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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇46篇1-7節 |
さ ん び | Opening Praise | 素晴らしい主〜Goodness of God〜 |
さ ん び | Praise | いざ立ち上がり~O Church Arise~ |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌402番「歌いつつ歩まん」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 詩篇3篇 |
聖書の話 | Sermon | 「人生の最悪の日に捧げる祈り」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌438番「川のような平安が」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子どもたちに質問です。皆さんにとって、これまでの人生で「最悪の日」はどんな日でしたか?あるいは、「もしこれが起こったら、最悪の日だと感じるだろう」と思うことは何でしょうか?少し考えて、メモに書き出してみてください。
私だったら、いろいろなことが頭に浮かびます。自分が築き上げてきた人生が、自分の失敗によってすべて台無しになった時。自分でも驚くような罪を犯し、神の御怒りと深い恥を身近に感じた時。自分が死ぬはずだったのに、代わりに自分の子供が亡くなった時。自分の娘が想像を絶する痛みを受け、辱められた時。愛する家族に裏切られた時。自分を裏切った人に自分のすべてを奪われた時。すべてを犠牲にして支えてきた人たちに見捨てられた時。誰かに「お前には救いがない」と言われ、そして本当にそう思ってしまった時。
実は、この詩篇3篇を書いた人は、これらすべてを経験した人物です。その人こそ、ダビデ王でした。もし人生で最悪の日があったとしたら、皆さんは、神様に祈りを捧げたい気分になりますか?私だったら、祈るよりも、むしろ神様に裏切られたように感じるかもしれません。しかし、この詩篇3篇は、ダビデ王が人生の最悪の日に捧げた「なげきの祈り」なのです。そして、この詩篇3篇は、イエス・キリストの最も苦しい日に捧げられた祈りとしても読むことができます。今日は詩篇3篇を通して、人生の最悪の日に私たちがどのように祈るべきかを、4つのポイントから見たいと思います。
まず、一つ目のポイント。「人生の最悪の日にでも、祈りを捧げることができます。」
ダビデ王という人物の登場は、旧約聖書のクライマックスとも言えます。約1000年も神の民は、約束の地を制覇し、平和と秩序をもって神の民を治める王を待ち望んでいました。神様は、ご自分の心にかなう人を求め、ダビデを自ら選ばれました。そして、ダビデは常に神様を信じた王様でした。ダビデ王の熱い信仰によって、神様は神の民を大きく祝福されたのです。ダビデ王の下で、神の民は一つになり、敵を約束の地から追い払いました。そして、王によって平安と秩序がイスラエルにもたらされ、神の民は頂点まで上り詰めることができました。神様がダビデの家系に永遠のめぐみの約束をされたのです。
ダビデ王のおかげで神の民は頂点まで上り詰める事が出来たのですが、ダビデ王のせいですべてが崩れるのです。永遠の恵みの約束の後で、ダビデ王は、次々と「人生の最悪の日」を経験し続けました。ダビデ王は、自分の成功とプライドに溺れて、自分の最も忠実な部下ウリヤの妻、バテ・シェバを奪い取り、強姦し、その罪を隠ぺいするために、ウリアを殺したのです。ダビデ王は、その罪を約1年隠したのですが、神様の検事ー預言者ナタンーが突然ダビデ王の前に現れ、彼を通して神様はダビデ王に彼自身の罪を直接訴えられました。姦淫、強姦、殺人、隠蔽という罪だけではなく、神様ご自身を裏切ったと訴えられ、その罰として、神様は『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。』とダビデ王に宣言されたのです。
神様の裁きの宣言のあとに、最悪の日が連続して起こります。神様を裏切ったダビデ王は死刑に値しましたが、ダビデ王が裁かれるよりも、バテシェバとの間に生まれたかわいい息子が裁かれました。ある日、ダビデ王の美しい娘タマルがある男に騙され、乱暴され辱められました。当時、ダビデ王には何人もの妻がいたのですが、なんと、この男は、何人もいる妻の間に生まれたダビデ王の息子、アムノンだったのです。しかし、2年も経ったのに、ダビデ王はアムノンを罰しませんでした。タマルの兄で、ダビデ王のもう一人の息子アブサロムは、怒りに燃え上がり、復讐の計画を企みました。アブサロムは、ある宴会に、妹を犯したアムノンを呼び、殺したのです。アムノンの罪とアムノンの死を悼み悲しんだダビデ王は、アブサロムを3年間も無視しました。その結果、アブサロムは、父ダビデの正義と愛のなさに不満を覚え、クーデターを企み始めました。アブサロムは、「人々の心を盗み」、貴重な大臣たちの信頼を得て、ダビデの妻たちを奪い、イスラエルの王になってエルサレムへ向かい、自分の父のいのちを狙いました。ダビデ王が、首都エルサレムから逃げ出そうとしたとき、一人のイスラエル人がこう叫びました。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者よ。主がサウルの家のすべての血に報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに対して。主は息子アブサロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいにあうのだ。おまえは血まみれの男なのだから。」 (2サムエル16:7)
ある意味、ダビデ王にとって、エルサレムから出た日が、人生の最悪の日だったと言えます。自分の罪によって、バテシェバとウリヤという被害者が出て、神様が怒られ、息子が代わりに裁かれ、娘タマルも辱められ、息子アムノンも殺され、息子アブサロムにも裏切られ、神の民にも見捨てられたのです。これは全部、ダビデのせいだとも言えます。エルサレムから逃げ出す日は、クリスチャンとして、父親として、神の民の王として、最悪の日でした。もしあなたがダビデの立場だったら、祈る気力があると思いますか?そもそも、祈る権利があると思いますか?詩篇3篇の最初の2節をもう1度、読みましょう。
ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。
1 主よ なんと私の敵が多くなり 私に向かい立つ者が多くいることでしょう。 2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。セラ
人生の最悪の日に、ダビデは「賛歌」を神様に捧げています。神様がダビデを助けてくださることを期待しているのです。ダビデは、多くの者に、神の救いはない、神の赦しもない、神の憐れみもない、と言いわれ続けましたが、ダビデは神様に嘆きの祈りを捧げました。この2節の終わりに「セラ」と書いてあります。「ひとつの『間』を表している可能性が高い」と注解者は書いていますが、この2節を読んで、私たちもしばらく考える必要があります。
例え、私たちが今まで感じたことのない恥と挫折感を感じているとしても。想像を絶するほどの痛みと悲しみを経験しているとしても。魂に穴があくほどの酷い裏切りと孤独を感じているとしても。愛する人が自分の過ちによって痛み苦しんでも。神様があなたの罪を御覧になられて、深く悲しまれたとしても。私たちは、人生の最悪の日に、神様の助けを祈り求めることができるのです。このシンプルなポイントを信じていますか?もし、ダビデにそれができるなら、私たちもできるのです。
しかし、なぜダビデは祈ることができたのでしょうか?二つ目のポイントです。「人生の最悪の日に、イエス様は、私の頭を上げてくださるお方なのです。」
ダビデが祈ったきっかけは、三つのことを思い出したからです。「主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾」であることを、まず思い出したのです。今までいろいろありましたが、神様はバリアのように、隙間なく、ダビデの周りを囲む盾になって下さったのです。私は「神様の盾」を想像する時、何故かはわかりませんが、「潜水艦」が思い浮かんできます。死と苦しみの海に沈めば沈むほど危険になりますが、神様の潜水艦の中に入れば、どれほどのプレッシャーがあっても守られるのです。少なくとも、最悪の日を経験していたダビデはそう思ったのです。
次にダビデが思い出したのは、「主よ あなたこそ 私の栄光」ということです。ダビデは最悪の日を経験する中で、何の「栄光」も受けませんでした。むしろ、ダビデは、愛する子供たちを失い、自分のすべてをささげた民の信頼を失い、恥をかき、嘲笑され、辱められ、汚れた罪人として定められました。その中で、ダビデは気づいたのです。私のすべての栄光は、神様からいただいたのです。そして、目に見え、手で触ることが出来る、この世の栄光よりも、神様ご自身が私の栄光である事を思い出したのです。つまり、最悪の日にすべてを失ったとしても、自分の最高の喜びである神様ご自身はまだ失ってはいないということです。
そして、三つ目に思い出したのは、「主よ あなたこそ 私の頭を上げる方。」ということです。つまり、ダビデがいろんな過ちや失敗を犯しても、神様ご自身がダビデの「頭」をあげ、また立ち上がることができるように、神様ご自身が働いてくださるという事です。ダビデが良い人だからではありません。神様が、ダビデがどのような罪を犯しても、彼を愛し、恵むことを約束されただけなのです。神様が、何があってもダビデを愛することを約束して下さったので、ダビデは頭を上げることができたのです。
神様を仰ぎ見た瞬間、ダビデは「声をあげて主を呼び求め」ます。「すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。〚セラ〛」とダビデは言います。つまり、神様がダビデの頭を上げられた理由は、神様がすぐにダビデの嘆きにお答えになりたかったからです。
神様がどのように答えられたか、具体的なことばや御業は書いてありません。しかし、それは要りません。神様は「聖なる山」から答えてくださるからです。旧約聖書では「聖なる山」は、エルサレムにあるシオン山とよく紐づけられますし、シオン山はグーグルマップで見つけられます。もちろん、神様は、GoogleMapsでピンできるところに住んでおられませんが。エルサレムのシオン山は、天国の「シオン山」のひな形なのです。神様は天国の「聖なる山」の頂点から、炎の剣を持っている幾万人ものみ使いに囲まれながら、誰も近づくことができない聖なる聖なる聖なる王座からお答えになるという意味です。神様の具体的な答えがわからなくても、最も力強く、聖く、知恵深い答えであることを確信できるのです。
それが確信できたとき、ダビデは人生の最悪の日とどう向き合ったのでしょうか。ここで3点目に移りたいと思います。「人生の最悪の日にイエス様に向かって嘆くとき、ぐっすり眠ることができるのです。」
詩篇3:5-6をもう一度読みます。
私は身を横たえて眠り また目を覚ます。 主が私を支えてくださるから。
私は幾万の民をも恐れない。 彼らが私を取り囲もうとも。
神様が「私の周りを囲む盾」、「私の栄光」、「私の頭を上げる方」、「聖なる山から答えられる方」だと確信できるとき、私たちはイエス様に寄り頼むことができます。私たちの信仰基準では、信仰を「ただキリストのみを認め、受け入れ、寄り頼むこと」(WCF14.2)と定義していますが、「寄り頼む」は英語では“rest”と訳されます。信仰とは、イエス様の御腕の中で、休むこと、憩うこと、寄り頼むこと、委ねること、そして眠ることなのです。
もう一度潜水艦の例えを使いますが、海の、深くて危険で暗いところまで沈んでも、自分が乗っている潜水艦が丈夫だと信じられれば、その中で安心して過ごせます。まるで飛行機に乗っているように、食事をしたり、隣の人と雑談をしたり、映画を見たり、眠ることさえできるのです。人生最悪の日に、ダビデは首都エルサレムから罪人として逃げ出し、息子アブサロムに自分の命が狙われていたにもかかわらず、「幾万の民が取り囲もうとしても恐れない」と宣言し、横になって眠りました。そして、神様が支えてくださるという証拠に、幾万もの人がダビデの命を狙っていたとしても、ダビデは次の日、生きて目を覚ますことができたのです。詩篇3篇は、人生最悪の日にイエス様に嘆きの祈りを捧げ、イエス様の答えを聞いて眠る、信仰者の姿を表しています。
私たちは、信仰によって、詩篇3篇のような祈りを捧げることが出来るでしょうか。正直なところ、私なら人生の最悪な日には祈ることさえできませんし、ちょっとした不都合な事が起こっただけでも祈れないと思います。特に、信仰をもって、眠ることができないのです。「もし、残業しなかったら、怒られるかもしれないし、嫌われるかもしれない。」「運動しなかったら、長生きできないかもしれない。」「もっと痩せなかったら、綺麗になれないのでは。」「もし今日働かなかったら、経済的に苦しくなる。」「もし業績を上げなかったら、子供が幸せにならないかもしれない。」「もし、少し休んでしまったら、大きなミスや失敗をするかもしれない。」といったような思いが私たちの心の中で騒ぎます。その結果、私たちはなかなか神様の御腕に休むことができず、深夜まで働き続けてしまうのです。実は、ダビデも最後の最後まで、このように神様により頼み続けることができませんでした(2サムエル24章参照)。
もう、お気づきだと思いますが、イエス様は、まさにこの詩篇を生きたお方であったと言えます。詩篇3篇の冒頭を思い出してください。「主よ。私の敵はなんと多いことでしょう。私に立ち向かう者がたくさんいます。私について、『彼には神の救いはない』と言う者が多くいます。」このダビデの嘆きは、ゲッセマネでのイエス様の状況を驚くほど正確に描き出しています。最愛の弟子たちは眠りこけ、ユダヤの指導者たちは彼を敵視し、ローマ兵がまさに彼を捕らえようとしていました。周囲は敵意に満ち、裏切りと孤独が彼を取り巻いていました。
この絶望的な状況で、ペテロは剣を抜き、抵抗しようとしました。彼の心には「戦って状況を変えなければ」という私たちと同じような焦りがあったのかもしれません。しかし、イエス様はペテロに言われました。「剣を鞘に納めなさい。父がわたしにくださった杯を、わたしは飲まないでいられようか」(ヨハネ18:11)。この言葉は、イエス様がご自身の運命を、自らの手で支配しようとするのではなく、父なる神の計画に完全に委ねることを選ばれたことを示しています。
そして、イエス様は、そのあと、十字架にかけられて、人生の最悪の日を経験されました。イエス様は、群衆の敵意、兵士たちの嘲笑、弟子たちの裏切り、全人類の罪の重荷、そして、神様の御怒りに押しつぶされてしまいました。それは、ダビデの人生最悪の日どころではない、全人類史上最も暗く、最も絶望的な日でした。しかし、その極限の苦しみの中で、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び、息を引き取られました。これは、詩篇3篇の「私は身を横たえて眠る」という言葉の究極的な成就です。イエス様は、死の淵にあっても、完全に父なる神の御腕に自らを委ね、信頼し、その中で「休まれ」、「眠られた」のです。私たちの信仰が揺らぎ、不安にさいなまれる中で眠れないのとは対照的に、イエス様は完全な確信をもって、死の眠りに入られたのです。
しかし、そこで終わったのではありません。詩篇3篇の「また目を覚ます。主が私を支えてくださるから」という言葉は、イエス様の復活において完璧に実現されました。イエス様が三日目に墓からよみがえられたのは、父なる神と御霊が自分を蘇らせてくださることを確信しておられたからです。墓の石は転がされ、死の鎖は打ち砕かれました。これは、神様がイエス様にとって真に「私の周りを囲む盾」、「私の栄光」、「私の頭を上げる方」であったことの揺るぎない証拠です。イエス様を取り囲んだ「幾万の民」――罪、死、サタン、――は、彼を留めることができませんでした。イエス様は、私たちの代わりに、詩篇3篇の祈りを完全に生き抜き、死を打ち破り、よみがえられたのです。だからこそ、私たちはもはや自分の力で「眠る」必要はありません。イエス様が私たちの代わりにこの詩篇3篇を祈って下さった故に、私たちは今、イエス様の完成された業に信頼し、その御腕の中で真の安息を見出すことができます。
イエス様が詩篇3篇を全うしてくださったのなら、私たちはどうすればいいでしょうか?ここで最後のポイントに移りたいと思います。「人生の最悪の日にイエス様に嘆くなら、私たちはぐっすり眠り、『主よ、立ち上がってください』と祈り叫ぶ事ができます。」
詩篇3:7-8をもう一度お読みします。
主よ 立ち上がってください。 私の神よ お救いください。 あなたは私のすべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます。 救いは主にあります。 あなたの民に あなたの祝福がありますように。
信仰をもって眠っていても、何もしないわけではありませんね。この祈りを読むと、詩人が全身全霊で祈り叫んでいることを感じます。「人生の最悪の日に、自分を守ってくださることができるお方は神様しかおられない。」と思えたら、私たちは切実に「主よ 立ち上がってください。 私の神よ お救いください。」と祈り叫ぶでしょう。
「ダビデは実際に、息子アブサロムからの救いが必要だったけど、私はそこまでの救いは必要ないんだけど。」と皆さん思うかもしれません。「『すべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます』と祈るほどの敵もいません!」と思うかもしれません。しかし、吼えたける獅子のように、サタンはクリスチャンを食い尽くそうと探し回っています(1ペテロ5)。私たちの罪深い肉は、毎日、私たちの中に宿っておられる御霊に残酷に激しく逆らい続けているのです(ガラテヤ5:17)。イエス様は、「この「世」は私を憎んでいる。」と言われ(ヨハネ7:7)、使徒ヨハネは「世全体は悪い者の支配下にあるのです。」と書きました。「死」は、年齢を問わず、文化を問わず、津波のように容赦なく「命」を呑み込むような存在であり、イエス様ご自身は、死を「最後の敵」だと見ておられました。私たちは、これらの敵にいつも囲まれていて、それは、いつも私たちの信仰、いのち、魂を狙っているのです。
ですから、私たちは、サタン、罪、この世、死の頬が打たれ、歯が砕かれることを祈ります。私たちが毎週、主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈るのは、そういう意味なのです。花嫁である教会が、愛する花婿であるイエス様に、「立ち上がって、私を救ってください!早く戻られて、私をとらえようとするものを滅ぼしてください!」と祈り叫ぶことです。イエス様は「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:12)と答えられます。人生の最悪の日に嘆きの祈りを捧げる時、主の御腕に休み、「主よ、立ち上がってください!」と祈ることができるように、詩篇3篇を口ずさみながら今週も歩んでいきましょう。お祈りします。