどのような存在だったのでしょうか?
「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」 (ヨハネ1:6-8)
これは私のイメージですが、バプテスマのヨハネは、真の光であるイエス様が来られる前に、レッドカーペットを敷いて、トランペットを吹きながら「私たちを救うメシヤが来たぞ!」と宣告する、しもべのような役割です(マルコ1:2-3)。
そして、ヨハネの1章では、バプテスマのヨハネは、二つのことを自分たちの弟子たちに証しました。はじめに、イエス様が私たちの罪を取り除き、神様の裁きから私たちを救ってくださる「神の子羊」であるという証しをしました(ヨハネ1:29)。また、ヨハネは私たちに、イエス様が「神の子」であり、聖霊様の力によってこの世界と、私たちを完全に造り変えられる、ということも証ししたのです。その二つのことを証ししたことによって、大勢のユダヤ人がバプテスマのヨハネに従おうとしました。
ヨハネの弟子であったアンデレは、バプテスマのヨハネの二つの証しを聞いて、師匠だったヨハネのもとから離れ、イエス様の弟子になりました(ヨハネ1:35,40)。そして、アンデレを通して、イエス様の弟子が増えました。ヨハネ2章に書いてあるように、イエス様は何人かの弟子たちと首都エルサレムへ行き、そこで聖書の先生(ラビ)として大ブレイクしたのです。今日のヨハネ3章の話は、大ブレイクしたイエス様とバプテスマのヨハネの再会という場面です。
イエス様と弟子たちは、エルサレムから出てユダヤの地に行き、イエス様の新しい弟子たちにバプテスマーつまり、洗礼ーを授け始めました。水が豊かな地だったので、同じ地域で、バプテスマのヨハネも弟子たちに洗礼を授けていました。当時、イエス様とバプテスマのヨハネは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)と、同じメッセージを語っていました。古い契約の表面的な「きよめ」に満足するのではなく、心から悔い改める必要があるとイスラエルに語っていたのです。その頃、バプテスマを授けていたのはイエス様ご自身ではなく、弟子たちだったのですが(ヨハネ4:2)、イエス様の弟子たちも、ヨハネと同じ悔い改めのバプテスマを授けていたと思われます。しかし、イエス様とバプテスマのヨハネが同じ働きをする中で、明らかに、イエス様はバプテスマのヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けておられました(ヨハネ4:1)。つまり、イエス様の群衆が大きく、盛んになり、バプテスマのヨハネの群衆が小さく、衰えてしまったのです。
その状況を見たヨハネの弟子たちは、このように反応します。
26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
バプテスマのヨハネがイエス様のことを、はっきりと「世の罪を取り除く神の子羊」であること、また、すべてを造り直す「神の子」であることを宣言したにも関わらず、ヨハネの弟子たちは、イエス様の名前も言わずに、「ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方」と呼んでしまいます。なぜ、彼らはそこまで嫌味にイエス様のことをそう呼んだのでしょうか?「皆があの方のほうに行っています。」と書いてありますね。要するに、バプテスマのヨハネに従っていた大群衆、そして、受けていた名誉、称賛、支援が、目に見えて、わかりやすい形でイエス様の方に行ってしまったので、ヨハネの弟子たちとしては、耐えられなかったのでしょう。その上、自分たちが受けてきたものが、明らかにイエス様に捧げられていったのです。つまり、イエス様の存在が大きくなり、自分たちの存在が小さくなることを見て、イラだったということなのです。
この状況を見ていたバプテスマのヨハネのリアクションはどうでしょう?
ヨハネ3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
どういう意味でしょう。ユダヤ教の結婚式では、花婿の友人という役割があって、日本であれば「新郎の友人代表」、またはアメリカであれば、「Best Man」という役割に似ていると思います。何人かの神学者によると、ユダヤ教の結婚式の花婿の友人は、結婚初夜に花嫁がいる部屋または幕屋の前に立って、花婿以外の人が入らないように花嫁を守るのだそうです。そして、花婿が花嫁を迎えるとき、花婿の友人は部屋や幕屋の外に立ち、二人の喜びの声を聞いて大いに喜ぶのです。
旧約聖書では、「若い男が若い女の夫となるように」、また「花婿が花嫁を喜ぶように」、神様は神の民を喜ぶと、イザヤ62:4-5に預言されていました。しかし、イザヤの預言から、イエス様がこの世に生まれるまで、その預言は成就していませんでした。その日を待ち望む「花婿の友人」であるバプテスマのヨハネは、神の民が他の神を愛さないように、熱心に花嫁を守ろうとしたのです。そして、イエス様が来られた時、ヨハネは「花婿が花嫁を迎えるときが来た!」と叫び、花婿の友人として大いに喜んでいるとヨハネは言っているのです。ですから、「私はキリストではないし、花婿でもない。私は花婿の前にくる、花婿の友人だ。だから、花嫁が花婿へいくことは、なおさらのことだ! あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」とヨハネは結論付けるのです。つまり、イエス様の存在が大きくなり、自分の存在が小さくなることは、ヨハネの喜びだったのです。
同じ状況を見ていたバプテスマのヨハネと、イラだっていた弟子たちの違いはどこにあるのでしょうか?バプテスマのヨハネは3:31-36を通して、自分の弟子に二つの違いを説明しています。(新改訳聖書を読むと、バプテスマのヨハネの発言のかぎかっこが30節で終わっていますが、原文ではそもそもかぎかっこはありません。ですから、バプテスマのヨハネの証しは36節まで続いていると捉えて読むのが、もっとも自然な読み方だと私は思います。)
バプテスマのヨハネが証したように、イエス様は天から来られた「真の光」なのです(ヨハネ1:8)。ですから、「天から来られる方は、すべてのものの上におられ」、私たちのような「地に属する」ものと比べることはできないのです(ヨハネ3:31‐32)。そして、イエス様は、ただ天で「見たこと、聞いたことを証しされ」、真の光として、私たちの暗闇に光を当てておられるのです。喜んでいるバプテスマのヨハネとイラだっている弟子たちの一つ目の違いは、「天から来られる」イエス様が与えてくださる「天からの証し」を、私たち「地に属するもの」が、自分の力では受けることができない貴重な「光」として受け入れるか、受け入れないかということなのです。すごくシンプルですよね。もしイエス様の教えを、最近現れて大ブレイクした先生と捉えてしまうなら、弟子たちのように苛立つのはなおさらのことだと思います。
二つ目の違いは、御父に遣わされたイエス様を、愛されている神の子として受け入れるか、受け入れないかなのです。旧約聖書に登場する預言者は、聖霊が与えられ、神のことばを神の民に語ることができました。神の子であるイエス様は神様に全てを与えられ、また、「御霊」も限りなく与えられていたのです。イエス様以上に権威を持っている神様の代表はおられないということです。ですから、イエス様の証しを信じる人は、神様のことばを真実とみなし、イエス様の証しを信じない人は、神様のことばを偽りとみなすということです。もし、イエス様の証しを偽りとして捉えているなら、イエス様の存在が大きくなることが喜びにはならないのもなおさらのことです。
バプテスマのヨハネは最後にこのように自分の弟子たちに注意します。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子【を信じようとしない】者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
(「聞き従わない者」を「信じようとしない者」に訳した理由は、使徒14:2の原語がそのように訳されていますし、新約でこのギリシャ語を使うとき、不従順という意味よりも、不信仰という意味が強いからです。)要するに、バプテストのヨハネの喜びは、イエス様の証しをそのまま信じているからで、イラだっている弟子たちは単純にイエス様のことを信じようとしていなかっただけということです。これが二つのリアクションの違いの根拠なのです。
本日のヨハネの福音書の話には、非常にシンプルな事実が教えられていますが、自分の人生に適応するには、非常に難しいことが書いてあります。三つの適応にまとめてみます。
まず、イエス様を信じれば、イエス様は盛んになり、私たちは衰えなければなりません。長年クリスチャンとして歩んでいる人は、そう聞くと、「それはそうだよ。イエス様の存在が大きくならないといけない!」と思うでしょう。私もそうです。しかし、イエス様が「それでは、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そして、わたしに従って来なさい。」 とおっしゃったら、どうしますか?マルコ10章の青年は、その言葉を聞いて、顔を曇らせて、悲しんで帰ってしまいました。
イエス様の存在が大きくなれば、すべてのものの存在は小さくならないといけないのです。だれも二人の主人に仕えることはできないからです。私たちはどうでしょうか?イエス様が「盛んになる」ことによって、自分が「衰えなければいけない」という覚悟があるでしょうか。夫、妻、兄弟姉妹、子供がイエス様を愛することによって、自分の存在が徐々に小さくなるということです。イエス様をますます愛することによって、自分と愛する人の健康、経済的な安定、人に認められ称賛されること、自分が思い描いている人生、愛する人の将来と成功などは、すこしずつ衰えなければなりません。(この前のカンファレンス(CPI)の分科会で聞いた話ですが、)「国際長老教会」という教団では、幼児洗礼のときに、親がこのように誓約するのです。「もし、私の子が宣教に導かれたら、親として私はその妨げにならないようにすることを約束します。そして、もし、自分の子供が自分よりも早く天に召されても、私はイエス様に対して苦味を持たないことを約束します。」ある意味、それは、親としての究極の約束かもしれません。自分の人生の中で、愛する人の人生の中で、イエス様が盛んになり、私たちとすべてのものは衰えなければいけない、ということを受け入れているでしょうか。
二つ目に覚えていただきたいことは、「イエス様が盛んになり、自分が衰える」ということが喜びになる鍵は、イエス様ご自身を「天からくる良いお知らせ」と受け入れるか、受け入れないかにかかっているということです。
聖書の中で「福音」ということばをよく聞きますが、それは「良い知らせ」という意味です。ある王国が戦争に勝った時、王家に息子が生まれたとき、全国に知らせる大事な良い知らせが「福音」なのです。バプテスマのヨハネにとって、イエス様ご自身が来られたことが福音だったのです。ある意味、それがクリスマスの意味なんです。世の罪をすべて取り除く「神の子羊」がこの世に来られた、ということをバプテスマのヨハネが語っているのです。聖霊様の力によって、この世と私たち自身を新しく造られ、新しい永遠のいのちを与えてくださる「神の子」が生まれた!と、バプテスマのヨハネは祝っているのです。私たちを暗闇から救い出してくださる「真の光」がやっと私のところに来た!とヨハネは宣言しているのです。バプテスマのヨハネは、イエス様ご自身が「福音」ーつまり、良い知らせーの成就であることを信じていたのです。イエス様ご自身こそが、自分が待ち望んでいる喜びだとバプテスマのヨハネが思っていたので、自分のファンクラブが衰えてもなんとも思わなかったのです。
しかし、ヨハネの弟子たちは、その正反対でした。バプテストマのヨハネが喜びと驚きと感謝をもって、イエス様の「良い知らせ」を語っていたにもかかわらず、弟子たちは、ナザレから来て、最近大ブレイクした大工のお兄さんを指して、すごくドライに「先生が証しされたあの方」と呼んでいたのです。弟子たちにとっては、イエス様ご自身が福音なのではなく、自分たちの師匠の群衆の人数が「福音」だったのかもしれません。「イエス様が盛んになり、自分が衰える」ということが喜びにならないという人は、そもそも、イエス様ご自身が自分の喜びにはなっていないのかもしれません。
もしそうであれば、最後の点を覚えていただきたいです。私たちは、花婿でも、花婿の友人でもないのです。私たちはイエス様の花嫁なのです。
この箇所を読むクリスチャンは、こう考えるかもしれません。「私はなぜバプテスマのヨハネのようになれないんだろう。私はいつも弟子たちのようにイエス様を見失ってしまっている。」と。少なくとも、私自身はそう悩むことがあります。そして、いろいろ自己分析して、そうならないように対策を考え始めると思います。そのように反省することはいいことだと思いますが、それはバプテマのヨハネの願いではありません。バプテスマのヨハネの願いは、何だったと思いますか?自己分析ではなく、弟子たちがヨハネから離れ、イエス様の弟子になることだったと思います。もし、バプテスマのヨハネが「花婿の友人」で、イエス様が「花婿」だったら、弟子たちと、その他の群衆たちは誰ですか?もう一人の「花婿の友人」ですか?とんでもないです!すべての人が花嫁なのです!当時のユダヤ教の結婚式の伝統の話に戻りますが、花婿の友人の役割は、花婿が来るまで、花嫁を守ることです。もし結婚初夜に、花婿が部屋に入るや否や、なぜか花嫁が花婿の友人の忠実さに深く感動し始めたとしたら、それは花婿の友人の願うことだと思いますか?花婿の友人は花嫁に、「何を考えているんだ!早く部屋に入って、花婿との時間を楽しみなさい!」というでしょう!
イエス様は、私たちの花婿なのです。イエス様がこの世に来られた理由は、夫が妻を犠牲的に愛するように、ご自分を献げて、教会を愛するためでした。みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため。十字架の上で流されるご自分の血によって、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため。教会を、自分の妻として、自分のからだのように愛するため。そして、 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」とありますが、花婿であるキリストと花嫁である教会が結ばれるために、イエス様は来られました。それがクリスマスの意味です。私たちは、もし、イエス様が自分の花婿であることを知ったなら、イエス様ご自身が自分の喜びであるということを忘れないと思います。そして、もしイエス様が来られるということを知ったなら、どのような犠牲であっても、損とは思わないと思います。ですから、クリスマスにお生まれになったイエス様が私たちの花婿であることを忘れずに、自分が衰えなければならないとしても、喜びをもってイエス様を迎えましょう。お祈りします。