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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇98篇1-3節 |
さ ん び | Opening Praise | 父の神の真実~Great is Thy Faithfulness~ |
さ ん び | Praise | カルバリの十字架 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌59番「久しく待ちにし」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ペテロの手紙第一1章10-12節 |
聖書の話 | Sermon | 「私たちにはっきりと見える救い」
ジョン・コウ神学生 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌70番「もろびと声あげ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
青木宏太長老 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | クレイグ・ポール宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子どもたちに質問をしたいと思います。映画を見るとき、その映画のどの部分が一番大事な部分ですか?初めの部分ですか?いいえ、違います。一番大事な部分は映画の「クライマックス」です。私が大好きな映画の一つは「ファインディング・ニモ」です。もしこの映画を見たことのない人がいらっしゃいましたら、すみませんが少しネタバレになります。ある日、小さなクマノミであるニモが、ダイバーたちに捕まえられ、父親のマーリンと離れ離れになり、ペットとして水槽に入れられてしまうのです。この物語のクライマックスは、マーリンがニモを水槽から救い出し、彼を再び広い海へと連れて帰る場面です。つまり、映画全体を通してのわくわく感は、マーリンがどのようにしてニモを救い出すのか、という点にあるのです。
神様の救いの物語のクライマックスが救い主イエス・キリストの到来なのです。これこそが、旧約時代の神の民、預言者たち、そして御使いたちでさえも見たがっていたクライマックスなのです。彼らには見えなかったクライマックスが、私たちの耳に届いた福音によって、「見える」ようになったのです。神は定められた時に、私たちに御子を啓示してくださったのです。だからこそ、ペテロはこの手紙を通して、私たちに喜ぶようにと強く勧めているのです。
「ペテロの手紙第一」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単にこの手紙を紹介させていただきます。端的に言うと、手紙の著者ペテロは、苦しんでいるクリスチャンたちを励まそうと思ってこの手紙を書いたのです。「苦しんでいるクリスチャン」と聞くと、危ない国で自分の命を賭けているような人たちを頭の中で思い浮かべるかもしれません。しかし、注目すべきことは、ペテロは宛先の人々を「寄留している選ばれた人たち」と呼んでいることです(ペテロ第一1:1)。「寄留者」とは、苦しみの中にあって神様の救いを待ち望む神の民のことだと言えるでしょう。なぜなら、救いを待ち望むこと自体が苦しみなのです。約束の地を待ち望んだ荒野の寄留者たち、そして故郷への回復を待ち望んだバビロン捕囚の寄留者たちのように、究極の救いを待ち望む私たちも寄留者なのです。ですから、ペテロが書いたこの手紙は救いの日を待ち望む寄留者である私たちに、まさに当てはまる手紙なのです。
二週間前、私はペテロの手紙第一の1章3~9節について説教をさせていただきました。その箇所全体を通してのメッセージは、寄留者である私たちに救いを約束してくださる神様は栄光と賛美にふさわしい方だということでした。そして、その救いの日を待ち望む私たちは、「様々な試練の中で悲しまなければならない」とペテロは書いています。しかし、試練の中で悲しむ寄留者たちに対して、ペテロは喜ぶべき理由を思い起こさせています。
したがって、今日の箇所でどのように神様は寄留者である私たちを励まそうとしているのでしょうか。救いの日を待ち望む私たちがしがみつかないといけない真理はなんでしょうか。簡単にまとめると、神の救いの物語のクライマックス、すなわち救い主イエス・キリストの到来が、私たちにはっきりと啓示されているから、私たちは喜ぶべきだということです。このことをさらに深く掘り下げるため、今日の説教を三つの点に分けてお届けしたいと思います。一つ目は、「預言者たちには見えなかったことが私たちには見える。」二つ目は、「私たちの救いは、キリストのへりくだりと栄光の中に見い出される。」そして三つ目は、「御使いたちがはっきりと見たかった 『救い』」です。
① 預言者たちには見えなかったことが私たちには見える。
10節にはこう書いてあります。「この救いについては、あなた方に対する恵みを予言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。」なぜこの救いについて預言者たちは「熱心に尋ね求めていた」のでしょうか。別の角度から言うと、なぜ私たちにはこの救いについて、預言者たちと同じような「熱心」を共感しがたいでしょうか。問題は、私たちが約束の地ではなく、バビロンにいるということを知らない限り、預言者たちの熱心さを理解できない、ということです。
想像してみてください。皆さんが今収容所にいるとします。生活環境が厳しくて、毎日が試練の連続。しかし、ある日、誰かが「救い主が来て、この収容所からみんなを救い出してくださる」という素晴らしい知らせを持ってやって来たとします。その場合、皆さんはどうでしょう。「誰が来る」とか「いつ来る」かを知りたくなると思います。同じように、バビロンで寄留していた神に遣わされた預言者たちがこの救いについて熱心に尋ね求めていたのです。実際のところ、私たちもまだバビロンにいます。私たちは救いの日を待ち望んでいる寄留者なのです。この世は約束の地ではありません。それにしても、私たちはもうすでに約束の地にいると勘違いしてはいないでしょうか。私たちは、この収容所である「バビロン」で安住したいと思うでしょうか。それとも、この地が故郷ではないと認める寄留者として、救いの日を待ち望むでしょうか。
では、預言者たちが熱心にこの救いについて尋ね求めたのは、単なる推測ではありませんでした。11節にこう書いてあります。「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」ここでわかるのは、推測ではなくキリストの御霊の導きによって預言者たちが来たる救い主のことを調べたのです。聖書には、偽預言者に対する警告が満ちています。その一例として、パウロはテモテに、健全な教えではなく単なる憶測を引き起こすような、異なる教えを説く人々について警告しています(テモテ第一1:4)。もし預言者たちが単なる推測しか語らなかったとしたら、私たちは預言者のメッセージに耳を傾ける理由などありません。しかし、彼らの預言が御霊によって導かれていたので、私たちは預言者たちが預言していた御方がキリストであると確信できるのです。このため、私たちは預言者たちの言葉の成就としてキリストを理解することが、非常に重要なのです。
さて、預言者たちと私たちには、注目すべき大きな違いがあるのです。預言者たちは来たるべき御方を影としてしか見ることができませんでしたが、私たちには、神様の救いの完全な啓示が与えられていると先ほど話しました。ここで、簡単に「影」とはどうやって取り入れるのかを説明したいと思います。「バットマン」のテレビアニメを見たことがある方はいるでしょうか。私も詳しく見てはいませんが、覚えているのは、悪者が何か悪事を企んでいる場面で、まず最初にバットマンの「影」だけが現れることです。それは、バットマンが来るという前触れなのです。そして、悪者が驚いて振り返ると、バットマンが目の前に立っている、というシーンがよくあります。旧約聖書において、神の民はイエス様が来られることを、動物のいけにえや預言といった「影」を通して理解しました。そして預言者たちと私たちの大きな違いは、私たちには、救い主イエス様が実際にこの世に来てくださったという良いお知らせがあるのです。実際のところ、預言者たちよりも私たちのほうがより喜ぶべきなのです。私たちは、再び来られる救い主ではなく、単なるこの地上の収容所に希望を置いているのではないでしょうか。
② 私たちの救いは、キリストのへりくだりと栄光の中に見い出される。
さて、預言者たちが熱心に尋ね求めたこの救いの「対象」に注目をしたいと思います。それは、11節に書かれている「キリストの苦難とそれに続く栄光」です。これはどういう意味なのかを説明したいと思います。
まず、預言者たちは、キリストを指し示す影を語るためだけに遣わされたのではありませんでした。預言者たちはまた、神様の契約を破った民を告発する、「神の契約の検察官」でもあったのです。検察官である預言者たちを通して、神様はご自身の民を法廷に立たせ、「有罪」として告発するのです。姦淫を犯すイスラエルに対して、預言者エゼキエルはこう告発します。「姦婦は自分の夫の代わりに、他の男と通じるものだ。」(エゼキエル16:32)偶像礼拝を犯すイスラエルに対して、預言者イザヤはこう告発します。「その地は偽りの神々で満ち、彼らは自分の手で作った物を、指で作った物を拝んでいます。」(イザヤ2:8)殺人を犯すイスラエルに対して、預言者ミカはこう告発します。「あなた方は善を憎んで悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その骨から肉をそぎ取る。」(ミカ3:2)このように、神の預言者たちは神の民を「有罪」として告発するのです。
しかし、預言者たちの言葉には、世界をひっくり返すほどの衝撃的なことがありました。それは、預言者たちが告発した神の民の呪いを、来たるべき救い主が自ら引き受けること。熱心に尋ね求め、細かく調べていた「キリストの苦難」とは、罪ある神の民が受けるべき苦しみであり、その苦しみを来るべき救い主が自ら引き受けたのです。イザヤ書53章5節。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちはいやされた。」
今日ここに来てくださっている方の中には、もしかしたら「まだイエス様を信じていない」という方もいらっしゃるかもしれません。そのような方にお尋ねしたいのですが、私たちクリスチャンはなぜ「十字架」に信仰を置くのか、考えたことありますか?「十字架」とは、星とか、お花とか、そういったポジティブな物ではなく、死刑の道具です。クリスチャンのシンボルは死刑具です。しかし、イエス様に信仰を置くということは、自分が受けるべきのろい—神の御怒り、審判、など—は、私たちの救い主イエス・キリストが代わりに受けたということです。ガラテヤ人への手紙3章13節にはこう書いてあります。「キリストは、御自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」
そして、それだけではありません。キリストが私たちの契約違反による呪いを受けられる一方で、私たちはキリストの契約遵守による祝福を受けるのです。実のところ、私たち罪人が「私たちは祝福されている」と、これほど大胆に言えることは驚くべきことです。なぜなら、罪は呪いしか招かないはずです。しかし、私たちは祝福されています。なぜなら、キリストが契約を守り通すことによって勝ち取られた「続く栄光」が、私たちと分かち合われているからです。キリストが神の右の座に着いておられるように、私たちもまた、キリストにあって、神の右の座に着く特権を与えられています(エペソ2:6)。また、キリストが神のひとり子として御父に深く喜ばれたように、私たちもまた、御父が喜ばれる神の子どもたちなのです(ヨハネ1:12)。キリストが永遠のいのちを勝ち取られたように、私たちもまた、キリストとともに永遠のいのちの約束が与えられているのです(ローマ6:23)。ペテロが、預言者たちが「熱心に尋ね求めた」この「恵み」は、私たちのものだと書いたのは、このためです。私たちはキリストの続く栄光に与る者なのです。苦しんでいる寄留者である私たちにとって、これは非常に良いお知らせです。これが私たちの生ける望みです。
ですから、「まだイエス様を信じていない」方がいらっしゃいましたら、是非イエス・キリストを自分の救い主として信仰を置いてください。聖書にある約束は、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」のです。
③ 御使いたちがはっきりと見たかった 「救い」
最後に12節を読みましょう。「彼らは、自分たちのためではなく、あなた方のために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなた方に告げ知らせられたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」
「彼ら」とは、先の節で学びましたように「預言者たち」を指しています。預言者たちが自分たちのためではなく、私たちのために奉仕していたとはどういう意味なのでしょうか。つまり、彼らが熱心に尋ね求めたその働きは、神様の救いの物語のクライマックスへと続く道を備えていたのです。預言者たちはそのクライマックスを見たがっていましたが、どんなに熱心に調べ、尋ね求めても、彼らが見ることができたのは、来たる御方の影だけでした。なぜなら、神様がまだ救い主を完全に啓示されると定めていなかったからです。
これを聞いて、「つまり、旧約時代に救い主が完全に啓示されていなかったということは、その時代には救いがなかったのか」と思ってしまう方もいるかもしれません。そうではありません。なぜなら、神様の救いの歴史全体を通して、神の民には十分な啓示が与えられていたからです。旧約時代の人々は、救い主の影を見て、来るべき救い主を信じて救われました。救いが歴史上常に同じ救い主であるイエス・キリストを通して与えられてきたという事実に変わりはありませんが、旧約時代の神の民と私たちの決定的な違いは、彼らが救い主の「影」を見たのに対し、私たちは現実に現れた救い主を啓示されたという点です。
実に、神の御使いたちでさえ、この偉大な救いをはっきりと見たいと願っていたとペテロは書きます。神の御使いたちは、神の玉座のまさにその場で仕える者たちです。彼らは昼も夜も、生ける神の足元で仕えています。にもかかわらず、その御使いたちでさえ、神の救いのドラマの壮大なクライマックス、すなわちキリストご自身とその働きに集約された救いを、切に見たいと願っているのです。
ここで皆さんに聞きたいです。もし神の御使いたちでさえ、この偉大な救いを切望していたのなら、私たちはどれほどでしょうか。皆さんは、キリストの救いを神の救いの物語の「クライマックス」として心に響ていますか。もしそうでないなら、それはなぜかと自問してみてください。私たちは、この地上に約束の地をもたらしたいと願っているからでしょうか。
愛する兄弟姉妹たち、私たちはまだバビロンにいます。私たちの救い主は来られましたが、再び来られる時まで、私たちはこの生ける望みにしっかりとしがみつきましょう。私たちは救い主を待ち望む者として喜ぶべきです。なぜなら、救い主がこの地上に来られたことが確かなように、私たちを天の御国に迎え入れるために再び来られることもまた確かだからです。