2025年2月23日礼拝 説教 「この方が本当に世の救い主だ」

メッセージの34分辺りで録音トラブルのため無音になる時間がございます。ご了承ください。

 

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書52章7-10節
さ ん び Opening Praise 聞け我らの賛美
さ ん び Praise 主のあわれみは~His Mercy is More~
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌479番「すべての人に」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書4章27-42節
聖書の話 Sermon 「この方が本当に世の救い主だ」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、お腹がペコペコなのに、ご飯を食べずにいつまでもやり続けていたいぐらい、すっごく楽しいことはありますか?私が小学生のときだったら、「ゲーム」だったかもしれません。高校生のときは、バレーボールで大学生のときは、「スノボ」か「バスケ」だったかもしれません。今は、説教の準備かエクセルでのデータ分析かもしれません(本当です!)。どんなに疲れていても、お腹がすいていても、喉が渇いていても、楽しくてしょうがないことが何かありますか?

 

イエス様にとって、それは神様からいただいた「命令」「ミッション」を完成させることでした。イエス様にとって、それは楽しくてしょうがない事で、すごくお腹がすいていたのに、お弁当を買ってきてくれた弟子たちに「あ、大丈夫。お腹いっぱいです」とおっしゃいました。何がそんなに楽しかったのでしょうか?イエス様の喜びは、神様の救いについて語り、永遠のいのちに導くことです。それがイエス様の喜びだからこそ、私たちは今ここにいて、永遠のいのちを受けているのです。そのことについて、今日の聖書箇所をゆっくり見たいと思います。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3章には、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の教師であるニコデモと、イエス様との対話が記されています。そしてその中に、ニコデモとの対比として、サマリアの女とイエス様の対話も記されています。本日のサマリアの女の「証言」は、「客観的な」歴史の記録でしたが、この福音書を書いた著者、ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得させることでした。一つは、このサマリアの女の証言を通して、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の4章は、「永遠のいのち」に興味のないサマリアの女に、イエス様がどのようにこの二つの事実を説得されたのかという話です。そして、この話を聞いている私たちには、このサマリアの女と同じようにイエス様の話を信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうか、という三つの選択肢があります。

 

長旅の疲れで喉が渇いておられたイエス様は、「わたしに水を飲ませてください」とサマリアの女に言われましたが、何もためらう事なく自分にお願いされたイエス様に、そのサマリアの女は驚きます。イスラエルとサマリアは、同じ血筋を持っている民ですが、敵対していたからです。ユダヤ人は、サマリア人のことを「正統な信仰を捨てた民」だと思っていたので、同じコップからさえも水を飲みたくないという程嫌っていました。ですから、サマリアの女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」とイエス様に聞いたのです。

しかし、イエス様は、その質問にはお答えにならず、唐突に、「永遠のいのち」について話されます。「この水を飲む人はみな、また渇きます。  しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

興味がなさそうなサマリアの女の顔を御覧になられたイエス様は、彼女にとって、身近な話にするために、また唐突に、これまで5人もの夫がいたが、今、一緒に住んでいる男性が彼女の夫ではないということを指摘されるのです。そのときサマリアの女は、自分が飢え渇いていることに気づき、永遠のいのちの水の必要性を感じ始めたのです。それゆえ、サマリアの女は、自分がユダヤ人ではなくても、本当にその「いのちの水」をいただくことができるのかを、イエス様に質問します。そして、イエス様は、自分がすべての民族や国境や壁を超える、天のまことの礼拝をもたらす「メシア」(救い主)であることを宣言され、サマリアの女は、それに驚き、感動するのです。

すごくいい話をしている時に、突然、食事の買い出しから帰って来た弟子たちが現れます。当時、女性がユダヤ人の聖書の先生(ラビ)に話しかける事は、非常に無礼なことでした。弟子たちは、驚いたにもかかわらず、サマリアの女に「何を求めているんですか」と注意したり、「なぜ彼女と話しておられるのですか」と自分たちの先生に聞いたりはしませんでした。それでも、それまでのいい話やいい流れが台無しです。しかし、感謝なことに御言葉は、その場の勢いや雰囲気、語る人の話術やテクニックにまったく影響されません。聖霊が働かれるとき、どんな状況でも御言葉は用いられるのです。ですから、イエス様のことばを聞いたサマリアの女は、町へ帰って、人々にこう言いました。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

 

前に説教したことがありますが、最初の弟子たちがキリストの証人になったときの4つの特徴をサマリアの女に見ることができます。①イエス様がご自分からサマリアの女に話しかけられ、サマリアの女が想像もしなかったことが起こります。②イエス様と驚きの対話を体験すると、「イエス様が救い主かもしれない」と思い始めます。③イエス様の本性に驚き、自分の水がめを置いていくほど、サマリアの女は町の人々にイエス様について語りたくなりました。④イエス様ご自身に会わせるために、信頼している人々を半強制的にイエス様のところへ連れて行こうとします。サマリアの女の「来て、見てください!」という言葉は、自分の友人ナタナエルをイエス様に連れて行こうとした弟子のピリポと同じ言葉です(ヨハネ1:46)。これはヨハネの福音書の「伝道」の典型的なパターンです。

ヨハネの福音書の流れを見ると、3章に出てくるユダヤ人の宗教的エリート、ニコデモがイエス様の証人にならずに、5人以上の男性と関係を持っていたサマリアの女の人がイエス様の証人になったのです。これがイエス様がもたらす新しい「時代」なのです。サマリアの女を皮切りにし、この新しい時代が始まったにもかかわらず、鈍感な弟子たちはそのことに全く気付いていませんでした。近くの町で買ったご飯をもってきて、目の前にいる、長旅で疲れ果て、お腹をすかして、喉が渇ききっている先生に、「食事をしてください」と勧めます。しかし、イエス様は、サマリアの女とニコデモとの対話と同じように、唐突に話を変え、見えていないものに焦点を当てられます。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」この言葉は、 本当に興味深いと思いませんか。

サマリアの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われたイエス様が「あなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、私に【生ける水】を求めていたでしょう」(ヨハネ4:10)とおっしゃったように、お腹をグーグーならしながらイエス様は「あなたがたが知らない最高の食べ物があります。」とおっしゃったのです。つまり、神様からご覧になれば、サマリアの女も弟子達も霊的には同じレベルに立っているという事をほのめかされたのです。弟子たちはサマリアの女と同じように、イエス様のことばの霊的な意味を理解することができず、文字通りに受け止めて、「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 と考え始めました。

 

サマリアの女やニコデモの対話と全く同じように、イエス様は、この会話のすれ違いをきっかけに、救いの本質について教えられました。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」ここでは、イエス様が最も望まれていることは何なのかが見えます。イエス様は、自分の栄光と名誉のために人を救おうとされるのはなく、神様に遣わされたしもべとして、自分の主人に従おうとしておられるのです。神のしもべとしての「食べ物」は報酬ではありません。そして、御心を成し遂げることの意味である、「神様に従う」ということは、ご自分の喜びであり生命力であるということなのです。40日間も断食されたイエス様は、申命記8:3を引用され、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』とおっしゃいました。つまり、イエス様は、「飢え死にするくらいなら、神のことばを食べ、それに従う方がましです。」と弟子たちにおっしゃっているのです。

イエス様が神様からいただいたミッションとは何でしょうか?イエス様はある例えでその疑問に答えられます。

「35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」

旧約聖書の預言書には、最後の日を収穫の日に例える箇所がいくつかあります。アモス9:13-14では、この収穫の日は、神の民の「回復」を表していて、「荒れた町々を建て直して住み、 ぶどう畑を作ってそのぶどう酒を飲み、 果樹園を作ってその実を食べる」というふうに描かれています。ヨエル4:13では、収穫の日は、神の民を圧制した敵を裁く日で、敵のいのちを刈り取る日というふうに描かれています。そして、ミカ6:15では、その収穫の日はまだまだ遠い将来で、その収穫の日の備えのために、種を蒔き続けなさいと神の民を促しています。このように、「収穫の日」の預言はいくつかありますが、具体的にどういう日なのか、何が起こるのか、誰が始めるのかは誰も知りませんでした。

 

この背景から考えると、先ほどのイエス様の答えは、こういう意味になります。「神の民にとって、最後の日である「収穫の日」は、遠い将来であると言われ続けていましたが、目をあげて畑を見なさい!色づいて、刈り入れるばかりになっています。最後の日の「収穫」は始まっているのです。今までこの収穫の日を待ち望んで種を蒔いてきた人たちーつまり、忠実に最後の日を待ち望んでいた旧約の神の民ーのおかげで、私たちは刈り取る事ができ、報酬を受けているのです!ですから、旧約の人たちと、新しい時代の始まりにいる私たちはともに喜ぶのです!」と。つまり、イエス様のミッションは、最後の日である「収穫の日」を始め、収穫することなのです。ですから、違う箇所でイエス様は「収穫の主」と呼ばれています(マタイ9:38; ルカ10:2)。

 

さらに、イエス様は収穫の話を続けられます。

37  ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 38  わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。

天の神様に遣わされた「収穫の主」イエス様は、弟子たちに驚くべきことをおっしゃいます。弟子たちもこの収穫の働きに携わることができるというのです。それは、イエス様が食べ物以上に重要視している神様のミッションを弟子たちにも委ねられるということです。そして、それは、旧約聖書の神の民が何百年にもわたって待ち望んでいた特権であり、旧約時代の人々はその恵みのために労苦していたものなのです。ですから、「収穫の働き」という恵みを軽んじてはならないと、イエス様はおっしゃっているのです。

 

しかし、収穫の話について散々言われても、弟子たちは「話が全然わからん。何を収穫すればいいんだ。集めようとしている「永遠のいのちにいたる実」って具体的には何なんだ?」と心の中で思っていたと思います。弟子たちに「目をあげて畑をみなさい」をおっしゃったイエス様は、そのとき、周りのサマリアにある町々を見ておられたと思います。そして、39-40節を読むと、サマリアの女が「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言したことによって、多くのサマリア人が町から、続々とイエス様の話を聞きに出て来た事がわかります。そして、サマリアの人々は、イエス様の話を二日間にわたって聞いた後、サマリアの女にこう言ったのです。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」つまり、イエス様の収穫の実は、イエス様を「世の救い主」として信じる者の事でした。

長く教会に通っているクリスチャンは、「そんなことは当然だよ。もう知っているよ。」と思うかもしれませんが、私たちは、この宣言のすばらしさをもう一度確認しないといけません。「収穫の日」は、「イスラエルの回復」または救いが約束され、サマリア人でも、ユダヤ人でもない私たちはその対象には入っていません。聖書によると、異邦人である私たちは「望みもなく、神もない」者たちでした(エペソ2:11)。先ほど説明したように、「収穫の日」は、「さばきの日」でもあるのです。聖書の神様を今まで拒んで来た私たちはそのさばきの対象なので、私たちにとって「収穫の日」は、「救いの日」ではなく「処刑の日」なのです。しかし、感謝なことに、この新しい時代では、御霊と真理によって御父を礼拝するすべての者に救いは約束され、さばきから免れると、イエス様は宣言されたのです。つまり、イエス様に興味を持っていなかったサマリアの女でも、中途半端に聖書に従おうとしていたサマリア人でも、また、神様の話を拒み自分勝手に生きている私たちのような者たちであっても、イエス様にある永遠のいのちにあずかることができるのです。ローマ書にこう書いてあります。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。」(ローマ10:12-13)これほど、条件もなく、限度もなく、すべての人にいきわたる救いは存在しません。ですから、このサマリアの女の人の信仰告白は、本当にその通りなのです。「この方が本当に世の救い主だ。」

 

この話を聞いて、覚えていただきたいことが三つあります。まず、一つ目のポイントはこれです。「イエス様はこの世の救い主です。イエス様ご自身に会ってみると、それを確信することができます。」

 

皆さんに「イエス様はこの世の救い主」という言葉を味わっていただきたいです。この「世」に存在していない人というのはいるでしょうか?この救いは、エルサレムのユダヤ人、サマリア全土の人々、そして、地の果てにまで届く救いなのです。サマリアの女のように、どれほど聖書の話に興味がなくても。どれほど恥ずかしくて言えないことがあったとしても。どれほど自分の体と精神がひどい病気を患っていたとしても。どれほど自分の手が罪に染まっていたとしても。どれほど莫大な借金や根深いトラウマがあったとしても。イエス様の愛はあなたにも届きます。

 

しかし、そう聞いて「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」という思いが湧いてきても、なかなか信じることができない人もいらっしゃるかもしれません。イエス様に何の興味もなく、複数の男性と関係を持ってさまよっていたサマリアの女は、私たちに熱心にこう言っています。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます!」つまり、私たちは実際にイエス様の話や、イエス様のことばを読まないと確信できないのです。イエス様ご自身にしか、私たちに確信を与えられません。これは、イエス様を信じていない人にも、長年クリスチャンとして歩んでいる人にも言える事です。イエス様が、あなたの救い主であられることを確信するためにも、ぜひイエス様ご自身のことばを読んでみてください。

 

続けて、二つ目のポイントはこれです。今は蒔くときではなく、収穫のときです。永遠のいのちに至る収穫の実を喜んで楽しんでいきましょう。

 

この聖書箇所は、弟子たちの鈍感さを浮き彫りにします。自分たちの先生が「新しい時代」「まことの礼拝」について熱く語っておられるのに、大勢のサマリア人が永遠のいのちをいただいているのに、旧約聖書に預言されている最後の日が始まっているのに、弟子たちは、イエス様がお弁当を食べたかどうかを悩んでいるのです。そこで、イエス様は「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」とおっしゃいます。

私たちはどうでしょうか?その収穫の初めの日から、約2000年経っています。弟子たちの想像を超えるような人数がクリスチャンになり、どの時代でも、どの文化でも、聖霊様の働きによって、クリスチャンが生まれ、教会も存在するのです。日本は、世界の中で2番目にイエス様を信じていない人たちが多い民族ですが、イエス様は、続々と多くの人々を収穫され、次々と人々が神の家族に加わっています。イエス様がおっしゃりたいのは、私たちが生きているこの時代は、渇ききったいのちのない荒野ではなく、色づいて刈り入れるばかりの豊かな果樹園だという事です。収穫が大きいほど、働きは大変になることはもちろん否めません。しかし、悲しむものはいません。むしろ、わくわくしますし、喜びに満ちますし、忍耐する理由も与えられます。私たちがイエス様の収穫の働きに携わることは、イエス様の神のしもべとしての喜びと楽しみにあずかることでもあります。ですから、イエス様がこの日本の収穫の大きさを御覧になられ、わくわくしておられるのに、私たちが「先生、もう召し上がりましたか?無理なさらないで、休んだほうがいいですよ」というなら、イエス様はどういう気持ちになられると思いますか?「どうして、食事のことを心配しているのですか?!そんなこと、どうでもいいことですか。私たちが待ち望んでいた収穫の日なんですよ!喜びましょう!」実際に、イエス様は弟子たちにこう言われました。私たちも目をあげて収穫の日を楽しみましょう。

 

けれども、私たちは自分の弱さをよく知っています。どれほど学んでもすぐ忘れてしまい、また違うことに目がいってしまい、下向きになっていろいろ悩んでしまいます。そんな時は、三つ目のポイントを覚えていただきたいです。私たちの収穫の主は、収穫の働きを止めるよりも、飢え死にするほうがましだと思われているのです。

 

イエス様は、マタイ9:37-38で、弟子たちにこうおっしゃっています。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」弟子たちも、そのとき、そうだなと思い、収穫の働きに携わったと思います。しかし、そのイエス様が裏切られ、大群衆によって辱められ、ローマ帝国に罪人として十字架にかけられたとき、すべての弟子たちは、「これは大変すぎる。収穫どうのこうもよりも、死にたくない。あんなふうに辱められたくない。割に合わない。」と思って、神様からいただいたミッションを断念し、イエス様を置き去りにしたのです。

しかし、一人になってしまったイエス様はどうされたでしょうか?収穫の働きをやめられたでしょうか?「御父の御心を成し遂げない?神様がくださった収穫を刈り取らない?サマリアの女やあなたたちを救わないと言うなら?死んだほうがマシだ!たとえ、十字架上で辱められても、御心を成し遂げるため、罪人を救うためであれば、私は少しも無駄には感じない」と思われ、御心を成し遂げる喜びをご自分の前に置かれ、辱めをものともせずに十字架を忍ばれたのです(へブル12:2)。つまり、私たちが今ここで救いをいただいている理由は、イエス様が「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げる」ことが「わたしの食べ物」と思われたからなのです。聖書の中で、イエス様の私たちを救われたい熱い思いと出会うと、「もしこのイエス様が本当なら、この方が世の救い主だけではなく、を救うことができるかも」と思い始めるのです。もし激しい苦難のただ中におられるイエス様の喜びを見ると、「私もその喜びを味わえたい」と思い始めるのです。ですから、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで、収穫の日を楽しんでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church