2025年1月19日礼拝 説教 「その水を飲む者はだれでも、また渇きます」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書12章1-3節
さ ん び Opening Praise 主イエス神の愛
さ ん び Praise 偉大な愛
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 聖歌273番「命の泉に」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書4章1-18節
聖書の話 Sermon 「その水を飲む者はだれでも、また渇きます」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌322番「こひつじ主イエスの」1-4番
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、本当に食べられない食べ物がありますか?小学生のとき、私は椎茸が苦手でした。どれほど「健康のためにいい」と言われても、まずそうな食べ物のために、絶対口を開けませんよね。でもね、今は実は、椎茸が大好物なのです。なぜかというと、肉しか食べない私の父がなぜか椎茸を注文して、おいしそうに食べたからです。私がすっごくお腹がすいていたときに、「お腹がすいているでしょ」と言われて、椎茸を食べる勇気が与えられました。そして、その椎茸は本当においしかったのです。

 

聖書は、イエス様を信じることは、イエス様を「食べる」または「飲む」と同じだと書いています。しかし、自分がお腹がすいていたり、喉が渇いていたりしていることに気づいていなかったら、イエス様を「信じる」ことはできません。おいしそうにイエス様を「食べている」人がいなければ、同じようには食べないと思います。イエス様はある女性と話しますが、その女性はイエス様の話を全く信じたいとは思っていませんでした。しかし、イエス様がその女性に自分がどれほど心の喉が渇いていたかを気づかせたとき、その女性は、イエス様の話をすぐに信じることができました。そして、喜んでイエス様を信じた女性を見た人も、イエス様を信じたのです。今日は、その話を見ていきたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3章は、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の先生、ニコデモとイエス様の対話が記されています。ニコデモの対比として、サマリアの女とイエス様の対話が記されています。本日のサマリアの女の「証し」、または「証言」は、「客観的な」歴史の記録なのですが、この福音書を書いた著者、ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得することでした。一つは、このサマリアの女の証言を通して、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせることです。この話を聞いた私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうかという三つの選択肢があります。

 

ヨハネの福音書の4章の時点で、イエス様はイスラエルの首都で最近ブレイクした聖書の先生と見なされ、多くのユダヤ人たちがイエス様のところへ行こうとしていたのです。彼らは、イエス様に興味を持っていたかもしれませんが、イエス様を「神の子」として受け入れることは考えていませんでした。しかし、あまりに大勢の人たちが集まっていて、イスラエル人の中でも最も熱心な信者たちであったパリサイ人たちが、イエス様に目をつけ始めていたのでイエス様は、余計な争いが起こらないように、首都から離れた地方にあるガリラヤに戻ろうとします。当時、ガリラヤへ向かう為の最短ルートは、サマリアという地方を経由する道でした。

 

イスラエルとサマリアは、同じ血統を持っている民ですが、敵対していた民族でした。まず、サマリアという町は、神様に選ばれた王様を拒み、イスラエルの分裂を起こしたイスラエルの北王国の首都でした。その上、この北王国が神様の掟を拒んだゆえに、神様はアッシリア王国の侵入を許されました。アッシリア王国は様々な民族をサマリアに移住させたので、その民族の宗教もサマリアに根付くようになったのです(2列王記17:24-28)。そして、サマリア人は、その異教を拒むこともなく、聖書の神様を拝みながら、他の神様を拝んでいたのです(2列王記17:29-41)。多くのサマリア人も異教の人と結婚し、正当な聖書の信仰から離れ始めました。サマリア人は、旧約聖書全体をすべて受け入れるよりも、モーセ五書だけを聖書として受け入れ、本来、エルサレムの神殿でしか礼拝は捧げられませんでしたが、彼らは、ゲリジム山に自分たちの神殿を立てたのです。つまり、サマリア人は、聖書の一神教ではなく、多神教に近い信仰を持っていて、都合よく、部分的に神様のみことばに従っていたのです。ですから、当時は遠回りしてでも、その地域を避けて通るような非常に熱心なユダヤ人もいたようです。しかし、イエス様と弟子たちは、そのような事は全く気にせずサマリアへ行きます。

 

以前創世記34章から説教しましたが、イエス様と弟子たちが、ヤコブがシェケムで買った土地にたどり着いて、弟子たちが食事の用意をするのをイエス様が待っておられた時の事です。イスラエルの真昼に、長旅に疲れ、喉も渇いていましたが、井戸の水をくむバケツもなしで汗でびしょ濡れになりながら座っておられました。イエス様は、明らかに超能力者ではありません。私たちと同じように、イエス様も疲れ、喉が渇き、肉体の限界を感じられるお方です。

 

そのとき、一人のサマリアの女が現れます。そして、長旅の疲れで喉が渇いておられたイエス様が「わたしに水を飲ませてください」とおっしゃいますが、サマリア人の女は、何もためらう事なくお願いするイエス様に驚きます。なぜなら、先ほど説明した理由のゆえに、ユダヤ人はサマリア人と交流がなく、同じコップからさえも水を飲みたくない程の悪い関係でした。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」

 

自分から水をお願いしたのにも関わらわず、イエス様は、唐突に、このような質問をされます。

「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

中東も日本と同じように、場を考慮したり、上下関係を尊重したり、空気を読むことなどが重視される文化です。ですから、もしイエス様が日本での新米宣教師であれば、「イエスさん、信頼関係を築いてから、もうすこし謙遜に、やわらかく、場を選んで、質問したほうがいいですよ」と、私は注意すると思います。が、イエス様はそのようなお方ではありません。イエス様は、人の目を恐れず、愛を持ってすぐに踏み込んだ話をし、私たちの不信仰、罪、生ぬるさに立ち向かわれるのです。

 

しかし、イエス様は具体的に何を指摘されたのでしょうか?サマリア人の女がイエス様ご自身が「神の賜物」であり、「生ける水」を与えることができるお方であるということに気づかなかったということです。まず、興味深いことが2点あります。サマリア人は、そもそも、「神の賜物」を探していませんでした。水を汲みに来ただけで、霊的な神様の話を求めて来たわけでもありません。そして、原語では、「生ける水」という意味は、「湧き出る水」「動く水」という意味で、自分の住んでいる家の近くまで流れる川やローマにあった非常に便利な水道橋を意味しています。ですから、喉が渇いていても水をくむ物も持っておられないイエス様に、「私には簡単に水をくめる方法があるんだよ」と言われても、このサマリア人にとっては、なんの説得力もありませんでした。

 

ですから、サマリア人はこのように答えます。

11「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。 12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

自分が知っている水を汲む方法とイエス様がくださる方法を比べたら、今まで使っていた方法の方が頼れると思うのは、当然のことです。イエス様がサマリア人に水を与える方法があるようには見えませんし、そもそも、イエス様の方がサマリア人に水を求めたのです。そして、サマリア人が水を汲もうとした井戸は、紀元前約2000年ごろにイスラエルの12部族を始めたヤコブが掘った井戸で、何百年もイスラエルを支えてきたのです。(実は、その井戸はまだ存在していて、今でも水を汲むことができます。)何百年もサマリア人たちを支え続けて来た神様が選ばれた祖先ヤコブの井戸よりも、5分前にはじめて会ったユダヤ人の青年が提供してくれる水の方がいいということは、おかしなことです。

 

しかし、イエス様は、私たちの信頼関係を築く為に、巧妙な詐欺師のように、リーズナブルで上手い、営業トークをされません。イエス様は単刀直入に、そして、大胆に、私たちの魂が必要とする「いのちの水」について話されます。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。 14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

この一節でイエス様は、イエス様がおっしゃる「生ける水」が、水道橋の「動く水」、泉から「湧き出る水」の事ではなく、旧約聖書が指している尽きることのない、霊を永遠に満たす「いのちの水」を意味していると明確にされました。

旧約聖書には、神様が神の民を救われ、最高の地に導かれるという約束がいくつかあります(イザヤ44:3,49:9-10,58:11など)。その一つの例として、イザヤ49:9-10を読みます。

「わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、 闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。 彼らは道すがら羊を飼い、 裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。 彼らは飢えず、渇かず、 炎熱も太陽も彼らを打たない。 彼らをあわれむ者が彼らを導き、 湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。」

そして、その完璧な約束の地の真ん中に神殿が建てられるのです。神殿というのは、神様ご自身が座られる王座のような所です。その神殿から膨大な量の「いのちの水」が川のように流れ、すべての地を潤し、神の民が癒され、満たされるのです(エゼキエル47:1-12;ゼカリヤ14:3-8参照)。その預言は、神様ご自身の存在が、神の民が必要とする「いのちの水」であると意味しているのです。

 

しかし、神の民はこの約束をいただいているのにもかかわらず、約束された「いのちの水」を拒んでしまったのです。旧約聖書で、神様はこのように神の民の罪を描写されました。

「わたしの民は二つの悪を行った。 いのちの水の泉であるわたしを捨て、 多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。 水を溜めることのできない、 壊れた水溜めを。」(エレミヤ2:13)

この箇所は、具体的に偶像崇拝のことを指していましたが、偶像崇拝は「見える偶像」だけに限りません。見えない心の中の偶像もあり(エゼキエル14:3)、新約聖書では、汚れた欲、情欲、貪欲、すべての悪い欲が「偶像崇拝」だと断言しているのです。

 

このような教えは他の宗教にあるかもしれませんが、キリスト教の最も驚くべき事は、イエス様が与えて下さる「いのちの水」だけが、私たちの魂を満たすことが出来るという事実です。ヨハネ7:38では、イエス様はこのようにはっきりとおっしゃいます。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:38) つまり、旅に疲れ、喉が渇いているイエス様ご自身が、旧約聖書のすべての約束を成就される「いのちの水」の泉である聖書の神様であられるということが宣言されているのです。

 

話があまりにも壮大で、自分とは繋がりのない話だと思い始めたサマリアの女性はこういいます。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」魂を満たす「いのちの水」よりも、もう少し生活を便利にしてくれる、現実的な「生ける水」の方がいいと思ったのかもしれません。

 

このサマリアの女性が、自分の魂を満たしてくれる「いのちの水」を拒み、もう少し現実的な「動く水」を選んだのは、そもそも、彼女が自分の魂が渇いていることを認めていなかったからです。その結果、「霊的ないのちの水」の必要性を感じていませんでした。彼女の興味なさそうな顔を御覧になったイエス様は、愛をもって、もう少し踏み込んだ話をされます。

16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。 18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

イエス様は、彼女の実態を?何のフィルターもなく?ありのままに?映し出す鏡を彼女の前に置かれたのです。当時、未亡人や離婚した女性が再婚することは多かったのですが、3回以上再婚することは、聖書的であっても、当時の感覚ではあまりよく見られていませんでした。その上、夫ではない男性と同棲することも、聖書的ではありませんでした。しかし、イエス様は、彼女が5人以上の男性と関係をもった過去に触れ、愛をもって、「あなたは自分の状況を見て、本当に、自分が飢え渇いていないと否定し続けるのですか?」と、ただ質問されたのです。

 

サマリアの女とイエス様の話は続きますが、最終的には、この女性はイエス様を信じることになります。そして、この対話の前半では、イエス様がどのように私たちと接してくださるのかがよくわかります。三つのポイントを覚えていただきたいです。

 

まず、一つ目のポイント。多くの場合、私たちは、そもそも、イエス様のような存在を探していません。むしろ、イエス様が、私たちの人生に突然現れ、唐突に私たちの心の渇きを露わにされるのです。

 

よくありがちなイメージは、クリスチャンになる人がイエス様を探し求めるイメージです。しかし、サマリアの女の話はその正反対です。サマリアの女は、2000年前に掘られたヤコブの井戸から、イスラエル人が何百年も頼り続けた「水」を汲みに行ったのです。他の水を見つける必要もなかったし、その水で十分満足していました。皆さんも同じように、日本に住む1億2000万人と同じように頼っている「水道水」に満足していて、「新しい水」のために大きく自分の人生を変える必要はないと思っているかもしれません。そのような時に、イエス様が、突然、私たちがそもそも必要と感じていない「いのちの水」を提供してくださるのです。

 

私たちに「いのちの水」の必要を感じさせるとき、イエス様は、唐突に、私たちが認めたくない「心の渇き」を露わにされるのです。つまり、本物のイエス様と出会った人は、「私の心を裸にさせられた」と感じるのです。皆さんは、そのようにイエス様に出会ったことがあるでしょうか?自分の振舞いや服装、学歴や成功、言葉づかいや礼儀などで、頑張って隠そうとしている心の渇きを、一瞬でイエス様に見透かされたことがありますか?

 

もし、そのような経験をされた事があるなら、二つ目に覚えていただきたいことは、イエス様が私たちの心の渇きを露わにされたとき、私たちは部分的には認めますが、自分の渇きの実態を認めないという事です。

 

「いや、私の心は、そこまで渇いていません」というのが、サマリアの女と同じように、私たちの反射的な答えかもしれません。しかし、イエス様は私たちにこう返されるかもしれません。「ああ、そうですよね。自分の痛みを麻痺させるためのやめられない習慣ー長時間のテレビやゲーム、中毒性のあるお酒やタバコ、必要のない買い物や過度に高い趣味、ポルノや水商売ーは、世の中のストレスの解消法かもしれませんね。」「たしかに。何時間も働いて、結婚相手や子供と過ごす時間を犠牲にし、自分の精神が押しつぶされそうになるまで仕事をするのは、よくある話かもしれません。」「会ったこともない存在に夢中になって、時間とお金と労力をかけて推し活をするけど、身近な人のためには何も犠牲にしないことは、今の流行かもしれませんね。」「そうか。自分の人生に喜びを感じず、何時間も光っているスクリーンに没頭し3秒の快感を探し続けることは21世紀の現実かもしれません。」「なるほど。寝られないほど、何もできないほど、人の目を恐れることや、周りの人から愛を欲しがることは、確かに最悪な状態ではないかもしれませんね。」

 

いくつかの例を出しましたが、どのような心の渇きであっても、イエス様は、私たちの言い分を聞かれ、それと同時に、愛をもって、私たちに自分の「心の渇き」の実態を認めさせようとされます。サマリアの女のように、5人以上もの相手と結婚関係を持っていないかもしれませんが、私たちは、自分の心がどれほど飢え渇いているかを、無意識に否定しようとしていると思います。私も、以前も、そして、今もそうです。私たちは、心の底から飢え渇いていることを忘れようとするために、いろんな手段を用いて、自分の痛み、飢え渇き、苦しみを麻痺させるのです。私は皆さんの実態が見えないかもしれませんが、イエス様はすべてご存知です。

 

そういうときこそ、イエス様は憐れんで、私たちに最後のポイントを教えてくださいます。「その水を飲む者はだれでも、また渇きます。 もしわたしを信じれば、心の奥底から、永遠のいのちがあふれ出る水の川が流れます。」

 

ヨハネの福音書は、ノンクリスチャンにとって比較的わかりやすい書物ですが、クリスチャンのために書かれた書物です。今の「水」で満足してしまっているクリスチャンは、二つの罪を犯しています。いのちの水の泉であるイエス様を捨てていること。そして、水を溜めることのできない、 壊れた水溜めで満足してしまっていることです。壊れた水溜めで自分を満たそうとしている私たちを御覧になられるとき、イエス様は、優しく、愛をもって、はっきりと、こう私たちにおっしゃいます。「それを飲む者は、また渇きますよ。」と。皆さんには、イエス様の愛と憐れみの言葉が、心の底に届きましたか?

 

感謝なことに、その言葉はサマリアの女の人の心に届きました。イエス様と話したあと、サマリアの女はイエス様の存在に圧倒され、イエス様を信じました。サマリアの女は、自分の水がめを置き、今までより頼んでいたものを捨て、サマリアの人々に喜びをもって「いのちの水」であるイエス様のすばらしさを証ししました。それゆえに、多くの人も信じたのです。では、サマリアの女と多くの人々が信じたきっかけは何だったのでしょうか?

 

サマリアの女はこう言いました、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。」(ヨハネ4:28,39) つまり、彼女にとっては、イエス様が心の渇きをすべて露わにされたことが信じるきっかけでした。そして、喜んで自分の罪を告白したサマリアの女をみて、多くの人々もイエス様を信じるようになったのです。つまり、自分が渇いていることを認めなければ、飲むために口を開きません。私たちも、自分の心の渇きを否定せず、イエス様が見せてくださる私たちの実態を受け入れましょう。そうすれば、サマリアの女のように、喜びをもって救いの泉から水をくみ、永遠のいのちを飲むことができます。そして、自分の心の渇きを喜んで認め、おいしくイエス様の「いのちの水」を飲むと、面白いことに、多くの人々もイエス様のもとに集まるのです。今週も自分の心の渇きを認め、イエス様の「いのちの水」に満たされていることを大胆に告白しましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church