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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書53章10-12節 |
さ ん び | Opening Praise | 暗闇に輝く灯 |
さ ん び | Praise | 栄えを捨てて(1日英、4日) |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌301番「千歳の岩よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | マタイの福音書20章28節 |
聖書の話 | Sermon | 「その借金、主イエスが代わりに支払いました」
呉載炫 教師候補 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌310番「イエスの深い愛と」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
海浜幕張めぐみ教会の皆さん、おはようございます。呉 載炫(お じぇひょん=Oh Jaehyun)と申します。今年の3月に東京基督教大学大学院を卒業し、4月から海浜幕張めぐみ教会で歩んでいます。今後、日本長老教会の牧師になることを目指して、奉仕しながら、学んでいきたいと願っています。今日はマタイの福音書から共に聞くことができて嬉しく思っています。
ここ数年、世間では景気がよくないと言われます。景気が良くない時は、消費を抑えて、なるべく銀行から新規の借り入れをしないように、お金の使い方に気をつけます。
不景気だと金利も気になるところです。車のマイカーローンや住宅ローンを組む場合、少しでも金利が低いところはどこかと、何社も資料を取り寄せたり、話を聞きに行ったりします。
人々はこのように、少しでも金銭的な負担を減らすために必死になります。自分の力で返せない借金なんてしたくないと思うのは、当然のように思います。
しかし、お金の問題さえ解決されれば人の人生は安泰なのでしょうか。いいえ、違います。人は皆、生まれる時から、自分では背負いきれない、自力で解決することのできない問題を抱えて生まれてきます。聖書は、それを「罪」だと言います。
この罪の問題を解決するために来られたのが、私たちの主イエス・キリストです。先ほどお読みしたマタイの福音書20章28節で、主イエスは自分のいのちを与えるために来たと言われました。主はご自分のいのちを与えることで、私たちの罪の問題を解決してくださいました。これを、罪の贖いと言います。
本日は、この贖いについて、特に28節の後半、主イエスが「多くの人のための贖いの代価として」と言われたことに着目して、次の三つのことを共に考えたいと願います。
一つ目は、「私たちの負債」です。ここでは、私たちの罪の問題を、債務関係という視点から考えます。二つ目は、「贖いの代価」です。主イエスはなぜ、贖いの代価となられたかを確認します。三つ目は、「負債の清算」です。私たちの負債はどのようにしたら清算されるか、また、清算後の私たちについて確認します。
まず、一つ目のポイントは「私たちの負債」です。28節の前半では、主は弟子たちに人々の上に君臨しようとせず、仕えなさいと命じられました。そして、三位一体の神である主ご自身が地上に来られたのは、仕える姿勢の模範を示すためだと言われました。
今日の本文には、さらにもう一つ、主が地上にこられた目的が書かれています。それは、主が「多くの人のための贖いの代価」として来られたということです。イエス様は、私たちを贖うために来られました。
贖いとは何でしょうか。罪を償うということです。主イエスは罪を知らない神でありますから、主が言っておられる贖いのための罪は、私たち人間の罪を指すものです。では、私たちはどうして罪を持っているのでしょうか。ここで、私たちの罪について改めて考えてみましょう。
罪には二つの局面があると言われます。一つは、私たちが自ら陥る罪です。私たちはまるで呼吸をするように頻繁に罪を犯します。考え事をする時には一瞬にして不敬虔なことを考えたりしますし、口からは反射的に不平や不満が出たりします。
もう一つは、人類の始祖であるアダムの罪、原罪です。アダム以来の人類は、皆この原罪を持って生まれます。私たちがいま自ら犯す罪も、この原罪の影響から出るものです。創世記2章と3章に現れた原罪について確認しましょう。
創世記2章15節で、神様はアダムをエデンの園に置き、園を管理するように命じられました。そして、続く16節、17節で、主は「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。
アダムは、神様のご命令に従いませんでした。妻から勧められるがまま、善悪の知識の木の実を、自分の意思で食べてしまいました。この時点で、アダムがその場で肉体的に死ぬことはありませんでしたが、人間が罪に陥ったことにより、聖なる神様と人の間には、人の罪による断絶が生じました。
造り主、いのちの源である神様との関係が断たれたのですから、人は肉体的には生きていても霊的には死んだものであります。生まれながらの人間は、やがて年を取って肉体の死を迎えることになりますが、その先は、造り主なる神との永遠の断絶、永遠の死が待つ存在となってしまいました。
私たちは、従来、アダムの契約違反、すなわち神様のご命令に不従順であったことで、人類に訪れた死を刑罰であると聞いてきました。確かに、刑事罰の側面があります。
しかし今日は、少し視点を変えてみたいと思います。これを民事的に、債務や負債と思うことができるのではないでしょうか。マタイの福音書18章でイエス様は、主君に一万タラント借金をした家来に関する、たとえ話をしました。
主君はその家来をかわいそうに思い、負債を免除してあげました。しかし、その家来は自分に少しの借金をした同類を許さず、牢獄に放り込みました。この話を聞いた主君は怒って、家来の負債を免除したことをなかったことにし、家来が主君への負債をすべて返すまで投獄することにしたという話です。
このたとえ話の主君は、神様を指します。主君に対して負っている負債は罪のことです。このたとえ話から、私たちは、罪を神様に対する負債として捉える視座が与えられます。それも、一万タラント、今のお金で6千億円に登る、個人では到底返すことのできない借金です。
主イエスは、罪に陥った人間は、神様に対して、これほど大きな負債を抱えていると教えておられます。ここで、二つ目のポイントに移ります。
二つ目のポイントは「贖いの代価」です。私たちは一つ目のポイントで、罪とは神様への負債であって、しかも、それは自分では弁済できるものではないことを確認しました。
ローマ人への手紙5章19節は次のように語ります。「すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです」。
アダムによってこの世界入っていた罪は、アダムの子孫であるすべての人に原罪という形で受け継がれました。人類は皆、生まれながらに罪人です。言い換えると、アダムの負債は、私たちにも同じように適用されているということです。このままでは、人類は誰一人、神様に負債を返すことができず、みな滅びてしまいます。
しかし、先ほどお読みしたローマ人への手紙には、もう一人の人が登場します。この方の従順によって、多くの人が罪から解放されたので、神様は彼らを義人とみなしてくださいました。この方こそ、私たちの主イエス・キリストです。
罪からの解放、すなわち罪の問題が解決されたというのは、何を意味しますか?多くの人が神様に対して持っていた、負債が清算されたということです。まさに、今日の本文のマタイの福音書20章28節で主イエスが言われた通り、主が贖いの代価となってくださったからに他なりません。
主イエスは、私たちの贖いの代価となるために何をされましたか。ご自分のいのちを犠牲にされました。そのために、主イエスは人間となって地上に生まれました。ヨハネの福音書1章は、この世にあるすべてのもので、主イエスによらずにできたものは一つもないと言います。造り主であるイエス様が、被造物である私たちと同じ形を取られました。
地上での歩みにおいては、本来、律法を定め律法の上におられる神であるお方が、被造物である人間と同様に、律法の下を生きられました。主イエスは、本来、私たちが神様から求められている生き方、つまり、神様のことばにまったく従う生き方を生きました。常に神様のことばに逆らい、反逆する私のために、私の代わりに、生きてくださいました。
しかし、人々はこの方を知らず、捕らえ、侮辱し、十字架にかけました。
主は十字架の上で、その一身に、多くの人の罪を背負い死なれました。何にも替えることのできない尊い神の御子のいのちが、地上では神様に完全に従い、罪は一つもないお方が、十字架の上で犠牲となられました。この時、主イエスはご自分のいのちを、私たちの罪のため、つまり、私が神様に対して負っていた負債のための、贖いの代価として父なる神様に支払われました。
主イエスは、まだ私が生まれる前、私が主のことを知るよりもずっと前に、私の負債を、先に支払ってくださいました。主の十字架での死について、ローマ人への手紙5章8節は次のように語ります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。
罪によって永遠に滅びるしかなかった、悲惨と絶望のうちにある私たちを、神様はそのまま放っておくことはしませんでした。主イエスの贖いの代価としての死を通して信仰者を贖うことを、予めご計画されました。このご計画は、私たちに対する神様の愛を表していると言います。
さらに、イザヤ書53章10節にはこう書かれています。「彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。
神様は人々が皆、負債を抱えたまま滅びることをよしとしませんでした。神様のみこころは、ひとり子主イエスを多くの人のために代償のささげ物、贖いの代価とすることでした。これが私たちに対する神様のみこころ、神様の永遠のご計画なのであります。
最後、三つ目のポイントは「負債の清算」です。ここでしばし、私たちが確認してきたことを振り返ってみしょう。アダム以来、人類は神様に対して罪という負債を持っています。しかし、これは人の努力で到底返すことのできないものです。また、主イエスは、二千年前に十字架の上で、贖いの代価としてご自分のいのちを与えてくださいました。
主イエスのいのちは、人々の負債を清算するのに充分でした。これについては、ヘブル人への手紙が、「ただ一度」ご自分を献げられたことによって、罪を取り除き、永遠の贖いが成し遂げられたと、繰り返し証言しています。
しかし、この贖いは、すべての人に与えられるものではありません。罪は負債ですから、負債を負っている人の同意が必要です。債務者の意思に反して、他人が勝手に弁済をすることはありません。
神様は、人間の意思を尊重してくださるお方です。どれくらい尊重される方であられるかと言いますと、自分には罪、すなわち、神に対する負債があることを否定する人の、その意思までをも尊重します。主イエスの贖いを受け入れない人の負債は贖われず、そのままに放っておかれます。
では、贖いを受ける人、主イエスによって負債が清算される人はどんな人でしょうか?神様は、世界の基が据えられる前、神様が天地万物を造る前に、御国を受け継ぐ人たちをキリストにあって選んでおられます。主はご自分の計画通り、選ばれた人に、ご自分の聖霊を遣わし、彼らの心に主イエスの福音を通して働きかけます。
人が主イエスの贖いに与る方法はただ一つ、イエスを信じることです。主イエスが支払ってくださった贖いの代価は、私のためであったと認めることです。主の十字架の犠牲と復活が、自分のためであったと心から信頼する人に、主はこの債務の弁済を適用してくださいます。
主イエスの贖いによって、私たちの罪、負債の問題は解決を得ました。しかし、もう一つ考えなければならないことがあります。私たちの地上の歩みは、原罪を赦された後も続くということです。
主イエスの福音を信じ、負債が清算される前の私たちは罪の奴隷、サタンの奴隷でした。ローマ人への手紙6章16節が「自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となる」と言う通りです。
主イエスに贖われた私たちは、今もサタンの奴隷ですか?いいえ、そんなことはありません。今日の聖書箇所のマタイの福音書20章28節の「贖いの代価」を表すギリシア語の単語は、元々「解く」、「解放する」という言葉から来ました。
主イエスは、贖いの代価となってくださり、私たちをサタンの奴隷状態から解放させてくださいました。私たちが自分の主として仕えていたサタンとの関係を完全に打ち砕きました。サタンはもう、私たちに対して主人としての権利を主張することができません。イエス様が、私たちを解放してくださったからです。
そして、イエス様は、私たちを放っておかないで、私たちをキリストの奴隷としてくださいました。サタンが絶対に手を出すことのできない身分です。キリストの奴隷は、キリストのくびきを負うものです。
安心してください。マタイの福音書11章30節で、主は、キリストのくびきは負いやすく、キリストの荷は軽いと言ってくださいました。つまり、有益で好ましいものです。主はご自分のくびきを負うキリストの奴隷を、悪い者の手から守ってくださいます。みことばと聖霊の助けを送ってくださり、天の御国に至るまで、私たちの信仰を守り導いてくださいます。
メッセージをまとめます。世の中の大抵の人は、ローンの金利や借り入れの金額など、お金の負債ばかりを気にして生きています。しかし、本当に気にすべきは、人が神様に対して抱えている負債、罪のことです。
主イエスは、贖いの代価としてご自分の尊いいのちを十字架の上で献げられました。その贖いの代価が自分のものだという信仰をもって受け入れる人は、負債を清算してくださいます。これが、主の贖いであります。
願いますことは、この贖いの代価として来られたキリストのことを心の中によく整理することができますように。私を贖ってくださった主が、キリストの奴隷となった私たちを今もこれからも守ってくださいます。人生の荒波も、敵の攻撃も恐れるに足りません。
また、私たちの周りにいる負債の清算が必要な人々に贖いの代価として来られた主イエスの福音を、大胆に分かち合うことのできる私と皆さんになりますよう、主の御名によって願います。