2025年9月7日礼拝 説教 「主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌254番「主イエスの恵みと御栄とを」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌319番「主イエスのみ声は罪ある者を」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読          出エジプト20:8-11; 創世記2:1-3

聖書の話       「主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌426番「疲れたる者よ」

聖晩餐式 Communion                                      マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

   Doxology  教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                                マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちは、第四戒「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」って、覚えていますか?これは、日曜日にはお仕事をお休みして、神様を大切にする日だということです。ここで、むずかしい質問!もしあなたが世界で一番速いオリンピック選手で、金メダルをかける大事なレースが日曜日だったら、神様を礼拝することと、レースに出ること、どっちを選ぶかな?すごく迷いますよね。

 

1924年に、エリック・リデルという選手がいました。彼はクリスチャンで、100メートル走というレースで、金メダルをもらえるかもしれないくらい速い選手でした。でも、決勝のレースが日曜日だったから、エリック選手はレースに出ることをやめて、神様を礼拝することを選びました。どうしてかというと、エリック選手は金メダルよりも、イエス様の愛や、イエス様がくださった永遠のいのちの方がもっと大事だと知っていたからです。だから、この決断を後悔しませんでした。エリック選手は、得意な100メートル走を諦めて、月曜日に行われた得意じゃない400メートル走という別のレースに挑戦しました。そして、なんと金メダルをとって、世界で一番速い記録を作ったのです。

 

エリック選手は、金メダルをとって神様のすごさを見せたわけではありません。安息日を一番大切にしたことで、金メダルよりもイエス様の方が大事だということを世界中に伝えたのです。(エリック選手のお話は、『炎のランナー』という有名な映画にもなっています。)私たちも、第四戒を大切にすることで、イエス様を一番愛していることをみんなに見せることができます!

 

十戒のメッセージで、十戒の三つの読み方を学んできました。十戒は、創造主の御心の地図。十戒は、主の御国の試金石。十戒は、救い主への矢印。その3点に沿って、第四戒を見たいと思います。、もし、第四戒が「御心の地図」であるなら、第四戒は私たちに何を教えているのでしょうか?「主の日」は、神様の救いにある自由と安息を覚え、神様の愛と力に憩う日です。

 

多くのプロテスタントの教会で、第四戒を守るべきなのか、どのように守るべきなのか、いろんな神学的な議論があります。第四戒を非常に律法主義的に解釈してしまったクリスチャンもいますし、第四戒を完全にないがしろにしてしまったクリスチャンもいます。今日はその議論よりも、できるだけ第四戒のエッセンス―三つの基本的な要素―をシンプルに紹介し、第四戒にある喜びと安息に焦点を当てたいと思います。

 

第四戒の最初の基本的要素は、神様が働かれ、休まれたことを覚え、私たちも働いて、休みましょう。という事です。

出エジプト記の第四戒をもう一度お読みします。

8  安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 9  六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。 10  七日目は、あなたの神、主の安息である。… 11  それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

まず、第四戒は「こうしなさい」から始まっていません。「覚えなさい」から始まります。神様がどういうお方で、何をなさったかを覚えなさい、という事です。創世記1章に、神様が六日間で、すべてを創造された話が書いてあります。しかし、単に、神様が地球を造られたプロセスが書かれているのではなく、神様の権威を表す一章なのです。つまり、六日間を通して、神様がご自分の王国を建てられ、天地という素晴らしい傑作を完成させられたゆえに、神様は天地の創造主、最高権力者、王であられるということなのです。

 

そして、創世記2:2-3には、こう書いてあります。「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。」非常にシンプルなポイントですが、よく見失われます。旧約聖書の大預言者モーセがこの「第七日」を聖なるものにしたのではありません。初代教会の使徒パウロがこの「安息日」を聖なるものにしたのでもありません。天地の創造主、最高権力者、王であられる聖書の神様が、この日を聖なる日にされ、祝福されたことをまず覚える必要があります。もしある王国の建国者が、「2月11日を建国記念日にし、すべての人に休みと祝福を与えます。建国を記念し祝いなさい。」と宣言したら、どのような理由があっても、そうしないといけません。

 

しかし、神様がそう命令されたことには理由があります。神様は、人間をご自身の「かたち」、「似姿」として造られました。ですから、もし神様が六日間働いて、第七日目に深い喜びと安息と祝福を味わわれるのなら、神様の似姿に造られた人間も同じ深い喜びと安息と祝福を味わうことができます。私たち人間は、働くために造られました。ですから、私たちは自分たちの普段の仕事から多くの喜びを味わうことができるのです。しかし、神様が休まれたように、私たちは、休むためにも造られたのです。第四戒を拒む理由もありますが、多くの場合は、神学的な理由ではありません。「家事と仕事が残っている」「締め切りが迫っている!」「明日の準備がある」などと、心の中で騒ぐのですが、それは、私たちがただ単純に休みたくないからです。神様は私たちの何兆倍忙しいお方です。しかし、神様はすべてのことをやめられました。第四戒は、ただ私たちに、「神様が働かれ、休まれたことを覚え、私たちも働いて、休みましょう。」と求めているのです。

 

次に、第四戒の二つ目の基本的要素は、神様の安息は、この世で味わう安息ではなく、天の永遠の安息にあずかることだという事です

 

「 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」と書いてありますが、主の安息はどういう意味でしょうか。二つのことが言えます。まず、主の安息は、「永遠の安息」だという事です。なぜなら、第一日目から第六日目まで、「夕があり、朝があった。第六日。」という決まり文句でいつも締めくくられていますが、創世記2:2-3の文脈から言うと、第七日目にはそれがありません。それは第七日の安息は、永遠に続く安息だからです。

 

二つ目に言えるのは、主の安息は、「天の安息」だという事です。第七日に神様が休まれた理由は、神様が疲れたからではありません。イザヤ66:1が「神の安息」を違う角度から描いています。「主はこう言われる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 あなたがたがわたしのために建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。 」神様が休まれている「ところ」は、天の王座なのです。そして、この地上での「安息の場」は、ただの「家」ではなく、神様ご自身の王座の「足台」であり、王室を表す聖なる聖なる聖なる神殿なのです。すなわち、「神様が休まれる」とは、創造主が天の王座に休まれる時です。そして、王座に休まれたるとき、神様は、御自分の聖なる権威を発揮し、御自分で建てられた王国を眺め、栄光に満ちた王として、御自分の働きを楽しまれるのです。そして、幾万ものみ使いたちが王を囲み、ほめ歌を歌いながら、神様が「王」として天の安息に憩われるのです。

 

アブラハム・ヘッシェルというユダヤ人の神学者が、クリスチャンとユダヤ人の間で有名な、安息日についての本を書きました。彼が言うには、普段は、私たちは、「場所」や「モノ」で溢れる3次元「空間」の世界に生き、それだけにとらわれてしまっています。神様は、安息日をとおして、目に見える物ではなく、神聖な4次元の「時間」を聖別することによって、「私たちの霊、私たちの魂は永遠へと舞い上がり」、来るべき天国を体験できる、とヘッシェルは書きます。

 

ですから、休みをとって「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。 」という意味は、私たちが考えているような、一時的なこの地上の休みー温泉旅行、大自然でのキャンプ、ディズニーランドなどーをとりなさい、という意味ではありません。「主の安息」とは、一言で言うと異次元の「天の永遠の安息」なのです。神様が造られる「新しい天と新しい地」の喜びを安息日に味わうことです。イエス様が安息日に病人を癒されたとき、「天の永遠の安息」の前味として奇跡を行われたのに、パリサイ人はそれを拒んでしまいました。パリサイ人は、「主の安息」を非常に狭い意味に解釈してしまい、第四戒を逆に破ってしまったと言えます。

 

イエス様が第四戒で教えておられることは、他の六日間に行っている3次元に関わることー勉強、仕事、家事などーをできるだけ控えるというだけではなく、第七日には、出来るだけ4次元の「天の永遠の安息」を憩い、楽しむことです。ですから、第四戒は、日曜日に礼拝を楽しむことが求められているのです。神の家族と一緒に、御言葉と祈りを通して、天の永遠の安息をより深く楽しむことが求められています。教会の交わりを通して、天での交わりを味わうことが求められています。安息日は、堅苦しい日ではなく、神様の王室の天の祝会の前味を毎週味わう日なのです。

 

最後に、第四戒の三つ目の基本的な要素は、「安息日は、私たちがこの世から解放され、神様にあって自由になったという証し」だという事です。

 

申命記5:15では第四戒をこのように理由付けします。

あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。

出エジプト記とは異なり、神様は、申命記ではエジプトからの解放を強調して、民に安息日を命じられました。神の民は、400年もエジプトの奴隷として、ファラオの支配下で働かされていました。安息日は、「自分達はもうエジプトの奴隷でも、ファラオのものでもない」と全世界に証しする日となりました。そして、「私の新しい主人は、良い王です。労働ではなく、安息を与えてくださいます。」と、宣言する日なのです。

 

黙示録には、イエス様を信じる前の私たちは「この世の大きな都のもの」であると書いてあり、「この世」を霊的に理解すると「エジプト」と呼ぶことができると書いてあります。つまり、イエス様を信じる前の私たちは、「エジプト」を意味する「この世界」の奴隷であるという事なのです。この世の価値観ー社会、会社、学校、家庭などーは、「無駄なことをするな。だらだらするな。もしすべてが終わったなら、休んでもいい。だけど、、、働かない者は存在価値がない。」と私たちにささやきます。特に日本の文化は、大声では言いませんが、暗黙の了解の内に、そのようなことで私たちを押しつぶします。そして、この世界は私たちのもっとも高価なモノを求め続きます。それは、私たちのお金でも、モノでも、知識でも、信頼でも、忠誠でもありません。私たちの生命をあらわす「時間」です。私たちは、この世に支配されている時、この「時間」を躊躇せずにこの世に捧げて来たのです。

 

しかし、クリスチャンとして、私たちが安息日に丸一日を神様に捧げることによって、私たちがこの世の支配から自由になったことがわかるのです。「私の主人は、自分の会社の上司、家族の長、部活の部長、口座の残高、好きな人や、先輩の目ではありません。私の愛するイエス様です。」と言うことがはっきりわかります。イエス様が、この世界よりも楽しく、憐れみ深く、愛に満ちた自由と安息を惜しげもなく与えてくださる主人であることを証しする日なのです。

 

第四戒の意味を理解した上で、二つ目のポイントに移りたいと思います。もし、第四戒が「主の試金石」であるならば、第四戒は私たちに何を教えているのでしょうか?安息日を聖別しないことは、主の安息が不十分なものであり、主は、自分達の時間を捧げるほどの良い主人ではないということを、神様に言っていることなのです。

 

この事を、一番わかりやすく描いている聖書箇所は、出エジプト記16章です。神様は、神の民をエジプトから救い出し、約束の地に導こうとされましたが、民は、食料のない荒野を通る必要がありました。そして、神の民はこのような不平を言ったのです。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」 しかし、恵み深い神様は、その不平を罰する事なく、毎日、彼らの必要を満たすだけのマナというパンを奇跡的に与えられました。そして、モーセを通して、このように命令されたのです。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」 (16:4-5)

 

そして、六日目にモーセはこういわれました。「明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。」つまり、七日目に、六日目に集めたパンが十分であることを神様の約束を信じる必要があります。しかし、七日目にも、神の民は外へ出て、パンを集めようとしたのです。しかし、何も見つかりませんでした。その時、神様は民にこう注意されました。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。 心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」

 

仕事をしないで休んでとどまることは、ご主人であられる神様の恵みのみにとどまることを選ぶことです。ですから、安息日に働く者は、違う主人の支配に留まることを選ぶことなのです。ですから、出エジプト記31:13- 16は安息日に休まない人は、神様を裏切ったと同様であると結論付けます。

「あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。 」(出エジプト 31:15)

神様が定められた第七日目に休まない者は、神の民であっても、天の永遠の主の安息を受けとる者にふさわしくない者と定められるのです(エレミヤ17:19-27; エゼキエル22:23-31; イザヤ56:1-8)。

 

そう聞くと「それはちょっと厳しくないか」と思う方もいらっしゃると思います。今まで私は、第一戒から第三戒を神様との結婚関係に例えましたが、第四戒も同じです。神様は、命がけで私たちをエジプトから救い出し、私たちを無条件に愛してくださいました。安息日は、神様と神様の花嫁である教会とのデートの時間です。花婿であられる神様は、すべてのものをキャンセルし、その時間を優先し、花嫁である教会と楽しく時間を過ごすことを願っておられます。もちろん、誰かを助けるために、やらなければならないことがあって、その時間を急遽キャンセルすることはあります。神様もそれを理解しておられます。

 

しかし、もし私たちが「あ、ごめん。元カレのエジプトさんが私をカフェに誘っていて、今日のデートをキャンセルしていい?」とか。「昨日の夜、元カレのエジプトさんと楽しく過ごして、疲れちゃった。遅れていくから、先に始めてていいよ」とか。「ごめん、エジプトさんに仕事を頼まれたんだけど、今日のデートは何時に終わる?」とか。または、神様が私たちに話している途中に「うーん、それよりも。見て見て。エジプトさんが作った動画なんだけど、あなたの話を聞くよりもこれを見ていい?」などなど。もし、そのような事を毎週、神様が経験されているとしたら、何とおっしゃると思いますか?「あなたは、誰と結婚してるのか?」とおっしゃると思います。神様に対して、一番の愛と感謝を示したいなら、エジプトさんが何と言おうとしても、「ごめんなさい。私の主人と過ごす時間なので、会えません。」ときっぱり言うことですよね。「安息日を守ること」は、ただのルールを守ることではありません。それは、私たちの「心」の状態、私たちの神様に対する「愛」を明らかにする試金石なのです。

 

第四戒は、私にとって特に難しい戒めです。毎週、神様と神様の家族と過ごしていますが、神様を愛し、楽しむことよりも、周囲の人を喜ばせたいという自分の思いが、安息日を通して浮き彫りになります。自分の罪を自覚し始めると、十戒は「救い主への矢印」へと変わります。第四戒は、イエス様が私たちのために永遠の安息を獲得してくださり、イエス様ご自身が私たちの永遠の安息であることを教えてくれます。

ご存じのように、旧約聖書の安息日は第七日、つまり土曜日でした。ではなぜ、新約に生きる私たちは日曜日に安息日を祝うのでしょうか?実は、日曜日に変わったことの理由は、イエス様が私たちのために天の永遠の安息を獲得してくださったからなのです。どういう意味でしょうか?

神様が天地を創造され、アダムをご自身の似姿に造られたとき、このような契約を結ばれました。「もし私と同じように六日間働き、七日目に休み、私のすべての戒めを守るなら、神様の天の永遠の安息を全人類に与えよう」(創世記2:17、ローマ5:12-20、10:5参照)。しかし、残念ながらアダムはその条件を満たせませんでした。サタンにそそのかされ、神様から与えられた戒めを全うできず、神様と同じように休むこともできませんでした。アダム以降、誰もこの契約を果たすことはできなかったのです。

しかし、イエス様はアダムの契約を全うするために来られました。神様から与えられた務め、すなわち神様を愛し、神様の民を救うという務めを、コツコツと懸命に成し遂げられたのです。サタンが「世界のすべての王国とその栄華をあげるから、私に従えば楽になる」と誘惑したときも、イエス様は「下がれ、サタン。『あなたの神様である主を礼拝し、主にのみ仕えなさい』と書いてある」ときっぱりと退けられました。そして、十字架にかかって死なれる前に、神様からいただいた務めを全うされ、「完了した!」と叫ばれました。イエス様が神様から与えられた務めを完全に成し遂げられたのは、第六日の金曜日の午後でした。そして、ご遺体は葬られ、第七日は墓で休まれました。そして第一日目に、イエス様が復活されたのは、人間として神様から与えられた働きを全うされた報酬として、「天の永遠の安息」が与えられたという証拠なのです。

旧約聖書では、人間が神様から与えられた仕事が未完成だったため、安息日は「第七日」でした。これは「神様の働きが終わったら、主の天の安息がいただける」という意味でした。しかし、イエス様がすべての働きを完了してくださったので、安息日が「第一日」になったのです。新しい時代が始まったことを意味します。

私たちはクリスチャンとして、週の初めに、イエス様が獲得された安息を味わい、これからいただく天の永遠の安息を待ち望みながら六日間働きます。したがって、安息日の本質はイエス様ご自身にあるのです(コロサイ2:16-17)。イエス様がいてくださるので、私たちは本当の意味で休むことができるのです。イエス様が完了された御業により頼んで、天の永遠の安息を味わい、この世に支配されないで歩むことを証ししながら、今週も歩んでいきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church