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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | マタイの福音書11章28-30節 |
さ ん び | Opening Praise | 主イエスの十字架の血で |
さ ん び | Praise | 満たしてくださる方 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書4章16-26節 |
聖書の話 | Sermon | 「あなたと話しているこのわたしがそれです」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌313番「弱き者よ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに質問しますが、信仰を持っているのは、クリスチャンだけだと思いますか?実は、すべての人ー神様を信じていても、信じていなくてもーには、信仰があると言えます。信仰は、何かに「頼る」ということです。「頼る」はちょっと想像しづらいかも知れませんね。信仰はー例えば、椅子か何かにー「座る」というようなことです。でも、全ての人は立っているけど、クリスチャンだけが座っているという事ではありません。クリスチャンは、イエス様という「椅子」に座っていますが、クリスチャンではない人は、全く違うものに座っているという事です。その椅子とは、「自分の夢」「自分が愛している人」「自分の力」「自分が持っているもの」かもしれません。誰でも何かしらに頼っていて、何かに座っているのです。
今日の話は、イエス様とサマリアの女の人が話している場面です。イエス様はこのサマリアの女に、「私に頼ってください。私がつくる椅子はすごくいいですよ」というのですが、サマリアの女は、「あぁ、結構です。いらないです。今まで通りでいいです。」と答えます。しかし、イエス様は、サマリアの女に「あなたが頼っているものは何回も壊れてしまって、あなたは何回も傷つきましたよね。」と言うと、サマリアの女は「確かにそうだけど、、、あなたは本当に私を支えることができるんですか?今まで頼ってきたものとどう違うんですか?」と質問します。そして、イエス様は、「あなたが探している天の救い主は私です。安心しなさい!」と答えます。そして、サマリアの女は、今まで頼っていた「椅子」、つまりその「信仰」から立ち上がり、イエス様に頼ること、座ることを真剣に考え始めるのです。この話について見ていきたいと思います。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3章には、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の教師であるニコデモと、イエス様の対話が記されています。そしてその中に、ニコデモとの対比として、サマリアの女とイエス様の対話も記されています。本日のサマリアの女の「証言」は、「客観的な」歴史の記録でしたが、この福音書を書いた著者、ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得させることでした。一つは、このサマリアの女の証言を通して、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせることです。ヨハネの福音書の4章は、「永遠のいのち」に興味のないサマリアの女に、イエス様がどのようにこの二つの事実を説得されたのかという話です。そして、この話を聞いている私たちには、このサマリアの女と同じようにイエス様の話を信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうかという三つの選択肢があります。
長旅の疲れで喉が渇いておられたイエス様は、「わたしに水を飲ませてください」とサマリアの女に言われましたが、何もためらうことなく自分にお願いされたイエス様に驚きます。イスラエルとサマリアは、同じ血筋を持っている民ですが、敵対していたのです。イスラエルはできるだけ旧約聖書の教えを受け入れ、一語一句を守ろうとし、他の民と全く違うきよい生活を歩み、御言葉に沿って、エルサレムに礼拝の拠点を置いていた民でした。イスラエルのユダヤ人は、「正統派」とも言えます。しかし、サマリアは違います。サマリア人は、旧約聖書全体をすべて受け入れるのではなく、モーセ五書だけを聖書として受け入れ、異教を拒むこともなく、聖書の神様を拝みながらも他の神様をも拝んでいた民でした(2列王記17:29-41)。多くのサマリア人が異教の人たちと結婚し、エルサレムではなく、ゲリジム山に自分たちの神殿を立てました。ですから、ユダヤ人は、サマリア人のことを「正統な信仰を捨てた民」だと思っていたので、同じコップからさえも水を飲みたくないという程嫌っていました。ですから、サマリアの女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」とイエス様に聞いたのです。
しかし、イエス様は、その質問にはお答えにならず、唐突に、「永遠のいのち」について話されます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)しかし、ただ、井戸の水を汲みに来たサマリアの女は、そのような抽象的に感じる話には興味を示しませんでした。そこで、イエス様は、その女の身近な話にするために、また唐突に、5人もの夫がいましたが、今、同棲している男は彼女の夫ではないということを証しされるのです。その瞬間、サマリアの女は、自分の心の渇きに気づかされ、自分がどのような「水」を飲んでも、また心が渇いてしまうという現実に向き合わされたのです。私たちも同じように、自分がどれほど飢え渇いているかを自覚しなければ、イエス様が差し出してくださる「永遠のいのち」を身近に感じることはできないのです。今日の聖書箇所は、その続きです。
イエス様がサマリアの女の心の渇きを指摘されたことによって、サマリアの女はこのように答えます。
19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。 20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
長年、私はサマリアの女の応答は、現実から逃げるために、話題を変えて、イエス様に神学的な質問をしたのだと思っていましたが、実は、ここには、サマリアの女が「永遠のいのちに興味はない」「イエス様を信じない」というスタンスから、「話をもう少し聞きたい」というステージに切り替えられたプロセスが描かれているのです。
「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」という返事は、非常に興味深いと思いませんか。何人もの男性と関係を持っていた歴史が明らかにされても、心が満たされない飢え渇きがあることを指摘されても、サマリアの女は全く驚かず、「はい、そうです。」とその真実を受け入れます。ある意味、サマリアの女は、イエス様が来られる前に、既に自分の心の飢え渇きを何となく自覚していて、自分には助けが必要だとわかっていたのかもしれません。ですから、イエス様のことを、真実を語り、救いと助けを差し出す「預言者」と呼びましたし、イエス様からもう少し話を聞きたいという思いがあったのです。
しかし、自分の飢え渇きを認めるだけで、イエス様の話に興味を持つことは、信仰には至りません。
新改訳2017版では、はっきりとはわかりませんが、彼女はイエス様のことを多くの預言者の中の一人の預言者として呼んでいます。つまり、このサマリアの女は、イエス様が多くのユダヤ人とサマリア人が待ち望んでいる、究極の救いをもたらしてくださる「あの預言者」(ヨハネ1:21)だとは思っていなかったのです。それゆえに、信じるかどうかを決めるために、イエス様に大事な質問をします。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 現代の日本に住んでいる私たちにとっては、あまり現実的な話には感じられないかもしれませんが、何百年も対立してきたユダヤ人とサマリア人にとって、これは究極的な質問でした。エルサレムの真の神殿で礼拝する者が真の神を礼拝していると考えていたので、ユダヤ人はその人たちだけが救われる、と信じていたのです。
しかし、サマリア人は、ゲリジム山の神殿で礼拝する者が、真の神様を礼拝する者だと信じていたのです。ですから、イエス様に、「自分が飢え渇いているのは認めますが、永遠のいのちをいただく手段はエルサレムですか?ゲリジム山ですか?そもそもサマリア人である私は、あなたが言う『いのちの水』『永遠のいのち』をユダヤ人のあなたからいただくことができるのですか?」と質問するのです。つまり、「私のような者が、あなたから『永遠のいのち』をいただくことできるのでしょうか?」というような、本質的な質問です。
イエス様はその質問にまっすぐに答えられ、結論から入ります。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。 」つまり、長年の歴史があっても、いろんな神学的な議論があったとしても、ゲリジム山、エルサレムに関係なく、一つの場所に限定する事なく、神様を礼拝し、救いを得る手段が与えられる時が来たのです。結論はシンプルですが、イエス様はサマリアの女の悩みに丁寧に答えてくださいます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
イエス様は、サマリアの女の質問の重要性を否定されませんでした。サマリアの女が悩んでいた通り、それまでは、救いはイスラエルにしか約束されておらず、真の神様を礼拝する手段もイスラエルにしかありませんでした。なぜイスラエル以外の人たちは、真の神様を礼拝することができなかったのでしょうか?聖書には、なんらかの形で、神様が存在しておられること、永遠の力と神性をもっておられること、その存在に感謝すべきことなどを、すべての人は直感で理解している、と書いてあります(ローマ1:19-20)。しかし、そのようなことよりも、神様がどういうお方であり、どのように礼拝するべきなのかを知らないので、盲人が手探りで神様を探しているようなことだと、聖書は言っています(使徒17:27)。
しかし、イスラエルには、神様はご自分の意思と言葉を明らかにされました。大半の新約の手紙を書いた使徒パウロは、イスラエル人にはこのような恵みがあると書いています。
彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。(ローマ 9:4-5)
ですから、パウロは、イスラエル人ではない人々ーサマリア人、日本人、アメリカ人、フィリピン人、中国人ーを、「キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たち」(エペソ2:12)と描写しています。要するに、イエス様は、サマリアの女が懸念している通りに、イスラエル人ではない人たちが「いのちの水」をもらう資格はない、ということを認めておられました。しかし、感謝なことに、イエス様は、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」と素晴らしいことを宣言されます。つまり、新しい時代が始まったということです。
どういう時代でしょうか?興味深いことに、この新しい時代は、「まことの礼拝」ができる時代です。イエス様が遠まわしにおっしゃっているのは、それまでのエルサレムを中心にしていたユダヤ人の礼拝は、救いを得ることはできる礼拝でしたが、完成形ではなかったということです。真の礼拝は、エルサレムの神殿やゲリジム山の神殿での礼拝の仕方を上回る、新しくて、より真実と現実に近い「完成された」礼拝である、とイエス様は宣言されます。イエス様がこの礼拝を「新しい」「まこと」と呼ばれることによって、以前の礼拝の仕方は、古いものとされます。(へブル8:13参照)。そして、感謝なことに、御父は、この新しい時代に「そのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」つまり、神様は、ユダヤ人に限定するだけではなく、真の礼拝を求める者に救いを与えられるということです。ですから、イエス様は、5人以上の男と関係を持ったサマリアの女に、「あなたもいのちの水である神様をまことの形で礼拝し、自分の心を満たすことができる!」とおっしゃっているのです。(興味深いことに、3章に現れたユダヤ人の中の宗教的エリートでありながら、聖書の教師であるニコデモには、このような招きはありませんでした。)
では、「まことの礼拝」とは、どういう意味でしょうか?「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」これがイエス様の説明です。「神は霊ですから」という意味は、神は「世」のものではなく、「天」の存在なのです(ヨハネ3:5-8参照)。「御霊と真理によって礼拝する」ということは、この「天の真理」をもって礼拝することなのです。天に存在される「霊」なる神様が、この地上にあるエルサレムやゲリジムに礼拝の拠点を置かないことはなおさらのことです。聖書では、「天国」を最も高い山(シオン、新しいエルサレム)に例えていますが、天に存在される「霊」なる神様は、ちっぽけなこの世にあるエルサレムやゲリジム山に神殿をおくのではなく、「天のエルサレム」(天国)にまことの礼拝の場を置き、まことの礼拝の拠点を「天」の神殿にされるということです。そして、聖書には、この「新しい」「天」のエルサレム、神の山でのまことの礼拝が描かれています。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。 」つまり、まことの礼拝の「神殿」は、神様とイエス様ご自身であり、天の御霊によって生まれ変わるものは、まことの礼拝に加わることができ、「永遠のいのち」をいただき、「いのちの水」を飲むことができるのです。
サマリアの女は、これは聖書に預言されている究極の救いであることを理解しました。そして、ユダヤ人も、サマリア人は、その究極の救いをもたらす存在が神様が送られる「メシヤ」であり、申命記18:15が預言する「あの預言者」が説明してくださると理解していたので、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と答えました。そして、汗びっしょりで井戸の傍らに座っていて、喉の渇きを覚えていた30代のユダヤ人の「預言者」が、サマリアの女の顔をみて、ゆっくりと、「あなたと話しているこのわたしがそれです。」とおっしゃいました。その一言は、この会話のパズルの最後のピースでした。「私が究極の救いをもたらすメシヤだ。私が一斉のことを説明するあの預言者だ。私が御霊と真理による礼拝の時代を始める救い主だ。私がユダヤ人とサマリア人を迎えるまことの礼拝の拠点、天の神殿である。私があなたのようなサマリアの女にも流れる天のいのちの水の泉なのだ。あなたの目の前で、あなたに話している私が、それです。」とイエス様はおっしゃいました。それを聞いたサマリアの女は町の人に、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」という結論に至ったのです。
サマリアの女の信仰への道を見て、三つのことを覚えていただきたいです。一つ目のポイントは、自分の心の渇きを認めたり、イエス様が真実を語っておられることを認めるだけでは、信仰には至らないということです。私たちは、「イエス様は私を救えるか?」と自分に問う必要があります。
ある方々は長年、この教会に来られて、イエス様のお話が真実であることを認めているかもしれません。または、長年、ある自分の弱さや自分の心の渇きと向き合い続けて来て、自分はイエス様がおっしゃるように心が渇いていると認めているかもしれません。イエス様が、何らかの救いを自分に提供しようとされていることも理解しているかもしれませんし、イエス様の話に興味があるので、イエス様の話を聞き続けたいと思っているかもしれません。サマリアの女の様子を見るとわかりますが、それは信仰の前の段階です。サマリアの女はその段階に留まらず、非常に大事な行動をとりました。それは、自分にとって重要な質問をイエス様にする事でした。サマリアの女は、「私はサマリア人のゲリジム山に救いがあると信じていますが、イエス様の救いは私を救うことができるんですか?私とどんな関係あるんですか?」と質問したのですが、その意味は、「イエス様は本当に私を救うことができるのかな?私は今のままでいいかもしれないけど。」という事でした。その質問をすることによって、サマリアの女にとって他人事だったことが自分事になったのです。皆さんはどうでしょう。イエス様を信じていないかもしれませんが、自分が信じている「山」や、「救い」は何でしょう。そして、イエス様が、あなたの心の渇きにどのように関係があるのか、ぜひ、聖書のイエス様に聞いてみて、聖書と照らし合わせて見てください。
二つ目のポイントはこれです。まことの「天」の救いであるイエス様は、それを求めるすべての者を満たしてくださり、救うことがおできになるのです。
この「世」の救いには限界があるので、すべての人に適応できるかどうかはわかりません。ある薬がある人たちに効果があっても。ある考え方や価値観が喜びをもたらすことができても。ある人によって、あなたが慰められたとしても。ある人の「救い」がすべての人に適応するかどうかは、わかりません。エルサレムはユダヤ人の救い。ゲリジム山はサマリア人の救い。皆さんもキリスト教について聞いて、「うーん。それは1世紀の中東の人の救いかもしれないし、アメリカ人の宣教師の救いかもしれないけど、21世紀の日本に住む私には関係ないよ。」と思うかもしれません。しかし、イエス様の救いの拠点は、エルサレムでもなく、ゲリジム山でもなく、カリフォルニアでも、ロンドンでもないのです。まことの救いは、すべての文化、すべての時代に共通する、この「世」の多様性を超え、天国に拠点を置く「救い」なのです。霊であられ、無限、永遠、不変の神様の救いだからこそ、すべての人を救うことができるのです。
ですから、もし5人以上の男性と関係を持っていたサマリアの女のように、長くて複雑な事情があっても。ユダヤ人とは違い、サマリア人たちのように、何年も本当の神様の教えに従い続けなかったとしても。自分はもう救いようがないと思ったとしても。天におられるイエス様は、天でこう宣言されます。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙示録21:6;22:17) 求める者には、救いがあるのです。
最後に覚えていただきたいポイントはこれです。あなたの救いは、抽象的で知ることの出来ない、奥義のようなものではありません。あなたの救いは、あなたの前におられ、知る事ができ、話しかけてくださるイエス様なのです。
私たちは、それぞれ、ヨハネの話を聞いて、「いい話だな。いつか信じたいな」と思うかもしれませんが、イエス様はそのような猶予を私たちに与えられません。私たちの質問に丁寧に、まっすぐに答えてくださいます。私たちは、実際にはイエス様と対面で話すことはできませんが、サマリアの女以上に、聖書を通してイエス様のお話を読み、体験することができます。イエス様がおっしゃりたいことは、この3節にまとめる事が出来ます。
「 28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
「あなたと話しているこのわたしがあなたが探している救いなのです」とおっしゃるイエス様から、クリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても私たちは逃れることはできません。上手くお茶を濁すこともできません。イエス様の軽いくびきを負うか、違う存在のくびきを負うか。いのちの水を飲むか、今まで飲んで来た水を飲むか。イエス様が私たちの永遠のいのちであられることを信じるか、今までの人生でいいのか。その2択しかないのです。ですから、イエス様をすでに信じているのであれば、ぜひ今日も、そして、今週も私たちの前におられるイエス様により頼んでいきましょう。