礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。
For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.
礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌245番
「御名をほめ讃える歌声より」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌121番「ああ主は誰がため」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 出エジプト記20章7節、レビ記22章31-33節
聖書の話 「わたしは主である。わたしの聖なる名を汚してはならない」
マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌316番
「御前に立つとき」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子どものみなさんに質問です。わたしの苗字は「ボカネグラ」ですが、もしクラスの子が「おい、ボカネグラ!」と呼んだら、「呼び捨てはだめ!」って注意しますよね。わたしは外国から来たので、日本の子がおたがいにそう注意しあうのを見て、とてもおどろきました。では、なぜ呼び捨てはいけないのでしょう? それは、名前がその人をあらわす、とても大切なものだからです。「さん」や「くん」をつけて呼ぶのは、「あなたを大切に思っています」という気持ちのあらわれです。でも、呼び捨てにしたり名前をばかにしたりすると、「大切に思っていません」と伝わってしまいます。つまり呼び捨ては、相手への「たいど」そのものなのです。
これと同じで、十戒の第三戒は、「神様のお名前を、かるがるしく使ってはいけない」とお約束があります。これも、神様を大切にしない「たいど」をとってはいけない、という意味です。では、神様を大切にしないで、呼び捨てにする、のはんたいの行いは、どんなことだと思いますか?「御名が聖なるものとされますように」と祈るとき、神様の名前を大切にできますように、という意味なのです。これはとてもむずかしいことですが、ありがたいことに、イエス様がわたしたちのかわりに、いつも神様を大切にしてくださいました。今日はこの大切な「たいど」について、一緒に考えていきましょう。
十戒のメッセージで、十戒の三つの読み方を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図。十戒は、主の御国の試金石。十戒は、救い主への矢印。その3点に沿って、第三戒を見たいと思います。まず、もし第三戒が「御心の地図」であるなら、第三戒は私たちに何を教えているのでしょうか?神様の御名は、神様ご自身のご性質であり、御名を崇め、楽しむことが求められています。
第三戒の三つの要素をまず紹介したいと思います。まず、一つ目の要素は、神の御名は、神様ご自身のご性質、力、権威、御業を表しています。
神様の御名とは、まず、何でしょうか。出エジプト記3:13-14では、聖書の神様がモーセにご自分の名前を紹介されます。
モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」
実は、神様のお名前をどのように読むか、誰にもわかりません。文法的には、その名前をいくつかの文として読めますが、すべての読み方は、「私は私です」ということに焦点が当てられます。要するに、神様しか神様を定義づけることはできない、ということです。本当にすごい、完璧なお名前だと思います。もし一つの「肩書」、または「名前」をあててしまうと、神様のご性質を制限する事になってしまいます。ですから、神様のお名前は、「私は私です」という結論になるのです。形がなく、霊であられる神様のご性質を、神様の御名がすべて表しています。神様の御名は、神様ご自身に最も近いものだと言えます(出エジプト33:18-19参照)。
ですから、神様の御名は、よく神様の御力を表しています。「ある者は戦車を ある者は馬を求める。 しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」(詩篇20:7)ダビデがゴリアテと戦ったときに、こう言いました。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。」(1サムエル17:45)
また、神様の御名は、神様の権威を表しています。大統領がサインした手紙、首相が自分の印鑑を押した書類は、権威のあることばを表します。ですから、私達は神の預言者が、神様の御名をもって語ることばを、神様ご自身のことばとして受け入れる必要があるのです。申命記18:18‐19はこう説明します。「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。 わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。」(申命18:18-19) 神殿で仕える祭司たちも、「主の御名によって奉仕に立つために」(申命18:5)、神様の権威を表しているのです。
そして、神様の御名は、神様の救いの御業を表していて詩篇54:1はこのように表しています。「神よ あなたの御名によって 私をお救いください。 あなたの力強いみわざによって 私を弁護してください。」箴言18:10は、「主の名は堅固なやぐら。 正しい人はその中に駆け込み、保護される。」と約束し、イザヤ12:2では、「ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。」と宣言しています。
それを踏まえて、二つ目の要素を紹介します。「神の御名をみだりに唱えてならない」ということは、私たちには、御名を丁寧に扱うだけではなく、御名を敬い、栄光を現し、御名を褒めたたえ、楽しむことが求められています。
よくある十戒のイメージは、堅いルールで、禁じているものだけが書いてあって、楽しくないイメージです。しかし、十戒の本質は、神様を愛することなのです。神様の栄光を表し、神様を楽しむことです。コロサイ3:16-17が、それを一番明確に現していると思います。
16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。 17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
神様の御名をみだりに唱えることの反対は、神様の御名を崇め、感謝し、楽しむことです。
第一戒と第二戒を夫婦関係に例えましたが、第三戒も同じように例えることができます。結婚して夫婦になると、多くの場合、花嫁が花婿の名前を継ぐことになります。ですから、神の民として、洗礼を受けた私たちは、三位一体の御名によって洗礼を受けて、イエス様の花嫁となります。ある意味、洗礼を通して、神様の尊い御名を私達がいただくようなことです。それは、クリスチャンとして、私たちの額にイエス様の御名が刻まれているような事です(黙示録22:4参照)。ですから、神の民とされた者、キリストの花嫁にされたもの、神の子とされたものは、新しい名前、新しいアイデンティティーを感謝し、それを楽しむことが求められているのです。そして、そのように歩むことによって、私たちは「あらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾る」(テトス2:10)ことができ、御名の栄光を証しすることができます。第3戒は、神様の御名の良さを証しすることが求められているのです。
三つ目の要素は、私たちが御名をみだりに唱えることは、思いやことばや、行いなどで、神様の栄光を多少なりとも汚してしまうということです。
「御名をみだりに口にしてはならない」ということは、神様の御名を乱用してはならないに限ると考えがちですが、レビ記22:31-33は、第3戒の意味を最大限まで広げます。(申命記28:58も同じように意味を拡大しています。)
31 あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。 32 わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。 33 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した。わたしは主である。
つまり、聖書の神様は、神の民を特別に、聖別し、愛してくださったゆえに、神の民は、その聖なる御名を少しでも汚してはならないのです。そして、その汚し方は、様々です。神様の規定通りに、祭壇を造らないこと(出エジプト20:25)。安息日に仕事をしてしまうこと(出エジプト31:14)。御言葉に反する生贄を主に捧げてしまうこと(レビ18:21,19:8)。聖所のきよさを汚したり(エゼキエル7:21)、聖所から、物を持ち出してしまうこと(レビ21:23)。異教の娘と結婚すること(マラキ2:10-11)。御言葉どおりに奴隷を解放しなかったこと(エレミヤ34:16)。正義を果たさなかったこと(エゼキエル13:19)。他の神々を拝んでしまったこと(エゼキエル20:16)。神様の御名によって、間違った教え、あるいは、偽の預言を語ってしまうこと(申命記18:20-22)。限られた例しか引用しませんでしたが、神の民として御名によって、神様の御心に背くことは御名を汚すことなのです。
第三戒の本質を理解した上で、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし第三戒が「主の試金石」であるならば、第三戒は私たちに何を教えているのでしょうか?私たちが御名をみだりに唱えることは、神様を真っ向から裏切ることで、神の民としてふさわしくない事が証明されるという事です。
第三戒を、もう一度お読みします。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」私たちは、第三戒の後半をよく忘れてしまいます。神様の御名をみだりに唱えることが、そこまで大きな罪ではないと思う時点で、第三戒を破ってしまっているのです。しかし、神様は熱い思いを持って、御名を冒涜する者を罰せられるのです。
レビ記24:10に、「イスラエル人を母とし、エジプト人を父とする者」が、あるイスラエル人と宿営の中で争い、その人が御名を汚し、ののしったので、人々はこの者をモーセのところに連れて行きました。「 人々は主の命が彼らにはっきりと示されるまで、この者を留置し」ました。そして、主がモーセにこう告げられました。 「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。 あなたはイスラエルの子らに告げよ。 自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。 主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。」
本当にインパクトのある箇所です。しかし、なぜ、全会衆がこの人に石を投げて殺さなければならなかったのでしょうか?神様の御名を冒涜することは、自分の王を裏切ることと同じだからです。自分たちの王への裏切りは、国を裏切ることでもあり、全会衆が刑を下すことになるのです。神様の御名の威厳、栄光、きよさを重んじることを通して、第3戒がどれほどの重罪であるかが理解できます。
聖書の神様がイスラエルを、御自分の聖なる民とされ、地の面のあらゆる民の中から選ばれ、ご自分の宝の民とされました(申命7:6)。それゆえ、 レビ記20:26で、神様はこう命じられました。「26 あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである。』これは、あなた方が神様の御名のきよさを汚さず、自分の身を聖別することができるなら、神様の「宝の民」として歩むことができるという約束です。
同時に、神様はこのような忠告もされました。
「それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。 あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間に寄留している者も、これらの忌み嫌うべきことを一つも行わないようにするためである。 それは、あなたがたより前にいたその地の人々が、これらすべての忌み嫌うべきことを行い、その地が汚れたからであり、 あなたがたがその地を汚し、その地が、あなたがたより前にいた異邦の民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないようにするためである。 だれであれ、これらの忌み嫌うべきことの一つでも行う者、それを行う者は自分の民の間から断ち切られる。」(レビ18:24‐28)
つまり、レビ記24章で、神様の御名をののしった者が、神の民から断ち切られたように、もし、神の民として御名をののしった場合、同じように断ち切られるという忠告です。シナイ山後の旧約聖書は、第三戒を全うできるかどうかの試練だと言えます。
そして、その約1000年後に、その試練の結末がこう描かれています。
次のような主のことばが私にあった。 「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。 それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。 わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いにしたがって彼らをさばいた。 彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。 わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。」(エゼキエル 36:16-21)
新約聖書でパウロもこのように旧約を要約しています。
「あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、 みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、 また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、 どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。 律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。 「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。」 (ローマ2:17-24)
神の民として、イスラエルは、思い、ことば、行いにおいて、神様の御名を聖なるものにとしませんでした。
私たちは、どうでしょうか。神様の御名を、思い、ことば、行いにおいて、汚したことはないでしょうか。私にとって、これは非常に痛い戒めです。私は牧師として、クリスチャンとして、御名によって、御言葉を語っていますが、毎日のように愛する妻と愛する子供たちに罪を犯してしまい、神様の栄光を表していない偽善者として、家族の間で御名を汚してしまっています。第三戒の試金石から見れば、私自身は神の民としてふさわしくないと見なされます。皆さんも、第三戒を通して、同じように自分の罪が示されたでしょうか?
もしそうであれば、十戒は「救い主への矢印」へと変わります。第三戒は、私たちの「福音」、私たちの「良い知らせ」へと導いてくださいます。その「救い主への矢印」として、第三戒は私たちに何を教えているのでしょうか?イエス様ご自身が神の御名であり、御名が聖なるものとされたことによって、私たちは救われたのです。
イエス様が「イエス」と名付けられたのは、「彼がご自分の民をその罪からお救いになるから」でした(マタイ1:21)。私たち人間は、神様の御名を聖なるものとして保つことができませんでした。また、イエス様が「インマヌエル」と名付けられたのは、単に神様の「名前」を授けられたのではありません。彼こそが「神が私たちと共におられる」お方であり、人となられた神様ご自身だったからです。イエス様は、モーセよりも偉大な預言者であり(申命記18:18-19)、究極の「主の御使い」でした(出エジプト23:20-21)。イエス様は神様ご自身の言葉を語られ、ご自身の内に神の御名があり、父なる神と同じ権威と力を持っておられ(ヨハネ5:43)、「神のことば」と呼ばれるほどのお方です(黙示録19:13)。ですから、私たちのような罪人を救うことができる名はただ一つしかありません。それがイエス・キリストのお名前なのです(ローマ10:9,13参照)。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)そして、イエス様は、人々の前で語られる時、言葉を濁すことはありませんでした。ヨハネ8:58では、文字通り、旧約聖書の主なる神様ご自身の御名を名乗られました。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
しかし、もしイエス様ご自身が救いの御名であるなら、どうやって神の御名を汚した罪人を救うことができたのでしょうか。道は一つしかありませんでした。神の御名を背負う究極のお方として、思いにおいても、言葉においても、行いにおいても、神様の御名を汚すことのない生涯を送らなければなりませんでした。神の御子として、喜びと感謝と賛美に満ち、父なる神様の栄光を現す生涯を送る必要があったのです。御父がイエス様に用意された試練の道は、十字架への道でした。
イエス様は十字架を御覧になられ、こう言われました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。… 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」(ヨハネ12:23-28)ご自分の命を捨てられるほど、十字架の恥を受けられるほど、すべてを失われるほど、イエス様は、御父のご栄光を現わしたかったのです。そして、第三戒を十字架の上で全うされたことによって、永遠のいのちに至られたのです。
私たちがイエス様から受け取る最高の賜物は、永遠のいのちそのものではありません。私たちがいただく最高のものは、イエス様の「御名」なのです。私が神の御座の前に立つとき、父なる神は、神を冒涜し、御名を汚した罪人である私をご覧になるのではありません。父の御名に完璧な栄光を帰されたお方、イエス・キリストの御名を通して、私を見てくださるのです。そして、このイエス様の御名のおかげで、私は「神の子」「キリストの花嫁」と呼ばれ、何の恐れやためらいもなく、神の右の座に着くことができるのです。第三戒が書かれた理由、そして、聖書が書かれた理由は、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)のです。お祈りします。