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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌1番「聖なる聖なる聖なるかな」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌194番「詩篇73:21-24」
教会学校教師任職式 Sunday School Teacher Installation Service
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記19章1-6節,20章1-3節
聖書の話 「『十戒』とキリスト」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子供たちに聞きます。「レントゲン」を知っていますか?骨が折れているかどうかを見る為の大事な機械です。10数年前、私はバスケで足首をねんざし、歩けなくなりました。過去にも同じような経験があったため、「すぐ治る」と思って医者に行きたくありませんでした。しかし、妻に強く勧められレントゲンを撮ったところ、ひびが入っていました。私は本当にびっくりしました。そして、そこで初めて骨折していることを認め、お医者さんに治療してもらったほうがいいと実感しました。
十戒はレントゲンのようなものです。人生の健康状態を測ります。多くの人は「自分は大丈夫」と思って、イエス様の救いや助けを必要としません。私もそうですし、日々そのように感じるときがあります。しかし、十戒というレントゲンを通すと、心の骨折が明確になります。そして、自力では治せない事がわかると、「医者のイエス様はどこにいるんですか?!どうすればいいんですか?」と切実に思うのです。ラミークラブで十戒を学んだ子供たちもいますが、大人はまだなので礼拝の中で十戒を学んでいきたいと思います。今日は十戒の読み方を四つのポイントで見ていきます。
①「十戒」は、私たちが経験したものではなく、イエス様が定めるものです。
「十戒」や、「律法」という言葉を聞くと、人によって様々な反応があるでしょう。「十戒」や「律法」への反応は、個人の経験によって大きく異なります。厳しい環境で育った人や罪悪感を抱える人は拒否反応を示し、秩序を求める人や罪を克服したい人は積極的に受け入れます。様々な経験を持っている人は、できる限り二極の間を取り、中立的な立場を取ろうとするかもしれません。どちらが良い悪いということではなく、「律法」という言葉に対する反射的な反応や傾向は、私たちの経験や性格によって形作られることが多いのです。
しかし、「律法」とは一体何でしょうか。律法は、神様が望まれることです。律法は神様の御心です。ですから、私たちが左派、右派、あるいは中立であれ、私たちの考えや経験によって、「律法はこういうものだ」「御心はこうだ!」と勝手に決めつけてはならないのです。私たちは神様ご自身の言葉によって、御心を理解しなければなりません。よくある考え方として、私たちちっぽけな人間は、無限で永遠の神様の御心を完全に理解することはできないため、私たちの「律法」や「御心」の理解は常に不十分だと結論付ける人がいます。確かにその通りですが、もしそのように考えてしまうと、何かを100%理解できなければ、真実を知ることはできないということになってしまいます。
私の長女が3歳くらいの時、駐車場に行く途中で、空を飛んでいる飛行機を指して「あれ何?」と聞いてきました。私は「鉄でできた人が乗れる鳥だよ」と答えました。完璧な答えとは言えないかもしれませんが、長女はその答えを聞いて納得し、理解することができました。もちろん、飛行機のエンジンの仕組みや、物理学的にどのように飛ぶかなんて分からないでしょうが、飛行機とは何かを理解し、その理解は間違っていないと思います。「鉄でできた人が乗れる鳥」が「パパの車」とは違うという長女の結論は、絶対的な真実です。
神様が私たちに与えてくださった聖書も同じです。神様は、私たちの知識と能力に合わせた言葉で、ご自身の御心を聖書を通して示してくださったのです。私たちは100%理解できないかもしれません。それは当然のことです。しかし、御心を100%理解しておられるイエス様が、聖書に書かれていることは、私たちが御心を理解する上で十分だと決められたのです。私たちはそれを疑う理解力さえありません。目に見えず、無限で永遠で不変の神様が、優しい父親のように、シナイ山まで腰をかがめてくださり、幼稚園にもまだ入っていないような神の民に、両手の指で数えられる十の掟にご自身の御心を分かりやすくまとめてくださったのです。もちろん、それが全てではありません。しかし、御父にとって、それは私たちの為に十分であり、嘘偽りのない、間違いのない絶対的な真実なのです。そして、幼いイスラエルが、もし一つでも掟を破ってしまったら、「100%理解できないのだから、できないのは当然だし仕方がないね。」とは、神様はおっしゃいません。「お父さんがしてほしかったことをしなかったね。お父さんは本当に悲しいよ。」と神様はおっしゃるでしょう。
それを踏まえて、私たちはなぜ、シナイ山の「十戒」を今守る必要があるのでしょうか?その理由は、十戒の序論に説明してあります。
Ex. 20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。 2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
小教理問答問44はこのようにわかりやすく説明しています。
Q44 十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。
十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。
シナイ山の十戒は、創造主である神様、神の国の主、私たちの救い主の御心だからです。十戒の大事な部分は、内容よりも、どなたが書かれたかが重要なのです。
② 十戒は、創造主である神様が書かれた御心の「地図」なのです。
まず、簡単に十戒の原則、構造、そして、使い方を簡単に説明したいと思います。律法は、この世と私たちを造られた創造主が書かれたものなので、人生の最高のマニュアルとも言えます。そして、イエス様は、神様の御心と1600ページ以上にわたる旧約の律法をひとことでまとめられました。神様の御心は「愛」です。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 38 これが、重要な第一の戒めです。 39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。
そして、十戒は、御心をわかりやすくまとめてあるものです。十戒の構造として、最初の4つの戒めは、神様をどのように心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして愛するかを説明していて、後半の六つの戒めは、隣人をどのように自分自身のように愛するべきかが具体的に書いてあります。
十戒は、「…してはならない」のように禁じる戒めが多いのですが、第5戒は「父と母を敬いなさい」という、何かを求める戒めです。ですから、一つの戒めをみるとき、「この戒めは何を禁じているのか?何が求められているのか?」という二つの角度から見ないといけません。例えば、「姦淫してはならない。」と書いてありますが、もしあなたの結婚相手が「私は他の人と姦淫していません。だけど、あなたと一緒に話したくありません。私に何も期待しないでください。」とあなたに言ったとすれば、それは、神様が望まれる愛に満ちた結婚関係だと思いますか?もちろん、そうではありません。ですから、一つの戒めを見るとき、「私が最低限、守るべきことは何なのか。」と読むのではなく、「どのように神様と隣人を最大限に愛すれば良いのか。」と読まなければいけないのです。これが創造主の人生の秘訣とも言えます。
そして、十戒は、神と隣人への愛を示すことができる生活の十の領域を示しています。①「夫婦関係のように、他の神様を愛してはならない」②「自分の都合にあった方法で神様を愛してはならない」③「あなたの神の名誉をあなたの振る舞いで汚してはならない」④「神様と過ごす時間を守り、楽しみなさい」⑤すべての人と良い関係を持つこと、⑥自分と隣人のいのちを大事にすること、⑦結婚相手だけをきよく愛すること、⑧人を愛するために財産を用いること、⑨愛をもって真実をいうこと、⑩心の中に秘めた欲を正しく扱うこと。この十戒が全てではありませんが、人生の大事な領域を占めています。つまり、十戒は、人生の地図のようなものです。地図は写真ではありませんよね。すべての詳細は書いてありませんが、自分がどこにいて、どこへ行くべきかがぱっとわかるような道具です。すべてを創造された神様が、その地図を書いてくださるのであれば、それは確実ですし、最高の人生の地図だとも言えます。
しかし、十戒は、どこへ向かう為の地図でしょうか?神様が与えてくださった「愛」の律法は、私たちを愛による永遠の「喜びと楽しみ」へと導くために与えられたのです(1コリント13:4-8参照)。「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。 その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」と詩篇1:2-3に書いてあります。律法は私たちを束縛するためではなく、私たちに真のいのちと自由を与えるために存在するのです。ですから、「イエス様はパリサイ人の厳しく、細かい儀式的な律法を拒み、もっと本質的で新しい「愛」の掟に変えられたのだ!」と言う人は、イエス様ご自身がおっしゃったことと正反対のことを言っていると思います。
面白いことに、パリサイ人とイエス様は、同じように律法を「愛の掟」とまとめました。律法の理解に関しては、違いはありません。イエス様がパリサイ人の律法主義を拒まれた理由は、律法に対する熱心さが悪いということではなく、律法に対する熱心さが足りないということでした。イエス様がパリサイ人の律法主義に反対した理由を二つにまとめると、一つは、パリサイ人は、大事にしていた「律法」をただ表面的に守っていて、実際には神様と人を愛していないこと(マタイ23:23)。もう一つは、②神様の律法に人の考えを加え、神様の律法よりも人の価値観を愛してしまったこと(マタイ15:3-6)です。つまり、イエス様は、パリサイ人の律法主義に対して「あなたたちは愛の律法を大事にしていると言いながら、律法をないがしろにしている!もっと律法を熟読し、一語一句守りなさい!」と(マタイ5:20参照)おっしゃっているのです。
③ 十戒は、神の国の主が書かれた私たちへの「試金石」なのです。
神様は私たちの王であられ、十戒をもって、民の従順さを試され、神の国にふさわしいかどうかを計られます。
先ほど、19章のはじめをすこし読みました。聖書の神様が、イスラエルという民をエジプトから救い出され、シナイ山へ導かれました。そして、その神様がイスラエルの民にこう宣言されました。
「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。 5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』
神様は、当時の王様とその配下にある者との契約の仕組みを用いられ、この3節でイスラエルを御自分の特別な民にされました。それは、神様がイスラエルの「神様」と言うだけではなく、正式にイスラエルの「主」となられ、「神の国」が見える形で正式に設立された瞬間とも言えます。
王は人を無条件に自国の民として受け入れる事はしません。例えば、もし私が日本国籍を取りたいのであれば、日本語の読み書きができるか、日本の憲法を守ることを約束するか、今まで犯罪をおかしていないかなどについて証明しないといけません。アメリカでも同じで、アメリカの市民になる為の「テスト」もあります。神様も、イスラエルの民と契約を交わされました。「 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」民が神様に聞き従っているかどうかの「テスト」または「試金石」は、十戒です。つまり、十戒は、私たちが神の民としてふさわしいかどうかを計る基準なのです。そして、その基準を一つの戒めにまとめると、第1戒が一番わかりやすいと思います。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(20:3)
ある人は、「旧約の神様は厳しいさばきの神で、新約のイエス様は愛に満ちた、赦しの神だ。だから、厳しい旧約の神の「十戒」は、新約の私たちに適応しない。」と思うかもしれません。実は、これは非常に古い異端と似ています。マルキオンという2世紀の人は、旧約の神と新約の神は本質的に違う、旧約は私たちに適応しないと教えていました。しかし、多くのクリスチャンたちは、それは異端だと定めて、旧約の神様と新約のイエス様は同じ三位一体の神様であり、ご性質ー知恵、力、聖、義、善、真実、愛ーにおいて、違いはないと告白し続けてきました。この聖書の神様は、矛盾するような律法を語られません。ですから、イエス様もこのように説明されました。
17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。 18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。 19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り【原文:緩め】、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。(マタイ5:17-19)
つまり、旧約の神様の律法は、新約のイエス様の律法でもあるということです。
そうおっしゃいながら、イエス様は実際に、旧約の律法をシンプルに要約され、わかりやすく本質を説明されました。しかし、その結果、新約の律法は、優しくはならず、むしろ、旧約の律法よりも厳しくなったのです。
19 イエスは彼に言われた。… 20 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」 21 するとその人は言った。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」 22 イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 (ルカ18:20-22)
ですから、私たちが律法をすこしでも破ってしまったら、イエス様はシンプルに厳しい判決を下されます。イエス様は違う箇所でこうおっしゃいます。
21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
イエス様は、えこひいきなく、誰が天の神の国にふさわしいかを決められます。そして、神の律法を要約した十戒は、人間を創造されたときから用いられた、神様の変わらないさばきの基準なのです(ローマ2:11-15、信仰基準19:1-2参照)。
準備クラスで十戒を紹介するときに、私は、十戒は回っている大きな駒として例えます。駒の本体がどれほど壮大なものであったとしても、回っている駒の軸が折れてしまったら、駒は倒れます。同じように、律法全体を守っていたとしても、神様と隣人を愛していなかったら、律法全体を破ってしまう事になるのです(ヤコブ2:10参照)。つまり、イエス様が神様の律法をシンプルに要約されたことによって、律法はより厳しいものになったのです。
ここで、皆さんにお尋ねしたいことがあります。創造主の神様が与えられた「真の『愛』の地図」を使いこなす自信はありますか?そして、聖なる神様の「『愛』の試験」に合格する自信はありますか?十戒は、神様と人を愛するための最高の「掟」(グッドアドバイス)ですが、それが実践できなければ、最悪の知らせ(バッドニュース)となってしまいます。ですから、次の点が最も重要なのです。
④ 十戒は、贖い出してくださった救い主が書かれたキリストへの「矢印」です。
イエス様が弟子たちに律法の本質と厳しさを説明されたとき、弟子たちはどう思ったでしょうか。
「イエスは…こう言われた。『富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。』それを聞いた人々は言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです。』」(ルカ18:24-27)
十戒の本質を深く理解すればするほど、私たちは絶望を感じざるを得ません。「愛の律法」は、私たちを励ますためでも、自信を与えるためでも、再び立ち上がるきっかけを与えるためでもありません。律法の目的は、私たちに「ああ、もうだめだ。私にはできない。」とつぶやかせることなのです(ローマ3:19-20、7:7)。それは、私たちを謙虚にし、私たちが罪人であり、愛を行う力など全くないことを認めさせるためです。そして、私たちがその事実に気づいたとき、十戒は「キリストへの矢印」へと変わります。つまり、十戒は私たちを「自分の救いは、自分にはなく、イエス様だけにあるのだ!」という真理へと導くコンパスのようなものなのです。
ガラテヤ4:4-5にはこう書かれています。「しかし、時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが神の子としての身分を受けるためでした。」先ほど説明したように、律法は私たちを喜びと楽しみの人生へと導く地図であると同時に、神の民としてふさわしいかどうかを測る試金石でもあります。私たちにはそれを守る力がないため、律法の下では、悲しみに沈み、罰せられる罪人となるのです。
しかし、私たちに律法を与えられた神様は、律法だけを与えられたのではありません。御自分の御子であるイエス様を、人間としてこの世に送り、律法の下に置かれました。そして、イエス様は人間として、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人となり、最終的に、葉が枯れない、永遠の命の水に植えられた木のように、死から復活されたのです(詩篇1:2-3参照)。さらに、イエス様は律法の最も厳しい試験である十字架を乗り越え、天の神の国に入られました。そして、私たちは、イエス様を信じることによって、その恵みをいただくことができるのです。しかし、残念ながら、私たちは非常に鈍感です。そのような救いを目の前にしても、なかなか喜びを感じず、その必要性を実感できません。ですから、十戒をじっくりと見つめることによって、「ああ、自分ではもうどうしようもない」と痛感し、イエス様の救いに駆けよる者となりたいと願います。お祈りします。