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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌40番「父の神の真実」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌402番「歌いつつ歩まん」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記35章16-29節
聖書の話 「信じて、めでたしめでたし?」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌355番「私の望みは」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子供たちに質問です。つまんないことや、意味のないこと、面倒くさいことをするのが好きな子はいますか?いないよね。「面倒くさいなー」という気持ちはいやですよね。わたしは高校生だったときに、何か人生って面倒くさいと思った時期がありました。そのとき、カミュという人の本に出会って、こういうお話を読みました。大変な罰を受けていた神様がいました。名前はシシュポスというのですが、ポスさんと呼びましょう。その罰というのは、大きな岩を山の頂上まで押し上げるという罰でした。でも、何度、岩を山のてっぺんまで押し上げても、すぐにまた転がり落ちてしまいます。そのように、岩を山のてっぺんまで押し続けるという何の意味もないことを、永遠に続けることが彼の罰だったのです。その本を書いたカミュさんは、それは私たちの人生のようだと言いました。それを読んだ、高校生の私は、「ほんとに、そうだな。」と思いましたが、皆さんもそんなふうに感じるときがあるかもしれませんね。
しかし、カミュさんはこう考えました。「ポスさんは、自分のしていることが無駄だとわかっているけれど、それでも岩を押し続けている。岩を押し続けることで自分の運命に負けないで、それでも自分の人生を生きようとするのが喜びの秘訣です。私たちは、ポスさんは幸せだと思わなければならない。」というのです。「無駄だと分かっているのに、喜んで岩を押し続けるのはカッコいい。」と当時の私は思いました。普通に考えてみてください。もし自分のクラスメイトが意味もなく、校庭で岩を押し続けて、「ああ、楽しい!ああ、最高!」と言っているのを見たら、うらやましいと思いますか?むしろ、かわいそうだと思いませんか?私たちがどれほどカッコよく「ああ、楽しい!」と言っても、意味のない辛さが空しく思えるのは当然です!
創世記の、アブラハム、イサク、ヤコブの話は、辛いことの連続です。意味なく、岩を永遠に押し続けているように見えます。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブは、喜んで、楽しく、自分の辛さを喜びをもって乗り越えます。彼らは、ポスさんのように、「無駄だけど楽しい、と自分に言い聞かせて頑張ろう!」と言ったのでしょうか?信仰の歩みは、実は違うのです。神様は彼らに「無駄ではない。いつかその辛さの意味がわかる。」と約束してくださったので、彼らは希望をもって辛いことを乗り越えることができたのです。私たちも同じです。イエス様が復活されたので、辛いことが繰り返されたとしても、無駄ではないと信じることができるのです。それについて今日の聖書箇所から見ていきたいと思います。
本日が創世記のシリーズの最後の説教です。私たちは2022年の春から、アブラハム、イサク、ヤコブの話を創世記12章から35章まで読んできました。(創世記1‐11章と、ヨセフの話37-50章は、いつかまた続けてやりたいと考えています。)創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。人類は、自分たちの行いやきよさによってでは、天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの契約」をお与えになりました。アブラハム家に約束されたのは、アブラハムの一人の子孫が、天の約束の地(天国)を相続するということでした。そして、もし、その一人の子孫(イエス様)により頼むなら、アブラハムの子孫と同じように私たちは天国を相続できると言うのです。
先ほど、アブラハムの孫、ヤコブについて読みました。35章までのヤコブの人生を地図で描くなら、べテルから始まりべテルで終わる、2000キロ以上に渡る大きなUターンの形になると言えます。旅の始まりで、ヤコブは家族が崩壊するような大失敗をしてしまいましたが、べテルに戻ったときにも、同じように家族が崩壊してしまうような大失敗をしてしまいます。旅の始まりでは、ヤコブが約束の地であるカナンを自分のものにするという可能性はゼロに近かったのですが、べテルに戻ったときも、まだゼロに近いものでした。しかし、20年以上の試練を体験したヤコブは深く悔い改め、再び、神様を信じる決心をしたのです。今日の話はその続きでもあり、創世記12-35章の結論のような箇所です。
旧約聖書のヤコブが生きていた当時の神話では、神様の御業や、英雄の武勇伝を記録する際に、成功や勝利を大げさに描き、できるだけ「めでたし、めでたし」で話を締めくくる傾向があり、失敗や敗北のようなことは書きませんでした。しかし、聖書は違います。聖書は、歴史でもあり、私たちの現実を描いているのです。ヤコブが神様に立ち返ったとき、すべてが「めでたし、めでたし」になったでしょうか?ヤコブは、苦難、悲しみ、後悔、裏切り、死に囲まれていました。
ヤコブが神様に対する誓約を果たすために父イサクに会いに出かけた時、その途中で出産したラケルは難産でした。
16 彼らはベテルから旅立った。エフラテに着くまでまだかなりの道のりがあるところで、ラケルは出産したが、難産であった。
ヤコブには妻が二人と、側女が二人いたのですが、ラケルはヤコブにとって最愛の妻でした。しかし、他の3人はヤコブに10人の息子を生んでいたので、ラケルは「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」 というほど子供を欲しがっていました。そして、ラケルにも息子が与えられました。その子に、ヨセフと名づけた理由は、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」(30:24)と願ったからです。そして、ヤコブが神様に立ち返ったあとで、待望の第2子が与えられましたが、ラケルの苦しみがあまりにも激しすぎて、その子をベン・オニー悲しみの子ーと名づけ、ラケルは亡くなってしまいました。つまり、自分の父イサクと母リベカに最愛の妻を紹介できないまま、カナンの荒野でラケルを葬り、石の柱を立てたのです。たとえ、神様に立ち帰ることが出来たとしても、ヤコブは言葉にできないほどの苦難と喪失を経験したのです。
その悲しみの中でヤコブは旅を続け、ミグダル・エデルという所を過ぎたところに天幕を張りました。20年以上で、2000キロ以上の旅がやっと終わります。しかし、神様が約束された地は、まだ所有していませんし、自分の「家」さえもありませんでした。ヤコブはまだ天幕を張る寄留者でした。つまり、神様に立ち返ったとしても、ヤコブは、神様の約束の成就を目にすることは全くなかったのです。
自分の父のところへ行く途中、ヤコブは息子のとんでもない罪と向き合わなければなりませんでした。
イスラエルがその地にとどまっていたころ、ルベンが父の側女ビルハのところに行って、彼女と寝た。イスラエルはこのことを聞いた。
ルベンは、ヤコブ(イスラエル)の長男でした。ルベンが父の側女と寝ることは、考えられない性的な罪でしたが、これは裏切りでもありました。父の側女と寝ることは、息子が父の権威を乗っ取るような行為です。ビルハは、亡くなった最愛の妻ラケルの女奴隷だったので、ヤコブの最愛の妻を奪うようなことでした。神様に立ち返ったとしても、ヤコブは自分の息子に裏切られるという苦難を経験させられるのです。
ヤコブがヘブロンに着いたとき、父イサクと再会することはできましたが、母リベカの名前は書かれていません。前回の説教では言いませんでしたが、35:8に「リベカの乳母デボラが死に…葬られた」ことについて書いてあり、ヤコブの母リベカがもう亡くなっていることを示唆しています。母リベカのお気に入りはヤコブで、リベカのおかげでヤコブに長子の特権が与えられたのです。しかし、ヤコブが最後に母リベカに会ったのは、ヤコブとリベカの詐欺まがいの計画で家庭を崩壊させてしまったとき(27章)なのです。20数年後に、ヤコブは、エサウと和解できましたし、約束の地に戻ることもできましたが、残念ながら、愛する母親に見せることはできませんでした。神様に立ち返ることが出来たヤコブでしたが、愛する母親と再会することはできませんでしたし、若かった頃の罪の結果と向き合わなければなりませんでした。
ヤコブの苦難、悲惨、裏切り、後悔の中で、何が残ったのでしょうか?ヤコブの話の終わりには、華やかなお城も強大な王国もありません。神様の約束が明らかに成就するような証拠も、リバイバルのような事もありませんでした。ヤコブが幸せに過ごして、めでたし、めでたしという内容では全くありません。最後に残ったのは、12人の息子です。
22 ヤコブの子は十二人であった。 23 レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。 24 ラケルの子はヨセフとベニヤミン。 25 ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。 26 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。これらはパダン・アラムで生まれたヤコブの子である。
非常に複雑で、欲望に満ちたプロセスを通して、この12人の息子たちは生まれましたが、旧約聖書を読んでいるイスラエル人には、この12人がイスラエルの12部族の始まりであることがはっきりとわかります。ルベンが父ヤコブを裏切ったとしても。シメオンとレビが復讐の逆襲をおこなってしまっても。ユダが娼婦と寝てしまっても。9人の兄たちがヨセフを奴隷として売ったとしても。彼らの名前が神の民を形成する12部族になるのです。そして、天国ですべてのクリスチャンにも、その族長たちの名前が与えられるのです(黙示録3:21, 7:5-8, 21:12,14)。
将来に、そのようなすごいことが約束されていたとしても、イサクやヤコブは、その現実を間近に見ることはできませんでした。そのまま死んでしまいます。「イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。」と35章は終わります。36章では、信仰のないエサウの立派な家系図が記されていますが、信仰があったヤコブにはそれほどの成功の話はありません。しかし、信仰を持つものにとって、それは本質的なことではありません。創世記のシリーズでいつも引用していますが、へブル書には、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰がこのように描かれています。
13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。 14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。 15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。 16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは、自分たちが待ち望んでいるものを実際に手に入れることはできませんでしたが、はるか遠くにある希望の本質を確信し、喜んで死を迎えたのです。そして、約2000年後に、復活されたイエス様がその希望を成就され、神様の約束が真実であることが証明されたのです。
ここで皆さんに覚えていただきたいことが三つあります。一つ目は、信仰は、苦難や悲しみ、死からの現実逃避ではなく、私たちが現実と向き合う力なのです。
カール・マルクスは、「宗教は大衆のアヘンである」と言いました。マルクスは、自分の苦しい状況を何も変える事もせず、宗教という麻薬によって、幻想の世界へ逃避し、自分の痛みを麻痺させているような人たちを見て、気に食わなかったのです。マルクスにとっては、社会を革命することが現実と向き合うことだったようです私が好きなノンクリスチャンの歴史家ウィル・デュラント先生は、「宗教の主な機能は、この人生を耐えるための信念を与えることです」と言ったことがあります。そのため、「貧困がある限り、神々は存在する。」と結論付けるのです。
マルクスとデュラント先生の宗教観を聞いて、カッコいいと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、もうすこし考えてみると、なんのためにならないのです。マルクスは、すべての苦難と悲しみを除去するために革命を起こし、すべての人を平等にしようとする共産主義の社会を建てようとしたのですが、20世紀の歴史をみれば、マルクスの考え方が現実主義よりも、幻想のユートピアを追いかける理想主義だったということがわかります。そして、デュラント先生の「貧困がある限り、神々は存在する。」という言葉は、お金と教育があれば、人生の難しさに耐えられるという意味も含まれていると思います。しかし、お金と教育を持っているアメリカや日本の社会を見ると、私たちの社会は自分たちの辛い現実と向き合うよりも、お金や教育、成功や発展などで自分たちを麻痺させようとしているように見えます。私はそう感じますが、皆さんもそう感じるときはありますか。21世紀の発展国に住んでいる私たちは、より現実に向き合っていると思いますか?それとも、より現実逃避していると思いますか?
イエス様を信じる人は、悲しみや痛み、罪や裏切り、苦難や死のない世界を待ち望んではいません。信仰を持つ人は現実逃避もしません。少なくとも、アブラハム、イサク、ヤコブの話を読んでいくと、彼らはそうしませんでしたし、そのような世界を待ってもいませんでした。自分の罪深さ、愛する人が犯した過ち、苦しく不安定な状況、空虚に感じる世界を何のフィルターもなく、自分を麻痺させるような薬もない中で、部分的ではなくすべてを、そのまま受け入れていたのです。信仰は、現実逃避する手段なのではなく、私たちの辛い現実と向き合うための力なのです。
それに加えて、二つ目に覚えていただきたいことは、これです。信仰は、目で見えるものではなく、目で見えない御言葉の約束に、希望を置くことです。
多くの人は、目で見る事ができなかったり、手で触れることができないものに希望を置きたくないと思いますが、それは人間らしくない事なのです。会ったことのない理想の結婚相手。手の届かないゴールを目指すこと。「頑張れば報われる」「なんとかなる」という信念。「愛」「達成感」「平安」「名誉」などのような触れることができない発想。目で見ることができないものに希望をおくなどと言うことは、動物にはできない、人間だけができることなのです。
聖書の信仰は、目に見えないものに希望を置くことであり、目で見えない御言葉の約束に、希望を置くことです。アブラハム、イサク、ヤコブも、神様がくださる「神の王国」を見ることができませんでした。人類の救い主になる自分たちの子孫、イエス様に会うこともできませんでした。老夫婦のアブラハムとサラが、どのように子供を生むかは全然見えませんでしたが、彼らは「死者を生かし、無いものを有るものとして召される」(ローマ4:17)神様のみことばを信じたのです。同じ聖書の信仰を持っている妻をどのように見つけるか全く見えなかったイサクは、父アブラハムの「望み得ない時に望みを抱く」信仰をもって、神様の約束により頼んだのです(ローマ4:18)。問題だらけの家族の歩みと、とんでもない罪を犯してしまう12人の息子をみて、どのように自分の家族が神の王国になるのか全く見えなかったのですが、ヤコブは「見えるものにではなく、見えない【神様の約束】に目を留め」たのです(2コリント4:18)。
見える状況が変わっても。見える現状が苦しくなっても。見える現実が虚しいと感じ始めたとしても。見える世界に意味を生み出すことができなくなってしまっても。そのような見えない希望に私たちが目を留めるとき、見えている現実に向き合う力が与えられるのです。なぜなら、見えない希望も現実だからです。目で見る事ができない、手で触れることができないから「真実」ではない、ということではありません。見えない神様の御言葉も立派な「現実」であり、御言葉の「見えない現実」によって私たちの「見える現実」と照らし合わせると、生きる、忍耐する力が与えられます。聖書にこう書いてあります。
「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。 ですから、私たちはいつも心強いのです。」(2コリント5:1-6)
アブラハム、イサク、ヤコブの信仰の歩みを通して、 私たちは「見えるものによらず、信仰によって歩む」ことを学ぶことができます(2コリント5:7)。
それでも、「見えない神様の御言葉が人間の妄想ではないことをどう確信できるのか?」という疑問が湧いてくると思います。それが三つ目に覚えていただきたいことです。聖書の神様を「自分の神」と呼ぶことを恥と思わない理由は、生きておられる神様がご自分の約束を守られ、イエス様が実際に復活されたからです。
単刀直入に言うと、創世記を読む理由、神様の約束を信じる理由は、一つしかないと思います。アブラハム、イサク、ヤコブは模範的な歩みをしたからではありません。聖書の神様により頼むことは、自分の精神衛生上にいいからでもありません。イエス様は、こうおっしゃいます。
31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。 32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
つまり、私たちが創世記を信じて読む理由は、神様ご自身が生きておられ、亡くなったアブラハム、イサク、ヤコブにいのちを与えられたからです。それだけです。その上、イエス様ご自身が実際に死から復活されたので、アブラハム、イサク、ヤコブが待ち望んでいた天の故郷、天の約束の地が実際に存在しているんだと確信できるのです。
つまり、イエス様の復活があったからこそ、アブラハム、イサク、ヤコブが待ち望んでいた神様の約束は、妄想でもなく、夢でもなく、人間が作った都合のいい話ではないことがわかるのです。しかし、イエス様の復活を受け入れないなら、神道の万の神、仏教の悟り、マルクスの共産主義のユートピア、イーロン・マスクの火星移住の強い願望とあまり変わりはありません。むしろ、イエス・キリストを信じる必要もないし、4000年前に死んだイスラエル人の話を読む必要もないと思います。しかし、もしイエス様が実際に復活されているなら、生きておられる神様が、創世記に書かれている全ての約束を守られた証拠でもあり、アブラハム、イサク、ヤコブもまだ生きているという確実的な証拠でもあります。それがあるからこそ、私たちは旧約聖書を読むことができ、聖書の神様を「自分の神様」として「恥」と思わないのです。
私たちは、イエス様が死から復活されたことを、歴史的な事実として客観的に受け入れていて、それも自分の「現実」であると受け入れているでしょうか?もし、その現実を受け入れるなら、イエス様によって目の前にある辛い現実を乗り越える力が与えられます。復活されたイエス様が死を打ち破られ、死のとげを取り除いて下さったからこそ、私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブのように、自分たちの労苦、忍耐、信仰が主にあって無駄でないことを確信できるのです。イエス様の復活を喜び受け入れて、歩んでいきましょう。お祈りします。