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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 黙示録5章5-10節 |
さ ん び | Opening Praise | 愛の絆 |
さ ん び | Praise | その日全世界が |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌158番「小羊をばほめたたえよ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネ5章19-30節 |
聖書の話 | Sermon | 「神の子、安息の主、人の子」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに聞きます。みんなは誰かに何かを誤解されたことありますか? 例えば、「私、クリスチャンです」って自己紹介した時に、「クリスチャンって、いつもすごく正しい生活をしているんでしょう?」とか、「へー。何かを信じるのは大事だよねー」とか、「イエス様って、良いことを教える人なんでしょ」とか、色々なことを言われたことはありますか?私はありますが、「うーん、言っていることは間違ってはいないんだけど、ちょっと違うんだよなあ…」って心の中で思って、なんだかモヤモヤします。みんなも、そんな風に感じたことがあるかもしれません。実は、イエス様も、みんなと同じように、よく誤解されていたんです。イエス様の教えを聞いたり、イエス様の起こした奇跡を見たりして、「イエス様って、本当にすごい!」って思った人がたくさんいたけれど、イエス様のことをちゃんと分かっていませんでした。
今日の聖書の箇所で、イエス様はみんなの誤解をなくすために、「私はこういう人だ!」とはっきり説明したんです。「私は、全ての人に生き返る力を与えて、全ての人を最後に裁く神の子なんだ!」って言われたんです。そして、イエス様の周りの人たちは、イエス様の本当の姿がだんだん分かってくるんですが、「ええ?!全然意味が分からないんだけど?」って、すごくびっくりするんです。面白いことに、イエス様の本当の姿を知れば知るほど「イエス様って、良い人だね!」って簡単に言えなくなるんです。「イエス様って、一体どんな人なんだろう?」って、もっと深く考えるようになるんです。今日は、そのことについて一緒に見ていきましょう。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書の始まりは、いくつかの証人の証言で、多様な背景から来ています。旧約聖書の最後の預言者、バプテスマのヨハネ。イエス様の最初の弟子たち。エルサレムのユダヤ人たち。ユダヤ教の熱心な聖書の先生、ニコデモ。聖書を拒みながら、自分の思うがままに生きていたサマリアの女。重い病気を患っていた息子の癒しを懇願していた父親。証人たちの中には、イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、実際にお会いして対話した本物のイエス様と、証人たちそれぞれが抱いていたイエス様のイメージは全く違っていたという事です。
この証人たちの体験を通して、著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる」ということを、人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の証人たちの反応をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。
しかし、ヨハネの福音書の5章に入ると、すこし話の流れが変わります。最初の4章を読むと、エルサレムの群衆はイエス様のしるし(奇跡)の力を認めて、イエス様に興味を持っていたようですが、それは、ただイエス様の「しるしの力」だけを求めていたのであって、イエス様ご自身とイエス様の救いには興味を持っていませんでした(ヨハネ2:23-25参照)。しかし、問題は、彼らがイエス様ご自身と教えに興味を持っていない事を自覚していなかったという事と、そもそも、それを問題視さえしていなかったという事です。ですから、イエス様は、ユダヤ人の癪にさわるように、あえて安息日に「しるし」を行われたのです。第三のしるしを用いながら、エルサレムのユダヤ人たちに、彼らの形だけの信仰を露わにし、御自分の本性と、信仰の本質を明らかにされます。そして、ヨハネの福音書の第三のしるしを皮切りに、5章から、人々ははっきりと公にイエス様に反対するように変わっていきます。要するに、世の光であるイエス様と世の暗闇である私たちが、5章から明らかに対立し始めるのです。
では、第三のしるしは何だったのでしょうか?それに対して、ユダヤ人たちはどのように反対したのでしょうか?イエス様は、38年間も足の不自由な人を安息日に癒され、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と、その癒された人に命じられました。そして、ユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない。」と指摘します。その癒された人は、イエス様のせいだと、責任転嫁をしていまいます。すると、エルサレムのユダヤ人たちはイエス様が十戒の第4戒を破ったと訴えます。
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」 18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
今日の聖書箇所は、エルサレムのユダヤ人たちへのイエス様の説教のようなものです。そのユダヤ人たちは、イエス様の「しるしの力」を信じていましたが、イエス様のことば、イエス様の本性、イエス様ご自身は信じていなかったのです。ですから、安息日の「しるし」を用いながら、イエス様は、ストレートにご自分の本性を私たちに説明されたのです。その理由は、私たちがいつもイエス様ご自身を誤解してしまったり、都合のいいようにイエス様を理解してしまうからです。ここでイエス様は、三つの「肩書」を通して、ご自分の本性を私たちに教えてくださいました。
最初の「肩書」は「神の子」です。イエス様の回答は非常にシンプルですが、ものすごく奥深いことをおっしゃっています。
「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」(5:19)
イエス様は、ユダヤ人の冒涜の訴えに答えられました。イエス様は、御父の権威を奪うようなことをされません。御父と同じであるとも言っておられません。御父のご栄光を自分のものにしようともされていません。イエス様は、御父と同等の立場であるとも全く思っておられません。もしイエス様がそのようなことを言われるなら、イエス様は御父の権威と栄光を冒涜されているということになってしまいます。
しかし、イエス様はその正反対の事をおっしゃっています。イエス様は、御父に仕え、御父の命令に従う立場なのです。イエス様は、御父がなされ、命令されることしかできず、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」。「個人主義」を尊重する21世紀では、言われたことしかできなかったり自由に考えられないような「従順」な人は、「犬のようだ」と見下されます。しかし、イエス様は、「私は、そのような者です」とおっしゃるのです。御父と御子は、「力と栄光において等しい」(小教理問6)のですが、御子は、すべてにおいて、自ら、御父に従われ、それを喜びとしたのです。現代の私たちにとって理解しづらいことかもしれませんが、イエス様は続けて、私たちに理解しづらいことを教えられます。
「すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」(5:19b-20)
イエス様は、一方で御父の「従順な子」でありながら、もう一方では、永遠の御父と共におられ、御父がなされたこと全てを、共になされたのです。永遠の前に、御父がご計画を立てられたときも、御子は共におられました。御父が天と地を創造されたときも、御子はともに創造され、創造の第7日目に御父が永遠の「安息」をとられたとき、イエス様ご自身も「同様に」安息をとられたのです。旧約のすべての御父の御業ーノアの時代に大洪水を送られた時、モーセの時代に海を割りシナイ山に十戒を与えられた時、約束の地で神の民の敵を滅ぼされた時ーイエス様も「同様に」行われたのです。そして、御父は「これよりも大きな業を子にお示しになった」ので、将来の驚くべき救いの業も、イエス様は「同様に」行われるのです。しかし、その理由を忘れていけません。御父は、御子であるイエス様を特別に愛されたので、み使いたちにお見せにならず、人間たちにお知らせにならなかった、ご自分の計画を御子であるイエス様だけにお示しになったのです(ヨハネ1:18参照)。過去や将来の御父の御業は、愛するひとり子イエス様の御業でもあるのです。つまり、「神の子」という肩書を通して、イエス様はこう私たちにおっしゃっているのです。「私は神である御父ではなく、御父に従う神の子です。御父は私を特別に愛され、御父がすべて行われることは、私もともに行うのです。」
次にイエス様が私たちに言われた肩書は、「安息の主」です。この箇所には書かれていませんが、似たような場面でこの肩書が使われています(マタイ12:8、ルカ6:5)。イエス様はこの箇所でこうおっしゃいます。「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ5:21)つまり、「安息の主」として、「御父が最後に復活を与えられるように、御子である私も自由に永遠のいのちを与えることができる」と宣言しておられるのです。
旧約聖書では、神様が世の終わりに、「究極の救い」を与えると約束されていました。最も明確に預言されている箇所はエゼキエル37章です。神の民が干からびた骨として例えられ、神様の息吹によって、骨が生きた人間に生き返るという預言です。その預言の後には、このような説明があります。
「わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。」(エゼキエル 37:13-14)
つまり、復活は、ただ「蘇る」ということではありません。蘇った民は「神の国」で永遠に過ごすということです。最後の復活の日は、すべてが造り変えられ、新しい天と地での「永遠のいのち」が始まる日なのです。
イザヤ65:17-20には、その永遠のいのちがこのように描かれています。
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。」
つまり、復活は、単に「永遠に生きる」ということではありません。戦争しかないこの弱肉強食の世界で永遠に生きることは相当辛いことです。旧約聖書が描く「永遠のいのち」とは、「永遠の平和」の中で、「永遠の安息」を味わう事ができる「神の国」で永遠に過ごすということなのです。
旧約聖書には、御父である神様がその復活を成し遂げ、永遠のいのちを与えられると約束されていますが、イエス様は、「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」とおっしゃっています。イエス様が「永遠の安息」の兆しである安息日に、あえて病人を癒し、その人に「いのち」を与えられた理由は、「御父と同様に、私も安息の主であり、復活の主である!」と宣言するためなのです。つまり、癒しの奇跡が永遠の安息の兆しなのです。
ですから、その後で、イエス様はこうおっしゃいます。「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:23-24)もし神様から永遠のいのちをいただきたいのなら、イエス様を御父と同じように敬う必要があります。最愛のひとり子を敬わない者、イエス様を迫害する者、イエス様を訴える者は、御父である神様を冒涜している事になる、とイエス様ははっきりとおっしゃいます。しかし、神の子であるイエス様の「しるし」だけではなく、「ことば」を聞いて信じる者は、「永遠のいのち」を持ち、「死からいのち」に移ることができます。要するに、イエス様なしでは、神様の復活と永遠のいのちをいただくことはできないのです。これはエルサレムのユダヤ人にとって、日本人にとって、世界のすべての人にとって、非常に驚くべきことです。
そして、イエス様は、三つ目の「肩書」を紹介されます。それは「人の子」です。イエス様はこうおっしゃいます。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。」(ヨハネ5:25-27)
旧約の預言書や、新約聖書に描かれる「復活の日」は、よく「最後のさばき」とセットで描かれることが多いです(例:イザヤ24-25、1コリント15:20-28)。もし「復活の日」が「裁きの日」であるなら、「復活の主」は「裁きの主」でもあるのです。そして、御父は究極の裁き主です。ダニエル書には、このように裁き主である御父が描かれています。
「やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から出ていた。幾千もの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた。さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた。」(ダニエル 7:9-10)
最後の裁きの日には、御父は私たち一人一人を蘇らせ、私たちをご自分の前に立たせ、私たちのすべての行いが書かれている書物を読み、私たちを裁かれると預言されています(黙示録20:12)。そして、イエス様は、「御父が『裁きを行う権威』を全て、子であるイエス様に委ねられた」とおっしゃいます。それを聞いたユダヤ人は驚き、「また、この小僧が神を冒涜した!人間が裁き主になるなんて!」と思ったでしょう。
しかし、イエス様が「子は人の子である」とおっしゃった理由は、先ほどのダニエル書7章の後に、このような預言があるからです。
「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(ダニエル 7:13-14)
つまり、すべての人を裁く『年を経た方』が、「人の子のような方」に、すべてを治め、すべてを裁く主権をお与えになったのです。「人の子のような方」とは、どのような意味でしょうか?それは、文字通りの意味です。人の子は、人間の子であるという意味です。ですから、イエス様は「もし裁き主である御父が、『人間の子』にすべての人を裁く権威をお与えになると預言されているのに、御父が人間である私に裁きの座をお与えになったことをなぜ驚いているのか?」と群衆に訴えておられるのです。そして、イエス様はこのように結論づけられます。
「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(ヨハネ5:28-29)
最後の日に、イエス様の一言ですべての人が蘇ります。復活は、裁きからの脱出ではなく、裁きへの入口です。そして、イエス様が私たちの人生を測られるのです。なぜなら、イエス様は、裁きの座に着かれる「人の子」だからです。
イエス様は、あなたにとってどういうお方ですか?一人一人に様々な答えがあるでしょう。しかし、イエス様は、ご自分のことを御父と等しい「神の子」、永遠のいのちと復活を与える「安息の主」、すべてのものを裁かれる「人の子」であるとおっしゃいます。イエス様は、他のどんな存在よりもはるかに超えた存在であり、イエス様を敬わない者は、神様を敬っていないということになります。イエス様はまっすぐに、ご自分の本性を私たちに教えられます。
しかし、残念ながら、私たちは、12人の弟子たちのように、イエス様の言葉を誤解したり、都合よく捉えたりします。そして、ユダヤ人たちのように、イエス様を拒むこともあります。ですから、イエス様の最後の言葉は私たちの救いとなります。
「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5:30)
「遣わされた方のみこころ」とは、何でしょうか?私たちを永遠の死へ送ることでしょうか?ヨハネ6:38-40にはっきり書いてあります。
「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
もし、私たちが最後の裁きを前にするとき、不安になっても ご安心ください。御父がイエス様を私たちに送られた理由は、私たちのような罪人を救うためだからです。例え、私たちが弟子たちのようにイエス様が「神の子」であることを都合よく捉えたとしても。ペテロのように3回も「私はイエスのこと知らない」と言ったとしても。また、群衆のように「あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」と疑ったとしても。イエス様を見て「安息の主」として信じる者を、一人も失うことなく、全ての人が永遠のいのちを持つことができるように、イエス様は十字架刑を受けてくださり、屠られた子羊として裁きの座に着かれてて御父のみこころを果たされました。イエス様が、自らは何も行うことができない「従順な子」であっったからこそ、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。ですから、私たちは、イエス様に立ち返って、神の子、安息の主、人の子としてイエス様を褒めたたえましょう。お祈りします。