2025年3月23日礼拝 説教 「起きて、歩きなさい」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロの手紙第一1章23-25節
さ ん び Opening Praise おどろくばかりの〜罪とがを自由にされて Amazing Grace (My chains are gone)
さ ん び Praise ハレルヤ神の聖所で
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌184番「朝日が昇り」1-3番
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書5章1-9節
聖書の話 Sermon 「起きて、歩きなさい」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌319番「主イエスのみ声は罪ある者を」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに質問です。皆さんは、どんな時に病院へ行きますか?体がだるくなったり、ひどく痛んだりした時、病院に行って、元気を取り戻すため、痛みを止める薬をもらいに行きますよね。例えば、もし私が足を骨折して、ひどく痛んで病院へ行ったとしましょう。そして、お医者さんが私に「マークさん、良くなりたいですか?」と尋ねた時、私が「先生、私、すごく頑張っているんです。毎日、歩けるようにジョギングをしているのですが、なかなか骨折が治らないんです。」と答えたら、どう思いますか?「なんで骨折を治すためにジョギングをしているの?」と思いませんか?「そもそも、なんでお医者さんに素直に『はい、良くなりたいです。薬をください。』と言わないんだろう?」と不思議に思うでしょう。

教会は、ある意味で病院のような場所であり、イエス様は医者のような存在です。今日のお話では、イエス様が、重い病気を抱え、歩けないで苦しんでいる人に、癒しを求めているのを見て、「良くなりたいですか?」と尋ねます。しかし、目の前にいるお医者さんであるイエス様に対して、その人は「私は38年間も良くなるために頑張っているのですが、なかなか良くならないのです。」と答えてしまうのです。毎週、教会に来ている私たちも、同じようなことをしてしまうことがあります。私たちは、心の中に罪という重い病を抱えているのに、イエス様を頼らずに、「毎日、頑張ってはいるのですが、なかなか治らないんです。」とイエス様に言ってしまいがちです。ですから、今日のお話を通して、どのようにイエス様により頼み、どのように癒しを待ち望むかをゆっくりと見ていきましょう。

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言やイエス様ご自身の証言が並べてある歴史の記録です。ヨハネ1-2章には、バプテスマのヨハネ、そして、最初に召された4人の弟子たちの証言が記されています。ヨハネ3-4章には、なかなかイエス様を信じられなかった聖書の教師であるニコデモ、聖書を拒んでいたがイエス様を受けいれたサマリアの女、そして、イエス様の一言で自分の息子が癒された父親の証言が書かれています。このような「証言」は、「客観的な」歴史の記録でしたが、この福音書を書いた著者ヨハネには「主観的な」目的がありました。それは、私たちに二つの事を説得させることでした。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の1-4章の証言を見ることによって、大体三つの反応があることがわかります。信じるか、信じないか、話を聞き続けるかです。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。

ヨハネの福音書は「証言」が並べてある本だと説明しましたが、その中にはイエス様が行われた「しるし」または「奇跡」の証言もいくつかあります。例えば、ある人を信頼できるかどうかを見極めるとき、その人自身の話や、周りの人の印象を聞く事は勿論のこと、その人が実際に成し遂げた「結果」や「実績」を客観的に見ることはなおさらだと思います。イエス様の「しるし」は、ある意味、十字架に掛けられる前の「実績」と考えることができます。著者のヨハネは、広く浅くいろんなしるしを並べるよりも、イエス様の働きの中の七つのしるしだけを選んで、その七つのしるしを通して、イエス様がどのような救い主であり、イエス様を信じるとはどういうことなのかを、私たちに説明しようとしています。つまり、ヨハネが紹介する七つの「しるし」は、イエス様への扉でしかなく、イエス様ご自身にスポットライトを当てる役割なのです。

 

本日は、5章を始めますが、ここから一つの展開があります。最初の4章では、群衆はイエス様のしるしの力を認めていて、イエス様の教えとしるしを求める様子が見えますが、ヨハネの福音書5章から7章では、イエス様に対する人々の態度の変化を見る事ができます。イエス様と出会った人々は最初、戸惑い、ためらうのですが、その後、はっきりと公に反対するように変わって行きます。本日読んだ箇所の、イエス様の第3のしるしは、人々の反対の火種になる「しるし」と読むことができます。

 

5:1は、「第2のしるし」を行われたときから時間が経過しています。イエス様は北部にあるガリラヤから、「ユダヤ人の祭り」のために、南にあるイスラエルの首都「エルサレムに上られ」ました。ヨハネの福音書では、イエス様が祭りのためにエルサレムへ行かれたのは2回目です。1回目は、このようなことがありました。「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」(2:23)しかし、イエス様はその形だけの信仰を見抜いておられました。人々はイエス様の「しるしの力」だけをもとめ、イエス様ご自身とイエス様の救いには興味が無かったのです。ですから、今回、イエス様は、第3のしるしを用いながら、エルサレムのユダヤ人たちに、彼らの形だけの信仰を露わにし、御自分の本性と、信仰の本質を明らかにされます。そのために、イエス様は、ユダヤ人の癪にさわるように、あえて安息日に「しるし」を行われるのです。(今回は「しるし」の意味について見て、次回、ユダヤ人たちの怒りの反応とイエス様の答えを見たいと思います。)

 

エルサレムには、「羊の門」というところがあり(ネヘミヤ3:1)、その近くに、池がありました。そこは、ベテスダと呼ばれていて、この箇所に書いてあるように、その池に「癒しの力」があるという言い伝えがあったらしく、五つの回廊があって、その下で「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた」のです。ヨハネ21:6で「おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった」の「おびただしい」は、この箇所の「大勢」と同じ言葉です。ですから、五つの回廊の周りには、癒しを必要とする病んでいる人、叫んでいる人、悲しんでいる人、絶望に陥っている人々で溢れていました。災害を受けた被災地の病院や、戦争のただ中にある救急病院を想像してみてください。イエス様はそのような場所へ行かれたのです。

 

その大勢の人の中から、イエス様はたった一人を御覧になりました。「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていること」と「三十八年も病気にかかっている人」であることを知っておられたのです。イエス様は、群衆の中にいた彼を、ただ目にされただけでなく、彼の心の奥底にある深い苦しみをもご覧になったのです。そして、イエス様は、彼の痛みに深く同情され、こう質問されました。「良くなりたいか。」 この質問は、「何かできることがありますか」のような、同情はしていても痛みを癒すことはできないというような立場ではありません。イエス様は、私たちの深い苦しみを同情してくださるお方でありながら、その苦しみを確実に癒すことができるお方でもあるのです。イエス様はすぐに彼を癒すことができましたが、あえて、彼に質問されました。それも非常に重要なポイントです。質問されたことで、この足の不自由な人は、自分の絶望と痛み、あるいは、これからいただく癒しのしるしに目を向けるのではなく、イエス様の御顔を見て、イエス様のことばに焦点を当てることになるからです。

 

病人は、はじめてイエス様に気づいて、こう答えます。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 この病人の答えを聞くと、この池が何かに「かき回されたとき」、その水に先に触れた人が癒されるという不思議があると、この大勢の病人たちが信じていたことが分かります。気づいた方もいらっしゃるかも知れませんが、ヨハネ5章には、4節が抜けています。新改訳2017版の米印を読むと、こう書いてあります。「異本に次の一部または全部を加えるものである。『彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入ったものが、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである』」実は、この節は、原本に一番近い異本になかったので、「聖書」の一節と捉えることはできませんが、言い伝えのイメージはしやすいと思います。つまり、窮地に追い込まれ、絶望の淵にいた病人たちは、迷信的な水の奇跡を信じ、息を切らせながら救いを待ち望んでいたのです。

そのような状況を考えると、この病人の答えも非常に興味深いです。まず、答えの内容からわかりますが、この人は、イエス様のことを全く知りません。そして、5:13を読むと、この時点では、イエス様の名前さえも知らないのです。そして、「良くなりたいか」という質問に対して、「はい、良くなりたいです」ではなく、自分がなぜ今まで水に触れることができないかという答えを返します。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。」「行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」助けがないから。自分に限界があるから。という答えです。どういう心情でこの病人が答えたかは全くわかりませんが、はっきりわかるのは、何回も何回もこの「魔法の水」を手に入れようとしたのに、何度も失敗し、何度も失望したということです。ある注解者(カーソン)はこう考えます。神の国の新しいぶどう酒を飲むよりも、清めの水で満足してしまうパリサイ人のように(2章1-11節)、あるいは、真のいのちの水を飲むよりも、自分の渇きをみたすことができないヤコブの井戸の水を求めてしまうサマリアの女のように(4章1-42節)、困窮している人々が、目の前にいるイエス様よりも、癒す力もない迷信的な約束に期待を置いていたことを、ヨハネはこの回答で描こうとしたのです。

 

感謝なことにイエス様は、この病人に信仰がなくても、イエス様に何も期待していなくても、何かの魔法や呪文や儀式をすることもなく、たったの一言をおっしゃいます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出しました。3秒で、38年間分の苦しみが消えるのです。何もないところに、「光、あれ!」とおっしゃった神様のように、たった一言でイエス様は、絶望の淵にいた病人に「いのち」を創造され、脱出の道を一瞬で作って下さったのです。この聖書箇所に、この病人が「信じたかどうか」について一切書かれていない理由は、この病人の信仰が主役ではないからです。この聖書箇所の主役はイエス様であり、「しるし」の力ではなく、イエス様の見えない「ことば」の圧倒的な力にスポットライトが当てられているのです。

 

それまでのヨハネの福音書を見ると、イエス様の教えやしるしは全て「比喩」で行われています。そして、ニコデモやサマリアの女、弟子たちは、その「比喩」を文字通りに捉えてしまい、イエス様が言わんとすることを誤解してしまいました。私たちもそうならないように気を付けないといけません。「病んでいる人はイエス様の下へ行けば癒される!」というのが結論であれば、それは、イエス様が願っていることの正反対になります。ここでヨハネが言わんとしていることを、三つのポイントにまとめたいと思います。

 

まず、一つ目のポイントです。もし「癒しのしるし」がイエス様への「扉」であるなら、癒された病人は私たちを写している「鏡」です。

 

皆さん、興味深いと思いませんか。池の周りにいた大勢の病人が痛みと絶望に嘆き悲しむ中で、イエス様はたった一人を選んで癒し、すぐに立ち去られました。もしイエス様が、できる限り多くの人の苦痛を癒すために来られたのであれば、そのような行動はとられなかったでしょう。つまり、イエス様の「癒しのしるし」には、単なる「癒し」よりも深い意味が込められていると考えられます。

マルコ2章17節には、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。イエス様が病人を癒されたのは、私たちのように日々神様に背くような罪人も、癒しを必要とする「病人」と全く同じ状態であるということを示すためでした。ベテスダの池の周りに横たわっていた盲人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちは、霊的に言えば、今、ここに集まっている私たち罪人と同じであると、イエス様は語りかけておられるのです。

神様が何回も御自分の存在を私たちにわかりやすく示してくださったのにもかかわらず、どういう訳か、私たちは盲人のようにそれが全く見えないのです。神様が何回も聖書を通して神様の教えをはっきりと示されたのにもかかわらず、私たちの心、意思、体は全く動かず、神様に従おうとしないのです。神様から驚くばかりの恵み、死を圧倒する力、どこにも存在しない無条件な愛を体験させられたとしても、私たちの魂はまったく感動せず、心が麻痺状態なのです。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者」(エペソ2:1)と聖書に書いてあり、私たちのことを動いている死人のように描いています。これが私たちの罪人としての霊的状態なのです。希望がないぐらい、どうしようもなく病んでいるのです。イエス様のしるしを見ていた人たちが、しるしの力に見とれてしまって、イエス様のことが全く目に入っていないということが、この病気の一つの症状なのです。

ですから、どうか、この聖書の場面に登場する大勢の「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たち」のことを、自分とは関係のない哀れな人々として捉えないでください。彼らは、鏡に映った私たち自身の姿なのです。この霊的な現実を受け入れるかどうか、それが信仰の始まりなのです。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。教会に集う私たちは、ベテスダの池に集まった病人と同じなのです。

 

もしそれを認めているならば、次のポイントを覚えていただきたいです。「良くなりたいのであれば、自分が頼っている「見える手段」を諦めて、イエス様の「見えないことば」に期待しましょう。」

 

38年間も歩けなかった病人は、自分の弱さを受け入れていないわけではありません。頑張っていないわけでもありません。池の癒しの水に触れることを毎日待ち続けていましたし、頑張って池に入ろうともしていましたが、自分の力不足のせいで良くならないと自分で思っていたのです。皆さんも、自分の霊的な状態を見て、自分の自己中心で、自分勝手で、愛のない姿を見て、そう思うかもしれません。しかし、イエス様は病人の努力と頑張りと状況をすべてを知った上で、あえて「良くなりたいか?」と問われるのです。つまり、イエス様は私たちの努力と動機を疑っておられるのではなく、私たちが選ぶ癒しの手段を疑っておられるのです。私たちは、わかりやすくて目に見える手段に引かれます。何回失敗しても。何回壁にぶつかっても。癒される可能性がどれほど0%に近いとしても。私たちは、相変わらず自分の目に見える、わかりやすい手段に希望を置いて、手に入れることのできない癒しを追い求めるのです。もし私たちが、自分の罪深さを受け入れているのであれば、癒しが、「癒しの水」やエリート教育、秘境のパワースポットや長年の鍛錬で手に入れられるものではないとわかっていると思います。イエス様は私たちにより効果的な手段を提供してくださるために、「良くなりたいか」と問いかけてくださるのです。

 

イエス様の「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」という目で見ることは出来ないことばによって、この病人の希望のない、死と隣り合わせの人生が、一瞬で希望が溢れ、いのちに満ちた人生に変わります。実は、「起きて」ということばは、このヨハネ5章でもう一度使われます。「父が死人をよみがえらせ【起こさせ】、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」イエス様は、病人を歩けるようにされた癒しのしるしを、神様が死人に与えられる蘇りと例えられるのです。 そして、もうご存じの方もいらっしゃると思いますが、ヨハネの福音書の七つのしるしの最後のしるしは、亡くなった友人ラザロを蘇らせる奇跡でした。イエス様はラザロの墓の前で、「ラザロよ、出て来なさい。」と大声で叫ばれました。すると、死んでいたラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布で包まれたままで出て来ました。イエス様は「ほどいてやって、帰らせなさい。」 とおっしゃいました。目には見えない神の言葉の剣によって、イエス様は死の束縛を断ち切り、ラザロの人生をがんじがらめにしていた罪の病を解き放ち、ラザロを命へと帰らせたのです(ヨハネ11:43-44)。もちろん、これはラザロのことだけではありません。イエス様を信じる人のことを描いているのです。

 

ですから、イエス様は「私のことばで、罪によって腐敗しているあなたの人生を復活させることができるのです。私の一言で、死からあなたを解放し、いのちに帰る事ができるようにします。あなたは、良くなりたいのか?」と私たちに問うておられるのです。

 

最後に覚えていただきたいことは、「イエス様が私たちに語られると、私たちは歩けるようになるのではなく、死から蘇るのです。」という事です。

イエス様は、病人の応答を待たれませんでした。私たちへの応答も待たれません。イエス様は、「起きて、歩きなさい!」と、私たちに命を与える御言葉を語られるのです。そして、イエス様ご自身の言葉が、私たちの病んでいる心を一瞬で癒し、盲目な私たちがイエス様を見ることができるように、不自由な体が動き、罪に麻痺させられた心がイエス様を感じることができます。神学用語では「有効召命」といいますが、これはクリスチャンになる瞬間を描いているのです。病人に「起きて、床を取り上げ、歩きなさい」、死んだラザロに「ラザロよ、出て来なさい」とおっしゃったように、イエス様が私たちを癒される時、ご自身の言葉が聖霊様の力によって有効に働き、私たちはイエス様を信じる事ができるようになるのです。私たちの命のない石の心が、生きた肉の心に変わるのです(エゼキエル36:26)。イエス様の言葉によって、私たちの干からびた骨に、筋がつき、肉が生じ、皮膚で覆われ、私たちのうちに息が与えられ、私たちは霊的に生き返るのです(エゼキエル37:4-7)。これがヨハネが言う「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)ことなのです。つまり、私たちは、イエス様の御言葉と聖霊の働きによって、イエス様ご自身の本性と救いの本当の意味を見ることが出来ます。そして、それがイエス様が考えておられる究極の「癒し」なのです。イエス様の御言葉と聖霊の働きなしでは、そのような「癒し」はありません。

そう聞いても、「私の人生はまだまだめちゃくちゃだ。自分の人生が癒されているか分からない。生まれ変わっているかどうかもわからない。」と思う方がいらっしゃるかもしれません。霊的に癒されているかどうかを見極めるために、あまり複雑に考えてはいけません。イエス様が「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と言われたときに、その病人がすぐに治ったかどうかをどうやって知りましたか?その人が「床を取り上げて歩き出した」からです。「あの人の100メートル走は30秒もかかるから、イエス様に癒されていないかもしれない。」というのは、おかしな話ですよね。皆さん。あなたは自分の人生と救いを、イエス様のみに委ねたいですか?イエス様の御言葉通りに歩みたいですか?イエス様の御言葉が心に響いていますか?つまり、起き上がって、イエス様のほうへ歩いていますか?霊的に100メートル走を10秒切っているかどうかを聞いているのではありません。もし、あなたがイエス様のほうへ歩んでいるのなら、イエス様は私たちの死んでいた心に新しい命をすでに与えられています。ですから、悩むよりも、喜びましょう!起き上がることもできなかった私たち、歩くこともできなかった私たちがイエス様に癒されたのです。イエス様を見失わず、イエス様に感謝し、歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church