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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人への手紙第二9章8-11節 |
さ ん び | Opening Praise | 満たしてくださる方 |
さ ん び | Praise | Yet Not I キリストにあって |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌39番「たたえよ救い主イェスを」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙2章1-10節 |
聖書の話 | Sermon | 「真理のうちに一つ」
呉載炫教師候補 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌409番「救い主イェスと」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
那須宗泰長老 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | クレイグ・ポール宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
皆さんは、子どもの頃、テレビで戦隊モノをご覧になったことはありますか?子どもたちはいま好きかもしれないですね。日曜日の朝にテレビで流れるあの番組です。5人のヒーローが出て、怪人から地球の平和を守るというお話です。
この番組は、他のヒーローものと違う点があります。それは、他のヒーローはだいたい1人で戦いますが、戦隊はその名の通りグループですね。みんなで力を合わせて、巨大な悪に立ち向かいます。
人々の平和を守りたいと願う仲間が集まって、互いの長所や弱いところを補い合って、一つになって平和を守る。実は教育的な目的が詰まっているテレビ番組です。どうして、私は、説教の初めにヒーローものの紹介をしたのでしょう。
今日の説教のテーマを理解するための手助けになれればと願っているからです。前回は福音の真理を守るためのパウロと教会の指導者たちが共に戦ったことを確認しました。福音の純粋さを守ることは教会にとって大切なことです。
信仰者の救いには、イエス・キリストの完全なる服従(神のことばに従ったきよい生活&十字架の死にまで従った服従)の他に、何も足してはなりません。「人間の行いや儀式、努力が混ざったらそれは福音ではない」、「そんなことを教える教師はもはや教師ではない」と、パウロは繰り返し言い続けています。
しかし、忘れてはならないものがあります。注意しなければなりません。純粋さを守ろうとする時、私たちはしばしば、失ってしまうものがあります。それは、交わりと一致です。
この点について、本日は、前回のガラテヤ人への手紙のメッセージの続きとして、ガラテヤ人への手紙2章6節から10節より、次の三つのことを共に考えたいと願います。一つ目は、「真理に対する姿勢」です。1節から5節の内容をおさらいします。二つ目は、「交わりの姿勢」です。教会のリーダーたちに表れた、交わりの姿を見てみましょう。三つ目は、「支援の姿勢」です。貧しい人を助けることと、教会のあり方について確認します。
まず、一つ目のポイントは「真理に対する姿勢」です。ここでは、前回のメッセージ(ガラテヤ人への手紙2:1-5)のおさらいを踏まえて、6節を見てみます。
1節から5節はどんな話でしたか?当時、教会には間違った教えを説く教師たちがいました。イエス様の福音を信じることはマストだけど、それだけでは不充分だ。ユダヤ宗教から続く、ユダヤのしきたりを守らなければならない。「福音+儀式」で救われると言う人たちがいました。
果たして、本当にそうですか?いいえ、違いますね。私たちは、信仰によって救われました。どんな信仰ですか?神の御子イエス・キリストは地上に人として来られました。この方は地上を生きる間、神様のみことばに全く従う人生を生きました。私が生きることのできなかった人生を、主イエスが代わりに生きてくださいました。
イエス様は、十字架につけられて死なれました。神様に反逆した私が、自分の罪の故に死ななければならなかった死を、イエス様が代わりに死んでくださいました。主イエスの人生と死による完全な服従が、私のためであると信じる信仰です。
私たちそれぞれは、神様の定められた時に、聖霊様の働きによってこの信仰が与えられ、信じたので、救われました。救いは賜物です。信仰すら、自力で持てたのではありません。賜物です。
だから、パウロは戦いました。他の指導者たちも、共に戦いました。そして、教会はエルサレムの教会会議の中で、「福音の他に、行いも必要だ」と言う人たちの主張を退けました。
6節でパウロが言っているのは、こうです。「おもだった人たち」と言うのは、エルサレムの教会の指導者たちのことです。ガラテヤの諸教会の他に、アンティオキアなどにもいたパウロの反対者たち(教会のユダヤ主義者たち)は、おそらく、エルサレムの指導者たちを「おもだった人」と呼んでいたことでしょう。
パウロの反対者たちは、「パウロ先生、あなたの教えは間違っている。エルサレムのおもだった人、有名なあの先生たちは、あなたのように教えていないはずだ」と言っていたことと思われます。反対者たちは、自分たちのことを権威づけるために、エルサレムの教師たち、ペテロやヨハネ、主の兄弟ヤコブなどの名前を借りていたように思われます。
しかし、結果はどうでしたか?そのおもだった人たちも、パウロと同意見でした。つまり、人が救われるのは、イエス・キリストの福音を信じることのみのよるということが、会議において公に確認されたのです。
ですから、パウロは自信をもってこう言います。「そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした」。ペテロもヨハネも、ヤコブも、私と同じように福音を理解して、教えていましたよ。さあ、間違っているのは誰ですか?私ですか?それとも、あなた方ですか。
人は誰も、使徒パウロの伝える福音に影響を与えたことはありません。パウロの証しする福音は、イエス・キリストの福音です。他の使徒たちも同じでした。教会は、これをはっきりと示す時に、健康的な教会だと言えます。
教会で語られ守られれるべきは、人の言い伝えによるキリスト教っぽいしきたりや、聖書にその起源を持たない儀式ではありません。神秘的な習慣、あの昔のキリスト教文化的な慣習などではありません。キリストの福音の真理に反するものがあれば、ノーと言わなければなりません。
ここで、二つ目のポイントに移ります。
次に、二つ目のポイントは「交わりの姿勢」です。キリスト者は真理に対して、妥協してはなりません。しかし、それと同時に、キリスト者の中には交わりも表れます。
7節です。「それどころか、ペテロが割礼を受けている者への福音を委ねられているように、私は割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました」。
この箇所は、一見「ペテロ=ユダヤ人への使徒」、「パウロ=異邦人への使徒」と管轄が分かれたものだと思われるかもしれません。この読み方は、違いを強調しています。ペテロが福音を伝える対象はユダヤ人で、パウロが福音を伝える対象は異邦人である。お互いに線を引いて、縄張り争いをしないようにしよう。
しかし、実はこの見方はユダヤ主義者たちと同じです。ペテロは本当に、異邦人には福音を伝えませんでしたか?ペテロはローマの百人隊長コルネリウスとカイサリアにいる異邦人たちに福音を伝え、彼らはみな信じました(使徒10章参照)。
パウロもユダヤ人に福音を伝えました(使徒23:11参照)。つまり、7節で注目すべきは、テリトリーの違いではありません。福音の同一性、福音による一致を示します。ユダヤ人にも、そうでない人にも、同じイエス・キリストの福音が伝えられるということです。
ユダヤ主義者たちが主張するように、エルサレムの教師の福音の方が優越で、パウロの福音は劣っているというわけではありません。
続く8節は、さらにこのことを裏付けてくれます。「ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした」。
例えば、学生の方は、クラスは違っても、同じ学校の一員として集団生活をしていますね。会社員の方も、部署や担当は違っていても、同じ一つのプロジェクトを進めることがあります。
8節は、パウロとペテロ、および他の教会の指導者たちに与えられた使命の同一性を語ります。同じ主が、人々に福音を伝えるように、一人ひとりを任命されたことが分かります。
パウロは、学問でいうと当時の超エリートのような人でした。聖書を、学ぶ今風に言うと偏差値の高い学校で学び、超大国ローマの学問もたくさん学んだことが新約聖書から見て取れます。一方、イエス様の十二弟子たちはどうでしたか?彼らのうち多くは、漁師でした。パウロのような宗教エリートではありませんでした。
もし、私がパウロだったら、心の中でちょっと優越感を感じていたかもしれません。「どれどれ、私が教えてあげましょうか?」とか言ったかもしれません。事あるごとに自分のことを否定する反対者たちにも、「まず私の学歴を見てください!」と言ったかもしれません。
しかし、パウロはそうしませんでした。優劣を主張することなく、自分を使徒に任命し教えてくださる主イエスの権威のみを語りました。神様のご計画と恵みに集中しました。ですから、互いに尊重し合っています。主はお一人であり、信仰は一つです。同じ福音を伝える、同じ使命を与えられています。
パウロが大事にしたかったのは、ユダヤ人かどうか、割礼を受けたかどうか、たくさん学んだかどうかではありません。大事なのは、同じ主を持つ同労者だということです。
さらに9節はこう続きます。「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした」。
ヤコブは誰ですか。これはおそらく、イエス様の兄弟のヤコブのことです。彼は元々主イエスを信じませんでしたが、復活の主に出会って信じるようになり、エルサレム教会のリーダーになりました(ガラテヤ人への手紙1:19参照)。ケファはペテロの別名ですね。ヨハネは、十二弟子ヨハネと思われます。新約聖書には、ペテロとヨハネが一緒に言及される箇所が多いからです。
パウロが「柱として重んじられている」と言っていることから、この三人は、当時のエルサレム教会のリーダーたちで、とりわけ今回のエルサレム会議でも担当を持っていたことでしょう。
前後の文脈から、パウロが単にこの三人に媚びたり、または逆に皮肉を言ったりしているわけではないことが伝わりますでしょうか。パウロは教会と、教会の会議で、彼らが主によって置かれている立場を尊重しています。ヤコブとペテロ、ヨハネを用いる、彼らの主の権威を大切にしていることが分かります。
エルサレム会議には、パウロとバルナバ、そして、ヤコブとペテロとヨハネの他にもたくさんの教会のリーダーたちが集まっていました。日本長老教会の大会の時に、全国各地の中会の各教会から、長老たちが集まるのと同じですね。
その中で、「交わりのしるしとして右手を差し出しました」。交わりの握手をしたというのは、どういうことでしょうか。
この交わりという言葉は、教会でよく使われる「コイノニア」と同じ言葉です。親しい交流、友情の交わりを意味する言葉ですね。また、使命の共有、協力という意味合いも持ちます。つまり、単なる握手ではないですね。会議が終わりましたという、形式的なジェスチャーやアピール以上のものです。
使徒たちの間で、福音の真理が共有されました。主によって置かれたフィールドはそれぞれ違いますが、同じ使命が与えられた者同志であることが確認されました。また、教会には偽兄弟たちの居場所は、もうないことが示されました。
同時に、これからの福音の宣教において、この会議で決められた決定事項について互いに協力することが確認されました。それぞれの働きの場において、お互いのことを覚えましょうという意味でもありました。
使徒やリーダーたちの、この交わりの姿勢から、私たちが学びとることができるのは何でしょうか。海浜幕張めぐみ教会の中では、私たち一人ひとりは、イエス様を信じたことだけで、既に主にあって一つとなっています。
他の兄弟姉妹を力づけ、教会を愛し支えましょう。主イエスが受け入れた人を、その人のステータスやパフォーマンスによって断罪してはなりません。居場所を奪ってもなりません。弱さを覚える人は、そのままに受け入れましょう。強さを誇る人は、もう誇ってはなりません。
それぞれの人が、主によって使命を与えられたことを認め、覚え、私たちのコイノニアを続けたいと願います。
最後、三つ目のポイントは「支援の姿勢」です。10節です。「ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めてきました」。
貧しい人たちを助ける話が出てきますが、少し意外に感じられるかもしれません。ここまでは教理に関する内容が展開されてきたからですね。教会は間違った教理を教える偽兄弟を排斥し、兄弟姉妹の交わりを厚くしましょう。このことと、貧困支援は、どんな関わりがありますか?
考えられるのは、貧しい人を助けることは教会の使命の一つということです。パウロたちとペテロを含むリーダーたちの宣教の現場は違います。しかし、貧しい人を助けるという荷は共に負うということです。
ガラテヤ人への手紙によると、エルサレム会議では、このことは議論にもなりませんでした。論争の対象ではなかったということです。やっても、やらなくてもいいものではありません。教会に与えられた働きの一つとして受け取っていたということです。
ここには、二つ、考えることがあります。まず、一つ目の側面は教会の使命です。ローマ人への手紙15章25〜28節には、エルサレム教会の貧困と支援について記されています。当時のエルサレム教会は迫害がありました。教会にはおもだった指導者たちが複数いましたが、教会と教会員たちは経済的な困窮に陥っていました。
マケドニアとアカイアの教会の人々は、喜んで献金をしてエルサレム教会を援助したとあります。お一人の主、同じ福音、同じ使命を持つ教会として、自分たちの教会だけが成長しよう、助かろうと思っていたのではありません。
新約聖書の時代、キリストの教会はエルサレム教会の宣教から始まりました。主はエルサレム教会の宣教活動を通して、ローマの各地に教会を立てました。福音を伝え、聖書を教える人たちがエルサレム教会から各地へ出ていきました。
今度は、マケドニアとアカイアから、献金を通してエルサレム教会を支えることができました。一つの大きな教会として捉えますと、教会の中のリソースが共有されているように見えますね。エルサレムからは伝道者が遣わされ、マケドニアとアカイアからは援助が届く。同じ福音宣教の使命を担う教会の一致と交わりが見られます。
もう一つの側面は、キリスト者の使命です。信仰者の一人ひとりも、経済的に困窮している人たちを助ける役割が与えられています。10節の後半、パウロは自らも元から熱心に貧しい人たちを助けて来たと言っている通りです。
神様は旧約聖書では、特にアモスやミカ、ハバククのような預言者を通して、正義がなされないことを指摘しました。社会的に弱い人々、貧しい人々を助けないことを罪であると言われました。
イエス様はどうでしたか?驚くべきことに、主は、貧しい人を助けたかどうかを見て、私たちの信仰を判断すると言われました(マタイ10:42、25:35〜40参照)。また、 貧しい人たちを助けることを(マルコ10:21、ルカ14:13など)命じられました。イエス様は、クリスチャンは貧しい人を助ける義務があると、明確に言われました。
さらに、主はご自身の働きについて、貧しい者たちに福音を伝える(マタイ11:5、ルカ4:18など)ことだと言われました。そして地上におられる間、イエス様は常に弱い人、仲間外れされた人たち、貧しい人々と常に一緒におられました。
これだけではありません。主イエスは、究極の困窮者救済をしてくださいました。貧しい人々のために、ご自身を、ご自分のみからだを差し出してくださいました。ここでいう貧しい人々とは、私たちのことです。
私たちは、貧しい人でした。困窮していました。何も持っていませんでした。人は大変な状況にある人を励ますために「でも命さえあれば大丈夫、やり直せるよ」と言いますが、主に出会う前の私たちはどうでしたか?命もありませんでした。
私たちは皆、生まれながら自分の罪によって死んでいました。生きているように見えていても、現実は、永遠の刑罰、永遠の死を待つのみの貧しい存在でした。
しかし、イエス様は、私たちを放って置かれませんでした。究極のいのちの豊かさを持つ主が、十字架の上で、ご自分のいのちを差し出されました。主イエスが、十字架の上で私たちの貧しさを負い、貧しいものとなってくださいました。
復活の主は信じるものには、イエス様の義が与えられました。イエス様のいのち、永遠のいのちが分け与えられました。もっとも尊い、御子イエスのいのちです。私たちは、このいのちによって、豊かになりました。
どれくらい豊かになりましたか?私たちの罪が赦され、父なる神様との関係、天の身分が回復されました。私たちは神の民となりました。ぶどうの木であるイエス様に繋がれ、成長する枝となりました。私たちの肉体は衰弱して一度は地上で終わりを迎えますが、終わりの日には永遠に朽ちない栄光の姿に変えられます。数えればキリないほど、私たちは豊かになりました。
私たちは、いま既に、充分に豊かです。イエス様のいのちを持っているからです。貧しい人々を助けることは、私たちの義務です。同時に喜びをもって担うことができる私たちの成長の証しでもあります。
メッセージをまとめます。私たちは、教会の中で一致を失ってはなりません。福音の真理に関する一致です。ですから、海浜幕張めぐみ教会の中に、日本長老教会の中に、福音とは異なるほかの福音や、異端的な教えが入り込むことを警戒しなければなりません。
「今まで信じてきた教理は間違っている。新しい教えがあるんだ」、「もう少し宗教的に努力しようよ」のようなものです。こういった教えは信仰者の自由を奪い、信仰生活を疲弊させます。
長老たちのために祈りましょう。彼らが教会を正しく牧会することができますように。私たちの中会、日本長老教会のためにも祈りたいと思います。日本の福音派の中で、日本長老教会が間違った教えや現代思想に対する最後の砦のように思えるからです。
また、交わりを失ってもいけません。主にあって、教会は一つです。隣にいる兄弟姉妹を、同じ主が立てた人として認め、愛し、受け入れることができますように。私たちの教会だけでなく貧しい人々、また、困窮している日本長老教会つらなる教会を覚えることができますように。
私たちが福音の真理において一つとなり、私たちを豊かにしてくださったイエス様の豊かさを喜び、支え合うことができる教会となりますように、主にあって願います。お祈りを致します。