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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇103篇1-5節 |
さ ん び | Opening Praise | 希望の歌 |
さ ん び | Praise | 主のあわれみは His Mercy is More |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌45番「神の子羊」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書5章9-18節 |
聖書の話 | Sermon | 「もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」
マーク・ボカネグラ 牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きます。クリスチャンとして、私たちは何からの救いをもらっているのでしょうか?(実は、これは私の好きなクリスチャンの本の題名です。)苦しみや、痛い思いからの救いを求める人もいるかもしれません。罪深い生き方からの救いを求める人もいるかもしれません。愛のない人生からの救いを求める人もいれば、死からの救いを求める人もいるでしょう。答えは様々です。
今日お話しするのは、38年間も歩けなかった人の話です。彼は自分の病気からの救いをずっと求めていましたが、ある時、イエス様が突然その人を奇跡的に癒されたのです。彼はとても喜び、「ああ、救われた!」と思ったかもしれません。しかし、イエス様はこうおっしゃいました。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」この言葉には、「あなたは癒されました。それは素晴らしいことです。しかし、あなたはもっと恐ろしいものから救われなければなりません。それは神様の裁きです。あなたは罪をやめることができるでしょうか?」という意味が込められています。しかし、私たちは自分の力で罪をやめることはできません。だからこそ、イエス様は私たちを神様の裁きから救うために来てくださったのです。それについて、今日の聖書箇所をゆっくり見たいと思います。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3-4章には、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の教師であるニコデモ、聖書を拒んでいたがイエス様を受けいれたサマリアの女、そして、イエス様の一言で自分の息子が癒された父親の証言が書かれています。このような「証言」は、「客観的な」歴史の記録でしたが、この福音書を書いた著者ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得させることでした。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の1-4章の証言を見ることによって、大体三つの反応があることがわかります。信じるか、信じないか、話を聞き続けるかです。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。
ヨハネの福音書は「証言」が並べてある本だと説明しましたが、その中にはイエス様が行われた「しるし」または「奇跡」の証言もいくつかあります。例えば、ある人を信頼できるかどうかを見極めるとき、その人が実際に成し遂げた「結果」や「実績」を客観的に見ることはとても重要だと思います。イエス様の「しるし」は、ある意味、十字架に掛けられるまでの「実績」と考えることができます。著者のヨハネは、イエス様の働きの中の7つのしるしだけを選んで、その7つのしるしを通して、イエス様がどのような救い主であり、イエス様を信じるとはどういうことなのかを、私たちに説明しようとしています。
前回、ヨハネの福音書を読んだとき、5章の始めに、ヨハネが紹介する第3のしるしを見ました。第3のしるしを皮切りにし、ヨハネはイエス様の働きの第2のステージを示唆しています。最初の4章を読むと、エルサレムの群衆はイエス様のしるしの力を認めて、イエス様に興味を持っていたようですが、それは、ただイエス様の「しるしの力」だけを求めていたのであって、イエス様ご自身とイエス様の救いには興味を持っていませんでした(ヨハネ2:23-25参照)。しかし、問題は、彼らがイエス様ご自身と教えに興味を持っていない事を自覚していなかったことと、そもそも、それを問題視さえしていなかったことです。ですから、イエス様は、ユダヤ人の癪にさわるように、あえて安息日に「しるし」を行われたのです。第3のしるしを用いながら、エルサレムのユダヤ人たちに、彼らの形だけの信仰を露わにし、御自分の本性と、信仰の本質を明らかにされます。そして、この第3のしるしを皮切りに、5章から、人々ははっきりと公にイエス様に反対するように変わっていきます。要するに、世の光であるイエス様と世の暗闇である私たちが、5章から明らかに対抗し始めるのです。
では、第3のしるしは何だったのでしょうか?イスラエルの首都であるエルサレムに、べテスダという池があり、その池に「癒しの力」があるという言い伝えがあったらしく、「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていて」、癒される機会を待っていました。その大勢の人たちの中に、38年間も足の不自由な人が一人いたのですが、イエス様はただ彼を目にされただけでなく、彼の心の奥底にある深い苦しみをもご覧になりました。そして、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 と言われると、その人はすぐに癒され、床を取り上げて歩き出したのです。ヨハネは、ここで「ところが、その日は安息日であった。」という説明で締めくくります。ここからイエス様と人々の「戦い」が始まる、ということを示唆しているのです。
皆さんの中には、「安息日」ということばを初めて聞かれた方もおられるかもしれません。聖書には、クリスチャンの歩みの基準を、十の戒めにまとめている箇所があって、それを「十戒」と言うのですが、その中の第4戒をお読みします。
「12 安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。 13 六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。 14 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」(申命記5:12-14; 出エジプト20:8-11)
「安息日」とは、神様が私たちに丸一日休むことを命じられた戒めです。そして、十戒を見ると、そこには理由が二つあることがわかります。一つは、「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト20:11)という事からです。神様が休まれたので、私たちも休むということです。そして、もう一つは、「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」(申命記5:15)という事からです。神様がエジプトの奴隷制度ー永遠に働く世界ーから民を救い出され、私たちに「安息」という救いを与えて下さったので、いただいた自由、救い、安息を味わいながら、丸一日休むという事が安息日なのです。つまり、安息日は、面倒で、重荷になるような、いらない掟ではありません。安息日は、神の民が神様とともに安息を味わい、いただいた救いと自由を楽しむ日なのです。
このような安息日に、イエス様は第3のしるしを行われました。そして、そこにいたユダヤ人達は癒された人にこう注意するのです。
10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。 11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」 12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
ここだけを読むと、ユダヤ人の指摘がただのいじめのように感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、当時のユダヤ人は、安息日の掟を熱心に守ろうとしていました。十戒では、「あなたはいかなる仕事もしてはならない。」と書いてありますが、それは、普段している仕事を止めるということです。その延長線上に、当時のユダヤ人の教えを確認すると、「仕事」は39種類に分類されていて、何かを一つの場所から他の場所に移すことも一種の仕事として定められていました。それは、安息日を守る為の意図としては良かったかもしれません。それによって、次の日の仕事の準備のために、安息日に荷物や道具を移動させたりしないようにしたのかもしれません。それは知恵のあることだと思いますし、ユダヤ人たちが神様に従うことに熱心だったこともわかります。
しかし、どれほど、いい動機があったり、熱心であっても、ユダヤ人たちの注意をみると、神様に反抗していることは明らかです。理由が二つあります。「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない。」とユダヤ人たちは注意していますが、先ほど第4戒を読みましたね。「床を取り上げることは許されていない。」ということは神様のみことばには書いてありません。イエス様は違う場面で、そういう言い伝えを厳守する人たちにこのように注意されました。
「イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。 『この民は口先でわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。 人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」(マルコ7:6-8)
ヨハネ5章のユダヤ人たちは、それまでの人間の言い伝え、考え、思想は聖書と同じだと思っていただけでなく、千年前に書かれた神様のみことばよりも「熟した教え」だと思い込んで、真正面から神様に対抗したのです。
神様に対抗していたことがわかるもう一つの理由は、人の言い伝えを守るために、神様の救いを無視してしまったということです。原文には、「今日は安息日だ。【あなたの】床を取り上げることは許されていない」と書いてあります。ここには、注意しに来たユダヤ人たちが、その人の足が不自由であったことや、何年も床についていて癒しを待ち望んでいたことも知っていたことが示唆されています。そして、その人が「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」と答えたのに、ユダヤ人たちは、イエス様が彼を癒された事はスルーして、「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」とだけ聞いたのです。先ほど、説明したように、安息日は、神様からいただいた救いと自由を味わい、祝う日です。38年間も重い病気を患っている人が、イエス様に病気から解放されたのにもかかわらず、ユダヤ人たちは、人の言い伝えを無視されたイエス様のおっしゃった言葉にしか注目しなかったのです。安息日に行われた清めの方法だけにとらわれていたユダヤ人たちは、神様がその病人に与えてくださった「安息」を、完全に見失っていたのです。
しかし、イエス様を見失っていたのは、ユダヤ人たちだけではありません。他の福音書の話では、癒された人が信仰を持つケースは多いのですが、この箇所をよく読むと、ここで癒された人も、ユダヤ人たちとともにイエス様に反抗しました。13節を読むと、イエス様に癒されたその人は、その時、イエス様の名前さえ知らなかったので、イエス様により頼む信仰をそもそも持つことはできませんでした。しかし、癒しから時間がたって、神殿でイエス様に話しかけられたとき、その人はどうしましたか?イエス様に感謝しましたか?イエス様の弟子になろうとしましたか?彼は、その正反対のことをしたのです。イエス様に話しかけられた後、すぐにユダヤ人たちの所へ行って、イエス様に癒されたことを報告しました。それを聞いたユダヤ人たちは、それを皮切りにイエス様を「迫害し始めた」のです。「迫害」の意味が18節にはっきり書いてあります。「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。」つまり、イエス様に癒された人が、ユダヤ人たちとともにイエス様をどのように殺すかを企んでいたのです。しかし、イエス様にとって、これはすべて予想通りでした。ユダヤ人たちがイエス様のしるしの力に引かれながらも、イエス様ご自身と神のみことばには興味がなかったことが、この出来事によって、すべて露わにされたのです。
そして、「第4戒を破った!」と、ユダヤ人たちがイエス様に訴えたとき、イエス様はこう答えられました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」 この一文で、イエス様は、ユダヤ人たちに二つのことを示されます。まず、一つは、彼らが「ちゃんと聖書を読んでいない!」ということです。私たちの安息日は、神様の安息を表す日です。創世記2:1-3を読むと、神様は第七日に休まれたことが書いてありますし、神様の安息日が永遠に続いている、というようにも描かれています。ですから、神様の安息日は今も続いていますし、神様が今も働いておられるという事は当然なことなのです。「神様の安息」という意味は、神様がすべての働きから休まれたということではなく、六日間の創造の働きから休まれたということなのです。ですから、ユダヤ人たちがもとめている「すべての仕事、または負担になる動きをやめなさい。」という解釈では、神様ご自身も守っておられないということになります。ですから、イエス様は「もし表面的な意味でこの基準を神様に適応するなら、御父である神様が安息日を破っていることになる。あなたたちは神様を冒涜している。」と、遠回しにユダヤ人たちに指摘しておられるのです。そして、それだけではありません。イエス様は「それでわたしも働いているのです。」とおっしゃいます。つまり、イエス様は、「私の働きは、御父である神様の働きと同様なのだ。だから、私が第4戒を破っていると訴えることは、御父が第4戒を破っていると同じことになるのだ。」とおっしゃっているのです。イエス様ご自身が、御父の「安息」の働きの延長線上として、病人に「主の安息」を与えようとしたのにもかかわらず、ユダヤ人たちはそれを拒否してしまったのです。この一文で、イエス様はユダヤ人たちの表面的な信仰の浅はかな態度を、いろんな角度から注意されているのです。
この出来事を通して、イエス様は何を伝えようとしておられるのでしょうか?最も分かりやすいのは、イエス様が癒された人に語られた言葉です。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」(ヨハネ5:14)つまり、第3の奇跡によって癒されたことは素晴らしいことですが、それに安住してはならないということです。私たちの根本的な問題は、肉体の衰えや病気ではなく、心の病である「罪」です。私たちが罪を犯し続けるならば、「死」よりもさらに恐ろしい、神様の永遠の裁きが待っています(ルカ13:1-5参照)。イエス様は癒された人に、「永遠の裁きが待っているから、目の前の奇跡の結果に満足するのではなく、奇跡が示す意味を考えなさい。」と警告しておられるのです。しかし、癒された人はイエス様の警告を無視し、ユダヤ人たちと共謀してイエス様に敵対し、自分が癒されたことに安心してしまったのです。
今日の聖書箇所から、私たちは何を心に留めるべきでしょうか。三つの点にまとめます。
- 私たちは何を見て、何を見過ごしているのか?
今日の話の冒頭で、ユダヤ人たちは、38年間も歩けなかった人が奇跡的て歩いていることを完全に無視し、「床」を動かしていることによって安息日の掟を破ったことだけを見ていました。また、聖書の第4戒に何が書かれているかに着目せず、過去の慣習にばかり目を向けていました。癒された人は、イエス様が38年間も彼を苦しめていた病から解放してくださったことを忘れ、群衆がイエス様を迫害しようとしていることしか見ていませんでした。彼は、自分が癒されたことだけに気を取られ、悔い改めなければ裁きが待っているというイエス様の警告を完全に無視しました。さらに、ユダヤ人たちと癒された人は、イエス様が安息日を破られたことだけを見て、イエス様が神を自分の父と呼び、神と等しいと主張していることを拒否しようとしました。つまり、彼らが何を見て、何を見過ごしているかによって、彼らが何を重視しているかが分かります。少なくとも、ユダヤ人と癒された人が、聖書に書いてあることとイエス様の存在を重視していなかったことは明らかです。私たちは、どうでしょうか?今日の聖書箇所で、何が最も印象に残ったでしょうか?そして、印象に残らなかったのは何でしょうか?そして、聖書とイエス様は、そのどちらに入ったでしょうか?
- 私たちは良くなっても、もっと悪いことが起こり得ることを意識しているだろうか?
イエス様が最も伝えたいことは、「たとえあなたが求めている癒しが与えられ、願っている良いことが実現しても、罪を悔い改めない限り、もっと悪いことが待っていることを忘れてはならない。」ということです。しかし、鈍感で自己中心な私たちは、見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞きません。その結果、群衆は平然とイエス様が聖書の掟を破っていると訴え、癒された人は「大丈夫、大丈夫!」と自分に言い聞かせ、イエス様に感謝もせずに帰ってしまいます。私たちは今日のイエス様の言葉を聞いて「良い話だ」と思うかもしれません。しかし、イエス様は私たちにこう語りかけておられます。「あなた方は、安息日の主、創造主である神様を冒涜していることに気づいていますか?あなたは神の裁きを免れると思っているのですか。それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らずに、その豊かな慈しみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しい裁きが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えているのです。」(ローマ2:3-5参照)と、愛をもって真実を私たちに語っておられるのです。
- イエス様がこの世に来られた理由は、神様の裁きからの救い、究極の安息を与えるためである。
イエス様は、大勢の人々を癒すことも、ユダヤ人たちが求める聖書に基づいた完璧な教えを説くこともおできになりました。私たちの願いを叶えることもです。しかし、イエス様が与えてくださる救いは、究極的に言えば、病気や孤独からの救いではありません。貧困や悪からの救いでもありません。また、苦しみや死からの救いでもありません。今日の聖書箇所で示唆しているのは、イエス様の救いは、究極的に言えば、神様の裁きからの救いだということです。ヨハネ3:16-18で、イエス様はご自身の存在目的を明確に説明されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」
そして、神様の御怒りからの救いは、究極の安息なのです。罪の償いからの解放。この世、死、サタンの支配からの脱出。罪の病からの癒し。神様の御怒りからの救い。そして、イエス様の救いによって、私たちは週に一度の安息日だけでなく、神様の永遠の安息に入ることができ(ヘブル4:10参照)、このような安息を味わうことができるのです。
「それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、 昼も夜もその神殿で神に仕えている。 御座に着いておられる方も、 彼らの上に幕屋を張られる。 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、 太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、 いのちの水の泉に導かれる。 また、神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示録7:15-17)
イエス様が下さる一時的な「安息」に満足するのではなく、イエス様の究極の「安息」を常に待ち望みましょう。お祈りします。