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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌184番「朝日が昇り1-3番」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌460番「約束の地に」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 ペテロの手紙第一1章3-9節
聖書の話 「私たちに生ける望みを持たせてくださった神様がほめたたえられますように」
ジョン・コウ神学生
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌4番「父なる神 力の主よ」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子どもたちに質問をしたいと思います。どこかへ旅をするときに、どんなことを考えておかないといけないですか?例えば、どこに行くか、なんで行くか、移動中に何をするか、など。例えば、突然私が「明日旅に出ます!」と言ったら、いろんな疑問を持つと思います。「どこに行くのか」とか「なんで旅に行くのか」など。つまり、ちゃんと目的がないと、旅をする必要はないです。
イスラエルの民は40年間荒野の中に寄留していました。そう思うと、まるでイスラエルの民は旅の目的がないかのように見えますが、聖書に書いてあるように、イスラエルの民はちゃんと目的がありました。神はモーセを通してイスラエルの子らにこう告げました:「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなた方を連れて行き、そこをあなたの所有地として与える。わたしは主である。」(出6:8)。つまり、イスラエルの子らの寄留の目的は神様が約束した所有地でした。
約束の地を望んでいたイスラエルの子らが寄留していたように、ペテロの手紙第一の宛先へのあいさつを読むと、ペテロは宛先を「寄留者」と呼びます。旧約時代のイスラエルの子らでも、新約時代以降の私たちでも、キリストの再臨が来るまで神様から約束された資産を待ち望む「寄留者」なのです。なので、荒野におけるイスラエルの子らの寄留に照らして本日の箇所を理解していく必要があります。
そして、寄留者である私たちも自問するべきことはいくつかあると思います。神様が私たちに約束している資産とは何か。その資産を待ち望みながら、今はどうやって生きていくべきなのか。なんで神様は私たちに資産を最初から約束したのか。これらのことを答えるために、今日の箇所を三つの部分に分けました:①喜びに満ちた希望。②待ち望む信仰。③ほめたたえに至る愛。
① 喜びに満ちた希望
さて、私たちに約束されている資産とはなんなのかをまず見ていきたいと思います。先ほども述べましたように、イスラエルの子らは神様がアブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地を、所有地として与えたとわかりました。そして創世記12章を読みますと、神様がアブラムにその約束を誓っている記録があります。「主はアブラムに言われた。あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。」(創12:1)そして、神様に導かれていたアブラムがようやくカナンの地にたどり着いたときに、神様はアブラムに次のように言いました。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」(創12:7)つまり、イスラエルの子らが望んでいた所有地は神様がアブラムに与えると誓ったその地、カナンの地でした。
しかし、本日の箇所の4節を見ますと、ペテロは私たちが神様から受け継ぐ資産を「朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない」物として表現しています。では、もし旧約時代の神の民と、新約時代以降の私たちが望んでいる資産が同じ資産だと言ったら、この「資産」という物をどうやって理解すればいいのでしょうか。カナンの地は朽ちることも、汚れることも、消えていくこともできる物ですので、矛盾があると感じる方もいるかもしれません。しかし、ここで矛盾はありません。なぜなら、神様が私たちに約束してくださった資産は地上にある資産ではなく、天にある資産なのです。カナンの地は、神の民が受け継ぐ究極の所有地そのものではなく、その天にある私たちの所有地がいかなるものであるかを象徴するためのものとして与えられました。
イスラエルの子らの罪とは、神様に約束された資産は天にある資産だと信じなかったことです。へブル人への手紙3章16~19節にそう説明されています。
「では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。神が四十年の間、憤っておられたのは、彼に対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。」
しかし、アブラムはイスラエルの子らと違って、神様に信仰を置き、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を待ち望んでいました。へブル人への手紙11章13~16節はアブラムの天にある資産への望みを明確に説明していると思います。
「これらの人たち(アブラムを含め)はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにこれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出てきた故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」
したがって、私たちの望みは朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない天にある資産です。私たちがこの天にある資産を待ち望めること自体が喜ぶべきことです。なぜなら、3節に書いてあるように、「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」つまり、私たちが見る事のできない天にある資産に対し、喜びにあふれた希望を抱くこと。それ自体が神様からの賜物なのです。聖霊様はアブラムの心に信仰をお与えになり、カナンの地を目にした時に、天の故郷を待ち望む信仰を確かにしてくださいました。同様に、私たちの中にも同じ聖霊様が信仰を与え、天の資産を望み続けることを確実にしてくださいます。
私たちのこの信仰は確かなものです。なぜなら、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのが確実であるように、私たちをもまた新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。もしイエス様が死者の中からよみがえらなかったら、私たちも生ける望みはありません。パウロはローマ書6章8~9節にこう書いてあります。「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。」つまり、キリストが死ぬことがありえない限り、私たちの信仰が失われることはありません。
したがって、私たちは寄留者として、満ち溢れる希望を授かっています。しかし、その希望を抱きつつ、私たちはどのように寄留者として歩むべきでしょうか。
② 待ち望む信仰
本日の箇所の5節から続きを読みます。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。」
悲しみも、叫び声も、苦しみもない天にある私たちの約束の地が現れる前までは、私たちは様々な試練の中で悲しまなければなりません。しかし、終わりの日まで待ち望む信仰は3~4節に読まれましたように神様から与えられた賜物なのです。そして、5節には、信仰により、神の御力によって終わりの日まで私たちは「守られている」と、ペテロは信仰に関して説明を付け加えています。
さて、私たちは信仰により、神の御力によって「守られている」とはどういう意味なのでしょうか。ペテロはこの手紙の中にはあまり詳しく説明していませんが、へブル人への手紙にまた戻りますと、もう少し理解ができると思います。安息の地までたどり着くイスラエルの子らの寄留に関して、へブル人への手紙4章1~2節にはこう書いてあります:
「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。というのも、私たちも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。」
つまり、物理的な約束の地に入ったのにもかかわらず、イスラエルの子らは究極的な、天にある約束の地に入ることができません。なぜなら、へブル人への手紙が書いてあるように、「彼らには、聞いたみことばが益とならなかった」からです。もしもイスラエルの子らが御言葉を信じ、アブラハムのように遠くから天の故郷を喜び迎えていたのなら、彼らも神の安息の地に入ることができたのです。
しかし、御言葉を信じる私たちには、よい知らせがあります。へブル人への手紙の続きにこう書いてあります。「信じた私たちは安息に入るのですが、「私は怒りをもって誓った。『彼らは決して、私の安息に入れない』」と神が言われたとおりなのです。」御言葉を信じない者にとっては、神様が誓われたように、決して神の安息に入れないのです。しかし、私たちは神様の安息に入る確信があります。それが信仰なのです。そういう意味で私たちは終わりの日まで守られています。例えば、来週ディズニーランドに行く予定を家族とたてるとします。来週までの準備の一つはウェブでチケットを買うことですよね。もしチケットを買っていたら、「来週、本当にディズニーランドに入場できるのかしら」と悩む必要はないです。なぜなら、チケットを手に入れたから、入場も確実です。同じように、私たちも安息の地に入る約束があります。それは、信仰という賜物です。
では、ペテロは6節よりこの信仰についてもう少し具体的な説明を付け加えていきます。6〜7節はこう書いてあります。
「そういうわけで、あなた方には大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなた方の信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉をもたらします。」
今読んできた通り、私たちの信仰は試されます。精錬工が火を使って金を溶かすように、神様も私たちの様々な試練を使って私たちの信仰を試します。しかし、信仰が試されるのは、信仰を失わせようとするためではありません。精錬工が火を使って金を溶かすように、神様も私たちの様々な試練を使って私たちの信仰を試します。試練は私たちの信仰が失敗するために置かれていません。むしろ、その真逆のためです。試練を通して、私たちの信仰の精錬工である神様がもっと高価な信仰を作ってくださるのです。
もう一つのたとえを言いますと、信仰は約束の地への入会の条件とは違います。私が軍隊にいた時、「Naval Diver Unit」という特殊な部隊がありました。ある意味、アメリカの「Navy SEALS」のシンガポール版といえるでしょう。この部隊に入るためには、候補者は数か月間の非常に大変な通過儀礼を経る必要があります。もし途中でついていけなくなったら、その候補者は通過儀礼から脱落し、部隊に入隊することはできません。信仰者である私たちは天の約束の地の候補者ではありません。そして、試練は通過儀礼ではありません。「誰が試練を通して信仰を失うか」とか「いろんな試練を通って最後に残るのは誰だ」ということはされていません。ペテロが書いたように、精錬工である神様が私たちの信仰をより高価な物とするために試練を通らせているのです。そして、変わらない事実は、信仰は約束の地へのチケットです。神様からの賜物です。
③ ほめたたえに至る愛
最後に、そして最終的に私たちが自問するべきことは、なぜ神様は私たちに朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を約束するのですか?なぜ神様は信仰の賜物を私たちに下さるのですか?なぜ神様は私たちの信仰を火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価なものとして下さるのですか?その答えはパウロがローマ人への手紙11章36節に書いているように、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」神様が行うことすべては御自分の栄光のためであります。したがって、本日の箇所で神様が私たちにしてくださったすべてのことがどのように神の栄光につながるのかを見ていきたいと思います。
本日の箇所の初めに戻りますと、冒頭から書き出す文字は神様への賛美です。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、御自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」とペテロは書きます。ここでペテロが神様の「あわれみ」そしてその「御力」を両方明確に認識しています。死者をよみがえらせる力をお持ちの神様が、その深いあわれみによって私たちを新しく生まれさせました。そして、エペソ2章5節に書かれているように、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」キリストが死者の中からよみがえられたように、私たちもキリストとともに新しく生まれました。神が私たちをお選びになって、私たちに新しく生まれさせてくださったあわれみは、御自分の栄光のためであり、私たちがその栄光へのほめたたえに導くためです。
私たちのあわれみ深き父なる神様がすべての賛美と栄光を受けるのにふさわしいように、御子イエス様もいかに私たちの賛美と栄光を受けるにふさわしいかを見ていきましょう。荒野で寄留していたイスラエルの子らは神のしもべモーセに文句ばかり言っていました。モーセの死後にイスラエルの子らを約束の地へ導くヨシュアが任務を引き継いだ後でも、私たちが見るのはイスラエルの子らの罪と弱さばかりです。しかし、ヨシュアが最後まで堅く立ち、ひたすら主に信頼し続けたので、イスラエルの子らは約束の地へ入ることができました。私たちが焦点を当てるべきものは、不信仰なイスラエルの子らではなく、神の民を約束の地へと導いた忠実な指導者ヨシュアです。そして、神の民を約束の地へと導いたヨシュアは、来たるべき忠実な天の指導者、イエス様を表していたひな形です。私たちの「天のヨシュア」が天の約束の地を得るのにふさわしいお方であったため、私たち不信仰な罪深い神の民はその御方により頼むことができます。
そして、このお方について8〜9節からは次のように書かれています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」ここで私たちは聖霊様の素晴らしい働きがわかります。私たちの指導者である「天のヨシュア」を目で見たこともないのにもかかわらず、この方を愛しており、信じている。神様への愛や信仰を私たちの心のうちに働かせることは聖霊様の力強い働きのゆえです。そればかりか、聖霊様が私たちの主なるイエス様を死者の中からよみがえらせたように、同じ御力で私たちをも新しく生まれさせてくださいました。ですから、聖霊様が私たちの主、いのちの与え主であると私たちが信じる通り、聖霊様もまた、すべての賛美と栄光を受けるにふさわしいお方なのです。
結論
それでは最後に、愛する海浜幕張めぐみ教会の兄弟姉妹たち、一緒に三位一体である私たちの神様をほめたたえましょう!なぜなら、私たちはキリストにあって、生ける望みがあるから。寄留者である私たちは、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を持ち、賜物である信仰をもって、私たちの主イエス・キリストが戻ってくる日まで、待ち望みましょう。