2025年6月29日礼拝 説教 「賛美とは?!」

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礼拝式順

前奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇98篇1-4節
さ ん び Opening Praise 詩篇100篇
さ ん び Praise ただ十字架のイェスにあり

Only A God Like You

開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 詩篇歌121
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇100篇1-5節
聖書の話 Sermon 「賛美とは?!」

マーク・ボカネグラ 牧師

賛   美 Hymn of Response 詩篇歌 100A
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ 牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

第5日曜日に私たちは詩篇を学んできました。前回、学んだ時、4つの種類の祈りを紹介しましたが、ちょっと復習します。結構前の話ですが、子どもたちは、覚えているかな?1つ目の祈りは、「なげき」のお祈りです(例:詩篇13篇)。このお祈りは、大変なことが色々と起こっているときに捧げる祈りで、神様に「どうしてですか?助けてくれないのですか?」と叫ぶお祈りです。2つ目の祈りは、「かくしん」のお祈りです(例:詩篇23篇)。この祈りは、大変なときに、「今は大変だけど、神様は絶対に助けてくださる!」と祈ることです。3つ目の祈りは、「かんしゃ」の祈りです(例:詩篇30篇)。この祈りは、大変な状況の中からあなたを救い出してくださった神様に、感謝を捧げるという祈りです。「神様、昨日の夜の台風は本当に怖かったけど、神様、守ってくれてありがとう!」というような祈りです。「なげき」のお祈り。「かくしん」のお祈り。「かんしゃ」のお祈り。

 

今日、紹介する祈りは、「さんび」のお祈りです(例:詩篇100篇)。このお祈りは、すべてが順調な時に、「神様、最高!」と捧げるお祈りです。実は、この祈りが一番大事な祈りかもしれません。なぜかというと、天国で永遠に捧げる祈りは、この「さんび」のお祈りだからです!みんなは、同じ歌を、ず〜っと何回も、楽しく歌ったことはありますか?天国はそういう場所なのです。なぜ、さんびを永遠に楽しめるかが、この詩篇100篇から学べます。それは、最高の神様に、全力で喜び叫びながら、イエス様と一緒に、大胆に賛美を歌う事ができるからです。

 

一つ目のポイントはこれです。賛美の祈りは、私たちの王への喜びの叫びの歌です。世界の中の様々な文化や国には、様々な祈りの仕方があります。念仏を唱える祈り。イスラム教のメッカに向かってひれ伏す祈り。沈黙の中で瞑想する祈り。ある像に捧げものを捧げる祈り。しかし、詩篇100篇の賛美の祈りは、「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。」と始まります。「喜びの声」と詩篇100篇で訳していますが、詩篇98:4では「喜び叫べ」と訳されています。賛美の祈りは、「喜びの叫び」なのです。詩篇100篇は、それに先立つ詩篇90篇から99篇までで徐々に高まってきた神への賛美が、音楽でいう「クレッシェンド」の後に訪れる壮大な「クライマックス」または「フォルティッシモ(ff)」の頂点に達する箇所と言えます。それまでの多様な主題による賛美のエネルギーがここに集約され、全地への普遍的な招きと喜びに満ちた感謝が、簡潔かつ力強く、まさに歓喜の爆発として表現されているのです。この詩篇に7つの動詞もあり、賛美の祈りの完全さを示唆しているかもしれません。

 

私はある兄弟と音響について話していて、みんなが聞きやすくするために、音量を調整しましょうとなったときに、その兄弟が「まあ、本来は賛美の音量調整する必要はないけどね」と言ったのです。正しくそのとおりです。天国で何千万ものみ使いが「ハレルヤ!」と歌っている時に、音量を調整している音響担当のみ使いはいません。全力で、爆音で、喜びの叫びを捧げています。なぜなら、神様に捧げる賛美の祈りに上限はないからです。全身全霊で、自分の力を尽くして、感謝の叫びを捧げることは、神様の喜びでもあります。

 

しかし、賛美の祈りは、爆発が引き起こすカオスのような「喜びの叫び」ではありません。詩篇100:2では「喜び歌いつつ御前に来たれ。」と書いてあります。ただの「喜びの叫び」ではなく、「喜びの叫びの歌」なのです。大勢の人がいるコンサートでは、爆音で音楽を流しても雑音にはなりませんね。なぜかというと、秩序があるからです。むしろ、コンサートは、秩序があるから楽しめるものだと思います。何千人もの人がリズムに乗って跳びながら、声を一つにして、全力で同じ歌詞を歌うことが、コンサートでのかけがえのない「思い出」だとよく聞きます。野球の試合でも、何千人もの人がバラバラに「頑張れ!」と叫ぶよりも、同じ応援歌を声を一つにして全力で歌うほうが楽しいです。そのため、「賛美の祈り」は各自で「喜び叫ぶ」よりも、一つの共同体の「喜びの叫びの歌」として捧げるのです。ですから、私たちは毎週、日曜礼拝の同じ空間で声を一つにして、一つの会衆として喜びの賛美を捧げます。

 

しかし、「喜びの叫びの歌」は誰にでも歌えますし、先ほど、説明したように、幕張メッセでのコンサートや、ZOZOマリンスタジアムの野球の試合に行けば、その快感を楽しむことができます。キリスト教の「喜びの叫びの歌」の本質的な違いは、誰に「喜びの叫びの歌」を捧げているか、ということです。

1     全地よに向かって喜びの声をあげよ。

2     喜びをもってに仕えよ。 喜び歌いつつ御前に来たれ。

「主に向かって」「主に仕えよ」「御前に来たれ」。よく読むと、賛美の祈りの中心は「感謝する気持ち」ではないのです。この祈りの中心は、神様である「主」なのです。聖書を読むと、「主」は太字になっていますが、原語では、太字の主は、聖書の神様の具体的なお名前を指しています。つまり、賛美の祈りは、「ただ感謝する」ということではありません。抽象的で、ふわっとしている神様に「ありがとう」ということではないのです。聖書の神様を具体的なお名前で、「イエス様!あなたは私たちの最高の王です!」と喜びの叫びの歌を捧げることなのです。

 

しかし、この2節をゆっくり読むと、本当に面白い点に気が付きます。この2節は、神様に「感謝します!」とは歌っていません。「全地よ、喜び叫べ!主に仕え!主に歌え!」と歌っているのです。つまり、神様に感謝する祈りの一つ上のレベルだと言えます。神様への感謝に満ちた祈りは、周りの人を感謝へと招く祈りに変化していくのです。イエス様への感謝の歌が、イエス様の良さを宣べ伝える歌に変わっていくのです。

 

このような話しを聞くと、「そもそも、私たちはなぜそこまで聖書の神様に感謝するべきなのですか?」という疑問が湧くかもしれません。ここで二つ目のポイントに移りたいです。賛美の祈りは、主が私たちをご自分の民に造り変えてくださった喜びだという事です。

 

3節に、神様に感謝する理由がはっきり書いてあります。「知れ。主こそ神。 主が 私たちを造られた。 私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。」長年、私は「主が私たちを造られた」という1節は、神様がすべての人間を造られたことに感謝しましょうという意味だと思っていました。へブル語の詩は、一つのことをいくつかの角度で表現する事が多く、3節をその文脈から読むと、「主が私たちを、主のもの 主の民 その牧場の羊、と造られたことを知って感謝しなさい。」ということになります。イザヤ43:1-3は、同じようなニュアンスを表しています。

「だが今、主はこう言われる。 ヤコブよ、あなたを創造した方イスラエルよ、あなたを形造った方が。 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしは、あなたとともにいる。 川を渡るときも、あなたは押し流されず、 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、 炎はあなたに燃えつかない。 わたしはあなたの神、主、 イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。 わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」

イスラエルが正式に国として「造られた」のは、神様がイスラエルを430年にわたるエジプトの奴隷制度から贖い出されたときです。そして、出エジプトのあと、シナイ山まで導かれ、神様は『あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』(出エジプト19:4-6)とおっしゃいました。その瞬間が、イスラエルが「主のもの」「主の民」「牧場の羊」として正式に造り変えられたときであったと言えます。

 

イスラエルの歴史をよくご存知の方なら、それが、どれほどの奇跡であったかがよく理解できると思います。なぜなら、神様はイスラエルに約束の地をお与えになる前にこうおっしゃったからです。「知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。」 (申命記9:6) そして、旧約聖書を最後まで読むと、神の民が、神の民になれる資格、あるいは素質が、そもそもなかった事がはっきりわかるのです。

 

カルヴァンは詩篇を解説する中でエペソ人への手紙2章を引用し、新約時代のクリスチャンも全く同じ状況にあると主張しました。 エペソ2章で、パウロがこう言っています。「かつて私たちは、罪によって霊的に死んでいました。世の流れと自らの欲望に支配され、神に背を向けた歩みは、まさに神の怒りを受けるべきものでした。 しかし、憐れみに満ちた神は、その限りない愛のゆえに、罪に死んでいた私たちを、キリストと共に新しいいのちへと生かしてくださったのです。この救いは、私たちの努力や行いによるものではなく、ただ神からの恵み、信仰を通して与えられる賜物です。誰も自分の功績を誇ることはできません。 実に、私たちは神の最高傑作として、キリスト・イエスにあって新しく造られました。」(エペソ2:1-10参照)。 神様の最高の創造は、創世記の第一の創造ではないのです。神様の最高の創造は、肉の欲のままに生き、敵対していた、「不従順の子」である私たちが、神様の大きな愛のゆえに、キリスト・イエスにあって、神の子として造り変えられることなのです。それ以上の喜び、それ以上の恵みは、ありません。

 

そして、私たちの「主」であるイエス様を知れば知るほど、イエス様に仕える喜びが増します。自分の罪に捕らわれてしまう時、イエス様が私たちをご自分のものにするために贖い出してくださいます。私たちが神の民として歩めないときも、イエス様は傷んだ葦を折ることもなく、 くすぶる灯芯を消すこともなく、衰えず、くじけることなく、私たちを喜びをもたらす義の道へと導いてくださいます(イザヤ42:3-4)。羊として私たちがさまよってしまうときも、命がけで私たちを追いかけて助けてくださいます。ですから、この賛美の祈りは、残酷な独裁者が民に賛美の祈りを強制するような祈りではありません。この祈りをよく読むと、イエス様に救われ、守られ、愛された民が、自発的に喜びに満ちた歌を捧げていることがわかります。私たちも同じように歌いましょう。私たちのようなものが、イエス様の民、イエス様の牧場の羊になれ、このように愛されたことをよく知り、感謝の歌を捧げましょう!

 

しかし、ここに問題があります。三つ目のポイントに移りたいと思います。賛美の祈りは、主の聖なる、天の王室で捧げられる歌であるという事です。

4     感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。

主に感謝し 御名をほめたたえよ。

そのように歌っても、あまりインパクトがないかもしれませんが、神殿の規定をよく理解している人にとっては、衝撃的な一節として読むことができます。

 

「主の門」「大庭」に入ることは、神殿と主の御前に入る特権を指しています(詩篇65:4, 84:10, 96:8, 122:2)。旧約聖書では、神殿に入る事や、御前に立つことができる人は、限られた人だけで、ユダヤ人しか神殿に入ることはできませんでした。また、神様の王室を表す、神殿の「聖所」は、定められた祭司しか入ることができませんでしたし、神様の王座を表す「至聖所」は、誰も入ることはできませんでした。許可なく、聖なる聖なる聖なる神様の御前に立つものは、すぐに裁かれるのです。そして、清めの儀式を丁寧に行った上でなければ、誰も神殿に入ることはできませんでした。

 

この旧約の神殿の規定は、天の聖なる聖なる聖なる王室を表しています(へブル10:1)。私たちは、「主の門」「主の大庭」「主の至聖所」に簡単に入ることはできません。むしろ、罪の汚れのままで入ってしまうと、私たちは、神様の御使いの炎の剣で切り落とさされてしまいます。つまり、「聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12:14)。そして、イエス様はこうおっしゃいます。「 私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。」(ヨハネ9:31)

 

この詩篇100篇には、「全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。… 4  感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。」と書いてあります。これは衝撃的なことです。「全地よ」という表現には、聖書の神様を今まで拒んでいた人々も入っています。偶像崇拝をしている人々も、自分の欲のままに生きている人々も。きよさがひとかけらもない人々も入っています。「全地よ」とは、無条件に、すべての人に呼びかけている言葉です。もし私が「すべての人よ!ホワイトハウスへ自由に入りなさい!」と突然言ったら、大問題になります。今までアメリカに敵対してきた国の、テロリスト組織と深い関係があり、犯罪歴がある人が、何の許可もなく、強引にホワイトハウスへ入ろうとしたら、絶対SPに確実に止められます。

 

旧約聖書に書かれた詩篇100篇は、「預言的」な賛美の祈りとも言えます。「いつか全地から人が、自由に主の門に入れるように、主が民を造ってくださる。」というような祈りです。そして、私たちが今、このように集まっていることは、その預言的な賛美の祈りが成就された証拠です。私たちが生まれ育った国が聖書の神様を拒み続けても。私たちが自分の欲のままに生きていても。私たちの行動、ことば、思いに、ひとかけらのきよさがなくても。この聖なる聖なる聖なる神様が、私たちのような「多様な罪人」が聖なる天の王室で歌を捧げられるように、道を用意してくださったのです。ですから、あなたにどのような罪や汚れがあったとしても、あなたは恵みの御座に近づき、裁かれる恐れもなく、大胆に、自由に「喜びの叫びの歌」を捧げることができるのです。この4節は、聖書の神様の無条件の恵みを表しています。

 

しかし、神様はどのように無条件な恵みを用意されたのでしょうか。それが最後のポイントです。賛美の祈りは、キリストのゆえに、成り立っているということです。

 

「主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。」これがこの賛美の祈りの最後の一節です。聖書の神様の情け深さ、恵み、誠実さを表す、出エジプト34:6を引用しています。イスラエルが金の子牛を拝んで、神様を裏切ったのにも関わらず、神様はこの赦しの言葉をおっしゃいました。

主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト34:6)

シナイ山の契約の元で、「千代まで」保つ赦しが約束されましたが、神様が「罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる」という恐れは、まだありました。しかし、100篇の最後の一節には、「罰」については書いてありません。ただ「主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。」と書いてあるのです。むしろ、この100篇には、私たちの罪が存在しないような、私たちは罰されるべき者ではないように書いてあります。イスラエルは金の子牛を拝んでいましたが、私たちは心の中に金の子牛のコレクションがあるので、私たちも神様の罰からもちろん免れることはできません。この100篇5節は「預言的」な祈りとも言えます。旧約の詩人が「いつか、このようになる」と信仰をもって、賛美の祈りを捧げているのです。

 

しかし、考えてみてください。裁きがなくなること。罰がなくなること。永遠に続く、恵みと真実が自分に与えられること。神様に敵対し、罪を犯した者なのに、それらが与えられる根拠はどこにあるのでしょうか。少なくとも、自分が罪人であるならば、自分の中に根拠はありません。新改訳の100篇5節には反映されていませんが、原語では「主はいつくしみ深い【ゆえに】その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。」と読めるのです。つまり、この預言的な祈りは、神様のご性質を覚え、神様の約束を確信して、「神様は良いお方だからこそ、いつか、永遠の恵みが与えられる。だから私は全力で感謝する!」と賛美しているのです。

 

興味深いことに、この有名な100篇は、新約聖書では、一か所しか引用されていません。この100篇5節は、マリアの賛歌に織り込まれています。

マリアは言った。 「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。 この卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も 私を幸いな者と呼ぶでしょう。 力ある方が、 私に大きなことをしてくださったからです。 その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。(ルカ1:46-60)

「主のあわれみは、代々にわたって」の部分に、100篇5節の同じことばが使われています。マリアの賛歌と100篇5節は、同じように賛美の祈りを捧げていますが、大きな違いがあります。それは、マリアが、100篇5節の預言的な祈りの結果を見て、賛美の祈りを捧げたという事です。

 

マリアは、自分の息子を見て、「主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」という喜びの叫びの歌を捧げました。しかし、この赤ん坊が、どのように罪人に永遠に続く赦しと恵みを確保するのかは、はっきりとはわかっていませんでした。そして、その赤ん坊が、大人になり、十字架刑を受ける前に、マタイ26:27-29でこういわれました。

27 また、杯を取り、賛美の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。 29  わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。

私たちが神様の御国に入って、主の門、主の大庭、主の至聖所で、ふどうの実からできたものを飲みながら、「喜びの叫びの歌」を捧げることが出来るようになるために、イエス様はこうされました。私たちの前で、真っ赤なぶどう酒を杯に注ぎ、「このようにぶどう酒を注いだように、私は自分の血を流します。そして、私の血によって、もし全地から来る、多くの、「多様な」罪人が信仰によって飲むなら、罪の赦しがあります。そして私は、みんなが、主の門、主の大庭、主の聖なる天の王室が集まる日までは、喜びの杯を飲みません。なぜなら、私は、教会とともに、声を一つにして、一緒に御父に「喜びの叫びの歌」を捧げたいからです」イエス様は、こうおっしゃっているのです。

 

イエス様ご自身が十字架の上で血を流してくださったゆえに、私たちは、このように賛美の祈りを捧げることができるのです。それだけではありません。イエス様ご自身が、私たちと一緒に、いつくしみぶかい神様の御前で、永遠に、この100篇を、爆音で、全身全霊で、喜び叫ばれたいのです。その将来を楽しみにしつつ、100篇を歌いましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church