2025年6月15日礼拝 説教 「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、 わたしを信じたはずです」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙1章15-20節
さ ん び Opening Praise 主イエスの十字架の血で                He Is Our Peace
さ ん び Praise Yet Not I But Through Christ in Me    キリストにあって
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌391番「主と主のことばに」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書5章31-47節
聖書の話 Sermon 「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、 わたしを信じたはずです」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌465番  「キリストにはかえられません」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。自分がクリスチャンであると思っている人は、手をあげてください!ありがとうございます。手をさげてください。手をあげられなかった子どもたちもいましたし、ちょっと恥ずかしいと思った子もいましたし、自分がクリスチャンなのかわからない子もいたと思います。手をあげられなくても全く問題ないです。

 

今日の聖書箇所では、イエス様が、クリスチャンとクリスチャンではない人の違いをはっきりおっしゃっています。その違いは何なのか、気になりますよね。イエス様は、こうおっしゃいました。クリスチャンはね、「私はクリスチャンです!」とはっきりみんなの前で言える人でもなく、ラミークラブの話を全部暗記している子でもなく、礼拝中、じっとしてマーク先生の長い話を全部聞いている子どもでもありません。なぜかというと、クリスチャンは、頑張っている人ではないからです。イエス様は、頑張っている人の中にも、イエス様に興味がない人もいるとおっしゃいました。「わ〜!すごい」とお話を聞きたい子もいるし、仲のいい友達がいるから教会へ来る子もいるし、親に怒られるからじっとしている子もいます。でも、イエス様は「楽しい、永遠のいのちを与えてくれる神様として、イエス様を大好きになった人はみんなクリスチャンです」と、おっしゃるのです。ですから、恥ずかしくて手をあげられなくても、永遠のいのちをくださるイエス様を大好きだったら、あなたは立派なクリスチャンです。だけど、なかなかイエス様を好きになれない子どもも、大人もいますよね。今日の聖書箇所を通して、その理由を見たいと思います。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書の始まりは、いくつかの証人の証言で、多様な背景から来ています。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、実際にお会いして対話した本物のイエス様と、証人たちそれぞれが抱いていたイエス様のイメージは全く違っていたという事です。そして、この証人たちの体験を通して、著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということを知らせることです。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということを、人々に受け入れさせる事です。ヨハネの福音書の証人たちの反応をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。

しかし、ヨハネの福音書の5章に入ると、すこし話の流れが変わります。最初の4章を読むと、エルサレムの群衆はイエス様のしるし(奇跡)の力を認めて、イエス様に興味を持っていたようですが、それは、ただイエス様の「しるしの力」だけを求めていたのであって、イエス様ご自身とイエス様の救いには興味を持っていませんでした(ヨハネ2:23-25参照)。しかし、問題は、彼らがイエス様ご自身と教えに興味を持っていない事を自覚していなかったという事と、そもそも、それを問題視さえしていなかったという事です。ですから、イエス様は、ストレートにご自分の本性を私たちに説明されたのです

 

前回は、ヨハネの福音書の説明の前半を見ました。イエス様は、三つの「肩書」を通して、ご自分の本性を私たちに教えてくださいました。イエス様は、初めにご自分が「神の子」であるとおっしゃいました。神様である御父に従いつつ、御父がされたことをともに行われたと宣言されました。次に、イエス様は、「安息の主」であるとおっしゃいました。つまり、究極の安息は永遠のいのちと復活であり、イエス様ご自身がそれを与える権威があると宣言されました。そして、最後にイエス様は、「人の子」であるとおっしゃいました。旧約聖書には、神様が「人の子」にすべての人を治め、裁く権威をお与えになると預言されていて、イエス様は、その「人の子」がご自分であることを宣言されたのです。そして、イエス様を「神の子」「安息の主」「人の子」として受け入れない者は、永遠のいのちを受け入れることができないというのです。21世紀の日本やアメリカであっても、1世紀のイスラエルであっても、これは非常に信じがたいことです。しかし、これはイエス様がストレートにおっしゃる、ご自分の本性なのです。

 

しかし、このようにはっきり言われると、それを聞いていたエルサレムのユダヤ人たちが混乱に陥り、疑問と強い敵対心が湧き上がるのも自然だと思います。「この小僧は神を冒涜している!お前みたいな神学校もいっていない、田舎者の大工が、永遠のいのちを与えるメシヤだなんてありえない!」と思っていたかもしれません。皆さんも、イエス様の言葉を聞いて、「いやぁ…イエス様はすごい事を言うねぇ…だけど、イエス様を信じない人はかなりいるよなぁ…その人たちに永遠のいのちがないというのは…ちょっと…」と皆さんも感じているかもしれません。ここで忘れていけないのは、この疑問を持っている人たちは、神様を信じていない人たちだけではありません。エルサレムのユダヤ人たちは、熱血な一神教の信者たちです。ヨハネの福音書は、私たちのような聖書のイエス様を信じているクリスチャンに向けて書かれているのです。著者のヨハネは、イエス様の説教の後半を通して、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」こと、そして、「イエス様だけに永遠のいのちがある。」ということを、クリスチャンが確信を深められるように記しました。ですから、「イエス様にしか永遠のいのちがない」ということを確信できるように、三つのことを覚えていただきたいです。

 

まず、一つ目。イエス様は、このようにおっしゃっています。「暗闇にいたあなたたちは、燃えて輝くともしびに大いに喜んだのです。そのともしびは、私があなたの救いであると証ししたのです。」(繰り返し)

 

ヨハネ 5:31-35をもう一度お読みします。

「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。 わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。 あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。 わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。 ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」

イエス様は理にかなったお方です。ご自分でどんなにしつこく「私はあなたの救い主だ」とおっしゃったとしても、それだけで信じる人はそうはいません。この箇所の文脈を思い出すと、ユダヤ人たちはイエス様を冒涜罪で訴えています。冒涜罪は旧約聖書では死刑に値するものなので、ご自身で「私は無罪だ!」とおっしゃり続けても、何の説得力もなく、法廷では通用しない、と言う事をイエス様はよくご存じでした。ですから、イエス様は、律法に沿って(申命記17:6; 19:15)、自分が言っていることが真実であることを証明するために、ユダヤ人たちが信頼している重要証人を召喚されました。それが、バプテスマのヨハネなのです。

バプテスマのヨハネがなぜ重要証人だったのかを理解するためには、バプテスマのヨハネが来る前の神の民がどういう状態だったのかを理解しないといけません。一言で言うと、神の民は、「暗闇」の中にいました。神の民は、長年、神様のみことばに背いて歩んでいました。その結果、神様は二つのことをされたのです。まず、神様は、「最後のさばきで、悔い改めないすべての者は、私の御怒りで滅んでしまう」と、マラキという預言者を通して神の民に忠告されました(マラキ4:1-3)。つまり、神の民は、えこひいきなくすべての罪人と同様に裁かれるということです。そして、その忠告の後、神様は約400から450年も預言者を遣われませんでした。つまり、神の民は、神様から最後のさばきの忠告を受け、約400‐450年の沈黙を経験し、希望のない「暗闇」にいたのです。

しかし、450年後に、バプテスマのヨハネが現れたとき、ヨハネは神の民にとって、暗闇の中の「燃えて輝くともしび」になったのです。そして、暗闇の中に住んでいた神の民は、ヨハネの良い知らせを聞きました。著者のヨハネはこう説明しました。

「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(ヨハネ 1:6-10)

つまり、ユダヤ人たちは「しばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」し、それほど、光に飢えていた神の民でしたが、イエス様を拒まれたのです。イエス様がバプテスマのヨハネを「燃えて輝くともしび」と例えられた理由は、ともしびは光ではありますが、太陽ではないからです。「ともしび」は、暗闇、あるいは、闇夜に使う一時的な光です。そして、私たちが、「ともしび」に頼るということは、私たちが、日の出や、太陽を探しているということです。一時的な光であるバプテスマのヨハネは、真の光であるイエス様を指しているのです。「太陽が出ているのに、『私はこのともしびでいい。』というのは、変だと思いませんか?」とイエス様がおっしゃっているように聞こえます。

 

私たちも似たようなことが言えます。自分が何年も経験してきた暗闇から抜け出そうとするとき、教会の「燃えて輝くともしび」を感じたからここに来ているのかもしれません。出会ったクリスチャンとの大事な関係。活き活きとして、心に平安を与える讃美歌。教会の交わりのあったかさ。み言葉にある良いとされてきた知恵と道徳。クリスチャンたちの理解し難い喜びや落ち着き。自分が求めていた居場所。その他、すごく単純な理由かもしれません。祝会のおいしいご飯、教会学校の楽しいゲームやクラフトなど。理由は何であれ、私たちは教会の何かしらの「ともしび」に惹かれて来ました。しかし、忘れていけないのは、私たちが光に惹かれる理由は、私たちが経験している耐えられない「暗闇」から抜け出そうとしているからです。ですから、一時的な「ともしび」に満足してはなりません。なぜなら、すべてのともしびは、「真の光」であるイエス様に光を当てているからなのです。スポットライトを使うとき、それ自体を見るのではなく、光に照らされている「人」を見るのです。もし何かしらの「ともしび」に惹かれているのなら、「ともしび」を見るのではなく、「ともしび」に光を当てているイエス様を見ることが喜びに最もつながることなのです。

 

しかし、イエス様を見ることは非常に難しいことが明らかです。ですから、二つ目に覚えていただきたいことは、「私たちが命を見つける事ができないのは、頑張っていないからではなく、見分けていないからだ」という事です。

 

イエス様が誰に語っていたかを忘れてはいけません。イエス様の話を聞いていた人たちは、世界中で最も旧約聖書を熱心に読んでいるユダヤ人たちです。この人たちは、当時、世界中で最も神様の御心に忠実に従おうとしていた律法学者たちです。つまり、一番頑張っている人たちです。しかし、それでも、イエス様は、二つのことを訴えられます。

イエス様の一つ目の訴えは、もし私たちがイエス様のことを信じることができないなら、聖書の神様の御心を知ることもできないという事です。

36 しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。 37 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。 38 また、そのみことばを自分たちのうちにとどめてもいません。父が遣わされた者を信じないからです。

イエス様だけが、神様の御心を完璧に理解できるお方です。イエス様だけが、神様の御姿のすべてをご覧になれるお方です。イエス様は、神様が救いの御業を完成させるために遣わされたお方です。そして、37節の原語の文法でほのめかしているのは、聖書の最初からイエス様が世に来られるまで、イエス様を遣わすことを御父が証しして来られたということです。ですから、神様の御心を理解できるなら、イエス様のことばを信じるのは当然なことです。しかし、もしイエス様のことばを信じることができないなら、イエス様は42‐43節でこうおっしゃいます。「わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。」

 

イエス様の二つ目の訴えは、私たちがイエス様のことを信じられない理由は、聖書の本質を見分けることができないからだという事です。イエス様はこう説明されます。

「39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」

「 45  わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。 46  もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。 47  しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

ユダヤ人たちは聖書の中に「いのち」があると思っていました。また、ユダヤ人たちはモーセが書いた教えに「希望」があると思っていました。しかし、残念ながら、そこには、「いのち」も「希望」もなく、イエス様だけに「命と希望」があることを証ししています。「イエス様を信じていないのなら、あなたは旧約聖書をも信じていない」という程に。

 

ですから、ここでイエス様は私たちに注意しておられるのです。私たちがどれほど頑張っているかは問題ではないのです。どれほど神様をもとめているか。どれほど聖書を読んでいるか。どれほど教会に来ているか。どれほど献身しているか。どれほど奉仕しているか。どれほど熱く祈っているか。どれほど積極的に人を助けているか。どれほど良い人生を歩んでいるか。そのようなことは、私たちが神様の御心への理解、あるいは、聖書への理解について全く影響しないということです。イエス様ご自身を深く知ろうとしているかどうかが、すべての決め手なのです。これがイエス様の教えの最も驚くべきことです。

 

三つ目に覚えていただきたいことは、「私たちが探し求めているいのちと希望は、人間が探しているようなものではなく、神様と聖書が証しされているイエス様ご自身である。」ということです。

 

先ほどのポイントを一言にまとめると、神様の御心と聖書の本質は、私たちがイエス様を信じ、イエス様に従うことです。それにつきるのです。しかし、私たちには、なかなかそれができません。その理由を、イエス様はこう説明されます。

43  わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。 44  互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。

 

イエス様が、バプテスマのヨハネという重要証人、神様ご自身と聖書の証言、モーセのような人物の証言を私たちに差し出しても、私たちはイエス様のことばを受け入れないのです。その理由は、シンプルです。「神様がおっしゃることに、あなたは興味を持っていないからです。」とイエス様はストレートにおっしゃいます。

 

最も熱く聖書を学んでいたユダヤ人である使徒パウロは、このように人間が探していることと、神様が差し出される救いの本質的な違いを、次のように説明しています。

22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

パウロのことばを言い換えるなら、日本人は「和」を求め、アメリカ人は「成功」を追求すると言えます。結婚している方は「無条件で純粋な愛」を求め、独身の方は「自分にあった結婚相手」を追い求めます。親は「子どもの幸せ」を求め、子は「親に認められること」を追い求めます。働いている人も、主婦(主夫)も、「自分の頑張りを認める人」を求め、疲れている人は「安らぎと癒し」を追い求めます。しかし、忘れていけないのは、すべての人が十字架に掛けられたイエス様をみて、つまずいたり、愚かなことだと思ったりするのです。ですから、イエス様がおっしゃることが、あなたが今まで求めていたことや、追求してきたこととは違うのは当然なことです。改心する前は、すべてのクリスチャンがみんなそうでした。

しかし、もう一つのことも言えます。日本人であっても、アメリカ人であっても。結婚していても、独身であっても。親であっても、子どもであっても。働いている人であっても、疲れている人であっても。クリスチャンになると、すべての人は、一つのことに一致するのです。それは、十字架にかけられたイエス様は、「救いをもたらす神の力」であり、「神の知恵」であるということです。そこが、クリスチャンとクリスチャンではない人の唯一の境界線です。イエス様だけに「神の力がある」という信仰なのです。

 

ですから、ユダヤ教から改心したパウロの結論はこれでした。

7  しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 8  それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 9  キリストにある者と認められるようになるためです。…13  兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 14  キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

イエス様は、あなたにとって、どういうお方ですか?バプテスマのヨハネ、御父である神様、聖書全体、旧約のモーセ、新約のパウロは、イエス様が「永遠のいのち」であり、私たちの唯一の希望であると証ししています。もし、そう告白するなら、あなたはクリスチャンです。そして、もしクリスチャンであれば、パウロと同じように、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばして、イエス様ご自身という「賞」をいただくために、目標を目指して一緒に走っていきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church