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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番
「御前にひれ伏し」1-2、4-5
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 聖歌229番「驚くばかりの」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記20章4-6節、申命記4章15-24節
聖書の話 「霊であられ、ねたみの神を愛するとは」
マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌353番
「あなたこそ我がのぞみ」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。第一戒と第二戒を言える人はいますか?そうですね。第一戒は「他の神々を拝んではならない」、そして、第二戒は「偶像を造ってはならない」ということですね。もうすこし難しい質問をしますね。第一戒と第二戒の違いは何でしたか?第一戒は、聖書の神様以外の神様を愛することでしたね。第二戒は、聖書の神様を自分の好きな形にして、愛することでしたね。神様には形はありませんが、例として、神様を四角の形にしましょうか。そして、私が神様に向かって、「神様って丸くっていいよねー?」と言ったら、神様はどういう気持ちになると思いますか?ちょっと困りますよね。「マークは、何で私が丸いと思うの?」と神様がおっしゃって、「ほら、四角の角をチョキっと切れば、四角の中に丸ができるじゃん。」と私が言ったら、どう思いますか?神様に失礼ですよね。それは、私が神様を愛しているのではなく、ただただ自分の思いを神様に押し付けていることになりますよね。
第二戒は、私たちが神様の全てを愛さず、自分が気に入らないところを省いたり、自分が願っていることを神様に押し付けたりすることです。自分の思うように神様を造り変えようとすることです。人間である私たちは、いつもそのように神様に敵対してしまいます。唯一の神様のありのままを愛し、従ったのはイエス様だけです。そして、イエス様は何も省かず、何も付け足さず、神様を愛し、従って下さったので、私たちに永遠のいのちが与えられたのです。イエス様に本当に感謝だよね。今日は、そのことについて、学んでいきたいと思います。
十戒のメッセージで、十戒の三つの読み方を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図。十戒は、主の御国の試金石。十戒は、救い主への矢印。その3点に沿って、第一戒を見たいと思います。まず、もし第一戒が「御心の地図」であるなら、第一戒は私たちに何を教えているのでしょうか?霊であられる神様をありのまま愛することは、神様との関係を喜ぶ唯一の手段です。
第二戒を深く理解するために、まず、簡単に四つの要素を確認したいです。まず、一つ目の要素は、第二戒は、第一戒と本質的に違う戒だということです。前回の十戒の説教では、第一戒を「神様との夫婦関係」に例えました。第一戒の「他の神々を拝んではならない」という意味は、結婚している神様以外の他の神々ー異教の神、人、モノ、自分ーを愛してはならないということです。神様はそれを「霊的姦淫」とみなされるということを学びました。
しかし、第二戒は、違うことを指す戒めです。「金の子牛」事件が一番わかりやすく第一戒と第二戒の違いを表しています。出エジプト32:1-5を読みます。
「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」
神の民は、多額の金を犠牲的に捧げながら、熱心に、心を込めて、聖書の神様への賛美を捧げたかったのです。問題は、礼拝や愛の対象(第一戒)ではなく、礼拝の仕方や愛し方(第二戒)でした。神の民が、神様が喜ばれない方法で神様を愛してしまったということが問題でした。それが第二戒の本質です。
しかし、「なぜ、神様はそんなことにこだわるの?」と思うかもしれません。ここで第二戒の二つ目の要素を紹介します。第二戒の、偶像を造らないで神様を礼拝することは、ありのままの神様を愛するということなのです。先ほど読んだ申命記4:15には、「主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。 堕落して自分たちのために、どのような形の彫像も造らないようにしなさい。」(申命記4:15-16)と書かれてあり、子どもの初歩教理問答問9にはこう書かれています。「問9:神様はどんなお方ですか。答:神様は霊で、わたくしのように、からだをもってはおられません。」神様のご性質を一言でまとめると、身体のない「霊」なのです。身体がないということは、「限界」「限度」がないーつまり、無限、永遠、完璧なお方だということです。霊である無限の神様を「形」にすることは、神様のご性質を否定するようなことです。
第二戒の三つ目の要素はこれです。第二戒は、霊であられる神様をそのまま愛することによって、神様のご性質を存分に楽しむことができると教えています。神様をどのように愛し、どのように礼拝すべきかは、聖書に細かく書いてありますが、これは私たちに嫌がらせをするためではありません。申命記32:46‐47に、神様が教えて下さった神様の愛し方は、私たちに「いのち」を与える唯一の手段だと書いてあるのです。
どのように「いのち」を与えるのでしょうか?神様は「霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のお方です。」神様を形にすることは、無限の神様を一部だけ愛することになります。例えば、神様の愛だけを愛し、神様の聖さをないがしろにしたり、神様の力強さを愛し、神様の憐れみ深さを軽んじてしまうようなことになってしまいます。神様を一つの「形」にしないで、神様を「霊」として愛することによって、「無限、永遠、不変のお方」として愛することができ、神様を「永遠に喜ぶ」ことができるのです。
しかし、それでは、なぜ、私たちは神様を形もなく限界もないお方として愛せないのでしょうか?それが第二戒の四つ目の要素です。私たちが第二戒を破るとき、自分の都合とこだわりに合わせて、神を愛することになります。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」と、第二戒がはっきりと私たちの動機を指摘してくれました。しかし、なぜ私たちは偶像を造ってしまうのでしょうか?出エジプト20:21-26に、神様の祭壇についての規定があります。「あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。 …25 もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。 26 あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。…」つまり、神様は、ご自身にフォーカスを当てるために、できるだけ地味で芸術性のない、そこらへんの石で造られた祭壇をもとめられました。しかし、神の民はそれに満足できたのでしょうか?「うーん、わくわくしないから、キラキラした金と銀にしてくれない?」「あそこの宗教みたいに、すっごく高い山に神殿を作るのはどう?」「より多くの人たちが拝むことできるように、みんなに理解できる力強いシンボルにするのはどう?牛とか?」私たちが偶像を作る理由は、霊であられる神様に満足できないからなのです。
もう少し考えてみてください。私たちは、神様も、イエス様も全く見たことがありません。神様とイエス様のことばだけしかいただいていませんが、三位一体の神様はそれで十分だとおっしゃいました。しかし、私たちは神様やイエス様を、絵や像にします。面白いことに、誰もイエス様にお会いしたこともないのに、イエス様の絵が同じように見えますよね。自分たちの想像のイエス様は、ロン毛で、優しそうな、神秘的なイケメンで、なぜかいつも微笑んでいて、群衆のファッションとは違った白っぽい服を着ていますよね。なぜかそのようなイメージがあります。なぜこのようになるのでしょうか?イエス様の絵というのは、神様のご性質を描いていなく、私たちのイエス様に対する願いを形にしただけなのです。
もちろん、第二戒は偶像と絵に限った事ではありません。神様のことばを部分的に受け入れたり、神様のことばに付け加えたりすること。神様の教えと戒めを部分的に従うとか、自分の都合と期待に合わせて解釈すること。もしくは、聖書に基づいてない神様の「雰囲気」や「イメージ」。形はどうあれ、聖書の神様をありのままに愛さないことは、神様を自分の都合に合わせて造りかえることなのです。夫婦関係に例えると、花嫁である教会が、花婿であるイエス様の顔を切り取って、自分の好きな俳優さんの写真をイエス様の顔に貼り付けるようなことです。コロサイ2:23はこれを「人間の好き勝手な礼拝」と言います。
ここで、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし第二戒が「主の試金石」であるならば、第二戒は私たちに何を教えているのでしょうか?ねたみの神様に教えられた礼拝の仕方を無視することは、神様を愛することではなく、自分だけを愛することなのです。
第二戒について聞かれると、多くの方が「うーん、それは厳しすぎるのでは?」「神様はそんなに厳しいお方なのか?」と、戸惑いや疑問を感じるかもしれません。まず、旧約聖書の神様は、新約聖書の神様と同じお方であることを覚えなければなりません。その神様が第二戒で「偶像を拝んではならない。それらに仕えてはならない。」と命じられ、あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神であるから」と言われたのには、明確な理由があるからです。
「ねたみ」という言葉は、通常「汚れた欲望」や、「人間関係における罪」と関連づけられがちです。しかし、罪のない純粋な神様の「ねたみ」は、そのようなものとは根本的に異なります。「ねたみ」は「熱情」と言い換えることもできます。人間の純粋な感情と似ている点もあります。例えば、夫婦関係に例えてみましょう。自分の結婚相手を愛すれば愛するほど、相手にも同じ愛を求めるのは自然なことです。それは罪ではなく、愛の純粋な現れです。そして、もし最愛の結婚相手が、他の誰かに心を移したり、あるいは、愛のない、自分勝手な振る舞いをしたりしたらどうでしょう。結婚相手を深く愛していれば、怒りを感じますよね?
聖書の神様も似ています。よく聞く言葉ですが、愛の反対は、憎しみではなく無関心だと言われます。聖書の教えでは、仏教などのストイックな考え方と違って、「感情(情)」そのものは罪ではありませんし、聖書の神ご自身は、人間よりもはるかに、何億倍も感情豊かな存在です。神様がこれほどまでに純粋な愛で私たちを深く愛してくださっているからこそ、その愛に満ちた「ねたみの神」であられる神様は、私たちがその愛を裏切り、他のもの(偶像)に心を向けるときに、激しく怒られるのです。第二戒に見られる神様の「ねたみ」の厳しさを受け入れがたいと感じるのは、多くの場合、その裏にある神様の純粋な愛、つまり「ねたむほど深く愛する神」をありのまま受け入れられないからです。第二戒は、聖書に書いてあるありのままの神様を、私たちが愛せるかどうかを試しているのです。
旧約聖書を辿ると、人間の根本的な問題が見えてきます。神様が、ご自身のあり方とまっすぐな願いを明確に示されたにも関わらず、人間はそれを自分に都合よく解釈してしまうのです。第二戒は、神様を愛しているかのように見せかけている私たちが、実は、自分自身を最も愛していることを露わにします。
エデンの園で、神様はアダムとエバに世界のすべての恵みと統治する権威をお与えになり、ご自身のあり方を示されました。しかし、神様には一つの願いがありました。それは「この善悪の知識の木の実を食べてはならない。このように私を愛してほしい。もし食べてしまったら、あなたは死ぬ」というものです。これに対し、サタンである蛇はエバを誘惑しました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 サタンは、「神はそこまで厳しくないだろう、本当に死なせはしない。むしろ、あなたにもっと優しくあるべきだ」と誘惑したのです。アダムとエバは、この誘惑に乗ってありのままの神様を拒み、自分の都合に合わせて神様を造り変えようとしました。
出エジプトも同様です。神の民は430年の奴隷生活から救いを求めました(出エジプト2:23)。神様はすぐに答え、モーセを救い主として送られ、計画を明確に告げられました。「迫害があって、そのあとに救いが来る」と(参考:出エジプト3:19、14:1-4)。しかし、実際に迫害を受けると、民は神様に訴えます。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(出エジプト14:11-12)彼らは神様の愛による救いを求めましたが、その形が自分たちの期待と違うと、上から目線で神様の救いを拒絶したのです。
荒野でも同じことが起きました。神様は民を「乳と蜜が流れる」約束の地へ導くと約束されましたが、試練のない道を約束された訳ではありませんでした。エジプトを出て荒野をさまよう中で、水やパンが尽きると(出エジプト15-16章)、民はすぐに神様に訴えました。「これが私の思い描いていた救いか。エジプトに帰りたい。」と。しかし神様は忍耐深く、天からマナを降らせ、奇跡的に水を与えられました。それでも、再び水がなくなると、民はモーセを激しく非難し、神様の救いを代表するモーセを石打ちにしようとしたほど憤慨したのです。彼らは、神様が差し出されたありのままの救いに対し、「なぜ自分のイメージ通りではないのか!」と不満を叫び、傲慢なクレーマーのようでした。
そして、民が実際に約束の地にたどり着くと、神様は約束通り彼らを祝福されました。その時の神様の願いは何だったでしょうか?それは、「あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。 気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。」(申命記8:10-11)というものでした。そして、厳重に警告されました。「もしもあなたが、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従って行き、それらに仕え、それらを拝むようなことがあれば、今日、私はあなたがたにこう警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前から滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたが自分たちの神、主の御声に聞き従わないからである。」(申命記8:19-20)これが、彼らの王なる神のありのままの願いでした。
しかし、神の民はその願いを果たしたでしょうか?約束の地で、彼らは自分の思うままに振る舞い、神様の偶像を作ったり、異国の神々を拝んだりしました(士師記)。神様は彼らの罪を忍耐されましたが、民はさらに「あなたのような見えない神は嫌だ。士師のような指導者も嫌だ。他の国のような、見える、力強い王様が欲しい。」と自分たちの欲望を神様に押し付けました。神様は忍耐して人間の王を与えられましたが、神様が願われたのは「ご自身の心にかなう」、御言葉に従順な王でした。しかし歴史を見ると、民が選んだのは、カリスマ性や軍事力、政治力に長け、自分たちの欲望を満たすような王ばかりでした。
神様は民に忠告しようとされるとき、預言者たちを送られました。「お前たちは神様の掟を忘れている。聖書の神様を愛しているふりをしながら、勝手に生きている。このままでは神様はお前たちを滅ぼすぞ。」と預言者は警告します。しかし、民はどうしたかご存知ですか?そのような真実を語る預言者を牢屋に放り込んだり、殺したりしたのです。そして代わりに、「神様は私たちを愛している。神様が私たちを裁くはずがない。裁きなど来ない。平安だ、平安だ。」と言う、偽預言者の言葉に耳を傾けました(参照:エレミヤ6:14, 23:16-17, 28:1-17)。
多くの方が、第二戒について聞かれたとき、自分が思っている以上に、神様ではなく自分自身を愛しているのだと気づかされるかもしれません。もしそう感じるなら、それは十戒があなたにとって「救い主への矢印」に変わり始めている証拠です。では、その「救い主への矢印」としての第二戒は、私たちに何を教えているのでしょうか?それは、私たちがどれほど神様を自分の都合の良いように造り変えようとしても、イエス様はただ御父と御言葉を愛し、私たちの救いを全うしてくださったということです。
私たちが滅びることのないように、イエス様は私たちの代わりに第二戒を完全に守ってくださいました。御父から与えられたイエス様の使命は、御国の福音を伝え、神様の律法を全うし、罪人の赦しのために十字架で死に、そして蘇ることでした。この御父が差し出された救いこそが、私たちのような自己中心的な罪人を救う唯一の方法なのです。
しかし、イエス様が地上での働きを始められると、人々はイエス様の姿を見て戸惑い、失望しました。彼らは神様が差し出された救いを、またしても自分たちの欲望に合わせて造り変えようとしたのです。アンデレは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と疑い、バプテストのヨハネでさえ「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と問いました。御国の福音を聞いた大勢の人々は、福音そのものよりも「私たちを癒してください!」と叫び、違う救いを求めました。律法学者たちは、罪人を受け入れるイエス様を見て「御国にあの者たちを入れてはならない!それは冒涜だ!」と非難しました。そして、イエス様が、自分が多くの苦しみを受け、指導者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえる、と弟子たちに教え始められると、ペテロはイエス様を脇へ連れて行き、諫め始めました。しかし、イエス様は向き直り、その場にいた弟子たちをご覧になりながら、ペテロに厳しく言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」 これは、サタンがエデンの園でしたように、弟子たちを通してイエス様を神様の計画から逸らせようとした誘惑でした。この厳しい忠告の後でさえ、最後の晩餐の時、イエス様がご自身の死について語られたのに、弟子たちはなおも誰が一番偉いか、誰が権威を得るかで論争していました(マルコ10:35-45; ルカ22:24-30)。十字架につけた人々も「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエス様を嘲りました。イエス様の働きの始めから終わりまで、私たちは一貫して神様が差し出された救いを、自分の都合に合わせて造り変えようとしたのです。
しかし、イエス様は私たちの要望に一切耳を傾ける事なく、神様の律法と救いのご計画を完全に成し遂げられました。「どうかこの杯を取り除いてください」と祈られた時も、「御心であれば」と御父の御心に従われました。サタンが「少しぐらい神の言葉を曲げてもいいじゃないか。」とささやいた誘惑に対しても、イエス様はただ御言葉を引用し、「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝し、主にのみ仕えなさい』と書いてある」と退けられました。要するに、イエス様が第二戒を完全に全うしてくださったからこそ、それをおかす私たちに永遠のいのちと罪の赦しが与えられたのです。ですから、第二戒はイエス様の完璧な救いへと私たちを指し示す矢印なのです。この十戒を見るたびに、イエス様の十字架と復活を覚え、心からイエス様を褒めたたえましょう。