2025年1月5日礼拝 説教 「正義は弱者と罪人のためにある」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌158番「子羊をばほめたたえよ」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読         創世記34章1-31節

聖書の話        「正義は弱者と罪人のためにある」 マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌130番「ひとりの御子さえ」 

聖晩餐式 Communion                            マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                  マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

創世記34章から説教しない教会は多いと思います。むしろ、この話をあまり聞きたくない人のほうが多いと言えます。しかし、この聖書箇所は、世界の中に存在する「悪」とどう向き合うか、何をすればいいか、「正義」とは何なのか、なぜ必要なのかがはっきりと書かれている箇所です。クリスチャンとして、この聖書箇所を読まずに、「悪」と「正義」についてあまり深く考えないで歩んでしまうと、この世の「悪」と実際に向き合う時、私たちは混乱してしまい、御心に反することをしてしまう可能性が高くなります。今日もこの箇所の流れをゆっくり見ながら、皆さんに覚えていただきたいことを三つにまとめてお話ししたいと思います。

 

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかも知れませんので、簡単にこの書物の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの契約」をお与えになりました。アブラハム家に約束されたのは、アブラハムの一人の子孫が、天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もし、その一人の子孫(イエス様)により頼めば、アブラハムの子孫も同じように天国を相続できると言うのです。その一人の子孫を待っている間に、神様はアブラハムの家族にカナンという地を約束されました。今日の聖書箇所は、アブラハムの孫であるヤコブがこの約束の地を相続するために、カナンに戻ってきたという場面です。

しかし、問題がありました。神様がヤコブにカナンを相続することを約束されたとき、ヤコブは、感謝な思いで自分からある誓約をしたのです。それは、もし神様が無事にヤコブを約束の地に連れ戻されたなら、「べテル」という所で神様のために祭壇を築き、約束の地で待っている自分の父と母に会いに行くと誓約したのです(創世記28:20-22)。しかし、ヤコブは、約束の地に着いてもその約束を守りませんでした。べテルから1日離れた、北にある町、シェケムという町で、ヤコブは土地を買い、そこに滞在することを決めて、べテルではなく、シェケムで神様のための祭壇を築き、父イサクと母リベカにも会いに行かなかったのです。神様がご自分の約束を守られたのにもかかわらず、ヤコブは自分勝手に、都合よく、自分の誓約を破ってしまったのです。つまり、ヤコブは、神様からの恵みを頂いておきながら、神様に対して怠惰になり、神様に従う気持ちもゆるくなってしまったのです。

 

そのような文脈で、34章が始まります。ヤコブの14歳の娘、ディナは、新しく引っ越したシェケムの町の娘たちに会いに行こうと思いました。これは、14歳の女性として自然なことのように思えることですが、創世記を読んでいる人たちには、それが非常に危険なことだとわかります。カナンでは、道徳のない男性が多く、夫を殺し妻を奪う男性もいましたし(創世記20:11,26:7参照)、町の男性が寄留者(または外国の人)を強姦するようなこと(創世記19:4-5)もありました。ですから、ヤコブが14歳の娘を一人でカナンの町へ行かせたことは、ヤコブが父親としてしっかりと娘を守らず、カナン人を信用しすぎていたとも言えます。

そして、親にとって最悪の出来事が起こります。「すると、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムが彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた。」(34:2)たったの一節で、四つの動詞が連続に出てくることによって、心が痛むほど、悪の激しさ、冷酷さ、唐突さが描かれていると思います。

皆さんもご存じのように、最も邪悪な悪は、最も予期せぬ時に訪れ、一瞬にして破壊し、辱め、奪うのです。そのように残酷な人間が、「ヤコブの娘ディナに心を奪われ、この若い娘を愛し、彼女に優しく語りかけ」たのです。この男は、突然、彼女に優しくして、「お前を愛しているんだ」とくどくのです。その前の冷酷な行為があったからこそ、ディナに対する優しさが邪悪で、曲がった自己中心的なものと見えるのです。悪の残酷な暴行と脅迫を体験したものは、悪の「優しさ」「甘い言葉」の本性をよくわかっていると思います。シェケムは全く反省せずに、族長である父親に「この娘を私の妻にしてください。」といい、強欲無道に自分のわがままを押し通すのです。これが悪の本性なのです。

 

このような「悪」と出会ってしまったヤコブは何をしたでしょうか?「ヤコブは、シェケムが自分の娘ディナを汚したことを聞いた。息子たちは、そのとき、家畜を連れて野にいた。それでヤコブは、彼らが帰って来るまで黙っていた。」(34:5)「悪」に対してヤコブは何もしませんでした。黙ってしまったのです。理由があったかもしれません。その町の裁判官は、加害者の父親で、族長のハモルの反撃を恐れていたのかもしれません。シェケムから追い出されることを恐れていたかもしれません。理由はなんであれ、結果は同じです。ヤコブは何もしなかったのです。

しかし、4人の娘を持っている父として、8歳年下の妹を持っている兄としては、悲しみもせず、怒ることもしないで黙っているということは、もっとも愛のない行為だと私は思います。少なくとも、家長であり、自分の保護者である父親が、何もしなかったことが、被害者である娘のディナをもっとも悲しませる、最悪な行為だったのではないでしょうか。しかし、ディナの兄弟は正反対の反応でした。

ヤコブの息子たちは野から帰って来て、このことを聞いた。息子たちは心を痛め、激しく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。このようなことは、してはならないことである。 (創世記34:7)

してはならない「悪」に対して、「心を痛め」「激しく怒る」ことは最も正しいことだと、聖書は言っているのです。つまり、「正義」とは、悪の被害者を見て心を痛め、悪に対して激しく怒ることであり、弱者から奪ったものを取り戻し、悪によって破壊された者を癒し、悪を行ったものを罰することを求めることなのです。兄弟たちの怒りと悲しみは、悪を正す「正義」を求める嘆きでした。

ディナを襲った加害者の父親、ハモルは、ヤコブ家にこのような提案をします。

8 ハモルは彼らに語りかけた。「私の息子シェケムは、心からあなたがたの娘さんを恋い慕っています。どうか娘さんを息子の嫁にしてください。 9  私たちは互いに姻戚関係を結びましょう。あなたがたの娘さんを私たちに下さり、私たちの娘をあなたがたが迎えてください。 10  そうして私たちとともに住んでください。この土地は、あなたがたの前に広がっています。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」

まず、当時の法律上、ディナが受けた被害に対する適正な罰金を、ハモルは差し出しました(参照申命記22:28-29)。ですから、表面的な正義は果たしているように見えますし、ハモルがこの状況を正そうとしていると注解する人は多いです。しかし、8-12節を読むと、ハモルと加害者のシェケムが、自分たちがした悪が悪であるとは全く思っていない事は明らかです(創世記20:8-10比較)。お金を出してまで結婚を提案する理由は、正義のためではなく、シェケムの欲を満たすためでした。町の裁判官である族長ハモルは、正義を守るべき立場の人でしたが、自分の息子の悪を許容しているのです。むしろ、悪を養い肥やしているのです。

 

そして、この提案は、ヤコブ家の信仰の本質的な部分を否定しているように聞こえます。ヤコブが約束の地から1000キロも離れたところへ行って戻って来た理由は、異教のカナン人と結婚せずに、同じ信仰を持っている女性と結婚するためでした。つまり、自分と家族の命を懸けて、2000キロもの旅をして来たのは、カナン人とは全く別の生き方をし、自分の家族の信仰を保つためだったのです。しかし、ハモルは、ヤコブ家の信仰と生き方と犠牲をすべてないがしろにし、ヤコブ家が自分たちの信仰を捨てて、カナン人と同じように生きることを提案しているのです。それは、聖書の信仰に対する冒涜とも読めます。

それゆえに、兄弟たちの怒りは過度にふくらみ、復讐に走ってしまいます。ヤコブの子供らしく父親にならってシェケムとその父ハモルをだますことを企みます。ディナの兄弟たちは、ある条件を出します。「もし、ヤコブ家の娘たちと結婚したいのなら、まず割礼を受けなさい。」と。実は、ヤコブの息子達が言っていることは、正しい、聖書的なことです。「割礼を受ける」ことは、聖書の神様を信じる証しなのです。今でいえば「洗礼を受ける」と同じような意味です。ですから、彼らが提案していることは、「もし、私たちの娘たちと結婚したいなら、聖書の神様を信じている証しとして、割礼を受けなさい。そうすれば、私たちの娘たちを、同じ信仰を持っているあなたがたに嫁がせることができます。」ということなのです。しかし、この条件は、ハモルとシェケムの悪質な考えを先読みした罠に過ぎませんでした。

欲に溺れていたハモルとシェケムはそれを聞いて喜びましたす。シェケムはディナに対する歪んだ愛に酔っていたので、何のためらいもなく割礼を受けました。しかし、ハモルと町の男性たちはどうだったしょう?ハモルと町の男性たちが割礼を受けた理由は、はっきりと23節に書いてあります。「そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば、彼らは私たちとともに住むことになる。」つまり、ハモルは、ヤコブ家が自分の部族の一員になることを望んでいて、その町の男性たちはヤコブ家の娘たちと財産を欲していたのです。本来、信仰をもって割礼を受けるべきなのに、町の男性たちは信仰をもたずに、自分の欲を満たすために、聖なる聖なる聖なる神様の契約のしるしを受けたのです。

ヤコブの息子たちはそれを予測していたので、 三日後、彼らの傷がまだ痛んでいるとき、ヤコブの息子でディナの兄たちの、長男シメオンと次男レビが、それぞれ剣を取って難(なん)なくその町を襲い、すべての男性たちを殺しました。彼らは、その人たちの全財産、幼子や妻たち、家にあったすべてのものを略奪したのです。正義の要素はもちろんあります。この町の男性たちは、ヤコブ家のものを奪おうとしていたので、「正当防衛だ!」という口実を使えるかもしれません。自分たちのかわいい妹の命と純潔をないがしろにしたことの「正義の罰だ!」と正当化できるかもしれません。しかし、どう見ても、これは冷静沈着な正義の実行ではなく、復讐に燃え、血に飢えた狂乱であることは明らかです。しかも、神様の愛を表す恵みの契約を復讐の武器としたのです。つまり、神様の御名をみだりに唱え、みことばを乱用し、信仰を使って、自分たちの悪質な怒りを満たそうとしたのです。

 

しかし、そうは言っても、復讐の狂乱のただ中で、この一節は特に印象的です。

彼らはハモルとその子シェケムを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出した。

動機はどうあれ、ヤコブの息子たちの復讐によって、ディナはハモルとシェケムの悪から救われたのです。どう考えても、自分を辱めた相手と結婚したい女性はいないと思います。その悪を許容した父親の下で一生過ごしたい女性もいないと思います。この父親と息子から身に受けたとんでもない罪を、お金を理由にして見過すような町に住みたい女性もいないと思います。ですから、「シェケムの家からディナを連れ出した」と言うこの一節は、自分ではどうすることもできない14歳のディナにとって救いの言葉です。

34章の終わり方は、綺麗な結論ではありません。ヤコブの応答とヤコブの息子たちの応答がありますが、どちらが正しくて、どちらが正しくないかは明確ではありません。ヤコブが、そのように息子たちに注意するのは正しいことでした。正しい正義のプロセスを無視して、息子たちは自分たちが考える「正義」を執行することで、彼ら自身もとんでもない復讐の暴行を犯したのです。そして、その為に、ヤコブ家はその罪に値する罰を受ける恐れがありました。しかし、ヤコブの注意の中には、ディナが受けた「悪質な行為」に対する怒りは、微塵もありませんでした。つまり、ヤコブは、弱者である娘のディナを守ろうとする、悪を憎むと言う「正義感」に全く欠けていたのです。

しかし、息子たちの応答はどうでしょう。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」と、父ヤコブの正義感のなさを指摘することは理解できますが、息子たちの発言は、自分の怒りを満たすために正義を捻じ曲げていることを正当化しようとしているのです。ですから、34章を読み終わるとき、「悪に満ちた世界で、正義はどこにあるのか?」このような疑問が残ると思います。

 

ありがたいことに、聖書全体を読むと、その疑問に答えがあります。この疑問に答えるために、三つのポイントを覚えていただきたいです。最初に覚えていただきたいことはこれです。「正義は弱者の救いのためにあるのです。正義は、悪質な圧制者に対する正しい怒りなのです。」ここには救いと注意があります。

 

もし凶悪で、強力な存在と出会ったら、正義を執行する裁判官の必要性を絶対に感じると思います。まだ、そういう必要を感じたことがないなら、まだ本当の悪と出会ったことがないのかもしれません。しかし、もし、あなたが悪に圧制された弱者の立場だとしても、安心してください。

例えば、もし、あなたが権力のある人にやりたくないことを強制されたり、自分よりも強い人に辱められたり、男性または女性から性的、精神的な虐待や暴力を受けるようなことがあったり、もしくは、ディナのように、予期せぬ悪に出会ってしまうようなことがあったならば、正義の神様は、あなたにおっしゃりたいことがあります。神様はあなたが受けた傷を御覧になり、ディナの兄弟たちよりも1億倍心を痛められ、激しく怒っておられるのです。あなたに悪を犯したシェケムは、自己弁護するかもしれません。あなたを愛しているというかもしれません。あなたのせいにし、あなたを侮辱するかもしれません。あなたが受けた傷は、小さいものだというかもしれません。しかし、正義であられる、父なる神様は、あなたに深い傷を御覧になるとき、深く、激しく泣かれます。そして、あなたに害を与えた悪の存在を御覧になるとき、聖なる正義感をもって激しく怒られます。正義の神様は、あなたを悪の家から救い出し、悪が奪ったものを取り返し、悪が壊したものを回復してくださるのです。それが最後のさばきの目的です。最後の裁きの日は、弱者が受けた傷を癒し、弱者を救う日でもあるのです。

それと同時に、また、誰かがあなたがもし自分より弱いもの、権力のないもの、力のないものに対して、自分の欲を満たすために、誰かに深く、とんでもない傷を与えたのであれば、神様はその人にもおっしゃりたいことがあります。神様は、ヤコブやハモルのようにえこひいきされず、あなたの悪も見過ごされません。あなたは、いろんな口実で自分の行いを正当化するかもしれませんが、神様は、ヤコブの息子たち以上に、あなたが犯した悪に対して、最後の最後まで、あなたが正当な償いを支払うまで、燃える正義の御怒りであなたを追い求められます。神様の正義の執行から逃げられると思ってはいけません。なぜなら、最後の裁きの日は、悪を犯した強者を正し、正義をもって罰する日だからです。

 

それを踏まえて、二つ目に覚えていただきたいことはこれです。「正義は、罪を償った罪人のためにもあるのです。正義は、復讐からの正しい守りでもあるのです。」ここにも救いと注意があります。

 

正義は、罪人に正当な罰以上の罰を与えない為にあるのです。私のクリスチャンの友人の中に、犯罪を犯してしまった人がいます。私の友人は、自分の罪を償うために、すべてのことを全うしました。法廷の判決に従って、刑務所へ行き、自分の罪を償いました。しかし、罪を犯してから7年以上もたっていましたが、罪の履歴が残っているので、誰も彼を雇ってくれませんし、差別されてしまうのです。今、彼が働いているところで、いつも働いた分よりも低い給料を受けています。それは、雇い主が、私の友人が違う仕事を見つけることができないとわかっているからです。償いを全うした罪人に、さらに罰を与えることは正義だと思いますか?もちろん、それは正義ではなく、復讐です。ですから、正義は、罪を償った罪人を復讐から守ると言えるのです。

復讐というのは、正義を無視して、自分の苦み、憎しみ、喪失感、憤りなどを解消するために、加害者から受けた害を100倍返すようなことです。しかし、復讐を行う人は適正な「正義」を執行しているだけだと思っているのです。ドイツのヒットラーの暴行は、第1次世界大戦の敗北で受けた「害」の罰。原爆も、日本が犯した暴行へのアメリカによる罰。2001年の9/11のアメリカへのテロ攻撃は、中東の人が与えた罰。2023年の10/7のイスラエルへのテロ攻撃も、パレスチナに与えた害の罰。何十万人もの命を落としたイスラエルの侵入も、10/7のテロ攻撃の罰。歴史の中でも、また、私たちの生活の中でも、最も悪質な行為がもたらされるのは、自分たちの正しさを主張し、自分の手で正義の罰を執行しようとするときです。しかし、そう考えると、日常の生活の中で人を赦せないとき、人がした悪に対する怒りと苦みを抱くとき、私たちもディナの兄弟たちの復讐と同じ悪質な性質を持っているということが明らかになります。

「何が悪いのか?何もしなかったら、弱者をどのように守るのか?まだ罪を償っていない罪人はどうするのか?」という疑問があるかもしれません。兄弟たちの最後の一言は、そう言う疑問だと思います。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか?!」最後に覚えていただきたい点はこれです。「正義と復讐は、あなたのものではなく、イエス様のものです。」

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。 「復讐はわたしのもの。 わたしが報復する。」主はそう言われます。(ローマ12:19)

面白い適応だと思いませんか。復讐しない理由は、「復讐」と「怒り」が悪いからではないのです。イエス様も激しく怒っておられるので、イエス様の正義のさばきにゆだねなさい、ということです。もし、イエス様がディナの兄弟たちの疑問を聞く機会があれば、こうおっしゃると思います。「私が激しく怒っていないと思っているのか?私の最後のさばきを待てないから、裁判官の座を私から奪おうとしているのか?私が執行する最後の永遠のさばきでは不十分だと思っているのか?あなた方は自分たちが何を言っているか、わかっているのか?!復讐はわたしのものだ。わたしが報復する。ディナに手を出した悪人はわたしのものだ。あなた方は自分勝手に手を出してはならない。」ですから、私たちは復讐してはいけません。裁判官であるイエス様の正義の怒りにゆだねましょう。

 

しかし、そのあとでイエス様は、ディナの兄弟たちのように激しく怒っている私たちにこうおっしゃると思います。「そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神の裁きを免れるとでも思っているのですか。 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」(ローマ2:3-4)つまり、皮肉なことに、私たちは悪の害を受けた弱者でもあり、同時に、同じ悪を行ってしまった罪人でもあるのです。

しかし、感謝なことに、イエス様を信じる者にとって、イエス様の十字架の死は神様の御怒りのための「宥めの供え物」なのです。イエス様は、十字架の死によって私たちの過去の罪、今行っている罪、将来の罪のすべての償いを支払ってくださったのです。ですから、最後の裁きの日に、イエス様は、イエス様の十字架を通して、罪を償った罪人守ってくださるのです。もしそうであれば、私たちの「誇り」はどこにあるのでしょうか。イエス様の十字架によって、それはすべて取り除かれます。(ローマ3:27参照)ですから、イエス様に赦された者として、私たちは「敵が飢えているなら食べさせ、 渇いているなら飲ませ」ながら、正義のイエス様にゆだねて、「善をもって悪に打ち勝つ」ことが出来るのです(ローマ12:20‐21参照)。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church