2025年6月8日礼拝 説教 「神の恵みが救う」

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

 

礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship エペソ人への手紙2章1-5節
さ ん び Opening Praise 今こそキリストの愛に応えて
さ ん び Praise ああ恵み(聖歌593番)
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌32番「聖なる神」
聖書朗読 Scripture Reading ガラテヤ人への手紙1章10-24節
聖書の話 Sermon 「神の恵みが救う」

呉載炫 教師候補

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌319番                 「主イエスのみ声は罪ある者を」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

皆さんは、説得されやすい方ですか?例えば、買い物をしにお店に行ったら、店員さんに声をかけられて、店員さんに勧められて、当初の予算よりちょっとお高いものを買って帰ってきた、みたいな経験はありますか。

私はとても説得されやすい人間です。店員さんの声をよく聞いて、勧められたものを、断ることなく、速やかに購入することがしばしばあります。

商売上手な店員さんは、どんな接客をしますか?いきなり、商品の専門知識に関する話をする人はあまりいませんね。「今日何をお探しですか?」から入って、客のニーズや困っていることを把握します。時には店員さん自身の経験や他のお客さんからの評判を混ぜながら、商品を勧められると、「あ、この店員さんが勧める商品、見てみたいな」と思うことがあります。

さて、前回は、ガラテヤにある教会たちに対するパウロの指摘について確認しました。教会に「ほかの福音」を教えている教師たちが現れ、人々はそれについて行っている。しかし、ほかの福音は、福音ではないという、問題提起をしました。

今日お読みしましたガラテヤ人への手紙1:10からは、パウロの証しと言われます。パウロは当時のユダヤ社会ではエリートと言ってもいいような人です。彼は裕福な家庭環境から、ユダヤの宗教と学問において、高等教育を受けていたと思われます。

パウロは、ガラテヤの教会の人々を説得し、彼らが本物の福音に立ち返るように促しています。いまパウロが敵対しているのは、ほかの福音を教える教師たちです。彼らについていった人々を、主のもとに取り返そうとしているのです。

そのために、パウロは、修辞学の難しい弁論の仕方や、宗教エリートだけが理解できる深い神学的な論議の方法を取っていません。「福音とは何か、どうぞ、私の話を聞いてください」、「私の中に働いた神様の話を聞いてください」と、証しをもって語りかけています。

本日は、このパウロの証しから、3つのことを共に考えたいと思います。1つ目は、「福音の出どころ」です。パウロが教えられた福音は、いったいどこから来たのかを確認します。2つ目は、「救いの恵み」です。神様の恵みとは何かを再確認します。3つ目は、「神が導く方へ」です。神様の福音は人を変えます。パウロはどう変えられたのか見てみます。

 

まず、一つ目のポイントは「福音の出どころ」です。パウロは証しをするに当たり、ガラテヤの教会の人々の注目を、パウロ自身ではなく、神様に向けようとしています。先ほどお読みしたガラテヤ人への手紙1:10では、パウロは、人に取り入って喜んでもらおうとしているわけではないと言います。

ほかの福音=「キリストの完全な服従(みことばに全く従い、十字架にまで従った服従)では足りない。他にも割礼やユダヤの宗教の伝承を守らないといけない」といった教えを語る教師たちは、人気者だったようです。教会の人々は、ほかの福音を教える教師たちの語る言葉を喜んで受け入れたのでしょう。だから、教会の多くの人がほかの福音について行きました(ガラテヤ1:6)。

ガラテヤ教会の罪は、変です。酷いものです。その根はひん曲がっています。キリストの福音の他に、ユダヤの宗教のしきたりを足しているからです。キリストの福音は人を自由にしたはずですが、ガラテヤ人たちは自ら、自分自身に足枷をかし、くびきを負いました。

パウロは、「私は決して人の人気に捉われない。人々に喜ばれないとしても、本物の福音を語る」と言っているのです。福音に混ぜ物をする方が人気だとしても、人々がキリストのわざの他に、自分の努力を足したい、そのようなメッセージを求めるけれども、パウロはそうしませんでした。パウロは、自分がそんなことをしたら、「私はキリストのしもべではありません」と言っています。ほかの福音を語る人は、キリストのしもべではないということです。

パウロがこれほど強く主張できるのはどうしてですか?日本語の聖書は訳語の関係で伏していますが、11節は「なぜなら」という接続詞が用いられています。パウロが言いたいのはこうです。「なぜなら、私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではないから、私は人を喜ばせるほかの福音には加担しません。」

パウロが宣べ伝える福音は、人の発明品ではありません。当時の律法主義者、ガラテヤ教会の中のユダヤ主義者たちが教える、人が創作した信仰、ユダヤの伝承のようなものではありません。

12節の言う通りです。「私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」パウロはが受けた福音は、人から教えられたものではありません。他の有力な教師の下で、教わったものでもありません。

主イエスの弟子たち、パウロの他に使徒としてイエス様から直接の任命を受けた十二人の使徒たちはどうでしたか?彼らは主と生活を共にし、主の働きを見て、主から福音を教えられました。パウロも、同じように主イエスから福音を受けたと言うのです。

このことを使徒の働き9章が証言します。ダマスコに向かうパウロ(当時はサウロと呼ばれていました)のところに、天からの光のうちに、イエス様が来られました。パウロは寝ている間に夢の中で語られたわけではありません。幻のうちに語られたわけでもありません。パウロは、自分に直接語られる主イエスに実際に出会いました。

後ほど、また詳しく確認しますが、主イエスに出会う前のパウロは、ユダヤ教に熱心な人でした。ユダヤの宗教指導者たちの手足となり、教会を迫害する者でした。ダマスコに行く理由もそうでした。パウロは、ユダヤの宗教指導者たちの教えの下にある者でした。彼らから命令を受けて動く者でした。

しかし、主イエスに出会ったパウロは変わりました。もう、人間の教えや命令によって動く者ではありません。人間の教えを伝える者でもありません。キリストがパウロにご自分を現し、直接パウロを召されました。主ご自身の福音を伝える使徒として立てられました。

パウロが伝える福音はキリストの福音です。パウロは自分の経験から、パウロの反対者たち(=ガラテヤ教会でほかの福音を伝える教師たち)は、キリストのしもべではないと言っています。また、ガラテヤ教会の人々に、彼らの教えから離れるように言っているのです。

ここで、二つ目のポイントに移ります。

 

二つ目のポイントは「救いの恵み」です。かつては教会の迫害者、イエス・キリストの反対者であったパウロを変えたのは何でしょうか。それは、神様が主導する恵みです。

13節と14節でパウロが告白しているように、彼は、以前は教会を激しく迫害して、なくしてしまおうとしました。イエス様を信じる人々を捕まえて、投獄したりしていました。

ユダヤ教においては、パウロはパリサイ派に属する人で、人々から尊敬されるガマリエルという律法の教師の門下生でした。また、パウロの出自、身分はどうですか?ユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持つという、当時においては、とても優れた家柄の出でしたね。パウロは社会的にも、ユダヤの宗教の中でも、エリート街道を進む人でした。

主に出会う前のパウロは、ユダヤ教に誰よりも熱心で、ユダヤの宗教が創作した伝承も無批判に、人一倍肯定する立場の人物でした。ここで、パウロがこれほど忠実であった当時のユダヤの宗教とその伝承について確認しておきましょう。

多くの信頼できる正統的なキリスト教の学者たちは、当時のユダヤ教のことを次のように評価します。彼らの宗教は、旧約聖書で神がモーセや預言者たちを通して啓示されたものとは違っていたと言います。ユダヤの宗教指導者たちは、神の律法(旧約聖書)に加えて、人間が作った儀式的で形式的な伝統を加えました。彼らは自らの宗教システムの中に、神の律法を閉じ込めたのでした。

主イエスは、地上におられる間、彼らの人為的な宗教的伝承(これを口伝律法とも言います)について一貫して批判的でした。ユダヤ教の指導者たちは、律法を与えた神様の意図を把握しようとしませんでした。むしろ、歪曲しました。

例えば、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)ということばを、ユダヤの宗教家たちは「あなたの隣人を愛し、敵を憎みなさい」という意味に解釈しました。しかし、イエス様は何と言われましたか?「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい…自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。」(マタ5:44−46)

ユダヤ教の信仰、律法への服従は、旧約聖書を与えられた神様の意図とは異なるものになっていました。彼らは、先祖たちが創作した宗教システムの中で、伝承を守ることによって、神様の祝福を獲得し、天国に入ろうとして「努力」していました。

パウロはこのユダヤの宗教に心酔し、この教えに従わないキリスト者たちに敵対することこそが、真の神様に仕える道だと思っていました。だから、誰よりも熱心に、キリストの教会に反対しました。

主に出会う前のパウロのことを現代風に言うとどうでしょう。例えるなら、ある分野の有名人がいて、この人は常にキリストの教会を激しく批判し、あの手この手を使ってクリスチャンたちが学校や仕事に行くことを妨害する。ある人がイエス様を信じるというだけで、その人の社会的な信用や人望を失墜させる活動を積極的にする、といったイメージでしょうか。まさに、クリスチャンの敵です。

どうですか?この人は、救われるのにふさわしいと思いますか?いや、この人はちょっと、、、と思いませんか。他の人がイエス様の福音を聞いて信じるようなことはあっても、この人は無理だ。救いから遠くにあるに違いない、と私は思うかもしれません。

パウロも同じです。この殺気だつ若者サウロに、誰かが福音を伝えたとしても、彼がイエスを信じて立ち返ることはないように思われます。青年サウロは、ステパノ執事の殉教の現場にいましたが、彼の心は動じませんでした。

パウロは以前の自分のことを振り返ってこう言います。「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされた」(ガラテヤ1:15−16a)。

神様は、資格のない人間に恵みを施されます。これが神様の恵みです。人が神様から恵みを受けるのは、その人が恵みを受けるだけの資格があるからではありません。その人が立派だからではありません。その人の善い行いに対する報酬でもありません。ただ、神様が良しとされた=神様が喜んでその人を祝福したいと願ったからに他なりません。

神様は、パウロにイエス様を啓示すること、つまり、彼に主イエスを信じる信仰を与えることを喜ばれました。パウロが、救われるだけの条件を満たしたからではありません。むしろ、パウロはイエス様のしもべたちの敵、彼らの主であるイエスの敵でした。

そのパウロを神様は選びました。パウロが生まれるずっと前に、永遠の昔に彼を選びました。そして、主イエスはパウロのところに現れ、生きておられる主を、パウロはその目で見ました。自分が今まで否定していたイエスという男が正しかった。死んだはずの人が生きていて、眩い光の中で、いま自分の前に立っている。これまでパウロが従ってきたユダヤ教の道は偽りであって、キリストが真実である。自分は間違っていて、イエスが正しい。

神様はこの強烈な体験を通して、パウロの世界観を崩壊させました。パウロの思考と内面に強く働きました。そして、パウロがそれまで従っていた、人から教えられた道を離れさせ、主イエスに従う人生を与えられました。

13節から14節で、パウロが救われる前の自分の悪行を告白しているのは、どうしてですか。彼は思い上がって、自分の若い頃の悪さ自慢をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。

青年サウロはユダヤ教にいた時、誰よりも熱心に宗教的伝承を守り行いました。しかし、それは自分を救うことができませんでした。道徳も遵法精神も、他人から称えられるような行いも、いかなる宗教のしきたりも、自分のいのちを救うことはできません。それらは、天地万物を造られた聖なる神様に受け入れられるための基準に、遠く及ばないことを伝えたかったわけです。

神様の恵みは、資格のない人に神様が与えてくださるものです。値なしに与えられるものです。すべて、神様が主導しておられます。人はそこに何も付け加えることができません。

神様は私たちを愛しておられます。愛しているから救いの恵みを与えてくださいました。イエス様に出会う前、私たちがどんなことをしていたとしても、どんな暗闇の中を歩み、どんな間違いを起こしていたとしても、私たちを愛しておられます。私たちを愛することを喜んでおられます。

これが神様の愛です。私たちに愛されるだけの理由があるからではありません。それでも、神様は私たちを愛しました。無条件の愛です。この変わらない、神様の愛がパウロを救い、私たちを救いました。

 

最後、3つ目のポイントは「神の導く方へ」です。ここでは、神様の恵みによって救われ、変えられたパウロの、その後の働きについて確認します。主はパウロを救ったままにして放っておかれませんでした。パウロは16節の前半で言っているように、異邦人の間にイエス・キリストの福音を伝える役目に立てられました。

神様はパウロのうちに御子イエス様を啓示=パウロが分かるように、明らかに示されました。この時、パウロはイエス様を信じて救われるように召されました。また、同時に、彼は自分が異邦人に福音を伝えるために召されました。

16節後半から17節を見ますと、パウロは他の使徒たちやエルサレム教会の兄弟たちに会おうとせず、主との交わりに専念していたように思われます。主イエスに出会った後、自分に起こった変化を落ち着いて整理する時間が必要だったことでしょう。

それまで学び信じてきた聖書は、ナザレ人イエスを指し示すものだったのだ。家族も、キリストの教会の誰も、ユダヤ主義者たちも、パウロに影響を与えることのない場所で、主イエスの福音とパウロ自身の使命について、主にあって慎重に検討したと思われます。

18節と19節を見てみましょう。それから3年が経ち、パウロはエルサレムのペテロのもとを訪れました。約二週間の短い期間、ペテロとイエス様の兄弟の方のヤコブの他には、教会の指導者たちに会うことはしませんでした。

ガラテヤ人への手紙は、パウロの訪問の目的やこの時の議題について触れていません。それでもパウロが敢えて、この訪問を書き残した理由はなんでしょうか。パウロは自分より先に使徒となった弟子たちの立場を認め(17節)、パウロも使徒の一人としてエルサレムに行きました。

エルサレムでパウロは、誰かから福音の教えに関する手解きを受けることはありませんでした。また、人々にパウロの使徒としての立場を承認してもらうようなこともありませんでした。イエス様がパウロを、異邦人に福音を伝える使徒として立て、福音の働きを委ねられたからです。

パウロはこのことを20節で、主にあって真実であると宣言しています。パウロの反対者たち=ガラテヤ教会でほかの福音を伝える教師たちは、パウロの使徒としての権威に疑問を呈していたものと思われます。また、パウロの教える福音に対して、「それは純粋な福音か?誰かから教わったものだろう?」と言っていたことでしょう。

しかし、エルサレム教会とペテロたちは、パウロを使徒として受け入れました。いかなる異議も唱えられませんでした。パウロの使徒としての権威と、彼の教える福音の純粋さは神様の御前で真実であると分かります。

パウロの誠実さは、その後のパウロの働きからも保証されます。並行する使徒の働き9章の後半にも書かれていますが、パウロを取り巻く環境は急変していきます。パウロはエルサレムを離れ、遠くのシリアおよびキリキアの地方に行くことになりますが、そこでも主イエスの福音を伝えました。

22節と23節は、パウロはユダヤ人クリスチャンの間ではあまり顔が知られていない福音伝道者だったと言います。実際に、顔を見たことがないからです。ただ、パウロの良い噂は各地の教会に広まりました。教会の人々はこう言いました。「以前、教会の敵であったあの人が、今ではキリストの福音を伝えてるんだよ!」

多くの人が、パウロが伝えた福音を聞いたことでしょう。教会の人々が、パウロのメッセージを「福音」として受け入れていることに注目する必要があります。パウロが伝えるものも、他の使徒たちが教える福音と同じ福音だと、皆が受け入れていることを意味するからです。

ここまで手紙を読んだら、ガラテヤの教会でほかの福音を教える反対者たち、また、彼らの教えについていった人たちは、もう気がついたのでしょう。主がパウロと共におられ、間違っていたのは自分たちの方であるということです。

 

メッセージをまとめます。24節でパウロは、こう結論づけます。教会の人々は「私のことで神をあがめていました」。説教の冒頭、10節で確認しましたが、パウロは人々に喜ばれようとはしませんでした。

パウロは、ガラテヤ教会の人々には喜ばれないけど、神様に喜ばれる道を選びました。本物のキリストの福音=資格のないものに恵みを与える、神様の主権的な救いの恵みを宣べ伝えることです。

人々は、パウロの伝える福音を聞き、その福音を与えられた神様に栄光を献げました。今日の本文の10節から24節は、まさに証しの見本ですね。パウロの証しから、私たちが覚えたいのはこうです。

神様は私たちのことを全部知っておられます。私たちがどんなに罪深い者で、汚れた者であったとしても、それを知っていてもなお、喜んで私たちを愛されました。そして、拒否することのできない恵み=キリストを信じる信仰をお与えになりました。

神様の救いは、罪人を救ってそれで終わりではありません。救われた後も、神様は信仰者と交わり続けてくださいます。福音にあって、教え続け、成長させてくださいます。そして、パウロのように、神様の栄光を表すことができるように導いてくださいます。

私たちも、パウロと共に神様の愛、恵みによって喜びましょう。まだ信仰に入っていない私たちの隣人は、神様の愛に生きる私たちの姿から、神様の栄光を体験することができます。私たちの証しを聞いた人々が、私たちのことで神をあがめる喜びに、使徒パウロと共に与りたいと願います。お祈りを致します。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church