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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人での手紙第二5章1-7節 |
さ ん び | Opening Praise | 喜びの声上げて |
さ ん び | Praise | 素晴らしい主-Goodness of God |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌188番「主はわがかいぬし」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 詩篇30篇1-12節 |
聖書の話 | Sermon | 「朝明けには喜びの叫びがある」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 詩篇歌集30B |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きますが、前回、詩篇を学んだ時に、「だれにでもできるクリスチャンらしいことは何ですか」と聞いたとき、答えは何でしたか?「祈る」ことでしたね!まだ、字が読めない3歳児でも祈ることが出来ます。じゃあ、続けて質問しますが、聖書の中にはお祈りの種類がいくつあると思いますか?たくさんありますが、今日は4つの種類を紹介したいです。もし出来たら、今日のお話をメモするか、絵に描いてみて下さいね。
一つ目の祈りは「さんび」のお祈りです(例:詩篇100篇)。このお祈りは、順調な時や、いろんな良いことが起こっている時に捧げるお祈りです。「神様、いつも良い天気を与えてくださってありがとうございます。」のような祈りです。
二つ目の祈りは「なげき」のお祈りです(例:詩篇13篇)。このお祈りは、大変なことが色々と起こっているときに捧げる祈りで、神様に「どうしてですか?いつまでですか?助けてくれないのですか?」と叫ぶお祈りです。「神様、何でこんな日に台風を送られたのですか?」のような祈りです。
三つ目の祈りは「かくしん」のお祈りです(例:詩篇23篇)。この祈りは、大変なときに、「今は大変だけど、神様は絶対に助けてくださる!」と祈ることです。「神様、本当に大変な台風ですが、あなたが私たちを守ってくださることを信じます!」のような祈りです。
四つ目の祈りは「かんしゃ」のお祈りです。この祈りは、神様が、大変な状況の中からあなたを救い出してくださり、その後で、神様に感謝を捧げるというような祈りです。「神様、昨日の夜の台風は本当に怖かったけど、今朝は晴れて、きれいな日になりました。神様、感謝します!」のような祈りです。先ほど読んだ詩篇30篇は非常に良い例だと思います。
イエス様が奇跡的に10人の病人を癒された話を覚えていますか?癒された9人は、イエス様に感謝するのを忘れてしまいましたが、残りの一人は「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(ルカ17:15)のです。2024年も色々と大変なことがあったと思いますが、その中で、神様の救いを経験した人もいます。ですから、年末年始は、神様に「感謝の祈り」を捧げるいい機会になると思います。 30篇の「感謝の祈り」を通して、「感謝の祈りは、何なのか?」「どのように感謝の祈りを始めるか?」「どのように感謝の祈りを締めるか?」の三つの質問に答えて行きたいと思います。
まず、詩篇30:1-5をみて、「感謝の祈りは、何なのか?」について考えてみたいと思います。一言で言うと、感謝の祈りは、「自分が引き上げられたので、イエス様の御名を高く上げる」という祈りです。
1【主】よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。 2 私の神、【主】よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。 3 【主】よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
原語では「あがめる」の言葉には、何かを「上げる」というニュアンスがあります。ですから、私たちが神様をあがめることは、自分たちの言葉で、歌で、行動で、神様の存在と御名を最も高い存在とするということです。そして、私たちが神様をあがめる理由は、神様がまず「私たちを引き上げて」くださったからです。原語のニュアンスを織り込むと、この「引き上げる」ということは、社会のどん底から抜け出せない最も貧しい者が、井戸から水の入ったバケツを引き上げるように神様が「救い上げる」という意味合いがあります(出エジプト2:16; 2列24:14参照)。ですから、3節は、「救い上げられた」者が、イエス様の御名を高く上げながら、あがめるという意味なのです。
このお祈りを書いたダビデは、「井戸の底」をいろんな場面に紐づけます。敵に囲まれ、自分が彼らの罠にはまってしまいそうなとき。自分がどうする事もできない病にかかってしまったとき。死をあらわす「よみ」に落ちそうなとき。神様の裁きを表す「穴」に下っていきそうなとき。ダビデがそのような窮地に追い込まれたときに、神様はダビデの敵を喜ばせず、ダビデを癒され、ダビデをよみから引き上げられ、ダビデのたましいを生かされたのです。皆さんも、今年、ダビデのような試練を経験され、ダビデと同じように神様の救いを経験されたかもしれません。
神様に引き上げられたダビデは、「4 聖徒たちよ。【主】をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。」と祈ります。感謝の祈りは、神様と自分の間だけで行うものではなく、全会衆の前で捧げるものなのです。なぜなら、それは、神様の力強さ、恵み深さ、誠実さを証しする機会になるからです。つまり、「感謝の祈り」は、神様に捧げる祈りでもあり、兄弟姉妹を励ます祈りでもあるのです。
そして、5節は「感謝の祈り」の内容の本質です。
5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
これは、多様な意味が織り込まれた、深くて本当に美しい一節です。この一節が「感謝の祈り」の構成を成しているのです。前半は、涙がやどる「夕暮れ」と「御怒り」の時を思い出させる祈りで、後半は、夕暮れを乗り越え、つかの間の「御怒りの時」が過ぎ去ったときの「喜びの叫び」の祈りです。
そして、この構成をもって、「感謝の祈り」を捧げるとき、私たちは大事なことを学びます。神様が与える「夕暮れ」は私たちをへりくだらせ、成長させるためにあるので、朝が明けるときに、私たちは全身全霊で神様を喜ぶことができるのです。これが感謝の祈りの核になる部分です。それをもうすこし味わうために、次のポイントに移りたいと思います。
次の質問は、「感謝の祈りをどう始めるのか?」先ほど、言いましたが、神様が与えてくださった夕暮れをゆっくり思い出すことで、感謝の祈りを始めることができます。
ダビデはこのように祈りを始めます。
6 【私が栄えたときに】、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。7【主】よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。」あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。
つまり、6-7節を読むと、神様が与えてくださった夕暮れを、ダビデがゆっくりと思い出したき、ダビデが自分の罪と高慢さを自覚しはじめたことがわかります。(お気づきになられた方もいるかもしれませんが、私は新改訳2017年版の訳を、原語と文脈の意味をもうすこし明確にするために、2か所変えました。)
ダビデについて簡単にご説明します。ダビデ王は神様に忠実で、イスラエルを初めて統一させて王国にまで発展させた、神様に選ばれた王様です。いつも最前線にたって、歩兵と肩を並べ、神様の御名のために戦い続けた勇敢で、信仰深い王様でした。しかし、あるとき、ダビデはとんでもない罪を犯してしまいました。王国に平和が与えられ順境な時期に、ダビデは、最前線で戦うことをやめ、部下たちに戦争を委ね、山の上にあった自分の王宮でくつろぐことにしたのです。つまり、ダビデ王は自分が栄えて来たので、気を緩め始めてしまい、信仰の歩みも怠惰になってしまったのです。そんな時、ダビデが山の上にある王宮から王国を見下ろしたとき、ある部下の美しい妻、バテ・シェバを見かけました。自分の力、成功、繁栄、欲に酔っていたダビデは、バテ・シェバを自分の寝室に呼び求め、思うがままにしたのです。それだけではなく、バテ・シェバを自分の妻にするために、彼女の夫である部下を最前線に送って殺したのです。その上、ダビデはその罪を隠し、何もなかったかのように1年間過ごしたのです。
神様は、ダビデのすべての罪をもちろんご存じです。ですから、神様はダビデに適切な罰を与えられたのです。神様がダビデに与えてくださった成功、勝利、平和、繁栄などを取り戻され、ダビデ自身の息子がダビデにクーデターを引き起こすことを許されました。そして、何年間も自分の息子に追及され、辱められ、何回も殺されそうになりました。これが神様がダビデに与えられた「涙が宿る夕暮れ」なのです。そして、これが神様の「つかの間の御怒り」でした。
ダビデは、祈りの中でこの時期の出来事をゆっくりと吟味して、30:6-7の祈りにまとめました。神様が一方的に与えてくださった恵みの対象に値しない者であることを忘れてしまっていたダビデは、「私は決してゆるがされない。」と調子にのっていた自分の高慢さを告白します。そして、ダビデは自分の信仰の歩みに関わらず、神様が「無条件」に恵みを与え続けてくださると勘違いして、姦淫と殺人の罪を犯しながらも「【主】よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。」と言って、神様の恵みを汚してしまったことも告白します。ダビデは、神様が自分の高慢さを正し、成長させるために、愛をもって御顔を隠され、一時的に神様の恵みをひかえられて「涙が宿る夕暮れ」をお与えになったのだと、自分の試練を解釈したのです。
そして、ダビデは、試験のただ中で捧げた祈り、8-10節を思い出します。
8 主よ あなたを私は呼び求めます。 私の主にあわれみを乞います。 9 私が墓に下っても 私の血に何の益があるでしょうか。 ちりが あなたをほめたたえるでしょうか。 あなたのまことを告げるでしょうか。 10 聞いてください主よ。 私をあわれんでください主よ。私の助けとなってください。
この世の繁栄の輝きの中では、まことの光である神様を見つけにくく、主が御顔を隠されたことによって、ダビデに夜が与えられたので、ダビデは神様の御顔の光を探し始めることができたのだ、とカルヴァンは注解します。つまり、この苦しい試練を通して、ダビデの信仰の目は再び開かれ、人生の優先順位が明確になったと、ダビデは反省しているのです。皆さんも、今年似たような経験をされたかもしれません。
また、ダビデの祈り求め方にも、ダビデが徐々に成長していることが見られます。「王である私になぜ御顔を向けてくださらないのでしょうか?」「私はあなたの忠実なしもべなのに、なぜ恵んでくださらないのですか?」というような祈りではありません。試練を通して、自分の立場をわきまえ、正しい姿勢で祈りました。「私の主にあわれみを乞います…聞いてください主よ。私をあわれんでください主よ。私の助けとなってください。」試練を通して何が一番大切なのかを知り、自分が祈り求めるべきものは、自分の栄光を守ることではなく、神様のご栄光が表されることだと気づいたのです。「 9 私が墓に下っても私の血に何の益があるでしょうか。ちりがあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことを告げるでしょうか。」このようにダビデは、「御怒りと涙が宿る夕暮れ」は、自分の罪を正し、自分を成長させるための試練だったと、会衆の前に告白しているのです。
ダビデの経験とは違う形かもしれませんが、私たちが経験している「試練」や「夕暮れ」は、すべて御父の手からくるものなのです。へブル12章10-11にこのような約束があります。
10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。 11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
いかがでしょうか。今、受けている「試練」は、喜ばしいものではなく、苦しいものかもしれませんが、御父はどのような実を結ばせてくださったしょうか?罪の告白でしょうか?より深い信仰でしょうか?より練られた忍耐で しょうか?よりきよめられた品性でしょうか?より確かな希望でしょうか?御父が与えてくださった「夕暮れ」をゆっくり思い出すことによって、御父が結ばせてくださった実を吟味することができます。ぜひ年末年始に、感謝の祈りをゆっくりと始めてみるのはどうでしょうか。
もしそれが、祈りの前半の部分だったら、感謝の祈りの後半部分はどのように締めくくればいいでしょうか?これが最後のポイントです。感謝の祈りの締めは、「朝明けの喜びを味わう叫び」なのです。
「朝明けの喜び」は、私たちに試練を与えられた御父が、私たちのために「嘆きを踊りに変えてくださり」、私たちの悲しみに満ちた「あらぬのを解き、喜びをまとわせてくださる」のです。これがダビデの締めくくりの祈りです。神様の御怒りが「つかのま」であることや、夕暮れがいつか終わり、朝が明けることを確信できる理由は、試練を与えられたお方が、私たちの悲しみを喜びに変えてくださるお方だからなのです。
そして、ダビデはその約束を、ただ聞いて信じただけではなく、自分の人生の中で体験することができました。ダビデは、とんでもない罪を犯し、それによって激しい苦難を経験しましたが、神様は赦しと救いを一方的に与えて下さいました。神様はダビデの敵を倒され、その王権を復興し、ダビデとバテ・シェバの間に息子、ソロモンを与え、その息子を通して、ダビデが建てた王国が継続できるようにされたのです。ダビデは、その恵みを受けるにふさわしくない存在でした。しかし、神様はダビデの嘆きを踊りに変えてくださり、神様の恵みの内にある命をお与えになりました。
自分の人生で、そのような体験をしたら、「私の神主よ、私はとこしえまでもあなたに感謝します!」と喜び叫ぶことはなおさらのことです。むしろ、12節に書いてあるように、神様が「嘆きと涙をもたらす夕暮れ」を私たちに与えた後に、「朝明けの喜びの叫び」を与えられるのは、私たちが神様をさらにあがめ、私たちのほめ歌が押し黙ることのないためです。
太陽は、徐々に上がるので、時に「朝が明ける」ことに気づかないときがあります。しかし、太陽が全て上り切った時、朝明けの喜びの叫びを体験できると思います。私たちも2024年を振り返るとき、「朝が明けた」事を忘れずに、思いっきり神様に感謝のほめ歌を捧げましょう。そして、神様が解いてくださったあら布を投げ捨て、まとわせてくださった喜びを着て、神様の御前で踊り、神様に感謝しましょう。そこには、揺るぐこともなく、心の底まで浸透し、平安をもたらし、押し黙ることができない喜びがあるからです。
しかし、この「感謝の祈り」は、この人生で経験する一時的な「救い」を経験したときに捧げる祈りではありません。この詩篇は、ある意味、天国で捧げる永遠の感謝の祈りの兆しでもあります。ヨハネ16:20-23で、イエス様は私たちをこのように励まされます。
まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。
私はもちろん生みの苦しみを経験したことはないのですが、妻から散々聞いています。妻は、その痛みの激しさを覚えていないそうですが、子どもの顔を見る度に湧き上がる喜びは、その痛みがもたらす苦しみと嘆きを忘れさせると言います。
イエス様は、私たちが経験する悲しみ、痛み、苦難を否定されませんし、軽く見てもおられません。むしろ、私たち以上に経験され、その痛みを肌で体験されたのです。
イエス様は、死を経験され、蘇えられ、神様のご臨在を楽しんでおられる方として、次のように私たちに約束されているのです。「あなたがたも今は悲しんでいますが、あなたがたの心は喜びに満たされます。」つまり、私たちのこの世での時間は「涙が宿る夕暮れ」で、私たちが天国へいく時が「喜びの叫びをもたらす朝明け」なのです。私たちに約束されているのは、私たちの悲しみが喜びに変わり、「その喜びをあなたがたから奪い去る者は」いないということです。それだけではなく、私たちが経験している喜びと救いがあまりにも膨大すぎて、「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。」と、詩篇30篇に書いてあるように、私たちは押し黙ることが出来ずに、感謝のほめ歌をただただ歌い続けるのです。
なぜでしょうか?それは、イエス様とお会いできるからです。私たちの死を命に変えてくださったお方はイエス様なのです。私たちの罪にまみれて、汚れた人生を解いてくださり、ご自分の聖なる、潔白な義で覆ってくださったのはイエス様なのです。涙と嘆きに満ちたこの夜のような古い世界を、喜びと平和で輝く新しい世界に造りかえてくださるのは、イエス様なのです。イエス様がどうしようもできない私たちを、永遠の死から神の右の座まで引き上げてくださったので、私たちは、イエス様の御名を高らかにほめたたえるのです。ぜひ、天国で捧げる感謝の歌を、一緒に来年も歌い続けましょう。お祈りします。