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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書 62章10-12節 |
さ ん び | Opening Praise | 感謝と喜びを |
さ ん び | Praise | 叫べ全地よ ~Shout to the Lord~ |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌432番「いつくしみ深き」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書4章43-54節 |
聖書の話 | Sermon | 「行きなさい。あなたの息子は治ります」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌391番
「主と主のことばに」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]
「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに質問です。何かをじーっと見つめて、周りのものが何も見えなくなったり、何も聞こえなくなったりすることはありませんか?我が家の子供たちは、よくテレビに釘付けになって、他のことが目に入らなくなったり、耳に入らなくなったりします。「ごはんよ」と声をかけても、「はーい」と返事はしますが、じーっとテレビを見つめ続けます。でも、みんなの前に立って「ごはんよ。みんなの大好きなお好み焼きだよ」と言うと、「本当?美味しそう!」と言ってすぐに立ち上がって、ワクワクしながら食卓へ向かうんです。
今日のお話は、ある父親が自分の子供の病気をじっと見つめていた時のことです。それは本当に重く、酷い病気で、その子は今にも死んでしまいそうな状態でした。父親は「どうか息子を助けてください」と何度も何度もイエス様にお願いしていましたが、イエス様を見るのではなく、自分の息子ばかりを見ていました。イエス様は父親と息子の間に立ち、「私は息子を癒します。でも、あなたは私を見ていますか?私が癒せることとあなたと息子を愛していることを信じていますか?」と父親に問いかけました。父親はイエス様の言葉を信じ、安心しました。私たちもイエス様に祈り求める時、欲しいものばかりを見るのではなく、イエス様ご自身を見つめましょう。今日はそのことについて、じっくりと学んでいきたいと思います。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1ー2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3章には、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の教師であるニコデモと、イエス様との対話が記されています。ヨハネ4章には、ニコデモとの対比として、サマリアの女とイエス様の対話も記されています。このような「証言」は、「客観的な」歴史の記録でしたが、この福音書を書いた著者、ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得させることでした。一つは「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の1-4章の証言を見ることによって、大体三つの反応があることがわかります。信じるか、信じないか、話を聞き続けるかです。ですから、私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。
先ほど、ヨハネの福音書は「証言」が並べてある本だと説明しましたが、その中にはイエス様が行われた「しるし」または「奇跡」の証言もいくつかあります。例えば、ある人を信頼できるかどうかを見極めるとき、その人自身の話や、周りの人の印象を聞く事は勿論のこと、その人が実際に成し遂げた「結果」や「実績」を客観的に見ることはなおさらだと思います。イエス様の「しるし」は、ある意味、十字架に掛けられる前の「実績」と考えることができます。ヨハネの福音書の前半(1:19-10:42)は「しるしの本」とも呼べるぐらい、著者のヨハネは、イエス様が成し遂げられたことに焦点を当てようとしています。しかし、他の福音書とは違い、ヨハネは、広く浅くいろんなしるしを並べるよりも、イエス様の働きの中の7つのしるしだけを選んで、その7つのしるしを通して、イエス様がどのような救い主であり、イエス様を信じるとはどういうことなのかを、私たちに説明しようとしているのです。本日の箇所は、ヨハネが選んだ第二のしるしです。
ヨハネは、この話を「第二のしるし」と言っていますが、時系列的には、「二つ目のしるし」という意味ではありません。「最初のしるし」は、カナンの婚礼で行われた「しるし」で、イエス様が水をぶどう酒に変えられた奇跡です。しかし、ヨハネ2:23、3:2、4:45を読んでいくと、「最初のしるし」と「第二のしるし」の間にも、イエス様はいくつかのしるしを行っていたことがわかります。信仰をもっていない聖書学者や、聖書に間違いがあると主張するクリスチャンたちは、このような箇所を見て、これは聖書にある数多くの矛盾の中の一つだと指摘する人たちもいます。しかし、ヨハネが福音書を書いた目的はなんだったのでしょうか?ヨハネは私たちに、イエス様の本性と、信じることの意味を説明するために福音書を書いたのです。福音書が単純な「イエスの年表」だったら、誰もイエス様を信じることはないでしょう。
では、ヨハネはなぜ「最初のしるし」と「第二のしるし」を書いたのでしょうか?ヨハネの福音書には、7つのしるしが取り上げられていますが、この二つのしるしだけに「数字」が割り当てられています。この二つのしるしは、どちらも「ガリラヤのカナ」で行われたしるしです。イエス様の「預言者」としての公の働きは、イスラエルの北部にあるカナで行われた「最初のしるし」から始まって、南部のエルサレム、中部にあるサマリアを通って、再び北部にあるガリラヤのカナに戻られ、そこで、「第二のしるし」を行ったのです。ですから、私たち読者から見ると、イエス様が「一巡」したように感じられます。当時の書物には、「1章」「2章」のような区分けは全くなく、いろんなテクニックを用いて話を区切っていました。ですから、ヨハネは、「最初のしるし」から「第2のしるし」を書くことによって、ヨハネ2-4章をイエス様のお働きの「一巡」を一つの「区切」、一つの「章」として捉えなさい、と読者に示唆しているのです。
では、今までの出来事を一つの「章」として捉えるなら、そこから何が学べるでしょうか?それが今日の話、「第2のしるし」の目的とも言えます。ヨハネ4:43-45は、それまでの話を私たちのために解釈しているのです。
43 さて、二日後に、イエスは【サマリア】を去ってガリラヤに行かれた。 44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。 45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。
この箇所を読んで、「『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と書いてあるのに、ガリラヤの人たちはイエス様を歓迎しているじゃないか、これはまたまた聖書の矛盾だ。」と思ってしまう方がいらっしゃるかもしれませんが、それは、ヨハネの福音書の「皮肉」な表現を誤解していると言えます。つまり、ヨハネが言わんとしていることの真意を捉えていないということです。
イエス様がエルサレムを訪れたとき、ヨハネはこのようにその出来事を描写しました。
「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。 しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」(ヨハネ2:23-25)
イスラエルの首都のエルサレムで、一番人が多く集まる過ぎ越しの祭りのときに、イエス様は様々なしるしを行われ、多くのイスラエル人はその力を認め、イエス様を信じたのです。私たちの人間的な目から見るとリバイバルのようなことがあったのですが、イエス様はエルサレムに集っていた人々の信仰を見抜いておられました。彼らは「しるし」は見ていましたが、イエス様ご自身には全く興味がなかったことを、イエス様は知っておられたのです。
そして、その話のあとに、聖書の先生であるニコデモが「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 (ヨハネ3:2)」とイエス様の力を認めながら言いました。しかし、イエス様は、唐突にニコデモにこう返すのです。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 (ヨハネ3:3)ニコデモは一見、信仰があるように見えますが、イエス様からすると、信仰がひとかけらもないとおっしゃるのです。ニコデモの対比として、ヨハネの4章に出てくるサマリアの女は、聖書に興味を持っておらず、聖書に反する生き方をしていましたが、イエス様のしるしの力を見ることなく、イエス様を救い主として受け入れました。
ですから、それまでの流れを読んでいた人は、「ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」(4:45)この箇所から、ヨハネの真意がすぐに理解できます。ヨハネは、ガリラヤの人たちは一見、喜びをもってイエス様を歓迎しているようですが、彼らの信仰はサマリアの女の信仰のようではなく、ニコデモのような表面的な信仰だとほのめかしているのです。ですから、イエス様が出発点であるカナへ再び戻られた時イエス様の救いの意味と、私たちに求めておられる信仰の意味の原点に私たちを立ち返らせるために、「第2のしるし」を行われたのです。
ヨハネはこのようにはじめます。
46 さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。 47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。
カペナウムの「王室の役人」とは、ローマ帝国の下でガリラヤを支配していたヘロデ王のもとで働いた人です。イエス様がエルサレムやユダヤで行われた様々な「しるし」「奇跡」の話を聞いて、死にかかっていた息子のために、必死にイエス様のもとへ駆けつけ、癒しの「しるし」を懇願したのです。しかし、イエス様はどう答えられたでしょうか?「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」 (ヨハネ4:48)
私は今まで、このイエス様の返答を冷たく、厳しいと感じていました。しかし、これまでの文脈を読むと、表面的な信仰で、イエス様の事を癒しの自動販売機でもあるかのように「癒しのしるし」を求める人々のほうが、逆に、冷たく感じて来ました。ある注解者(ハーマン・リッダーボス)は、こう指摘します。
イエスは、単にその息子の病を癒すことに満足されませんでした。彼の表面的な厳しさは、その男(と彼の家族全体)が信仰の道半ばで立ち止まることを許さないためのものでした。したがって、ヨハネ4章48節におけるイエスの答えは、非難というよりもむしろ挑戦であるのです。
イエス様は、父親の生半可な信仰を指摘せずに、ただ癒しを与えられたのではありませんでした。イエス様は、その父親を憐れんで、本当の信仰を持つことできるように「しるしの力により頼む信仰は、救いに至る信仰ではないんだよ」と挑戦されたのです。
しかし、息子のために必死だった父親は、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」 と、またイエス様に願います。父親は、イエス様の挑戦を無視して、「力ずくで」(マルコ16:16)、【神の癒し】を求めようとします。そこで、イエス様は、彼の生半可な信仰を成長させるために、その父親にこう答えられました。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(ヨハネ4:50)イエス様は、父親が求めていた「癒し」は与えられましたが、父親が求められている「しるし」は、あえてお与えになりませんでした。
つまり、死にかかっている息子しか目に入らず、なりふり構わず猪突猛進に突き進んでいた父親の前に立って、イエス様は「静まりなさい。息子ではなく、私だけを見なさい。私のことばだけを聞きなさい。私はカペナウムへは行きません。でも、あなたの息子は治ります。私の言葉を信じて、行きなさい。」と宣言されたのです。父親には二つの選択肢しかありませんでした。何の保証もなく、しるしの力も見ずに、イエス様がおっしゃったことだけを信じて帰るか。表面的な信仰を持ち続けて、しつこくイエス様を息子のところへ連れて行こうとするか。
「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」とヨハネは書きます。つまり、その父親は今までのイスラエル人のように、「イエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」(2:23)のではなく、「イエスが語ったことばを信じて、帰って行った」(4:50)のです。その帰り道に、父親がどのような気持ちを持っていたかー疑っていたのか、喜んでいたのかはー何にも書いてありません。ただ、私たちにとって、大切なことと必要な事が書いてあるだけです。
51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。 52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。 53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。
死にかけていた息子のことしか見えていなかった父親は、息子が治ったと聞いた時、しもべたちに「息子がちゃんと食事をしているか」とは尋ねませんでした。「子供が良くなった時刻」を尋ねたのです。なぜなら、父親は息子のことだけでなく、イエス様を見るようになっていたからです。そして、父親はイエス様の言葉によって癒されたことを知り、イエス様をさらに信じるようになりました。
カナでの「第二のしるし」を通して、ヨハネが私たちに伝えたいことは、イエス様ご自身の存在を、イエス様の「しるし」に限定してはいけないということです。イエス様は、ただの水を祝いの「ぶどう酒」に変えられた方です。死にかけていた息子を癒し、足の不自由な人を歩けるようにし、5000人に奇跡的にパンを与え、水の上を歩き、盲人の目を開き、死人を蘇らせました。それがヨハネが記録した歴史です。しかし、それだけを見てイエス様を超人のように扱うのではなく、イエス様ご自身の言葉に耳を傾け、約束を信頼し、信仰をもってその言葉に従って歩むようにと、ヨハネは私たちを説得しようとしているのです。つまり、イエス様ご自身が究極の「しるし」であり、究極の「奇跡」なのです。イエス様ご自身が喜びのぶどう酒であり、心の渇きを癒す生ける水であり、天からのいのちのパンであり、目の見えないこの世の光なのです。イエス様ご自身が私たちの復活であり、私たちのいのちなのです。イエス様がなさる「しるし」は、イエス様ご自身を指し示すしるしなのです。
さて、本日の聖書箇所から覚えていただきたいことが三つあります。一つ目はこれです。イエス様は「しるし」をはるかに超えられる存在です。「しるし」はイエスへの扉でしかないのです。
福音書を読んでいくと、様々な理由でイエス様の下へ来る人々がいます。私たちも同じです。いろんな理由でイエス様の下へ行きます。生きる指針を失い、新しい生き方を探すために。心を満たす喜びを求めるために。自分の孤独と寂しさから逃れるために。体や精神の重い病気の癒しのために。愛する人の救いのために。良い友人や良い結婚相手に導かれるために。自分の人間関係の問題の解決のために。ストレスを感じるつらい状況から休むために。不安や劣等感や受けたトラウマから解放されるために。何も感じられなくなった自分に何かを感じさせるために。または、単純に自分の葬儀を司式してくれる牧師と会うために。理由はどうであれ、イエス様は私たちを拒まれませんし、私たちが祈り求めることを真摯に聞いてくださるお方です。そして、私たちが祈り求めている「しるし」を与えたいと願っておられるのです。
しかし、イエス様の存在を私たちが求めている「しるし」に限ってはいけません。イエス様は、私たちにくださるしるしを、ご自身への「扉」として見ておられるのです。もし生きる指針、あるいは生きる意味を探しているなら、イエス様ご自身こそが生きる意味であり、生きる指針なのです。もし私たちが求めている喜びと愛情と平安を求めているなら、イエス様ご自身こそが愛、喜び、平安なのです。もし私たちが友人、結婚相手、家族を求めているなら、イエス様ご自身こそが私たちの良き友、完璧な花婿、神の家族なのです。自分自身や愛する人の身体や心の癒しを求めるなら、イエス様ご自身がよみがえりで、いのちなのです。もし自分の愛する人の救いを願っているなら、イエス様ご自身が最後の最後までさまよう羊を追い求める羊飼いです。もし自分の終活のために、葬儀の司式をしてくださる牧師を探しているのであれば、イエス様ご自身が大牧者であり、私たちを天の緑の牧場にふさせ、憩いのみぎわへ伴われます。私たちはイエス様から「しるし」をもとめることはできますが、イエス様の願いは私たちがイエス様ご自身を見失わないことなのです。
しかし、このように聞いても、私たちはイエス様の願いに耳を傾けないことがよくあります。ですから、二つ目に覚えていただきたいのは、これです。私たちがイエス様を見失わないように、あなたとあなたが求めている「しるし」の間に、イエス様が立ちはだかり、邪魔をされることがあるのです。それに驚かないでください。
死にかけている息子のために猪突猛進し、必死にイエス様に懇願する父親のように、私たちは祈ることがあります。「早く来て癒してください」「いつまで待てばいいのですか。早く私を救ってください」と、強引にイエス様からしるしを求めます。しかし、イエス様は、イエス様ご自身を全く見ようとしない、私たちの表面的な信仰には満足されません。なぜなら、それは私たちの助けにはなりませんし、救いに導く信仰でもないからです。
ですから、イエス様は私たちに真の信仰を与えるために、私たちの計画を覆されることがあります。時には、私たちの祈りにすぐには答えず、信仰の試練を与えられる時があります。イエス様は、「今すぐ祈りに答えません。今のつらい状況が続くかもしれません。しかし、私があなたの祈りを聞き、あなたを救い、あなたを愛し、あなたを守ることを信じますか?私の約束の言葉が真実であることを信じますか?」と、逆に私たちに問いかけられます。その究極の形が、イエス様が私たちに約束された復活です。私たちは復活を見たこともありませんし、復活がある保証もありません。しかし、死を前にした私たちには二つの選択肢が与えられています。「しるしの力」を見ずに、イエス様ご自身の言葉を信じ、救いを期待しながら死と向き合って歩むか。あるいは、イエス様の言葉では不十分だと結論づけ、自分の現状と向き合わず「しるしの力」を求め続けるか。つまり、イエス様は私たちの祈りにすぐに答えないことによって、私たちの信仰の目を「しるし」からそらし、ご自身の言葉に向き合わせようとされているのです。
最後のポイントはこれです。イエス様の言葉を信じると、信仰の目の焦点は、祈り求めていたものから、イエス様へと移っていくのです。
父親はイエス様の言葉を信じた時、様々な悩みや疑いがあったかもしれません。あるいは、ひどく喜び、息子との再会を楽しみにしていたかもしれません。しかし、どのような過程を経たとしても、信仰の到達点は同じです。イエス様の言葉が真実かどうか、イエス様の約束がどのように成就するのかに、心の目の焦点が当たるのです。皆さんは様々なことを祈り求めていると思いますが、イエス様が私たちの祈りを聞いてくださると信じる時、何か心が躍り始めませんか?わくわくしませんか?今週もイエス様の言葉を信じ、イエス様がどのように働かれるのかを、期待を込めてイエス様をじっと見つめながら、歩んでいきましょう。お祈りします。