2025年7月20日礼拝 説教 「憐れみ深くもてなすイエス様」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇111篇2-6節
さ ん び Opening Praise 感謝と喜びを
さ ん び Praise 御名を掲げて

Lord, I Lift Your Name on High

開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌45番「神の子羊」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書6章1-21節
聖書の話 Sermon 「憐れみ深くもてなすイエス様」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌432番「いつくしみ深き」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きます。何回も、何回も、言ったのに、兄弟が話を聞かなかったり、親が話を忘れたり、お友達がその話を大事にしないときってありますか?ありますよね。そのようなときは、どのような気持ちになりますか?モヤモヤしますね。私だったら、イライラしますし、その人ともう関わりたくないと思います。「また言っても、聞かないでしょ」とあきらめると思います。それは普通だと思います。

 

イエス様は同じような立場でした。何回も、何回も、いろんな人たちに「私は神の子です!私を信じたら、永遠のいのちがあります!」と言い続けました。自分の家族も、自分の弟子たちも、多くの人が、そのお話しを聞かなかったり、話を忘れたり、大事にしなかったのです。多くの人は、「その話よりも、私の病気を治して!」としつこく言い続けたのです。私だったら、もうイライラして「もう関わらないで!」と言うと思います。だけど、イエス様は、その逆のことをされました。みんながイエス様と過ごせるようにたくさんの用意をしたのです。その理由は何だと思いますか?もしみんながイエス様の話を理解しないと、みんなは永遠のいのちをもらうことができないからです。ですから、私たちがイエス様の話を何回も忘れてしまっても、私たちが永遠のいのちをいただくように、イエス様は私たちにいろんな恵みを用意され、私たちに救いの福音を一生懸命教えてくださるのです。そのような愛に満ちた方です。今日の聖書箇所を見ていきましょう。

 

「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書の始まりは、いくつかの証人の証言で、多様な背景から来ています。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。それは、実際にお会いして対話した本物のイエス様と、証人たちそれぞれが抱いていたイエス様のイメージは全く違っていたという事です。そして、この証人たちの体験を通して、著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの反応をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。

 

ヨハネ1章から4章までの中で、イエス様の話を信じたい人もいましたし、イエス様の話を聞き続けたかった人ももちろんいました。しかし、多くの人たちは、イエス様の話の信じがたいところは無視して、信じやすいところだけを信じました。具体的に言うと、イエス様が「神の子」であること、すべての人を裁く「人の子」であること、復活と永遠のいのちを与える「安息の主」であることなどについては「それはちょっと…」と思った人が多かったようです。それどころか、エルサレムのユダヤ人たちはイエス様を冒涜罪で訴え、彼を殺そうとしました(ヨハネ5:18)。しかし、いろんな人たちを癒されたイエス様の力を見て、「イエス様は最高の医者だ!神の手だ!」というふうにイエス様を信じ、イエス様を追いかけようとした人も多くいました。しかし、それをご覧になったイエス様は、どちらのケースをも問題視され、5章のユダヤ人たちへの説教で、こう結論付けられました。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。 わたしは人からの栄誉は受けません。 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。」(ヨハネ 5:39-42)

つまり、イエス様の言葉のすべてをーイエス様が「神の子」であること、すべての人を裁く「人の子」であること、復活と永遠のいのちを与える「安息の主」であることーそれらを信じないのなら、旧約聖書も信じておらず、聖書の神様をも愛していないことになるという結論でした。イエス様が唯一の永遠のいのちの源である事を信じない人は、神様ご自身を拒んでいるということでした。イエス様は、ストレートに、神の民に何が問題なのかを話されたのです。

 

しかし、今日の6章を読むと、神の民が、イエス様のことばを全く聞き取ってもいないし、全く理解していない様子が見えます。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。」 (ヨハネ 6:1-2)

イエス様は冒涜罪で訴えられたので、大事にならないように、田舎のガリラヤ湖周辺へ行かれました。しかし、2節に書いてあるように、大勢の群衆がイエス様について来たのです。「神の子」としてでしょうか?永遠のいのちを与える「安息の主」としてでしょうか?すべてを裁く「人の子」としてでしょうか?彼らは、そのどれでもなく、ただ「病人をいやす者」としてついていったのです。大群衆は、イエス様ご自身にというよりも、ただ、イエス様の癒しの力に興味があったのです。私たちも同じかもしれません。先月、私たちはヨハネ5章のイエス様の説教を聞きましたが、私たちは、イエス様ご自身とイエス様のお言葉よりも、イエス様の癒しの力だけにひかれ続けているのかもしれません。

 

もし私がイエス様の立場だったら、モーセと同じように、イライラして「どうしてこんな頑なな民を私に与えたんだ!私が何回教えても、全然聞かない!」と神様に訴えたかもしれません。しかし、イエス様はそうなさいませんでした。イエス様はある山に登られ、弟子たちと腰を下ろし座られて、「目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」 と質問されました。群衆たちはイエス様のことを、ただ、問題を解決してくれる自動販売機のように見ていたかもしれませんが、それでも、イエス様は彼らをどうもてなすかだけを考えておられたのです。

 

それだけではありません。ヨハネの福音書の中で、イエス様が「目をあげて」大群衆を憐れんだ箇所がもう一つあります。イエス様がサマリアの女に福音を伝えた後、その女がサマリアの町々に福音を宣べ伝えたとき、大勢のサマリア人がイエス様へと向かって行きました。そして、その大勢のサマリア人をご覧になって、イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)要するに、著者のヨハネがほのめかしているのは、イエス様は、頑なな大群衆の事を「負担」として御覧になってはいないという事です。「ああ、神様がくださった収穫がきた!」と思われたのです。ですから、群衆たちの動機がどうであれ、イエス様は、彼らをもてなそうとされ、ご自分のことを教え続けようとされたのです。私たちの動機がどうであれ、イエス様は、同じように私たちを見て下さるのです。

 

イエス様はご自分が何をしようとしているのかを知っておられましたが、弟子たちの理解を試されたかったのです。今までのイエス様の話を表面的に理解しているのか、または、核心まで理解しているのか。皆さんも驚かないと思いますが、弟子たちも群衆と同じレベルでした。その土地のことを一番よく知っていたベツサイダ出身のピリポは「180万円(200デナリ)あっても、この大群衆なら、一人一口しか食べる事はできない」と答えました。アンデレも、「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」今までイエス様の話を聞いていた弟子たちも、群衆も、いつも一つの点でイエス様を誤解していました。イエス様が差し出される「しるし」を文字通りに受け止めて、しるしが指している真の意味を全く理解していませんでした。イエス様が「新しい神殿を三日で建てる」と言われると、「え、一人でこんな神殿を建て直すの?」と疑問に思いました。また、イエス様が「新しく生まれなければない」と言われると、ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」と馬鹿にしました。イエス様が「私は生ける、いのちの水だ」と言われると、「え、あなたは新しい泉を見つけたのですか?」とサマリアの女は思いました。イエス様が「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 と言われたたとき、「イエス様は、近くのコンビニで弁当買ったの?」と弟子たちは思いました。そして、イエス様から「私はあなたたちに永遠のいのちを与える」と聞くと、大群衆は「私の今の病気を癒してくださるんだ!」と思ったかもしれません。いろんな誤解はありましたが、一つのことで一致しています。イエス様ご自身を見ていなかったという事です。ですから、癒しのしるしだけを求めていた大群衆がイエス様の下に来たとき、イエス様は、新しいしるしを通して、彼らがイエス様ご自身を見るようにされたのです。

 

イエス様は、イエス様の力を疑っていた弟子たちの助けを一斉借りずに、牧会者のように群衆を草がたくさんあるところに導かれ、「5000人の男」を座らせました。子どもも女性もいたので、2万人もいた可能性もあります。イエス様は、少年の五つのパンと二匹の魚をとって、ご自分で、一人一人に、みんなが望むだけのパンと魚を与えられました。それまでのしるし-水をワインに変えられた奇跡、遠く離れた所から男の子を癒された奇跡、足の不自由な人を癒された奇跡ーと比べたら、規模が明らかに違います。そして、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになったとありますが、ある注解者(DAカーソン)は、イスラエルの12部族を表していて、イエス様ご自身が12部族のパンを用意することができる力もあると示唆していると言っています。つまり、イエス様ご自身が、旧約聖書の神様と同じように、荒野にいる神の民のすべてのニーズを満たすことができる力を持っておられる事が明確にされているのです。

 

それゆえ、この驚くべき大規模なしるしを通して、大群衆は、自分の目の前の問題から目をあげることができ、イエス様ご自身を見るようになり、こう告白しました。「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ!」と。「世に来られるはずの預言者」は、ただ癒しを与える超人ではないのです。奴隷制度から救い出したモーセを上回る預言者であり、「究極の救い」をもたらす人物なのです(参照申命18:15-19)。この瞬間、群衆の目が覚め、イエス様がただの先生、ただの超人ではなくなったのです。イエス様の癒しの力を見るよりも、イエス様ご自身を見るようになったのです。

 

しかし、まだまだ理解が足りないことがわかります。ヨハネ6:15「イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。」目の前の病気からの解放から、目の前にいるローマ帝国からの解放に焦点が移り変わっただけでした。そして、イエス様を「王」にしようとしたのですが、自分たちの王として恐れ従うよりも、自分たちの目的を果たさせるために、強引に、イエス様をエルサレムに連れて行こうと考えたのです。弟子たちも同じように思ったかもしれません。群衆と弟子たちは、イエス様ご自身に目を向け始めましたが、まだイエス様を受け入れていなかったのです。そのため、イエス様は、イエス様を「王」にしようとする大群衆から逃げ、再び一人で山奥に退かれ、神様に祈り始められたのです(参照:マルコ6:46)。

 

弟子たちは先に山から降りて船に乗り込み、カペナウムの方へと渡り始めますが、著者のヨハネは興味深いコメントを残します。「すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。強風が吹いて湖は荒れ始めた。」イエス様のおられない生活は、暗く、激しく、難しい道だと、著者のヨハネがほのめかしています。嵐の中で舟を漕いでいるときに、弟子たちは、強風で荒れ、揺り動いている湖を、堅い石の上を歩くように普通に歩いておられるイエス様を見て、非常に恐れたのです。ヨハネの福音書の流れの中で、この「水の上を歩く」と言うしるしをきっかけに、弟子たちは初めてイエス様の力を恐れたのです。なぜなら、「彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたから」(マルコ6:51)です。つまり、イエス様は、弟子たちの頑なな心を柔らかくするために、しるしを行われたのです。

 

そして、湖を歩かれていたイエス様は、弟子たちに何と言われましたか?「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様の「わたしだ」という表現は、聖書の神様が「わたしはある」とおっしゃったときと全く同じ表現です。ですから、イエス様ご自身はただの先生ではありません。ただの超人でもありません。神様ご自身であると、イエス様がおっしゃっているのです。

 

しかしながら、私たちを「救う」ために来られた聖なる聖なる聖なる神様なので、私たちも恐れることはないのです。イエス様の力をいろんな形で見ることができましたが、イエス様の恐ろしい程の力強さをさらに表すしるしは確実にあったと思います。しかし、この二つの印によって、イエス様の力が2万人を養うため、頑なな弟子たちを助ける為、ご自身の本性をわかりやすく示す為に使われたことが分かります。

 

今日のお話を聞いて、皆さんも色々なことを感じているかもしれませんが、三つのことを覚えていただきたいです。まず、しるしだけに飢えている私たちでも、イエス様は私たちを顧みられ、憐れみ、存分にもてなしてくださいます。

 

はっきり言いたいのは、私たちは五つのパンと2匹の魚を差し出すかわいい少年ではありません。私たちは、イエス様が言われることの反対の事をし、癒しのしるしに飢えている大群衆です。私たちは、自分たちの先生をちょっぴり馬鹿にするピリポとアンデレです。イエス様が「私は世界の罪をきよめることができる神の羊だ!」「私は、あなたの人生を楽しくする最高のぶどう酒だ!」「私があなたの心の渇きを満たすいのちの水だ!」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは私を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである!」という話を何回されても、私たちは大群衆のように、イエス様を田舎まで追いかけて、「どうか私の痛いところを癒してください」とだけ求めます。神様がエジプトを倒され、海を割って神の民を救われたにもかかわらず、神の民が神様に水がないことや、パンがないことをブーブー言っているようなものです。多くの場合、私たちは、かわいい少年ではなく、しるしだけに飢えている大群衆であり、ちょっぴり態度の悪い弟子たちなのです。

 

しかし、イエス様はそれを御覧になるとき、私たちの鈍感さと自己中心さに抵抗感はもたれません。むしろ、私たちが求めている「しるし」以上に、存分に、恵みを与え、私たちをもてなしてくださるのです。イエス様は、私たちの動機がいいから愛して下さるのではありません。私たちがイエス様を表面的に理解していたとしても、イエス様はもうすでにあなたを恵もうと計画されています。ですから、大胆にイエス様に助けを求めましょう。

 

次に覚えていただきたいことは、自分たちが望む救いを手に入れるために、強引に「王」にさせようとする私たちからイエス様は逃げられます。

 

イエス様が私たちを存分にもてなして下さることを、私たちが勘違いしないように気を付けないといけません。イエス様は、私たちを癒して下さったかもしれません。私たちを何かから守ってくださったかもしれません。私たちに何かを恵んでくださったかもしれません。しかし、イエスが恵みを与えてくださる時、勘違いしてはいけません。あるとき、私たちは、心の中でこう考えてしまいます。「もし神様が、私が今必要としている『あれ』を与えてくださるなら、私は神様を信じる。」「もし神様が、私や子供の状況をもう少し整えてくださったら、私はもう少し神様に従おう。」「もしイエス様が、このしるしを見せて下さるなら、私はこの罪を手放そう。」私たちは、無意識に、このようにイエス様を強引に自分のイメージにそって造り変えているかもしれません。イエス様は、私たちの願いをかなえるための、王様ではありませんし、魔法のランプの魔人「ジー二―」でもありません。どれほど力強い存在であっても、「ジーニー」は奴隷でした。イエス様は、人間の欲望に仕える奴隷ではありません。もし、イエス様をそのように見ているのであれば、イエス様はあなたから去ります。

 

イエス様が奇跡的に、2万人の人に魚とパンを用意した理由は、ただただ大群衆の腹を満たすためではありません。イエス様が大群衆に「望むだけ与えられた」理由は、イエス様を「神様の御言葉を語られる、神の子」と見ることができる心の余裕を与える為だったと思います。私たちが望んでいる余裕を、イエス様が与えて下さるとき、私たちはイエス様を神の子として見て、信じて、従っているでしょうか?

 

最後に覚えていただきたいことは、頑なな私たちがご自分の本性を見えるように、イエス様は、嵐の中で水の上を歩まれ、私たちを驚かせます。

 

私たちは 恵まれると、多くの場合、富と快楽で心が頑なになって、イエス様を見る気がなくなります。ですから、イエス様は、あえて弟子たちのように、私たちをイエス様の守りから離れた、暗く激しい試練に送るときがあります。それは、自分で頑張って漕いでも漕いでも、なかなか抜け出せない問題かもしれません。また、強風が激しすぎて、何も予測できないような、自分のコントロールの外にある状況かもしれません。今、そのような、カオスを経験している方もおられるかもしれません。

 

しかし、イエス様は、そのようなカオスの上を何事もないかのように、普通に歩かれます。イエス様は、いろんな奇跡を行うことができましたが、そのしるしを意図的にされました。聖書では、海は「カオス」と「死」を表すものです。そして、神様は、カオスの死の海を、自由にコントロールされる唯一の存在なのです(ヨブ38:8-11; 詩篇29:3-4, 10-11; 65:5–7; 89:9; 107:23–32)。それゆえ、イエス様は、頑なな私たちに、ご自分の本性が見えるように、私たちが経験している死のカオスの嵐の中で、水の上を歩まれたのです。イエス様は死から蘇られ、ご自分の本性をお見せになられたのです。水の上を歩かれる以上に、イエス様は、すべての人が向き合っている「死」の上を何事もないかのように歩まれたのです。

 

それを見た弟子たちは、どうしましたか?「死から蘇ったね!」と軽々しく言いましたか?むしろ、その正反対です。蘇られたイエス様を御覧になったとき、弟子たちは恐れおののいて、イエス様を神様として礼拝したのです。 私たちが弟子たちのように鈍感になっていても、イエス様は私たちを見捨てられません。イエス様は、私たちがへりくだって、イエス様を受け入れ、信じ、従うことができるように、私たちに必要なことをして下さいます。そして、蘇られたイエス様は、弟子たちに近づいて言われたように、私たちにも、こうおっしゃいます。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」ですから、私たちもイエス様の蘇りのしるしをみて、恐れることなく、イエス様を天においても地においても、すべての権威を持っておられる救い主として、信じて従っていきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church