2025年4月20日礼拝 説教 「パニックを引き起こすイエスの復活」

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礼拝式順

前   奏 Prelude 「両手いっぱいの愛」 「ジーザス イズ アライブ」

教会学校有志

招きの言葉 Call to Worship ローマ人への手紙1章3-5節
さ ん び Opening Praise 死を打ち破り
さ ん び Praise 主は今生きておられる
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌150番「主の復活、ハレルヤ」
信仰告白式 Profession of Faith
聖書朗読 Scripture Reading マルコの福音書16章1-8節
聖書の話 Sermon 「パニックを引き起こすイエスの復活」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌155番「すべての力とすべての国は」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子供たちに聞きます。皆さん、震えるぐらいびっくりしたことがありますか?『わあ、すごい!』というような驚きではなく『え、何が起きてるの?!めっちゃ怖いんだけど!』みたいな驚きです。私はあんまりYouTubeを見ないんですけど、たまたま出てきた動画を見て、思わず笑ってしまいました。そこには、すっごく筋肉ムキムキのお兄さんが、何百キロもある重たいものを、汗をいっぱいかきながら持ち上げていて、周りのジムの人たちを驚かせていました。そこに、すごく細くて小さなお兄さんが、ジムのお掃除をする人に変装してやってきました。『僕もちょっとやらせてもらえますでしょうか?』ってムキムキのお兄さんに話しかけたら『いやいや、君には無理だよ』って笑われてしまいました。『これを持ち上げるのに何年かかると思いますか?』って細いお兄さんが聞いたら『君だったら2年、いや3年はかかるんじゃない?』って言われ、ジムのみんなが笑いました。『そうですか。でも、僕、できると思いますよ』と言って、その細いお兄さんは、いきなりさっきの重たいものを軽々と持ち上げ、ただ持ち上げただけじゃなくて、自分の頭の上まで持ち上げて、肩に乗せて、手を使わないでクルクル回し始めたんです。10秒ぐらいジムはシーンとしてしまいました。ムキムキのお兄さんは、震えながら小さな声で『どなた様ですか?…』って聞いたのです。

 

今日はイエス様の復活を祝うイースターですが、私たちはイエス様が蘇られたことを聞いて、軽々しく「すごいよね」と思うときがあります。先生ももちろんあります。でも、今日の聖書箇所をみると、イエス様が蘇られたことを知ったときに、3人の女性が震えて逃げ出してしまいました!怖くて「キャー!!!!」と叫びながら逃げたかもしれません。どうしてだと思いますか?それは、イエス様の蘇りがそれほどすごいことだっただからです。みんなが混乱して、震えて、ムキムキのお兄さんが「キャー!」って叫ぶぐらいすごいことだったんです。イースターはそれほど偉大で、力強いイエス様を祝う日なのです。それを覚えながら、今日の箇所を見ましょう。

 

マルコの福音書を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単にご説明します。聖書の新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4つの「福音書」があります。これらは、4人の著者がそれぞれの視点からイエス・キリストの働きを記録した「伝記」のようなものです。マルコの福音書は、最も簡潔な記述で、イエス・キリストが十字架にかけられた日(西暦30-33年頃)から約25-30年後(西暦55-65年頃)に書かれたとされています。1秒単位で最新情報が世界中に配信され、技術が毎年急速に発展している2025年に生きる私たちにとって、25-30年は長く感じられるかもしれませんが、10-20年ごとに大きな変化が起こっていた古代の人々にとっては、それは非常に短い期間です。ですから、マルコの福音書は、イエス・キリストの働きを最も近い時代に記録した「伝記」と言えるでしょう。マルコの福音書は、「客観的」な史実を記録した書物ですが、同時に「主観的な目的」を明確に持っています。マルコの福音書の最初の節は、「神の子、イエス・キリストの福音の始まり。」と記されています。つまり、著者マルコは、この福音書を書いた理由として、イエス・キリストという人物が、①神の子であり、②キリスト(究極の王)であり、③私たちにとって素晴らしい良い知らせ(福音)であることを示そうとしているのです。

 

本日は、イエス様の復活を祝うイースター礼拝なので、マルコの福音書から復活の箇所を先ほど読みました。私は、これがマルコの福音書の最後だと考えますが、聖書をお持ちの皆さんにマルコの福音書16:8を開いていただきたいです。8節の後に、マルコの福音書は続きますか?実は、続くのです!

 

なぜ私は8節でマルコの福音書が終わると言ったのでしょうか?マルコの福音書の終わり方には、三つの可能性があります。一つ目は、新改訳2017版や多くの聖書に、8節で終わると記されているという可能性。二つ目は、マルコの福音書8節に、短い文章をいれて、マルコの福音書をきれいに締めくくるという可能性。しかし、新改訳2017版に書いてあるように、この文章は少数の異本にあるだけなので、原本に記された可能性は低いということです。三つ目は、9-20節で終わるという可能性です。しかし、新改訳2017版はこう説明します。「9-20節を加えた写体は多いが、重要な写体には欠けている。」つまり、マルコの福音書が書かれたときに最も早く書かれた写体には9-20節が抜けているということです。そして、もう一つの理由は、8節の終わり方が一番「不自然」だからです。「不自然」な終わり方をわざわざ書き記した写本は、何も加えずに書いた可能性が高いと判断できます。ですから、マルコの福音書は8節で終わる可能性が一番高いのです。

 

ある人はこれを聞いて、「ほらね!聖書には間違いがあるし、私たちが読んでいる聖書が本当に原本と同じなのかどうかは?わかんないじゃない?!」と疑問に思われるかもしれません。教会は何千年にもわたって聖書を写し続けて、全ての写本は公にされています。私の手元にあるギリシャ語の聖書には、写本の間の差異がどこにあるかがほぼすべて書いてあります。しかし、すべての差異を見ていくと、多くの違いは、今日の箇所のように、内容の本質を変えるようなものではありません。ですから、私が何を言いたいかというのは、クリスチャンは聖書に関して、オープンで、素直で、嘘偽りなく、何も隠していないという事です。わからないことや聖書の写本の差異があれば、はっきり言います。そして、全部オープンにしているので、もし誰かが聖書に何かを付け加えようとしたら、すぐにわかりますし、2000年分のコピーがあるので、原本と全く違う事がすぐわかります。

 

私がスタンフォード大学在学中に、比較宗教学の授業でキリスト教を学んだ際、マルコの福音書の終わりを学んでいました。その授業で、キリスト教を教えておられたトーマス・シーハン先生は、イエスの復活を文字通りには信じておられませんでした。

8  彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

このマルコの福音書16章8節を読んで、この福音書の不自然で、唐突な終わり方について、こう語られました。「ほら、イエスの死に最も近い時期に書かれたマルコの福音書は16章8節で終わっていますね。これは非常に不自然な終わり方だと思いませんか?イエスの復活についても一切触れられていません。ただ、三人の女性が恐れとパニックに陥っている様子が描かれているだけです。つまり、イエスの復活や救いの確信は、教会が後から付け加えた考えなのです。キリスト教の核心は復活ではなく、それは人間が作り出した神学なのです。」

当時、私はクリスチャンではなかったので、スタンフォード大学のキリスト教学の専門家と紹介されたシーハン先生の言葉を疑いませんでした。「クリスチャンは聖書をきちんと読んでいない。彼らは自分たちが信じていることさえ理解していない。ばかばかしい。」とさえ思いました。(後になってわかったのですが、シーハン先生はキリスト教の専門家ではなく、ハイデガー哲学の専門家でした。つまり、キリスト教の神学、教会史や聖書は専門分野ではなかったのです。)今日の私のゴールは非常にシンプルです。イエス様の復活がなぜパニックを引き起こし、なぜキリスト教の核心であるかを明確にしたいのです。三つのポイントにまとめたいと思います。

 

復活がパニックを引き起こした一つ目の理由は、これです。復活が、誰も期待しておらず、誰も想像もしていなかった歴史的な出来事だったからです。

 

三人の女性たちと弟子たちがイエス様が復活されたことを目撃しているが、文字通りの復活を信じないシーハン先生は、それについて二つの可能性を提案されました。一つは、イエス様の蘇りを目撃したと言う者は、幻覚か夢を見て、それを現実としてとらえたということです。しかし、考えてみてください。夢がパニックを引き起こしますか?私は、去年見た夢をいまだに覚えています。非常に現実性のある夢で、夢の中でも驚きましたし、泣きながら目を覚ますぐらい、現実性のある夢でした。でも、夢から覚めるとき、パニックに陥りますか?不安になりますか?「ああ、夢だったんだ」とは思いますが、夢と現実を間違えることはあまりないです。そして、3人の女性が、同じ場所で、同じ時に、同じように幻覚を現実として誤解し、パニックに陥るなどということは非常に考えにくい可能性です。

もう一つよく聞く可能性は、弟子たちがイエス様のご遺体を盗み、イエス様が蘇られたことを宣べ伝え、哲学的な比喩として教えていたという考えです。しかし、直感的に考えてみてください。「イエス様の復活は人生の比喩である」と教えたいのなら、マルコの福音書の終わりにこのようなパニックに陥った三人の女性に関する記事で福音書を締めくくるでしょうか?偽りの宗教を作りたくても、もう少しきれいで、ピンとくる結論を書くのは当然なことです。しかし、そのような結論ではありません。

三人の女性がパニックに陥った理由は、もっとシンプルな理由です。イエス様が蘇ることは、全く想像もつかなかった出来事だったからです。イエス様は、木曜日の深夜に突然逮捕され、偽りの証言によって最悪の十字架刑が下され、ローマ兵に辱められながら、金曜の朝に十字架にかけられ、金曜日の午後3時に死なれました。つまり、最後の晩餐から24時間も立っていない内に、イエス様が突然死なれたのです。安息日を守るために、金曜の夜に葬られたので、三人の女性はちゃんとお別れを告げたくて、葬られたイエス様の遺体に油を塗りに行こうと思ったのです。つまり、イエス様が蘇ることを全く期待していなかったのです。

そして、面白いと思いませんか?三人の女性が「真っ白な衣をまとった青年」を見たとき、彼女らは非常に驚きましたが、パニックには陥りませんでした。彼女たち三人の女性は、いつ恐ろしさを感じて、その場から逃げ出したのでしょうか?それは、み使いがこう言ったときです。

驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。

彼女たちがパニックに陥ったのは、イエス様が蘇られたことを知った瞬間でした。

 

1世紀の書簡を読むと、ローマ人やギリシャ人はそもそも「体」の蘇りを見下していました(使徒17:32)。ユダヤ人の中にも「復活」を信じていた人たちはいましたが、それは、全人類の復活のことであり、十字架に掛けられた一人の預言者が蘇ることは想像もつかなかったのです。12人の弟子たちが蘇りについて聞かれたとき、どう反応したと思いますか?

31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。 32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。(マルコ8:31‐32)

12人の弟子たちのリーダーであったペテロは、十字架にかけられた後の復活を信じるなんて、そもそも悪いことだと、思っていたのです。ですから、1世紀のローマ人やユダヤ人、12人の弟子たちにも全く想像もつかなかったことが、三人の女性の目の前で起きたとき、パニックとショックを経験するのは当然なことです。ですから、復活を単なる夢、あるいは、比喩として片づけることはできないのです。

 

ここで、復活がパニックを引き起こした二つ目の理由を紹介します。イエス様がおっしゃった通りに、すべてが現実となったので「神の子」であることが明確になったのです。

 

死なれる前にイエス様は、マルコの福音書で三回もご自分の結末をはっきり弟子たちにおっしゃいました。先ほど読んだ8:31-32と、9:31-32と、最後にエルサレムへ上られる前の10:33-34です。

33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。 34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

しかし、これを聞いた弟子たちは、何回も無視したのです。三人の女性も弟子たちとともにいた可能性が高いので、彼女たちも無視したと思います。なぜなら、まず、神様が送られる「人の子」、「救い主」が、もっとも恥ずべき十字架刑を自ら受けることは考えられない話ですし、死から蘇るなんて不可能です。しかし、イエス様がご自分でおっしゃったことを、文字通りに実現されたのです。(まぐれで100回連続してじゃんけんに勝つことと、「これから100回連続でじゃんけんに勝つ」と宣言して勝つことは、全く違います!)イエス様が明確に予言した通りにすべてが実現したので、三人の女性は「震え上がり、気も動転し」たのです。

もしイエス様が「復活」という常識を超えたことを成し遂げられたのなら、イエス様の語られた驚くべきことも真実であるはずです。イエス様が十字架にかけられたきっかけを思い出してください。マルコ14:60-64に記されています。

60 大祭司は立ち上がり、皆の前に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どう言うのか。」 61 しかし、イエスは黙ったまま、何も答えられなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「お前は、ほむべき方の子、キリストなのか。」 62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲と共に来るのを見るでしょう。」 63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「これ以上、証人が必要だろうか。 64 あなたがたは神を冒涜する言葉を聞いたのだ。どう思うか。」彼らは皆、イエスは死罪に値すると決めた。

イエス様は、「私は悟りを開いた教師だ」とは言われませんでした。イエス様は、「私は神の右の座に着く神の子であり、天の雲から降って最後の裁きを行う神である」とはっきりと宣言されたのです。もし普通の人であれば、「正気ではない」と思うでしょう。しかし、もしイエス様がご自身の宣言通りに十字架刑を受け、三日後に復活されたとしたら、「もし復活が本当なら…イエス様が神の右の座に着くというのは本当なのか?本当に最後の日の裁き主なのか?!」となるはずです。ですから、イエス様をただの優れた「教師」として片付けることはできません。もしそうなら、このような混乱は起こらなかったでしょう。イエス様が復活されたからこそ、イエス様が神の右の座に着く神の子であるという結論に至るのです。イエス様が聖なる神様と等しいお方であると知れば、三人の女性と同じように、緊張、震え、恐れ、そして混乱を感じるのは当然です。むしろ、混乱など感じないというなら、その人は、まだ復活の真の意味を理解できていないのかもしれません。私たちは、三人の女性と同じように、復活されたイエス様の前に立って、震えているでしょうか?

 

ここで、復活が混乱を引き起こした最後の理由を紹介します。「それは、イエス様が死を命へと覆された、私たちの救い主であるからです。

 

もしシーハン先生がここにいらっしゃったら、こう言われるかもしれません。「マーク、あなたはイエスの復活を前提として話している。マルコの福音書にはそのような記述はない。それはあなたの解釈だ。」大学生だった私は、その言葉を鵜呑みにしていました。しかし、マルコの福音書は新約聖書の中で最初に書かれた書物ではありません。初代教会を拡大した使徒パウロの手紙は、それよりも前に書かれています。マルコの福音書が書かれる前に、初代教会はパウロの手紙を通して聖書の理解と神学を形成していたのです。マルコの福音書は西暦58-63年頃に書かれましたが、イエス様の死に最も近い時期に書かれた新約聖書は、西暦48年頃のパウロのガラテヤ人への手紙です。最初の二節(ガラテヤ1:1-2)を読んでみましょう。

人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、2 私と共にいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。

 

そして、比較的初期の西暦50年頃に書かれたテサロニケ第一の手紙には、こう記されています。

13 兄弟たち、眠っている人々については、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14 私たちがイエスが死んで復活されたと信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人々を、イエスと共に連れて来られるはずです。(1テサロニケ4:13-14)

マルコの福音書を読んでいたクリスチャンは、パウロの手紙を読んできたクリスチャンたちなのです。マルコの福音書の終わりを読んで、「復活はなかった」と考える初代教会のクリスチャンはいなかったでしょう。

 

その理由は、復活こそが、私たちがイエス様を信じる理由だからです。私は全くの素人ですが、最近、物理学の本を読んで、「時間の矢」について学びました。物理学の世界では、ほとんどの法則が「どちら向きでも同じ」です。しかし、「時間」だけは違うのです。時間は一方通行、つまり過去から未来へしか進みません。これを「時間の矢」と呼びます。それは、私たちの周りのものが常に乱雑になっていく、つまり「エントロピーが増大する」という法則と深く結びついています。物理学の素人ながら、命と死も似ていると感じました。「死の矢」は一方通行なのです。命は常に衰え、私たちは死への勢いにブレーキをかけることはできても、止めることはできません。その方向性を変えることもできません。もしそれが可能なら、宇宙の根本的な原則を覆すようなことです。しかし、イエス様はご自身の言葉通り、「死の矢」を覆し、新しい「天と地」、新しい「宇宙」を創造すると約束されたのです。もし物理学者が復活を実際に目撃し、イエス様の約束を聞いたなら、混乱するのは当然です。皆さんも、同じように驚いていますか?

 

マルコの福音書の前に書かれたパウロの手紙には、こう記されています。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、こう記された御言葉が実現します。「死は勝利に飲み込まれた。」「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15:54-57)

復活されたイエス様は、イエス様を信じる者のために、「死の矢」を覆し、永遠の「命の矢」に変えると約束されました。混乱した三人の女性はどうなったと思いますか?他の福音書には、こう記されています。「8 彼女たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして墓から戻って、十一人と他の人たち全員に、これらのことをすべて報告した。」(ルカ24:8-9)イエス様のこの約束を思い出し、ホッとし、イエス様の言葉を信じ、周りの人に伝えながら、イエス様の復活を祝ったのです。私たちも今週そのように歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church