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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙5章6-11節 |
さ ん び | Opening Praise | 死を打ち破り |
さ ん び | Praise | 主のあわれみは~His Mercy is More~ |
主の律法 | Law of God | (第1戒)マタイ4:8-10 |
赦しの確証 | Assurance of Pardon | コロサイ人への手紙1章13-14節 21-22節 |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌50番「子羊イェスよ」 |
転入式 | Membership Transfer Ceremony | |
聖書朗読 | Scripture Reading | ガラテヤ人への手紙2章11-16節 |
聖書の話 | Sermon | 「義と認められる恵み」
呉載炫教師候補 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌399番「主は導かれる」 |
主の献金の招き | Lord’s Call to Give | コリント人への手紙第二9章6-8節 |
献金 | Offering | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章3-6節 |
信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
私たちの教会は、礼拝後に残って交わりを楽しむ方や、午後の小グループやクラスに参加される方がたくさんいらっしゃいます。今日はこの後、インターナショナルポットラックがありますね。良い交わりが与えられますように。
古代のキリストの教会も、礼拝が終わったら食卓の交わりがあったと言います。先ほどお読みしたガラテヤ人への手紙も、ある日のアンティオキア教会での食卓の交わりの時のお話でした。
本日はこの箇所から、次の三つのことを共に考えたいと願います。一つ目は「ペテロの離脱」です。アンティオキアを訪れたペテロと、その時に起こったことを見てみましょう。二つ目は「パウロによる抗議」です。パウロはペテロに抗議をしたとありますが、なぜ抗議をしたのかその内容を確認します。三つ目は「血すじを越える恵み」です。ここでは義と認められる恵みについて学びます。
まず、一つ目のポイントは「ペテロの離脱」です。前回のガラテヤ人への手紙の説教は2章10節まででした。エルサレムでの会議の様子と、そこで決まったことについて学びました。パウロとエルサレムに集まった教会のリーダーたちの福音理解の一致が確認されました。
どんな理解ですか?人の救いには、律法の遵守が求められていないということです。エルサレム会議では、律法を守らないと救われないと主張していた、ユダヤ主義者たちの主張が排斥されました。
11節からは、この会議が終わった後の話です。11節は「ところが」という言葉から始まります。不穏な雰囲気がしますね。これから10節までの内容に反することが起こることを教えてくれます。
当時、パウロとバルナバはアンティオキアにいました。そこに、ケファ=使徒ペテロが訪問しました。ペテロがアンティオキアを訪問した理由については記されていませんが、12節には共に食事をしたとあります。
新約聖書の他の箇所(Ⅰコリント11章17節〜参照)にもあるように、古代の教会は集まった後に、一緒に食事をしました。ペテロが参加した食事も、礼拝の後の食事会だったのかもしれません。自分たちの教会を訪問してくれた使徒ペテロを囲んで、教会の皆で歓迎と喜びをもって食事をする情景が想像できます。
アンティオキアという場所は、エルサレムからヨーロッパに向かって北に遠く離れたところです。今でいうとトルコの南の方ですが、当時はローマ帝国の中で3番目に大きな大都市だったとされます。教会員のうち、多くの人がユダヤ人ではない、いわゆる「異邦人」だったと思われます。
12節を見ると、食事をしているペテロの近くに「ヤコブのところから」ある人たちが来たと言います。どんな人たちですか?ガラテヤ人への手紙の文脈から、ヤコブの指示によって送られた人たちではないと思われます。おそらく、ヤコブが指導的な立場にあったエルサレム教会から来た人たちだったでしょう。
ところが彼らが来ると、ペテロは静かに席を移動しました。さっきまでは、アンティオキア教会のユダヤ人ではない人たちと一緒に食べていたのに、ユダヤ人たちのところに行って食べ始めました。
ペテロがこのような行動を取ったのはどうしてでしょうか。ここには律法の理解、律法を遵守する問題が関わっています。ユダヤ人は異邦人と共に食事をしませんでした。その理由の一つは、律法におけるきよさと汚れの問題でした(レビ記11章)。神様はイスラエルが食べても良いきよいものと、食べてはならない汚れたものを定められました。
きよくない食べ物を食べると、その人は汚れます。異邦人は律法とは関係なく、食べたり飲んだりするので、同じ食卓で提供されるものの中には、律法では汚れたものとされる食べ物もあります。それを食べる人は汚れています。ですから、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。
また、人間の手で定められた宗教的な伝統も考えられます。ユダヤ宗教は、律法を守ることによって救いを獲得しようとします。ユダヤ宗教の教師たちは、律法を解釈し人々に説明する方法として、様々なルールを創作しました。このルールは際限なく拡大していき、神様が定めた律法の精神とは異なるものになっていきました。
例えば、ユダヤ人は食事の前に、自分をきよめるために手を洗う風習がありました。これは衛生上の問題ではありません。外出している間、異邦人によって自分が汚れたのではないかと思ったからです。それで手を洗うと、きよくなると決めました。
イエス様はこれに対して何と言われましたか?この「長老たちの言い伝え」と、これを守ることは、「神の戒めを破る」ことであり、「神のことばを無に」する「偽善」だと叱りました(マタイ15章参照)。
ペテロが席を移動したのは、ユダヤ人たちにあった、いま説明したこれらの思想のためでした。エルサレムから来た人たちは、実は割礼派でした。つまり、クリスチャンでも律法を守り割礼を受けなければ救われないと主張する、ユダヤ主義者たちでした。12節は、ペテロは彼らを恐れたと書いています。
どうして恐れていましたか?割礼派の人たちはエルサレムに帰り、アンティオキアで異邦人と食事をした自分の姿を報告するだろう。するとエルサレム教会にいる割礼派=ユダヤ主義者たちが騒ぎ出し、その非難の矢面に自分が立たされるかもしれない。教会内の評判が落ちるかもしれない。ペテロはこれを恐れました。
ここで、次のポイントに移ります。
二つ目のポイントは、「パウロによる抗議」です。13節です。「そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
食事の場にいた他のユダヤ人たちは、ペテロの行動を見ていました。ペテロが席を移動するので、彼らも同じようにユダヤ人だけの席に移動しました。その中には、パウロと共に福音のためにユダヤ主義者たちと戦ったバルナバも含まれていました。皆が、ペテロの行動を見て、誘惑されてしまいました。
パウロはこれを見て、ペテロがしたことは明確に罪であると指摘されなければならないと感じました。そして、11節にある通り、面と向かって抗議しました。抗議という言葉は、パウロが皆の面前でペテロに対して、敵対または抵抗したことを意味します。
食事中に席を移動することは、それほど大事なのでしょうか。ペテロがしたことは、明らかにユダヤ主義者たちを恐れたための行動でした。これは、ユダヤ主義者たちが喜ぶことです。
ユダヤ主義者たちの主張は、先のエルサレム会議で排斥されました。しかし、ペテロはユダヤ主義者たちに屈服しました。ペテロの行動は、エルサレム会議でなされた決定を、覆すようなものになってしまいました。
また、使徒であり教会の指導者であるペテロの行動を見たほかのユダヤ人たちが、ペテロに倣って間違った行動を取りました。霊的なリーダーシップの問題でもあります。ですから、パウロは敢えて、公の面前でペテロに抗議しました。
公における過ちは、私的にではなく公に取り扱われるべきです。ペテロはエルサレム会議で公になされた、教会の決定を破りました。使徒であっても、合法的な教会法を破ったなら牽制されます。ここでは、教会の会議によって教会法が定められ、教会はそれに従い互いに牽制するという、教会における長老政治の大事な原理が表れています。
13節には「本心を偽った行動をとり」とあります。ペテロが自分の本心と違う行動を取ったというのは、どういうことですか?ペテロは割礼派を恐れて、異邦人と食べていた席からユダヤ人だけの席に移りました。ペテロはこういう行動をしながらも、自分のしたことは、自分の信念とは異なることを知っていた、ということです。
ペテロは、本当の自分を隠して行動しました。どうしてこう言えるのでしょうか。聖書のいくつかの証言が、これを裏付けます。まず、ペテロは他の十一人の弟子たちと一緒に、イエス様と3年間寝食を共にし、教えられました。
イエス様は地上におられる間、明確に「すべての食物をきよい」としました(マルコ7:19)。また、救いは人種によるのではなく、主ご自身に信頼するものに与えられる(マタイ11:28-30)と教えました。主はすべての国の人を招かれます(マタイ8:11、28:18-20、ヨハネ12:32)。ペテロは人を救うのは信仰だということ(ヨハネ3:16、17:19-20)を、主イエスから教えられました。
また、コルネリウスへの伝道(使徒10章参照)もありました。神様はヤッファの家の屋上での、敷布の籠の幻から「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(使徒10:15)ことを、ペテロに教えました。
ペテロはこれを理解し、異邦人であるコルネリウスの家に行き、コルネリウスとその家に集まった人々に福音を伝えました。ペテロは彼らと交わり、一緒に食事をしました。また、コルネリウスの家に行って福音を伝えたことを非難する兄弟たちに対し、神様がなされた事の次第を力強く弁論しました(使徒11章)。
もっとも、ペテロはアンティオキア来て、アンティオキアの教会員たちと一緒に食事をしていました。ペテロの本心が、ユダヤ主義者たちのそれとは異なることはよく分かります。
だからこそ、このペテロの偽善は非難されなければなりません。14節によるとパウロは、ペテロと彼に同調した人々の行動を「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいない」ものだと思いました。ペテロのとった行動は、教会の中ですべての人を一つにする主イエスの福音の真理ではなく、分裂や分派を生むものだったということです。
そして、パウロはペテロに面と向かってこのように言いました。「ペテロ、あなたはユダヤ人でありながら、異邦人のように生きています。しかし、なぜ今になって、異邦人の信徒たちに、ユダヤ人のように振る舞いなさいと言うのですか?」
つまり、ペテロが席を移動したことは、ユダヤ出身ではない教会員に対して、「私(ペテロ)と交わりたければ、あなたたちもユダヤ人のようになって律法を守りなさい。そうでなければ、私と交わることはできません。」と言ったようなものだということです。これは、明らかに福音の真理に反することです。
最後、三つ目のポイントは「血すじを超える恵み」です。15節から、パウロは話す相手をペテロから、この手紙を読んでいる皆へと広げます。「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。」
この言葉は一見、ユダヤ人を持ち上げて、異邦人を蔑むように聞こえるかもしれませんが、実はそうではありません。続く16節と合わせて読むと、パウロの意図をより鮮明に把握することができます。
パウロとペテロは生まれながらのユダヤ人です。当時の教会のユダヤ主義者たち、割礼派は、自らはユダヤ出身であり律法を守っていることをプライドのように感じていたことでしょう。だからユダヤ出身ではない人たちを「異邦人のような罪人」と蔑視する言葉で呼んでいたものと思われます。
これに対して、16節はこう教えます。イエス様は、ユダヤ出身かどうか、律法を一生懸命に守ったかどうかをご覧になっているわけではありません。人の救いには、これらの条件は無益です。ユダヤ人も異邦人もありません。
ここから16節を三つの段落に分けて見てみましょう。16節の前半です。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」
16節は、人はキリスト・イエスを信じることによって義と認められると言います。ここで私たちは、義と認められる=義認について考えたいと思います。人はどうして義と認められなければなりませんか?それは、人間にとって義認は、なくてならないものだからです。
人が地上にいる間に経験する貧しさや痛み、苦しみ、不安、恐怖は一時的なものです。人間には、一度死ぬことは定まっているからです。しかし、人間は永遠なる存在です。肉体が死んで終わりではありません。死後にさばき、造り主である全能の神様の恐ろしいさばきが待っています。
人は皆、死後に神様の大法廷に立たされます。ですから人間は、この神様のさばきを免れる道を探らなければなりません。この神様のさばきを前に、私たちの助けはどこにありますか?
信仰者の助けは、主イエスにあります。キリストが私の代わりに、神様のことばにすべて従う人生を生きてくださいました。キリストが私のすべての罪を背負い、私の代わりに十字架にかけられて死んで葬られ、三日目の朝によみがえられました。
このイエス様が地上におられる間になされた贖いの働きが、私のためであると信じる者には、イエス様の義が与えられます。イエス様が、神様から受けられた義が、私に与えられます。私の罪はすべて十字架上の主イエスに移され、主イエスの義は私に移されました。
もはや神様は罪人である私を見るのではなく、キリスト・イエスの義を通して私を見てくださいます。人がイエス様を信じる時、その人は義と認められます。この他に、神様の法廷で義と認められる方法は与えられていません。
続けて16節の中盤で、パウロはこう強調します。「律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」 この世の多くの人は、自分の正しさ、自分の義を表すために、様々な活動をしています。
ある者は勤勉誠実によって、またある者は禁欲や修行、自己犠牲、免罪符によって。近代に入ってからはヒューマニズム、政治的なムーブメントなどもあります。ユダヤ人は何をしましたか?律法を守ろうとしました。律法を完璧に守ることによって、神様から義を獲得しようとしました。彼らが割礼や食物の掟に執着したのも、律法を守って義を手に入れたかったからです。
しかし、キリストではない義を求めた人は、誰も義を獲得することができませんでした。パウロはさらに強調します。16節の後半です。「というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」
罪ある人間は誰もが、何をしても聖なる神様の絶対的な義の基準に達することはできません。神様から無罪であると宣言していただくことはできません。人は律法を全部守ることはできませんし、一つでも守れなかったら律法全体を守れなかったことになります(ヤコブの手紙2:10参照)。律法を守って義を獲得したいと願う者は、どれだけ頑張っても、いつまで経っても、神様の目には罪人です。
人は自分では自分自身を義とすることができません。自力では自分を救うことはできません。人は皆、神様の法廷での永遠のさばき=永遠の死の有罪判決を待っています。しかし、信仰者には無罪が宣告されました。どうしてですか?私たちは16節で3回も繰り返されている表現に注目する必要があります。それは「義と認められる」です。
「一定の条件をクリアして、神様から義を獲得する」や「自分自身を義と認める」ではありません。人が何かを得るために、一生懸命に自分で努力することは、自然なことのように思えます。人々はこの努力を良いもの、美しいものとして賞賛します。世の中は、こういった報賞、報酬の理屈が支配しています。
しかし、信仰者の救いにおける、神様の法則はまったく違います。それは神様の愛です。神様はここに集まった私たち一人ひとりを、この世界を造るずっと前から愛しておられます。私たちをキリストにあって、予め、ご自分の民として選んでくださいました。
これは私に救われるだけの資格があったからではありません。私がまだ神様を知るずっと前に起こったことです。まだ私たちが神様を知る前、キリストが私たちのために死なれました。キリストが死に、信仰者である私たちが生きるためです。
パウロは、私たちはこのキリストを信じる信仰によって、義と認められたと言います。律法の遵守が人を義と認めるのではありません。律法の役割は人を救うものではありません。信仰によって義と認められます。この信仰もまた、神様からの賜物です。神様の愛の現れです。
メッセージをまとめます。私たちは、キリストを信じる信仰によって救われました。キリストは父なる神に完全に服従し、贖いのわざをなされました。このキリストのなされたわざが自分のためだと信じる者には、キリストの義が与えられます。義と認められます。
義認は、人の国籍や出身地、血すじ、家柄、学歴、宗教的な熱心、律法を全部守ったかどうかによるものではありません。私たちは、神様の愛によって義とされました。もう既に無罪が宣告された身分です。
主イエスを信じる人は、義と認められました。しかし、この地上を生きる間、信仰者は罪との戦いに敗れつまずくことがあります。心配ですか?でも恐れることはありません。信仰者が陥った罪によって、義と認められた=無罪判決が有罪に変わることはないからです。救いから脱落するようなことは決してありません。
どうしてですか?イエス様が、2000年前にもう私の罪を背負って十字架にかかってくださったからです。イエス様は私の罪をどれくらい背負ってくださいましたか?全部です。私の過去の罪、現在進行中の罪、これから将来に陥る罪まで、すべて背負い、赦してくださいました。同時に、私たちにはイエス様の義が転嫁されました。イエス様の義、キリストの服従のわざは完全です。つまずいても、また主に立ち返ることが、私たちには許されています。
ペテロは恐れていました。ユダヤ主義者たちによって自分の評判が落ちることを恐れて、彼らの間違った主張に屈してしまいました。私たちは、何も恐れることはありません。私たちの恐れは取り去られたからです。
どんな恐れですか?究極の恐れです。神様の法廷に立ち、有罪とされるかもしれない恐れです。私と皆さんは、キリストの福音を信じることによって義と認められました。何も私たちの無罪宣告を揺るがすものはありません。この平安をもって、福音の真理にまっすぐ歩むことのできる、これからの一週間になりますように願います。お祈りを致します。