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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇100篇1-5節 |
さ ん び | Opening Praise | 詩編100編 |
さ ん び | Praise | 聞け我らの賛美 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌303番「かいぬし我が主よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | エゼキエル書34章11-16節、ヨハネの福音書10章14-16節、21章15-17節 |
聖書の話 | Sermon | 「神の羊を探し養う大牧者」
マーク・ボカネグラ 牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌454番「私のいのち」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに報告しますが、海浜幕張めぐみ教会として、大きな買い物をします。5カ月前に、いろんな人たちが私たちの教会の会堂の土地のために1.5億円を献金してくださったことを覚えていますか?本当に感謝ですよね。でも、1.5億円ってどれくらいか覚えていますか?それはね、逃走中の100万円の賞金を150回連続で勝ち取ることです。本当に大きな額です。そして、大人たちはね、そのお金をどのように使ったらいいか非常に不安なのです。少なくとも、私は不安です。間違って悪い土地を選んでしまったら、1.5億円を台無しにすることになるじゃないですか?ちょうど今日は、海浜幕張めぐみ教会のお誕生日ですね。今年で24歳になりました。24歳というと、ちょうど社会人としてスタートする頃で、大きな?判断?決断?をしないといけないときですね。ここで間違えてしまったら全部がだめになるかもしれない、という非常に不安なときです。
そんなときに、子供たちに聞きたいことがあります。今日、みんなはなぜ教会に来られましたか?ある子は、「自分で決めて、頑張ってここまで歩いてきた」と言うかもしれません。しかし、よく考えてみると、お父さんやお母さん、お家の人が一生懸命働いて、お家やご飯を用意してくれたり、子供達が病気にならないように、色々と世話してくれるからここまで来られたんだよね?でも、そういう事は忘れやすいですね。そして、お家の人がいつものように世話してくれるから、みんなは来週も来られると思っているよね?
海浜幕張めぐみ教会も同じです。この教会が今日まで、続けてこられたのは、多くの人々が「この教会で礼拝したい」と思ってくれたからだけではなく、大牧者であられるイエス様が私たち一人一人を牧して下さっているので、ここまで来られたのです。イエス様は、毎日、まだイエス様に会ったことがない羊を捜し、逃げ出した羊を連れ戻し、傷ついた羊を癒し、病気の羊に薬を与え、面倒くさがり屋の羊やケンカっぱやい羊を注意し、一匹一匹、丁寧に、神の羊を世話してくださっているのです。ですから、この教会が存在しているのです。この群れの牧者たち(小会)は、2025年の信徒総会で海浜幕張めぐみ教会の4つの特徴を皆さんに分かち合いましたが、今年の設立記念礼拝では、「神の羊を探し、養う教会」としての海浜幕張めぐみ教会について考えながら、私たちの将来を展望したいと思います。
海浜幕張めぐみ教会が存在する理由、その①。イエス様が散らされた神の羊を熱心に捜し出すと決心されたからです。
エゼキエル34章は、神の民の様子が描かれている箇所です。神の民は主の群れとして例えられていて、神様が「牧者たち」に主の群れを託されたのです。この「牧者たち」は、神の民のリーダーたちーつまり、王様たちーを表しています。牧者たちは神様のために羊を牧するべきだったのですが、逆に、牧者たちは自分たちのために羊を食べていたのです。
神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。 弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。 わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。(エゼキエル34:2-6)
つまり、神の民のリーダーたちが神様からいただいた使命を果たすことなく、自分の利益をもとめ、怠惰になってしまったのです。そのため、神の民は散らされ、さまよってしまったのです。
その様子を御覧になった神様は、このようにおっしゃいました。
まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す。」 (エゼキエル34:11-12)
要するに、人間がしないことを、ご自分の手でなされ、責任をとられるということです。そして、その神様がイエス様なのです。ヨハネ10:11-15で、イエス様はこう宣言されます。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11-15 SKY2017)
つまり、最後の最後まで、命を懸けて、一匹も残さず神の子羊を捜し出されたのは、良き大牧者であるイエス様なのです。イエス様がすべての羊たちを熱心に捜し出すことを決心してくださったので、私たちに永遠のいのちが与えられるのです。
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(ヨハネ10:27-29)
ですから、海浜幕張めぐみ教会がここに存在している理由は、初代からおられた廣橋先生やクレイグ宣教師、長年奉仕してくださった長老たち、執事たち、セルリーダーたち、奉仕者たち、あるいは、最近来た私、宣教師たち、教会員の労があったからではありません。大牧者であられるイエス様が羊たちのためにいのちを捨てられたからこそ、この群れが存在するのです。大牧者イエス様の声を聞いて、私たちは一人一人ここに集っているのです。大牧者イエス様の力強い杖があるので、狼は私たちを御父の手から奪い去ることができないのです。2025年に海浜幕張めぐみ教会が存在する理由は、イエス様が散らされた神の羊を熱心に捜し出すことを決心して下さったからなのです。
2025年にも、海浜幕張めぐみ教会が存在する理由、その②。キリストが教会の牧者たちに、すべての神の羊を牧会することを命じられたからです。
長年教会に通っているクリスチャンたちの中でも、牧会者は誰を牧会するべきか、牧会とは何なのか、等についていろんなイメージがあります。ある人は、牧会者はできるだけ多くの人に伝道するべきだ、と言うかもしれません。ある人は、牧会者はできるだけ次世代のリーダーを訓練するべきだ、と言うかもしれません。ある人は、牧会者は一番弱い羊を助けるべきだ、と言うかもしれません。しかし、大牧者であられるイエス様は、どう仰っているでしょうか。
エゼキエル34:15-17 – 15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──神である主のことば──。 16 わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。 17 わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう言う。見よ、わたしは羊と羊、雄羊と雄やぎの間をさばく。
カルヴァンのメンターでもあった、宗教改革の初期の神学者マルチン・ブツァーはこの短い箇所から、教会の牧会者の責任がすべてここに書いてあると主張しました。「失われた羊を捜す」とは、まだキリストの群れに入ったことのない羊を囲いに入れることです。「追いやられたものを連れ戻す」とは、教会に通ってはいましたが、何らかの理由で礼拝に来られなくなった人を教会に連れ戻すことです。「傷ついたものを介抱」するとは、何らかの根深い罪によって、霊的に健全な歩みをすることができない羊を「介抱」し、健全な歩みができるように信仰と悔い改めに導くことです。「病気のものを力づける」とは、未熟さや、弱さを覚えているクリスチャンを弟子訓練することです。そして、「肥えたものと強いものは根絶やしにする」とは、クリスチャンとしての歩みが怠惰になってしまった羊や、他の羊をあらゆる形で傷つけるような羊を悔い改めるまで群れの囲いから出すことです。これらの一つ一つの働きは、牧会です。そして、これはイエス様ご自身がおっしゃる「牧会」の定義なのです。
その定義を前提として、パウロは新約の時代の牧者たちにこう言いました。「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。 」つまり、イエス様からいただいた命令は、「私が血をもって買い取ったすべての神の羊を牧しなさい」ということです。イエス様を拒んではいないけど、10年間も礼拝を欠席している人。人には言えないような根深い問題と戦いながらカウンセリングを受けている人。教会学校で、聖書のお話をつまらなさそうに聞いている子ども。礼拝には来ていても、怠惰な生活を続けている人。教会の中で、様々な問題を引き起こして戒規の下にある人。この世の価値観に縛られながらも洗礼を希望している人。イエス様は一人一人のために、尊い血を流されたのです。ですから、私たちも、イエス様を愛する牧者として、人々や物事の優劣や優先順位を付けずすべての神の羊を牧さないといけません。それが、大牧者の熱い願いです。
そして、私たちが今この教会に集っている理由は、大牧者の手となり、足となって支えておられる牧会者と、キリストの体である教会が、私たちをそのように牧してくれたからです。少なくとも、私はそうでした。私が未信者としてさまよっていたときに、まっすぐに福音を語ってくれた先輩。教会から離れたかったときに、ケラー先生の講義に招待してくれた兄弟。根深い罪と戦っていた時に励ましてくれた兄弟姉妹。未熟な時に、何時間も弟子訓練をしてくださった執事。私が調子にのってしまったとき注意してくださる牧師や長老。そのような兄弟姉妹がいたから、今、私はここにいるのです。なぜ、教会はそのようなことをするのでしょう?九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜しつづけられるイエス様が『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』とおっしゃったように、教会はイエス様とともに大きな喜びでお祝いしたいからです。私も海浜幕張めぐみ教会とともに牧会する中で、いつもその喜びを感じます。
2025年に海浜幕張めぐみ教会が存在する理由、その③。イエス様こそが、私たちの謙虚で、愛に満ちた、唯一の大牧者だからです。
牧師1年目に言われたことは、いまだに忘れられません。「良き牧者は臭う牧者である」ということです。それはどういうことでしょうか?「良き牧者」については、いろんなイメージがあると思います。「御言葉を深く知っていて、コミュニケーション力が優れている牧者」、「ビジョンとカリスマ性が強くリーダーシップのある牧者」、「優しくフレンドリーな牧者」、「熱心に祈り、熱心に伝道する牧者」などあります。「良い教会」にも同じように様々なイメージがあります。しかし、イエス様がおっしゃる「良き牧者」とは何でしょう。ヨハネ10:14-16を読みます。
14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。
15節は、本当に驚きの一節です。御父がイエス様を親密に知っておられたように、良き牧者は羊たちを親密に知っているということです。つまり、良き牧者とは、羊の臭さが牧者に移るほど、羊と常にいる牧者だということでした。言い方を変えると、一番良い牧者とは、一番「羊臭い」牧者なのです。神様はそのように私たちを牧会してくださるのです。
先ほど説明したように、牧会は、汚くて地味で、面倒で、さえない、みじめな仕事です。しかし、わからないこと、危険なこと、汚いこと、痛いこと、面倒なことを恐れずに、積極的に羊に仕えてくださる牧者がイエス様です。イエス様は、十字架で私たちの汚れた臭い罪を背負ってくださった「羊臭い」大牧者です。なぜそのようにしてくださるのでしょうか?「羊」を愛しておられるからです。ですから、ペテロが教会で大牧者の苦難を具体的に説明された後、ペテロは、教会の牧者たちにこう命じています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。」(1ペテロ5:2)
そして、忘れていけないのは、神の羊がこの教会に来る理由です。ヨハネ10:16を読みます。「その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」羊たちが「教会」という囲いに属する理由は、小会の声、あるいは、人柄、コミュニケーション力、リーダーシップ、知識、ビジョン、コミュニティービルディング力などによるのではありません。羊たちが「教会」という囲いに集う理由は、大牧者であるイエス様の声に聞き従ったからです。ですから、大牧者の元で働く牧者は自分の声で羊たちを導いてはいけません。それは、神の羊を惑わし、神の羊を散らしてしまうことになります。
教会での説教、セルグループ、家庭礼拝、交わりでは、私たちのことばではなく、イエス様の御言葉のみが語られているでしょうか?羊を養うとき、自分の愛の行いではなく、イエス様の御言葉と御業によってのみ養っているでしょうか?羊を導くとき、自分の権威や肩書によって導くのではなく、羊の大牧者であるイエス様の御声をもって導いているでしょうか?羊たちは「〇〇先生は私の牧師です」ではなく、「イエス様は私の大牧者です」と喜んで告白しているでしょうか?実は、「神の群れに牧者は一人しかいない」ということは、教会のリーダーたちにとって、大きな励ましなのです。なぜなら、牧会が自分の思うようにいかないとき、イエス様はこうおっしゃってくださるからです。「一つの神の群れに、牧者は一人だけです。安心しなさい。羊はあなたの言うことを聞きません。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(参照:ヨハネ10:27-28)牧者が一人しかいないことは、私たちにとって大きな励ましなのです。
2025年に海浜幕張めぐみ教会が存在する理由、その④。イエス様は、ご自分が送られた牧者たちが失敗したとしても、愛をもって迎えてくださるからです。
ヨハネの福音書の、イエス様の大宣教命令は「わたしの羊を牧しなさい。」 でした。イエス様は、そのミッションをもって、この世に来られたのです。そして、そのミッションを果たされるために、12人の弟子たちを選ばれました。その中のペテロは、弟子たちのリーダーのような存在でした。ですから、ペテロは情熱においては、誰にも負けていませんでした。ペテロは、マタイ16章で、皆が迷っている中で、「イエスこそキリストである」と大胆に告白した者でした。ペテロは、マタイ14章で、嵐の中、信仰と熱意をもって舟から出て、水上をイエス様のもとへ歩こうとした者でした。ペテロは、マタイ26章で、死に至るまでイエス様への揺るぎない忠誠を熱く誓い、そしてその熱心さゆえに、イエス様を守ろうと剣を抜いた者でした。ペテロは、ヨハネ20章で、空の墓の知らせに、燃えるような切迫感をもってそこへ駆けつけた者でした。ペテロは、ヨハネ21章で、復活されたイエス様を岸辺に見たとき、その興奮と熱心さから、イエス様のもとへ行くのを待ちきれず、衝動的に舟から海に飛び込んだ者でした。ペテロは、イエス様の牧会を最もお手伝いしたかった弟子とも言えます。しかし、そのペテロが、イエス様が逮捕されたときに、違う場面で3人の人から、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言われると、恐れと不安と恥に押しつぶされてしまったペテロは「弟子ではない」」と3回も否定してしまったのです。あの熱心なイエス様の弟子が、ストレートに、あっさりと裏切ってしまったのです。ペテロだけではなく、12人の弟子たちがイエス様を裏切ったのです。
しかし、裏切られたイエス様が十字架にかけられ、復活された際、最初にされたことは、自分を裏切った弟子たちに会いに行かれたことでした。そして、イエス様は、まず、3回も裏切ったペテロに3回、「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたのです。そして、ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えた際に、イエス様は「わたしの羊を牧しなさい。」 という大宣教命令を3回も弟子たちに命じられたのです。
海浜幕張めぐみ教会が今まで存在できているのは、私たちの熱心さ、誠実さ、勤勉さ、信仰深さの故ではありません。その点において、私たちはペテロに負けています。その上、私たちはこの24年の間、いろんな形でペテロのように、非常に重要なときにイエス様を裏切り、罪を犯してしまったこともあります。しかし、この教会が存在している理由は、私たちの大牧者が、その罪の負い目を十字架で背負ってくださったからです。ご自分のきよく、愛に満ちた、完璧な義と熱心さをもって復活の力を手にされ、それを、私たちに与えながら「わたしの羊を牧しなさい」と言い続けてくださったからです。3回だけではありません。私たちが罪を犯すたびに、イエス様は何回も大宣教命令を命じられるのです。
私たちが、牧師、長老、執事として仕えている理由。皆さんが奉仕している理由。それは、私たちもペテロのようにキリストの赦しの愛を体験し、キリストが愛しておられる教会を愛しているからです。イエス様が愛された羊を、キリストの羊一匹、一匹を大事にしたいからです。ペテロのように、それが見えないとき、あるいは、教会が羊を愛せていないときがあるかもしれませんが、大牧者の弟子である教会のお一人一人は、同じように羊として大牧者を愛そうとしています。
しかし、私は教会の一人の牧者として、そして、一人のクリスチャンとして、告白します。私は大牧者のように務めようとしますが、最終的に、私はペテロのような「雇い人」と同じ罪を犯してしまいます。自分の罪と自己中心な心によって、神の羊を置き去りにしてしまうときもあります。しかし、どうか忘れないでください。そういうときでも、「あなたの牧者は心をこめて教会を愛し、あなたを心にかけているのです。」あなたの大牧者は私ではありませんし、小会でもありませんし、私たちのあとに来る牧者たちでもありません。イエス様です。海浜幕張めぐみ教会として、羊を置き去りにしたり、罪を犯したり、ミスを犯してしまう時があったとしても、イエス様ご自身が、罪深い羊たちー教会員、執事、信徒長老、教師長老ーである私たちを追いかけてくださいます。
イエス様はこう約束されます。「わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものを戒め、神の羊たちを養う。十字架にかかるほどにあなたたちを追いかける。そして、あなたたちに永遠のいのちと憩いの泉へ導く。安心していなさい。この教会を愛しているから。神の羊を一匹一匹心にかけているから。」イエス様を仰ぎ見て、感謝しつつ、大牧者の教会として前進していきましょう。お祈りします。