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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌245番「御名をほめ讃える歌声あり」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌313番「弱き者よ」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記20章3節、申命記6章4-5節
聖書の話 「主は唯一である。主を愛しなさい」
マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌359番
「私の望みは主イェスだけにある」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子供たちに聞きます。みんなが、他の神を拝むような場面に出会ったことありますか?例えば、プール開きで塩をまいて水の神に祈ったり、修学旅行で神社へ行って拝んだり、仏教のお葬式で焼香をしたり。みんながやっていると、やらないのはちょっと気まずいよね。「神様が赦してくれるから、ただ手をたたいて、祈るふりをするだけだから、ちょっとだけいいんじゃない。」と思うかもしれません。聖書では、神様と教会の関係は、結婚のようだと書いてあります。ですから、これを想像してみてください。あなたの結婚相手がこういいます。「私はあなたのこと大好き。それは変わらない。私は、365日中364日、あなただけを愛することを約束します。だけどね。あなたほど好きじゃないけど、もう一人ちょっと好きな人がいます。一年に一回、その人とデートして、その人とチューしていい?チューはね、ただ二人の唇がくっつくだけだから、何の意味もないから。大丈夫だよね?1年間の1日は、わずか0.27%だよ。1日がだめなら、1時間ならどう?ほんの0.01%だよ。それなら良いでしょう?」そんなふうに結婚相手があなたに言ったとします。結婚相手がそんな一言を言っただけで、裏切られたような、悲しい気持ちになりませんか?言われただけで悲しくなるはずです。
第一戒の「他の神々を拝んではならない」という意味は、私たちが他の神ー違う神様、人、モノなどーに愛を示すなら、私たちの神様も非常に悲しまれるということです。結婚相手に裏切られたような気持ちです。ですから、第一戒は、自分の結婚相手を愛するように、全力でイエス様だけを愛しましょう、という意味なのです。そして、感謝なことは、私たちがイエス様をそのように愛せないときでも、イエス様は変わらず、365日中365日、全力で私たちを愛し続けてくださるのです。
前回の十戒のメッセージで、十戒の読み方を学びました。十戒は、創造主の御心の地図。十戒は、主の御国の試金石。十戒は、救い主への矢印。その3点に沿って、第1戒を見たいと思います。まず、もし第1戒が「御心の地図」であれば、第1戒は私たちに何を教えているのでしょうか?聖書の神様は唯一完璧な神様であられるので、花婿として神様のみを愛することによって、私たちは最高の喜びを味わえる、ということです。
しかし、聖書にあまり馴染みがなければ、「神様を愛するって…具体的にどういう意味?」と思われるかもしれません。聖書の中のあらゆる箇所で、神様と神の民(=教会)との関係が「結婚関係」に例えられています。花婿である神様と花嫁である教会の「結婚関係」は、人間が創造される前からあって、結婚はその関係を表す比喩なのです(エペソ5:22-23)。そして、「結婚関係とはなんですか?」と本質を問われれば、一言でまとめることができます。それは「約束」または「契約」です。
キリスト教に基づく結婚式で、この誓約をよく聞きますね。
私はあなたと結婚して、あなたを夫とします。私は、愛のある誠実な妻となり、富める時も乏しい時も、喜びの日にも悲しみの日にも、健やかな時も病める時も、あなたを愛し、敬い、慰め、助け、いのちの限り堅く節操を守ることを、神と証人たちとの前で誓約します。
「いのちの限り堅く節操を守る」というのは、何があっても、結婚相手を愛するという約束を守り切ることです。ですから、聖書が言う「愛」は、「恋愛感情」ではありませんし、「気持ち」でもありません。また、聖書が言う「結婚関係」の本質は、区役所に届ける「結婚届け」のような手続きでもないのです。なぜなら、どちらも誓約がないからです。
先ほど、読んだ申命記6:4-6は、神様に捧げる愛を表している誓約文のようなものです。「 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。 」モーセがその誓約文を読んだ時、花嫁である神の民は、「はい、誓約します」と応答しました。
しかし、忘れてはいけないのは、聖書の神様が神の民を愛されることを先に約束されたという事です(出19:3‐5、エゼキエル16:6-14、エペソ5:23-33参照)。神様は、税金を徴収する自己利益しか考えないような王様でもありませんし、情のない裁判官でもありませんし、愛に飢えている恋愛中毒者でもありません。神様は、神の民をご自分の花嫁とし選ばれ、「いのちの限り堅く節操を守ること」を約束され、神の民を、まず先に愛された花婿です(創世記15:1-20、ガラテヤ3:15-18参照)。ですから、私たちは神様を愛しますと約束しますが、それは、神様がまず、神の民を愛すると誓約してくださったからです(1ヨハネ4:19)。
「もし神様を愛することが結婚の誓約のようなものであれば、私たちはなぜ聖書の神様にのみ誓約しなければならないのでしょうか?」そのような疑問があるかもしれません。聖書の神様のみを愛することが、私たちにとって、最もいいことである三つの理由があります。
一つ目の理由は、もし「神様は唯一である」という言葉を信じるなら、「その神様は完璧である」と言っているのと同様です。多神教のヒンドゥー教や神道、1世紀の多神教のローマ人なら、キリスト教の一神教を見ると、「クリスチャンはあまりリーズナブルではない」と思うかもしれません。しかし、キリスト教の立場から言うと、こういうことです。多神教は、神が多いから良いと言いますが、それは同時に、一人の神の力には限りがあるという事を認めていることでもあります。「万の神々」を合わせれば力強いけど、一人の神様なら1万分の1の力という事でしょうか?という疑問がわきます。キリスト教の神は、「知恵、力、聖、義、善、(愛)、真実において、無限、永遠、不変のお方」です(小教理問答問4参照)。もし自分の結婚相手の愛と力が「無限、永遠、不変」であれば、他の結婚相手を探す必要はありません。一夫多妻の発想は、一人目の妻が不十分で不完全だということですよね。キリスト教は、完璧であられる神様は十分であると言うだけではなく、むしろ、私たちのニーズをはるかに超える存在であられるからこそ、聖書の神様だけを愛することが良いと考えるのです。
聖書の神様だけ愛する二つ目の理由は、完璧な神様だけを愛することによって、私たちは完璧な愛と喜びを味わうことができるのです。私たちの教会の信仰基準では、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」(小教理問答問1)つまり、神様を愛すること(=栄光をあらわすこと)は、永遠の喜びをもたらすことなのです。例えば、もしこれから結婚する人が、「今日から一人の人だけを愛することは永遠の縛りだ、、、ああ、残念。」と言うなら、それは不自然なことですよね?一人の結婚相手を愛することで、より深い喜びと自由を体験することを期待して、結婚しますね。詩篇73:24-26,28には、神様だけを愛する事で経験する喜びが表されています。
「あなたは 私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。 この身も心も尽き果てるでしょう。 しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。」
「私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。 私は 神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」
神様だけを愛することによって、この世では比べることのできない喜びと平安を味わうことができるのです。
聖書の神様だけ愛する三つ目の理由は、神様を愛する者には、特別な愛がそそがれるのです。結婚している人が、他には誰にも与えることのない特別な愛を伴侶に注ぐことは当然です。夫婦が注ぎ合う愛は、子供や親戚、教会の人たちや職場の人たちには与えません。聖書の神様が、花嫁である教会に注ぐ愛は、他の誰にも与える事はできません。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。 」 (エペソ 5:25)
命を懸けて十字架で捧げられたキリストの愛は、花嫁である教会のためです。そして、夫婦が一つになるように、キリストと教会もひとつになるのです。そして、イエス様は御父からいただいたものを、ご自分の花嫁である教会にお与えになられました。
またわたし【イエス】は、あなた【御父】が下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。
つまり、御子であられるイエス様が、御父であられる神様からいただく愛と栄光を、特別にご自分の花嫁である教会に注がれるのです。
ここで、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし第1戒が「主の試金石」であるならば、第1戒は私たちに何を教えているのでしょうか?私たちが「神様との結婚の契約」を破っていることが明らかになります。多神教や多様主義に慣れていると、他の神々を拝むということがそれほど悪いことではないと感じるかもしれません。しかし、神の民が第1戒を破ると、「他の神々を慕って淫行を行い、それらを拝んだ」(士師2:17)という表現で描写されます(出エジプト34:14-15; 申命記31:16参照)。つまり、神様の視点からすると、第1戒を破ることは、結婚の契約をないがしろにする、姦淫と同じ行為なのです。原文では「慕って淫行を行う」は一つの言葉ですが、日本語ではそのニュアンスが伝わりにくいかもしれません。その言葉の意味は、「遊女のように振る舞う」ということです。言い換えれば、第1戒を破る神の民は、聖書の神様の愛では満たされず、自分の欲望のままに、分別なく様々な神々を慕い、遊女のように淫行に走るのです。聖書において、「他の神々」とは、異教の神々に限定されません。「恋人」「結婚相手」「家族」「友人」といった人も神となり得ます。「国」「会社」「社会」「学校」といった組織も神になることがあります。「金」「仕事」「快楽」「力」「成功」「美」「安定」「賞賛」「調和」といったものも神になりえます。対象が何であれ、夫である神様への愛を奪う存在は「他の神々」となりうるのです。
そして、姦淫や不倫は、単なる情のない「契約違反」ではありません。夫婦関係とは、お互いが自分のすべてをさらけ出し、自分の体、生活、人生、心を裸にし、相手に捧げ、愛の誓いを交わすものです。姦淫や不倫は、すべて見た上で、「うん、まあまあだね。でも、もうときめかない。」と言って、別の相手を探すような行為です。結婚関係が最も親密な関係であるからこそ、姦淫は最も心を傷つける裏切りなのです。
もし、十戒が書かれた日が「結婚式」だとすれば、旧約聖書は神様と神の民の結婚関係についての物語だと言えます。そして、時が経つにつれて、神の民の裏切りはますます悪化し、道を外れていきます。旧約聖書の後半には、様々な比喩が用いられていますが、神の民の霊的な状態を最も直接的に描写しているのはエゼキエル16章です。そこでは、夫である神様が、妻である神の民を病的なまでに姦淫する妻として描いています。一か所を引用します。
30 あなたの心は、なんと燃え盛っていることか──神である主のことば──。厚かましい遊女のするようなこれらのことを、ことごとく行うとき。 31 あなたはどの通りの角にも自分の祭儀台を設け、どの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬を嘲ったので、遊女のようではなかった。 32 姦婦は自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。 33 すべて遊女には代価が支払われるのに、あなたは自分のほうから愛人たちすべてに持参金を与え、贈り物もして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。 34 だから、あなたの姦淫はほかの女の場合と反対だ。だれも、あなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、あなたには、だれも報酬を支払わなかった。あなたは反対のことをしたのだ。
エゼキエル16章は63節もある長い章ですが、ぜひ読んでみてください。私たちが分別なく、他の神々を行動で、言葉で、心の中で慕うことが、いかにとんでもない裏切りであるかを直接的に描写しています。
ですから、十戒が試金石であるならば、十戒は、私たちを「他の神々を慕い淫行を行う」妻と認定するのです。もし、自分の結婚相手がエゼキエル16章に書かれていることの10%、あるいは1%でも行ったら、私たちはすぐに離婚を決意するでしょう。そして、もうその相手は、自分にとって特別な愛を注ぐ対象ではないと判断するでしょう。十戒を通して、私たちは、自分が神様の姦淫する妻であり、神様に愛される資格がないことを知るのです。私たちクリスチャンは、それを認める事ができるでしょうか?エゼキエル16章を読んで、そこに自分の姿が描かれていることに気づけたでしょうか?
最後のポイントを紹介します。もし第1戒が「救い主への矢印」であるならば、第1戒は私たちに何を教えているのでしょうか?私たちが何回も自分たちの誓いを破ったとしても、イエス様はいのちの限り、誓いを守り続けてくださることが分かります。
エゼキエル16章は私たちの罪深さを描いていて、こう結論づけています。
59 まことに、神である主はこう言われる。わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破ったのだ。 60 だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる…62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。 63 こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──神である主のことば。』」
つまり、裏切られた神様は、ご自身の契約を新たにし、罪深い神の民を赦し、その罪から救い出すことを決意されたのです。
神様はその救いを分かりやすく示すために、ホセアという預言者にこう命じられました。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」 (ホセア1:2)民に対する神様の愛を示すために、ホセアは、ゴメルという遊女と結婚しました。最初は、すべてが順調でした。しかし、第2子と第3子は、他の男性との子供でした(ホセア1:6,8)。ゴメルが他の男性を愛してしまった理由は何だったのでしょうか?「彼らの母は姦淫を行い、 彼らを身ごもって恥をさらした。 彼女は言ったものだ。『私の愛人たちの後について行こう。 彼らはパンと水、羊毛と麻、 油と飲み物をくれる』と。」(ホセア2:5)それにもかかわらず、ホセアは忠実にゴメルを愛し続けました。義務的に、嫌々ながら愛したのではなく、心から愛したのです。「それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い【くどいて】、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。」ゴメルに何度裏切られても、愛に満ちたホセアは何度もゴメルを追いかけ、優しい言葉で誘い、ゴメルを何度も家に招き入れたのです。
しかし、ゴメルはある日家に戻りませんでした。そして、ある日、神様は突然ホセアに現れました。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(ホセア3:1)と、ホセアに仰せられました。何が起こったかは明確には書かれていませんが、ゴメルは愛人に裏切られた可能性が高く、女奴隷として売られそうになっていました。そして、ホセアはそれを聞くと、すぐに手持ちのすべての財産をかき集め、奴隷市場へ駆けつけ、「私が買い取ります!」と言い、ゴメルを救い出したのです(ホセア3:2)。そして、最後にホセアはゴメルにこう言います。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」 (ホセア3:3)何があっても、ホセアにとって、ゴメルはかけがえのない妻なのです。
ホセアは、イエス様のひな型です。日本語では分かりにくいのですが、ホセアは、実は、「イエス」とほぼ同じ名前なのです。そして、ホセアが行ったことは、イエス様が行われたことです。イエス様がこの世に来られた理由は、姦淫する妻である教会を、罪、死、サタンから救い出すためです。イエス様は天から下られ、私たちが永遠の死の奴隷として売られそうになった時、「私がその子を買い取ります!」と大声で叫ばれ、十字架の上でご自身の尊い命を捧げられ、私たちを買い戻してくださったのです。
26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。 29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
イエス様は、御自分のゴメルを憎まれませんでした。むしろ、ご自身の命を献げられるほど、妻を愛され、「聖なるもの、傷のないものとなった栄光の」花嫁にするために、ご自分の血によってきよめられた真っ白なウエディングドレスを与えられたのたのです(黙示録19:8, 7:14)。私たちがゴメルのように、何回も、何回もイエス様を裏切ったとしても、イエス様の誠実な、完璧な愛によって白くされたのです。
ホセアが奴隷市場に着いたとき、ゴメルが何と言ったかは分かりません。しかし、花嫁である教会は「早く来てください!早く会いたいです!」と叫びます(黙示録22:14参照)。なぜなら、このように花嫁を愛してくださる方は、イエス様しかおられないからです。イエス様は唯一なのです。そして、ホセアのように、イエス様が私たちの嘆きを聞かれるとき、「しかり、わたしはすぐに来る。」と答えてくださいます。私たちの花婿は唯一であり、私たちを花嫁として愛してくださるからこそ、私たちはイエス様だけを愛するのです。お祈りします。