2025年2月9日礼拝 説教 「べテルの神様の働き」 

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」1-2、4-5

開会の祈り Opening Prayer 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 聖歌229番「驚くばかりの」

執事就職式 Deaconess Installation

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読           創世記35章1-15節

聖書の話        「べテルの神様の働き」             マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌412番「主とともに歩む」

聖晩餐式 Communion                            マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」

祝 祷 Benediction                                  マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きます。最先端の技術を開発して、天国のような、最高の町を1カ月で建てるのと、罪を犯さないようにするために一人の人間を鍛えるのでは、どっちが難しいと思いますか?最高の町を建てることは本当に難しそうですが、歴史やニュースを読むと、10年、50年、100年位待てば何とかできそうな気がします。しかし、歴史やニュースからもわかりますが、人間はどう頑張っても、何を開発しても、罪を犯してしまうことはなかなか変えられません。

 

私たちは、ヤコブの人生について創世記の25章から35章まで読んできました。神様は、ヤコブの家族に天国のような最高の町を与えてくださると約束されました。しかし、10章まで読んでも、何も変わっていません。「神様って、本当に約束を守られるのかな?」と思えるような話です。20年たっても、何も変わっていませんでしたが、ある一つの事が変わっていました。ヤコブは罪をやめて、神様だけを愛することを決めたのです。教会に通っている子供たちにとっては、当たり前のことかもしれませんが、最高の町を1カ月で建てるよりも難しいことです!ヤコブの話を通して、神様がなさりたいことが明らかになります。神様は、私たちに天国のような最高の町をすぐに与える前に、私たち一人一人を造り変えたいとお考えなのです。なぜかというと、私たちを造り変えなければ、天国が台無しになってしまうからです。今日は神様がどのように私たちを造り変えられるのかを、ヤコブの人生から学んでいきたいと思います。

 

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単にこの書物の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの契約」をお与えになりました。アブラハム家に約束されたのは、アブラハムの一人の子孫が、天の約束の地(天国)を相続するということです。そして、もしその一人の子孫(イエス様)により頼むなら、アブラハムの子孫も同じように天国を相続できるというのです。その一人の子孫を待っている間に、神様はアブラハムの家族にカナンという地を約束されました。今日の聖書箇所は、アブラハムの孫であるヤコブがこの約束の地を相続するために、カナンに戻ってきたという場面です。

 

しかし、そこには問題がありました。神様がヤコブにカナンを相続することを約束されたとき、ヤコブは、感謝の思いで自分からある誓約をしたのです。それは、もし神様がヤコブを無事に約束の地に連れ戻されたなら、「べテル」という所で神様のために祭壇を築くという事でした(創世記28:20-22)。しかし、ヤコブは、約束の地に着いてもその約束を守りませんでした。べテルから1日離れた、北にあるシェケムという町で、ヤコブは土地を買い、べテルではなく、シェケムで神様のための祭壇を築き、そこに滞在することを決めてしまいました。つまり、ヤコブは、神様からの恵みを頂いておきながら、神様に対して怠惰になり、神様に従う気持ちもゆるくなってしまったのです。

 

その結果、シェケムで、ヤコブ家にとって最悪の出来事が起こります。シェケムの族長の息子が、ヤコブの14歳の娘ディナを捕え、ディナと寝て、辱めたのです。それだけではなく、シェケムの族長は、息子をディナと結婚させることを提案し、ヤコブ家がカナン人の一部になることを勧めたのです。ヤコブ家の経済にとっては、それは非常にいい提案でしたが、神の民がカナンの文化に呑み込まれ、アブラハムから引き継がれた信仰が失われるような危機的な状況でした。しかし、霊的なリーダーシップを発揮すべき時に、信仰的に怠惰になってしまったヤコブは、恐れによって心が麻痺し、悪に対して何もしませんでした。それゆえ、ヤコブがシェケムに抵抗しないことを選んだことによって、自分たちのかわいい妹の為に正義を求めていたヤコブの息子たちの怒りは極度に膨らみ、復讐心から、シェケムの虐殺と略奪に至ったのです。ヤコブが、1000キロ程の旅を終え、兄エサウと和解をし、信仰を成長させながら、やっと約束の地にたどり着いたにもかかわらず、ヤコブの一つの過ちによって、全てここで終わるかもしれないという状況になってしまったのです。人生の終盤に入ったヤコブは、すべてを失ってしまう程の致命的な失敗を経験したのです。

 

しかし、忘れていけないのは、たとえ、人生の後半に致命的な失敗を犯してしまったクリスチャンでも、神様は見捨てられないという事です。ヤコブの祖父アブラハム。ヤコブの父イサク。旧約聖書のオールスターたち、ノア、モーセ、アロン、ダビデ、ソロモン。彼らは人生の終わりにとんでもない失敗をしてしまった人たちです。ヤコブも同じです。大失敗したヤコブに、神様は「ほらね。お前がわたしのことばを聞かなかった罰だ。自業自得だ。」とはおっしゃいませんでした。「ちゃんとわたしを信じなかったからだめなんだ。自分の信仰を鍛錬しなさい。」ともおっしゃいませんでした。神様は、こう仰せられたのです。

「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

「べテル」は場所の名前で、「神の家」という意味です。ですから、この言葉は「立って、神の家に上り、そこに住みなさい。」という意味なのです。神様は、ヤコブの罪や失敗を指摘されず、ヤコブが御前に住むように招いておられたのです。

 

創世記を読まれたことのある人はご存じだと思いますが、「べテル」は、ヤコブの信仰の歩みが本格的に始まった場所だとも言えます。ヤコブが信仰を持ち始めたきっかけは、大失敗を経験したときでした。ヤコブは自分の父と兄を騙し、神様の恵みを引き継ぐ特権を奪い返した為に、自分の家族を崩壊させてしまったのです。そのため、ヤコブは、自分を殺そうとしている兄から逃げるために、1000キロ離れた叔父の家へ逃げる必要がありました。お金も、家族も、名誉や生き残る保証もなくなって、荒野で石の上に寝そべって、ヤコブが自分の大失敗と向き合っていたとき、神様が突然夢の中に、天と地をつなぐはしごの上に現れたのです。そして、大失敗しても、アブラハムに約束された「恵みの契約」を実現することを約束されたのです。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」とヤコブに宣言されたのです。そして、20数年後に、また自分の未熟さによって自分の人生をハチャメチャにしてしまったヤコブに、「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。」という神様からの言葉がありました。

 

具体的に、ヤコブがどのようにその言葉を受け止めたかははっきりと言えませんが、ヤコブが自分の家族に何を命令したかはわかります。

「2 あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。 3  私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」

20数年前、ベテルで「苦難の日」にヤコブに恵みを約束された日から、神様はいつもともにいてくださり、私を見捨てられなかったと、ヤコブは家族に告白します。20年間の叔父ラバンに圧制されても。自分の知恵に頼ってしまい神様の存在を忘れてしまっても。自分の過ちで娘ディナが辱められても。神様はいつもそばにおられ、いつも恵みを注ぎ続けてくださったのです。「もう無理して、自分で何とかするのはやめなさい。最初に私を信じたように、わたしの恵みに100%頼りながら歩めばいいんだよ。たとえ同じ罪を繰り返しても、私の言うことを何度無視しても、あなたを絶対に見捨てないと約束しただろう?」という神様のことばを、ヤコブは受け止めたのかもしれません。

 

当時、中東ではポケットに入れて持ち歩くことができる「偶像」や「仏壇」がよくありました。ヤコブ家は、20数年も多神教を信じ、偶像崇拝をする町に住んでいたので、聖書の神様他の神々を崇拝する文化に染まっていたのです。創世記31:34に書いてあるように、ヤコブの妻、ラケルは、自分の父ラバンの偶像を盗むほど、他の神々に頼っていました。今までヤコブは、それを多めに見ていたかもしれませんが、神様に対する自分の中途半端な愛と向き合い、神様の誠実で純粋な、熱い、無条件の愛を経験し、そこで決心したのです。聖書の神様の純粋で無条件な愛を経験する者は、多神教の中には、いられなくなるのです。なぜなら、そのような無条件な愛は他に存在しないからです。ヤコブは、最終的にこう告白しました。「主よ、神々のうちに、 だれかあなたのような方がいるでしょうか。 だれがあなたのように、聖であって輝き、 たたえられつつ恐れられ、 奇しいわざを行う方がいるでしょうか。」(出エジプト15:11)ですから、ヤコブ家のみんなが、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡し、ヤコブは地に埋めたのです。つまり、他の神々との関係を完全に断ち切ったのです。そして、べテルに帰り、「べテルの神」と名づけた祭壇を築き、ヤコブ家を愛し続けた聖書の神様を「彼とともにいた人たちもみな」拝んだのです。

 

けれども、忘れてはいけないのは、ヤコブが自分の信仰を新たにしたとしても、自分の悲惨な状況は全く変わっていないという事でした。この状況を変えられるのは、ヤコブではなく、神様であることがこの短い箇所でわかります。ヤコブが最も恐れていたのは、周りのカナン人に、息子たちの虐殺の仕返しで、ヤコブ家を絶滅させられることでした。しかし、他の神々を捨てて、彼らがべテルへ旅立つと、「神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった」(35:5)と書いてあります。具体的に何が起こったかは全くわかりませんが、神様がそれまで何度もしてくださったように、窮地に追い込まれたヤコブ家をまた救い出されたのです。

 

そして、ヤコブの信仰の出発点であったべテルにまたたどり着いたヤコブに、二つの恵みをお与えになりました。一つの恵みは、神様がヤコブに新しい名前をお与えになったことです。「ヤコブ」は「出し抜く」という意味で、その名前は勝つために人をだまして奪うという、ヤコブの負けず嫌いな性質を表していました。しかし、神様は「イスラエル」という名前を与えられました。それは、「神と戦う」という意味です。ヤコブは神様と戦い、神様の恵みを勝ち取った者だという意味なのです。創世記32章を読むと、恵みを勝ち取るために、ヤコブは神様と格闘したのですが、自分の力では神様に勝つことはできませんでした。神様は自ら負けてくださり、ヤコブに勝利を与えられ、その勝利を与えたことを記念するために、「イスラエル」という名前を与えられたのです。ですから、「イスラエル」という名前は、神様がヤコブに勝者の特権を一方的にお与えになったことを記念する意味があるのです。そして、35章で、ヤコブに再びその名前が与えられています。ヤコブが大失敗したとしても、勝者の特権と神様の恵みを与えることには変わりない事を、神様が宣言された事は恵みの一つでした。

もう一つの恵みは、ヤコブ家を、神に選ばれた全世界にわたる王国にすることです。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。 12  わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」遊牧民のヤコブ家が、「一つの国民」になり、ヤコブ家の子孫が立派な王たちになり、ヤコブが生み出す王国が「国民の群れ」になるということは、どう考えても不可能な約束です。それだけではなく、ヤコブの約束を聞いても、21世紀の日本に住む私たちクリスチャンにとっては、自分とは関係無い事だと感じるかもしれません。しかし、私たちがここで礼拝していることは、この約束が成就された証拠でもあるのです。最終的に、ヤコブの腰から生まれ出る「王」は、イエス様だからです。ヤコブに約束されている「王国」とは、イエス様が支配される「神の国」を表す「教会」のことなのです。そして、もし、歴史的にキリスト教を「キリストの王国」として考えるならば、これほど多様で、人数が多く、歴史があり影響力のある「王国」は、歴史上にはありません。ですから、ヤコブ家がどれほど小さくて、力のない家族であっても、この約束が、ヤコブの子孫「イエス・キリスト」にあって成就されたことがわかります。

 

しかし、この二つの恵みは、ヤコブにとって新しい恵みではありませんでした。この二つの恵みは、祖父のアブラハムに約束され、父のイサクに引き継がれ、ヤコブに同じように約束されたのです。べテルで神様と出会ったときも、神様は、同じように変わることなく、この恵みを約束されたのです。もしそうなら、なぜこの箇所で「新しい」恵みが与えられたかのように描かれているのでしょうか?それは、変わられたのが神様ではなく、ヤコブだったからです。創世記35章のヤコブは、べテルに最初に着いたときと全く同じように、石の柱を立て、同じように柱の上に油を注ぎ、同じようにその場所をべテルと呼びましたが、創世記28章でのヤコブ自身の信仰は全く違います。神様の変わらない、壮大な「恵みの約束」を、どのように理解し、どのように受け入れ、どうように待ち望んだかは、若かったヤコブと何回も大失敗してしまった中年のヤコブとでは、姿勢が本質的に違うのです。

 

今までのヤコブの人生を地図で描くと、べテルから始まりべテルで終わる、2000キロ以上に渡る大きなUターンのようです。旅が始まったとき、ヤコブは家族が崩壊するような大失敗をしてしまいましたが、またべテルに戻ったときにも、自分の家族が崩壊する同じような大失敗をしてしまいます。旅の始まりに、ヤコブが約束の地であるカナンを自分のものにするという可能性はゼロに近かったのですが、べテルに戻ったときも、まだゼロに近いものでした。つまり、2000キロ以上の旅をして、何十年もの信仰生活を送って来たのに、目に見える程の、わかりやすい進捗が全く見えなかったのです。しかし、大きなUターンの旅であったからこそ、そして、目に見えるような?進捗がないからこそ、べテルの神様の目的がはっきりわかるのです。神様の目的は、カナンという約束の地で神の王国を最速で建てることではないのです。見える神の王国を建てるよりも難しいことは、私たちの見えない罪深い魂を造り変えることです。エペソ2:10の言葉を借りると、神様は、じっくりと時間をかけて、御自分の無条件の愛と恵みという鑿(ノミ)で丁寧にヤコブを形造り、御心通りの傑作に造り変えられるのです。これがべテルの神様の働きなのです。

ヤコブのべテルの神様との歩みを見て、三つのことを覚えていただきたいのです。まず、一点目。べテルの神様がヤコブに2000キロ分と20年分の激しい苦難を与えられた理由は、ヤコブをご自分の傑作にするためでした

 

神様は、ヤコブにすぐに約束の地をお与えになることができました。また、すぐに幸せな生活や、苦しみもない平和な人生をお与えになることもできました。しかし、神様はそうなさいませんでした。親が子供の願うままにすべてを与えてしまうと、とんでもないことになるように、もし、神様が私たちが願う物をそのまま与えられたら、私たちの外側は幸せそうに見えるかもしれませんが、私たちの心の内に秘めている未熟さ、弱さ、罪の傾向、プライド、自己中心さは変わらないです。そのようなものが変わらない限り、私たちは本当の喜びを味わえないのです。子供を愛する親は、子供が最もいい形で成長するために、適度に恵みを与え、適度に訓練を与えます。それと同じように、私たちが経験しているすべての苦難は、愛に満ちておられる御父の手から来ているのです。新約のへブル書にはこう書いてあります。

「6    主はその愛する者を訓練し、 受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」 7  訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか… 11  すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

ローマ8:28では、私たちのすべての苦難は神様のご計画の中にあり、私たちの「益となる」ということが約束されていて、29節には「益」が具体的に書いてあります。「29  神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」つまり、私たちが受けている一つ一つの苦難は、私たちが神の子であるイエス様の御姿に造り変えられるためなのです。それどころか、イエス様は、最愛の「御子であられるのに」、御父が十字架という試練をイエス様に与えられ、「お受けになった様々な苦しみによって従順を学ばれた」とへブル5:8に書いてあります。

 

今、苦難を経験されている愛する兄弟姉妹。イエス様の十字架が、イエス様を最も愛しておられる御父から与えられたことであるなら、今のあなたの苦難が、愛に満ちた御父からのものである事が信じられますか?そして、その目的が、イエス様が御父に従う中で経験された喜びと愛を、私たちも味わう為だという事が信じられますか?

 

ここで二つ目のポイントを分かち合いたいです。べテルの神様がヤコブを「神の恵みの傑作」にされる方法は、ヤコブが神様の恵みのみで生きていることを認めさせることです。

 

20年に渡った2000キロ以上の長旅は、ヤコブにとって、自分を鍛錬する修行ではなく、非常にシンプルなことを認めさせるためでした。「私が歩んだ道でともにいてくださったのは、聖書の神様だ」ということです。自分の父が兄を特別に愛していても。自分の兄に殺されそうになっても。義理の父に20年間奴隷のように圧制されても。妻と子供たちを自分の思うように守ることができなくても。何回も大失敗しても。聖書の神様はヤコブを見捨てず、恵み深くともにいてくださったこと、そして、神様の恵みなしでは、生きることができないということをヤコブはやっと悟ったのです。

どんな時代のどんな文化でも、また、どんな年齢であっても、神様の恵みなしで生きることはできない、神様だけは、私をお見捨てにならない、という信仰告白は、非常に難しいです。はっきり言うと、不可能です。

しかし、神様はそのような信仰を成長させるために、私たちの魂の「粘土」が柔らかくなるように、苦難という「水」を掛け、私たちが聖書の神様により頼むことができるように、時間をかけて私たちの信仰を練ってくださるのです。これが陶器師であるべテルの神様の働きなのです。皆さん、苦難の中でも、御父の御手が愛を持って、あなたの信仰を練ってくださっていること感じているでしょうか?

 

最後のポイントは、これです。べテルの神様の無条件な愛を経験すると、他の神様を愛すことができなくなるのです。

 

私たちが長年愛してきた偶像や、長年満たしてきた欲望、長年犯してきた罪をヤコブのように「地に埋める」とき、私たちは幼なじみか、恋人を亡くしたかのように、悲しむことがあります。ある注解書には、私たちは未熟さにより、地に埋めた偶像の墓参りのために、それをお花で飾ることがある、と書いてありました。それは、イエス様からいただいている愛の理解が未熟だからだと思います。しかし、ヤコブは、20年分の無条件な愛を受けて、その愛が偶像、欲、罪から受ける「愛」とは、比べ物にならないと気づいたかもしれません。私たちも、純粋で完全な、無条件のイエス様の十字架の愛を経験するとき、他の「神」「モノ」「人」を愛する価値を見い出すことはできずに、花婿であるイエス様しか見えなくなるのです。自分のクリスチャン生活を振り返って、自分の過去の試練を振り返って、イエス様の愛と比べるモノは何もない事を受け入れていますか?今週も、イエス様の十字架の愛を仰ぎ見て、悔いることなく自分の偶像を地に埋めましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church