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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙4章23-25節 |
さ ん び | Opening Praise | 新しい命 |
さ ん び | Praise | ただ十字架のイェスにあり
Only A God Like You |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌25番「聖なる主は栄えに満ち」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙1章1-9節 |
聖書の話 | Sermon | 「ほかの福音はありません」
呉載炫教師候補 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌355番「私の望みは」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
これから毎月、第二週目はガラテヤ人への手紙から共に聞きたいと思います。ガラテヤ人への手紙とは、使徒パウロがガラテヤにある教会たちに送った手紙です。
パウロという牧師は、ローマ帝国の様々な地域を旅してそこに教会を開拓し、また、既にある教会を信仰に堅く立たせることに、大きな情熱を持つ人でした。その働きのために、教会は、パウロとそのチームを派遣しました。
パウロにはもう一つ、大きな情熱を持つことがありました。それは、パウロ自身は福音の宣教のために旅に出て教会を離れていても、教会から信仰に関する質問や相談の手紙が届いたら、丁寧に返信をすることでした。時には、教会にある問題が起きたと聞いたら、積極的に手紙を通して指導することもありました。
これらの手紙が、いま私たちが新約聖書で読むことができるパウロが書いた手紙、教会はこれを「パウロ書簡」(ロマ書〜ピレモン書)と言います。それぞれの手紙には、それぞれのテーマ=パウロが手紙を書いた目的があります。
今日から共に見ていくガラテヤ人への手紙にもテーマがあります。それは「義認」についてです。義認とは何ですか?信仰者はイエス様を信じて、神様によしとされた=義と認められたということです。義認は私たちの救いの核心です。しかし、ガラテヤの教会には、この義認の教えに関する深刻な問題がありました。
本日は、ガラテヤ人への手紙のイントロダクションとして、先ほどお読みしました1:1−10を通して、三つのことを共に考えます。一つ目は「使徒パウロ」です。まずは、この手紙を書いたパウロについて確認します。二つ目は「ほかの福音」です。パウロが手紙で指摘しているほかの福音とは何かを見てみます。三つ目は「本物の福音」です。ほかの福音があれば、ほかの福音ではない福音があるはずです。本物の福音とは何かを、共に考えましょう。
一つ目のポイントは、「使徒パウロ」です。ガラテヤ人への手紙1:1です。「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと」。
ガラテヤ人への手紙の冒頭、1:1でパウロは自分のことを使徒だと言います。もし、皆さんのもとにある郵便物が届いたとしましょう。まず一番目にすることは何ですか?この郵便が誰から届いたものなのか、差出人を確認しますね。
パウロは手紙の冒頭で、この手紙の差出人はパウロであり、パウロとはどんな人であるかを説明しています。パウロは自分を誰だと言っていますか?使徒ですね。使徒とは何ですか?キリストの教会の初期にあった特別な役割の人を指します。
いわば、パウロは自分を権威づけています。注目させています。ガラテヤの諸教会はこの手紙を心して読む必要があるということです。教会の皆が読む価値がある、いや、ちゃんと読まなければならない手紙であると言っているのです。
パウロはどうしてこんなことを言ったのでしょうか?パウロが傲慢な人だからですか?自分の権威を振りかざしているのでしょうか?そうではありません。人がもし、自ら自分自身に権威を付与するのであれば、思い上がり、傲慢と言えるかもしれません。
しかし、パウロははっきりと言っています。パウロ自身には権威があると。そして、その権威はパウロや他の人々から与えられたものではなく、主イエスと父なる神様から直接的に任命を受けたものだということです。
主はパウロを通して福音宣教の大事な役割を果たすために、彼を使徒に任じました。主からの権威が預けられたということです。ですから、もし、パウロがこの主の任命のことを変に隠して言わないのであれば、その方が、自分で自分を権威づけることになりかねませんし、その方が変な謙遜ですし、高慢だと言えるのではないでしょうか。
もう一つ考えなければならないことがあります。それは、パウロが手紙の冒頭で、自分の使徒としての権威を明言した理由です。パウロはこれから、ガラテヤの教会が陥っている問題を指摘します。ほかの福音に落ちてしまったガラテヤ教会に対し、パウロが伝える福音こそが主イエスから出た本物の福音だということを言うためです。
ここで、先ほどはさらっと説明しましたが、「使徒」という役割について確認しましょう。使徒とは何ですか。新約聖書は元々当時の国際共用語であったギリシア語で書かれていますが、当時のギリシア語でいう「使徒」とは、遣われた、送られた者という意味です。彼らは何のために送られましたか?
それは、福音を伝えるためです。キリストの降誕と罪を知らない生き方と神様への服従、十字架の死と復活の事実を、人々に宣べ伝えるために遣わされた者です。イエス様は、地上におられる間、まず十二弟子を使徒と任命しました。
使徒たちは、その目でもって地上におられた主イエスの働きを見て、福音を教えられ、復活の主に出会いました。使徒パウロも、ダマスコに行く途上で主イエスに出会いましたね。主は十二人の他にパウロを使徒に任命し、復活の主の福音を伝える働きをするために、特別な権威を授けました。
つまり、使徒とはキリストによる直接の任命を受けた者です。それは十二弟子とパウロのみです。使徒の伝えることは、自分で学んだり思いついたりしたものではありません。すべてキリストから授けられた福音を伝えるのみです。
使徒の伝えた福音こそ、本物の福音です。パウロは、純粋なキリストの福音を預けられた者として、威厳をもって、ガラテヤの教会たちに語りました。ここで、二つ目のポイントに移ります。
二つ目のポイントは「ほかの福音」です。パウロがガラテヤ人への手紙を書いた目的をよりよく理解するために、ここでは、手紙の流れ・形式について確認したいと思います。
使徒パウロの手紙、とりわけ教会の手元に残されているパウロ書簡には、パウロの手紙のスタイルが見られます。今日のメッセージはパウロの手紙の特徴を学ぶことが目的ではありませんので、その一つひとつを見ていくことはしませんが、ガラテヤ人への手紙に表れた特徴については確認しておきましょう。
大抵のパウロの手紙の冒頭は、「挨拶」から始まり、次に来るのは「神様への感謝」です。感謝というのは、「あなた方のことで、神様に感謝していますよ」のようなパートです。
しかし、ガラテヤ人への手紙は様子が違います。1:1−5は挨拶なのですが、6節からは感謝ではなく、いきなり本論、パウロが伝えようとする手紙の内容に入っていきます。パウロは神様への感謝を失ってしまったのでしょうか。
いいえ、そうではないと思われます。パウロは、ガラテヤ人たちのことで感謝するというより、憤りと疑義、心配などが優先したかったのでしょう。かなり激しい指摘とのろいの言葉が続いていることからそう推測できます。「挨拶はほどほどにして、どうしたの、みんな」みたいなイメージです。
6節です。「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から急に離れて、ほかの福音に移って行くことに」とパウロは言います。「驚いています」という言葉は、「ちょっと意外なことが起こりましたね」くらいの驚きではありません。「非常に不思議だ」、「あなた方は変ですよ」と強く指摘する言葉です。
パウロはなぜそう言ったのでしょうか?それは、ガラテヤの教会たちが、ほかの福音に移っていったためです。彼らが正真正銘の福音から離れて、ほかの福音の方を取ってしまったからです。
ここには三つほど、考えなければならない点があります。一つは、誰が離れてしまったのか、です。少し遡りますが、2節を見ますと、パウロはこの手紙の宛先を「ガラテヤの諸教会」と言っています。ある特定の個人ではなく、特定の一つの教会でもなく、ガラテヤ中会=ガラテヤ地方にある教会全体に書き送りました。
7節です。「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです」。
ガラテヤの諸教会には、使徒たちが主イエスから教わった福音ではない、「ほかの福音」を教える教師たちがいました。彼らはほかの福音を教え、教会をかき乱しました。彼らの悪い影響は、ガラテヤの教会全体に広まっていきました。
ほかの福音について考える点の二つ目は、ほかの福音に「移って行く」(6節)ということです。この言葉のギリシア語原文の意味には、人々がほかの福音に移っていく現象が、今もなお進行中で、かつ、人々が自らほかの福音というものに移っていっているということが表れています。
ガラテヤ教会には、ほかの福音を教える人たちがいました。教会の中の人々は、彼らの教えを拒否せず、かえって、彼らの教えるほかの福音の方について行ってしまいました。パウロは、その様子を人々が急いで、神様から離れていったのだと言います。ガラテヤ教会は今、非常に深刻な状態にあると指摘しているのです。
もう一つ考えなければならないのは、「もう一つ別に福音があるわけではありません」(7節)ということです。教会にほかの福音を教える者たちが起こり、人々はこのほかの福音について行きました。しかし、パウロは、本物の福音の他に、もう一つ別の福音があるわけではないと言います。
つまり、彼らがついて行ったほかの福音は、福音ではないということです。ガラテヤ人への手紙をもう少し読み進めていきますと、このほかの福音というものが何であるかが分かります。
詳細は次回、来月より確認していきますが、概観を把握していただくため、先に簡単に説明いたします。ガラテヤ教会の中には、ユダヤ教から回心したユダヤ人クリスチャンがいました。また、ユダヤに自分のルーツを持たない=それまで異邦人とされていた人で、福音を聞いてクリスチャンになった人々もいました。
このユダヤ教から教会に入った人の中から、異邦人クリスチャンに対して、律法の遵守、割礼、祭りや食物規定を守らなければならないと強調する人たちが出ました。しかし、パウロはそのように教えませんでした。キリストの福音にあって、人は救われるために、それらを行う必要はもはやないからです。
この教会の中のユダヤ主義者たちが、純粋な福音に混ぜ物をしました。人々を誘い、使徒パウロが教えたキリストの福音から離れさせました。パウロが指摘しているのは、ガラテヤの教会が信仰を捨てて福音を離れたということではありません。問題は、7節で言うように「福音を変えて」しまったことだと言うのです。
これを混合主義と言うことができると思います。純正な、純粋な福音ではなく、福音に何かを混ぜ、福音に何かを上乗せしようとすることです。ガラテヤ教会のユダヤ主義者たちは、キリストの福音のほかに、割礼やユダヤの宗教的な行いを加えました。イエスを信じて、また、律法の行いもすることによって救われるということです。
しかし、神様は宗教的な混合主義を忌み嫌われます。それは旧約聖書がとてもよく教えてくれます。しばしの間、旧約聖書に記されたイスラエルの宗教的な腐敗について考えてみましょう。ユダヤの国の宗教は、北イスラエル王国のみならず、南ユダ王国も腐敗していました。彼らの宗教はどのように腐敗していましたか?
イスラエルは偶像を拝んでいましたね。周りの国、民族の神々を拝んでいました。山の上に高き所を作り、木の下で異邦の偶像にいけにえを献げました。王から民まで、皆が偶像礼拝者でした。
しかし、覚えていただきたいのは、イスラエルの人々は神様を礼拝することからも、離れていなかったということです。邪悪な王たちは普段は偶像を礼拝していながら、強い敵国の襲来など自分の都合に応じて、祭司や預言者を通して神様に助けを求めました。
民は自分の子どもを偶像のためのいけにえとして供えたその日に、エルサレムの神殿でイスラエルの神様を礼拝しました(エゼ23:39)。イスラエルの長老たちは、神殿の中に偶像のための部屋を作りそれを拝みました(エゼ8章)。
聖書は、聖なる神様は、異邦の民の風習を甚だしく嫌われると教えます。イスラエルの王と民は、神様も信じ、異邦の習俗に従って他の神々も信じる混合主義者でした。主はそんなイスラエルを滅ぼされました。混合主義の終わりには、さばきが待っています。
ガラテヤ人への手紙に戻ります。1:8−9は、ほかの福音を伝える者がいれば、その者はのろわれるべきだと言います。旧約聖書において、神様を信じる信仰の他に、偶像も礼拝していたイスラエルは滅ぼされました。
主はパウロを通して警告しておられます。誰でも、それが天使であれ、使徒自身であれ、キリストの福音に反するほかの福音を宣べ伝える者は、のろわれると言います。キリストの福音に、人間の宗教的な熱心から来る行いを混合する者には、イスラエルに下った恐ろしい滅びの刑罰が待っています。
これがほかの福音であり、ほかの福音を教える者はのろわれるということです。
最後、三つ目のポイントは「本物の福音」です。本物の福音とは、もちろん、キリストの福音です。主イエスが使徒たちに教え、また、彼らを通して私たちに教えてくださった唯一の福音です。
4節です。「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです」。
イエス様は、私たちを救い出してくださったと言います。救い出すということはどういうことですか?私たちの困難な状況に手助けをしてくださった、ちょっとしたヘルプを出してくださったということではありません。
イエス様は、今の悪の時代=人間の罪と悪によって汚れに汚れた世界、滅びの穴、自分自身の罪と背きの泥沼の只中に死んでいた私たちを、引き上げて、救い出してくださいました。
人は皆、生まれながら罪という、神様に対する大きな負い目を抱えて生まれます。この罪の問題はあまりにも大きいため、人は自力では返すこともできず、さらにその負い目を増し加えるばかりです。
聖書は、罪を抱えるすべて人の末路は永遠のさばき、死だと言います。イエス様は、他の人の罪のためではなく、私の罪のために、私に代わって十字架に死なれました。イエス様が、父なる神様のみこころに服従して、私の罪を負って十字架に死んでくださったので、私の罪は赦されました。
イエス様の服従にはもう一つの側面があります。イエス様は、私たちの代わりに神様の律法に完全に従う人生を生きてくださいました。この生き方は、本来、私たちに求められているものですが、私たちは失敗しました。
しかし、主イエスが私たちの代わりにその人生を生きてくださいました。キリストが私たちの生きるべき人生を代わりに生きてくださり、私たちの負うべき十字架の死を代わりに死んでくださったのです。
これが、聖書が教えるイエス様の義です。そして、主イエスの十字架の死と復活が自分のためであったと信じる人は、自分の負い目=罪がイエス様に移り、イエス様は喜んでその人にご自分の義をお与えになります。
神様の御目の前に、私たちは罪人です。しかし、イエス様は信仰者にご自分の義を与えてくださいました。神様はそのイエス様の義を通して、信仰者を見てくださるので、私たちを罪人としてはなく「義人」とみなしてくださいます。
神様は、イエス様がなされたことを、私がしたこととして、みなしてくださいました。私たちはキリストによって、神に受け入れられました。これが、義認です。義認は福音です。信仰者の救いです。
4節を注意深く読んでいただきたいです。どこにも、私たちから先に「救ってほしい」と言ったから、イエス様が私たちを救ってくださったと書いていません。神様が主権的に、私たちを先に愛して、キリストを通して救いの大きな恵みを備えてくださいました。
どこにも、救いに信仰者の努力が必要だとか、救われるために、信仰者の行いが有効に用いられると書かれていません。キリスト・イエスの完全な服従のみです。人の善い行いは、何の効果も持ちません。キリストによる恵みのみです。
メッセージをまとめます。パウロはガラテヤ人への手紙を未信者たちのために書いたわけではありません。クリスチャンたちに、教会に書き送っています。福音は、未信者にだけ必要なものではありません。キリスト者にも必要です。
クリスチャンは常に、福音を聞く必要があります。福音を聞いてもう信じたのに、どうしてまた福音を聞かなければならないのですか?それは、私たちの心の動き、心の傾向に注意する必要があるからです。
私たちは、自分では気付かないうちに、いつの間にか、自分の義認、自分の救いに、キリストの福音以外のものを継ぎ足そうとしてしまいます。みなさんは、こう感じる時はありませんか?
信仰生活をする上で、何か特別な霊的な体験や鍛錬をしていないと、不充分な気がする。一生懸命に奉仕したり、善い行いをしたりしないと、不安になる。1日も欠かさず聖書通読をしたり、長時間祈ったりしないと、自分のことをダメなクリスチャンだと感じる。
これらのことはすべて、喜びをもってできれば素晴らしいことです。しかし、私たちの心の奥底に、「これらを行うことによって神様に認めてもらおう」、「これをしなければ神様に受け入れてもらえない」、または、「これさえすればいい」、「行いによってより完全なクリスチャンになれる」と思う気持ちがあるならば、それは自分の救いに自分の努力を足している恐れがあります。それは「ほかの福音」です。
ですから、私たちは意識的に、また繰り返し、講壇から語られる福音のメッセージに耳を傾けましょう。キリストの恵みの深さに目を向けましょう。イエス様が私たちの代わりにしてくださったことと、それを私たちがしたこととみなしてくださる神様によって、私たちの一週間の歩みに喜びと平安が溢れますように。