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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヨハネの福音書8章31〜32節、36節 |
さ ん び | Opening Praise | 希望の歌 |
さ ん び | Praise | キリストが全て~All I Have Is Christ~ |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌34番「イエス君の御名は」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙2章1〜10節 |
聖書の話 | Sermon | 「負けられない戦い」
呉載炫 教師候補 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌323番「主よ御腕にわれを捉え」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
皆さんは、ミーティングはお好きですか?私たちは多くの場合それぞれの場(職場、学校、また教会も)で、たくさんの打ち合わせ、ミーティング、会議に囲まれています。1日に何件もミーティングが入っていると、少し疲れてしまう時がありますね。本当にお疲れ様です。
今日お読みしたガラテヤ人への手紙2章の前半は、使徒パウロのミーティングの様子が書かれています。とても大事なミーティングでした。
この時のミーティングで決まったことは、教会において、また、私たちの信仰生活にとって非常に大事な意味を持つものでした。パウロにとって、絶対に負けられない戦いが、この会議にはあったのでした。
ですから私たちは、この箇所を読み過ごすことなく、注意深く読んでいきたいと思います。会議の全体像を把握していただくために1節から10節を読みましたが、本日の説教では1節から5節にフィーチャーして、次の三つのことを共に考えましょう。
一つ目は「チームパウロ」です。エルサレムでの会議に向かうパウロ一行と、そこに感じられる緊張関係について確認します。二つ目は「割礼問題」です。ここではテトスに対する教会のリーダーたちの決定について見てみます。三つ目は「負けられない戦い」です。この会議で、パウロは一貫して強固な態度をとっていますが、その理由について学びます。
まず、一つ目のポイントは「チームパウロ」です。パウロはガラテヤ人への手紙1章の後半から、証しの形で語っています。今日の箇所も同じく、主がなされたことを振り返り、ガラテヤの教会たちに訴えています。
1節で、パウロは「それから十四年たって」と言っています。パウロは働きの間、何回かエルサレムを訪問しました。今回のエルサレム訪問はそのうちの一回です。
14年の間、パウロは宣教旅行を続けながら、色々な地方でたくさんの人に福音を伝え続けました。最初にエルサレムに行った時、パウロは一人でしたが、今ではチームで働いています。今回はバルナバとテトスが会議に同行したとあります。
バルナバはどんな人ですか?バルナバは当時、アンティオキア教会でパウロと同労していた仲間です。バルナバという呼び名は慰めの子、励ましの子という意味です。その名の通り、バルナバは寛大で隣人を愛することに優れた、聖霊と信仰に満ちた立派な人でした。
もう一人、テトスはどんな人でしたか?パウロの近くで苦楽を共にした、パウロがとても信頼する後輩の牧会者でした。また、テトスはユダヤ人ではありませんでした。親のどっちかがユダヤ人というわけでもなく、当時の見方では、異邦人出身のクリスチャンでした。それまで教会にはいなかった新しいタイプの信者でした。
パウロが1節で、テトスを同行させたことをわざわざ記しているのは、ある意図があったように思われます。教会には、ユダヤ主義者たち(キリストに立ち返った異邦人も、ユダヤ教のしきたりを守らなければならないという人たち)の問題がありました。
テトスを連れていくことによって、教会は異邦人クリスチャンにどのように接するか、教会の一致と福音の純粋さを保つための試験に立たされました。どんな試験ですか?このギリシア出身の若手牧会者に、ユダヤ宗教の風習を守らせるのかどうかということです。この話題は後ほど3節で扱います。
2節です。「私は啓示によって上ったのです」。使徒の働きによると(15章)、当時アンティオキア教会にも、ガラテヤの教会同様、ユダヤ主義者たちの問題がありました。アンティオキア教会はパウロたちをエルサレムに派遣し、このことを議論するように決めました。
パウロは主からの啓示によって、教会による派遣を受け入れました。私たちが前回の説教で確認したように、イエス様は、使徒パウロと直接交わりました。使徒パウロに何か神通力みたいな特殊能力があったからではありません。イエス様が、ご自分の目的=教会を立て上げ、人々を信仰にあって励まし、新約聖書の多くの部分を記録させるために、この時代に、パウロを特別に用いたということです。
9節によると、主はパウロをエルサレムに送ると同時に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネなど、他の教会のリーダーたちも集めました。エルサレムに集まった教会のリーダーたちは、パウロが異邦人の間でしている働きが、ユダヤ人の間で起きている働きと変わらないことを知ることができました。
主イエスはパウロを任命し、異邦人の間でご自分の福音を伝える働きに立てました。ユダヤ人クリスチャンと同じように、異邦人の間でも、福音を聞き、主に立ち返る人々が起こされていることが確認されました。
主はこの会議において、パウロの伝える福音は他の使徒たちが伝える福音と同じものであることを承認しました。エルサレムでの会議は、アンティオキア教会で人々を惑わすユダヤ主義者たちの教えではなく、パウロの伝える福音が、福音であると認めたということです。
2節の後半には、おもだった人たちが会議に参加したとあります。当時の教会で、有名な人たちがいたということですね。おそらく、パウロの反対者たちはこう言ってパウロの教えを卑下していたのでしょう。「エルサレムの有名なリーダーたちは、あなたの言うことと違うことを言っている」、「私は有名なリーダーたちの言うことは信用するけど、パウロあなたの言うことはちょっとねえ」。
しかし、エルサレムでの会議で他のリーダーたちは、パウロを自分たちと同じ使徒として受け入れました。主が召集されたこの会議で、パウロは異邦人の間で伝えている福音の内容を分かち合いました。公式の会議や、個人的な交わりでも、パウロの伝える福音に異議が唱えられることはありませんでした。
つまり、パウロが異邦人の間で伝える福音=人は、イエス・キリストを信じることで救われる。他は何も必要ない、というメッセージは間違いではないということが、教会全体で確認されたということです。パウロの異邦人宣教は無駄なこと、間違いではなかったことが分かりました。
次に、二つ目のポイントは「割礼問題」です。3節です。「しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした」。ユダヤ主義者たちは、テトスに割礼を受けるべきだと言っていたのでしょう(ガラ2:4、使徒15:5参照)。
先ほど確認したように、テトスはギリシア人でクリスチャンになった人です。割礼は受けていません。そんなテトスをユダヤ主義者たちは攻撃したのでしょう。彼らは救われるために、ユダヤ宗教のしきたりを、キリストの教会でも同じように守らなければならないと言う人たちでした。
では、ユダヤ主義者たちはどうして割礼に執着したのでしょうか。他にも色々なしきたりを守らなければならないと言いながら、テトスに関しては割礼のことを問題にしました。この問題を理解するために、ここで割礼に関して再確認しておきたいと思います。
割礼を理解するために、神様の契約について思い起こしていただきたいです。主なる神様は、契約を通して恵みを施される方です。神様は、人に恵みを与える方法として、契約という形を取られました。
旧約聖書の創世記にはアブラハムという人が登場します。神様はアブラハムのところに来られ、一方的に、恵みを与えると言いました。万物の造り主なる神が、アブラハムをご自分の家臣、しもべとし、主権的に契約を結ばれました。
契約の内容はこうです。子がいないまま老年になっていたアブラハムに子どもを与え、彼の子孫を大いなる国民にすると言われました。神様が、アブラハムとアブラハムの子孫の神となり、アブラハムとアブラハムの子孫を神様の民としてくださいます。そして、アブラハムの子孫を、永遠の相続財産としての約束の地に導くと言われました。
創世記17章10-14節によると割礼は、この契約のしるしでした。「10次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる」。
この契約のしるしを体に受けるのは、契約をお与えになった真の神様に対する信仰を証しするものでした。「私は神の民です」というしるしです。契約を必ず守ってくださる真実な神様を信じますというのが、割礼です。旧約の時代において割礼を拒むのは、神様の契約を拒むこと、不信仰を意味するものでした。
では、不信仰とされないために、また、神の民であるしるしのために、私たちも割礼を受けなければならないのでしょうか。私たちはイエス様を信じて、神の民に加えられたはずです。では、私たちのしるしは、どこにあるのでしょうか。私たちにとって、割礼の問題は一体、どうなったのでしょうか。
それはすべて、キリストである主イエスが地上に来られた時に、解決されました。主はより良い形で割礼を成就されました。人は体に血を流して割礼を受けていました。イエス様は私たちのために十字架につけられました。イエス様が血を流して、私たちの割礼となってくださいました。このことをコロサイ人への手紙2章11−12節は次のように説明します。
「11キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。12バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです」。
信仰者は、キリストにあって洗礼を受けました。洗礼はキリストの割礼です。より優れたしるしが与えられているので、わざわざ体に傷をつけて、人を悩ませたり、苦しみを与えたりすることは、キリスト者にふさわしくありません。イエス様が、私たちの代わりに血を流されたからです。
もっとも、割礼を受けなければ救われないと教えるべきではありません。体に割礼を受けることが、人を救うのではありません。私たちはキリストを信じる信仰によって救われました。キリストの血潮によって、神の民とされました。
教会の中のユダヤ主義者たちは、このことを誤解・曲解していました。自分たちは、既に体に割礼を受けていました。新しくクリスチャンになった外国人に対して、民族的な、宗教的なプライドがあったのかもしれません。「私のようにユダヤ宗教のしきたりを守りなさい」、「体に傷をつけるくらいしなければ、本当に救われたとは言えない」。
こう言って、ユダヤ主義者たちは、自分を誇っていました。キリストの福音の他に、人の努力を要求しました。「イエスを信じることの他に、割礼の努力、体の犠牲がなければ救われない」、「救われるためには、あなた自身が頑張らなければならない。私のように」ということでした。
ここでしばし、私たちも自分の心の中を振り返ってみましょう。教会の中で兄弟姉妹を判断したりしてはいませんか?「キリスト者はこうでなければならない」、「あの人はクリスチャンっぽくないね」、「救われた人の態度ではない」などと。
こういう思いはどこから来たのでしょう。隣人と自分を比較して、自分の方が優れていると思う気持ちあるのかもしれません。しかし、覚えていただきたいです。イエス様は私たちが判断しているその人を愛して、死なれました。私たちの目には、態度が悪そうに見える人でも、その人は既に、神の御子のいのちを受けています。教会の中では、他人を見下したり、ジャッジしてはいけません。
ユダヤ主義者たちの主張に対する、教会のリーダーたちの意見はどうでしたか?エルサレム会議は、テトスに割礼を受けることを強制することはしませんでした。テトスが無理やり割礼を受けなければならない状況にならなかったということです。ユダヤ主義者たちの主張は退けられました。
エルサレム会議は、ユダヤ主義者たちの主張を一部容認したり、両方の顔色を伺って継続審議みたいな曖昧な結論を出しませんでした。はっきりと、人は救われるために、割礼を受ける必要がないことが、教会によって確認されました。
最後、三つ目のポイントは「負けられない戦い」です。4節によると、会議には「忍び込んだ偽兄弟たちがいた」ことが分かります。パウロは、ほかの福音に騙されて、それを教える人たちについていったガラテヤの人々のことは「兄弟たち」(ガラ1:11)と呼びました。
しかし、間違った教えを説くリーダー格の人たちについては偽兄弟、つまり、彼らは兄弟ではないと、強い言い方をしています。教会には、彼らの居場所はない、あってはならないと言っているようなものです。パウロがここまで強固な姿勢を示すのはどうしてでしょうか。
ガラテヤやアンティオキアの教会で教えていた偽兄弟たちは、堂々と彼らの教説を広めました。エルサレムでの会議の時も、そうでした。使徒の働きを見ますと、「パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり(使徒15:5)」、「多くの論争があった(使徒15:7)」とある通りです。彼らは隠れてコソコソするどころか、教会の中に忍び込み、指導的な立場につき、リーダーたちの会議にも出席していました。
現代でも、ある異端宗派の人たちは、教会の中に忍び込み、堂々と徒党を組み仲間を増やしていきます。私たちはこういった者たちを受け入れず、警戒すべきです。あいさつのことばをかけてもいけません(Ⅱヨハ1:9-11参照)。
さらに4節の後半で、パウロは続けます。「彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです」。異端宗派だけではありません。キリスト者がイエス様からいただいた自由を奪い、自分たちに隷属させようとする偽兄弟たちがいましたし、もしかしたら、キリスト教界隈にまだ存在しているかもしれません。
教会に来る時の服装とか、男女は礼拝堂の左右に分かれて礼拝すべきだとか。また、文化においては、娯楽のために映画を見るべきではないだとか。さらに、あれこれ飲んだり食べたりしてはならないなどと言って、足枷を課す人たちがいないと、言えない歴史がありますね。福音の本質とはかけ離れたところで、信仰者の自由を快く思わない人たちがいます。
こういった主張に耳を貸すと、人はどうなるのでしょうか。「これさえやればいい」、「これさえしなければいい」といったような具体的な規定は、人の宗教的な熱心と結合しやすいです。何かをすることや、しないことが信仰や霊的なレベルにまで、格上げされてしまうものです。
もちろん、自分の体と霊的な健康のために良いものを選ぶことはいいことですし、大事です。しかし、私たちの信仰生活において、福音の本質と関係のないものが意味を持ちだすと、注意が必要です。いつの間にか、自分のこだわりが、敬虔であるように思えてしまいます。
ユダヤ宗教の教師たちは、聖書に基づかない様々なルールやしきたりを作り、これを信仰の事柄にしました。また、このユダヤ教からキリストの教会に入ってきた人たちが、ユダヤのしきたりをそのまま教会に持ち込み、福音にユダヤのしきたりを上乗せしようとしたことに、通じるところがあるように、私には思えてなりません。
イエス様は地上に来られ、福音を明らかにしてくださいました。私たちは、ただ聖書のみによって、この事実を知ることができます。主が地上におられる間、神様のことばにすべて従ったきよい生活をされ、そして、十字架にかけられて死に至るまで従った、キリストの完全な服従です。私たちはこの事実を信じることによって、神様に良しとされ受け入れられます。救われます。
聖書のどこを見ても、「あなたは救われるためにこれを頑張らなければなりません」、「毎日自分を振り返り、心を痛めて、宗教的な心構えを維持しなければ救われません」、または「異言で祈れないと天国には入れません」と書かれていません。
ただ、信仰によって救われます。この信仰も、神様の永遠のご計画のもとで、聖霊様によって与えられたものです。私たちは自らの罪によって死んでいました。自分の罪に気づくこともできず、思いと言葉と行いによって、神様に逆らう者でした。「神なんて信じない」、「イエスの復活が私と何の関係があるの?」と言っていた者でした。この世を造り、愛し、ご自分のひとり子をお与えになった神様を冒涜する者でした。造り主、贖い主なる王に敵対していたのが、この私です。
私たちは、何をして、神様に対する反逆罪を赦していただくことができるのでしょうか。神様の御子への侮辱罪を、何によって赦していただくことができるでしょうか。私たちは無力です。何もすることができません。
ただ、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、私たちに対するご自分の愛を確証してくださった神様の愛、神様の恵みに頼るしかありません。このキリストの福音に、人は自分の努力、頑張り、宗教的なこだわりのような、汚れていて、価値のないものを加えようとしてはなりません。
ですから、5節にあるように、エルサレム会議はユダヤ主義者たちに一つも譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。主イエスは、ご自分のしもべパウロ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、バルナバらを通して、教会に純粋な福音を守ってくださいました。
会議にはたくさんの反対者たちがいましたが、主にあってリーダーたちは1ミリも譲歩しませんでした。この時リーダーたちが「さあさあ、ここまで言ってるんだから、折衷案を作りましょう」と言ってしまっていたのなら、私たちはいま福音とは異なるもの、人をがんじがらめにする教えの奴隷になっていたのでしょう。負けられない戦いは、ここにありました。
メッセージをまとめます。イエス様は、この会議を通して、教会の中のキリスト者の自由を守りました。福音は私たちを自由にします。罪は赦され、永遠のいのちが与えられました。
今日はもう一つ覚えていただきたいです。イエス様は、私たちを次のようなものから自由にしてくださいました。イエス様の救い、神様のご好意を獲得するために、「あなたはもっと頑張りなさい」、「努力しないと捨てられるよ」といった間違った教え、偽りの声からの自由です。
イエス様は、テトスが割礼を受けたかどうかに関係なく彼を受け入れました。同じように、主は信仰者のことを、その行いによってではなく、ご自分の愛によって祝福へと招いてくださいました。この一週間、私たちはイエス様を見上げ、イエス様の与えてくださった自由のうちに憩い、楽しむことができますように、主にあって願います。お祈りを致します。