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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇34篇8-10節 |
さ ん び | Opening Praise | 希望の歌 |
さ ん び | Praise | 慕い求めます |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の律法 | Law of God | (第2戒)コロサイ人への手紙3章2-5節 |
罪の告白 | Confession of Sin | |
赦しの確証 | Assurance of Pardon | 詩篇103篇8-12節 |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌301番「千歳の岩よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨハネの福音書6章22-47節 |
聖書の話 | Sermon | 「説教者であるイエス様」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌322番
「こひつじ主イェスの」1-4番 |
主の献金の招き | Lord’s Call to Give | ルカの福音書12章32-34節 |
献金 | Offering | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
派遣のことば | Lord’s Commission | エペソ人への手紙4章3-6節 |
信仰の告白 | Confession of Faith | 使徒信条(Apostles’ Creed) |
頌栄 | Doxology | 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」 |
祝祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
報告 | Announcements |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きます。もし海浜幕張めぐみ教会が幕張メッセで、私がイエス様について分かち合う、すごく楽しいキッズイベントを開いたとしましょう。そして、日本全国、北海道から沖縄まで、なんと2万人もの人が来たとします。これって、教会のイベントとして大成功だと思いますか?人数だけで考えれば、イースター礼拝の100人と比べたら、もちろん大成功ですよね。では、そのイベントの中で、私がこんなメッセージをしたとします。もし私がそのイベントで、「皆さんはイエス様の話を聞きに来たのかもしれませんが、本当は、ただこのイベントを楽しむだけのために、来たんじゃないですか? 皆さんには本当の信仰がありませんね。今日イエス様を信じなければ、永遠のいのちを受けることはできませんよ」と言ったらどうなるでしょう?2万人中1万9988人が私のメッセージに困惑してしまい、「イエス様についていくのはもうやめよう」と言って帰ってしまいました。イベントに残ったのはたったの12人です。それでも、イベントとして成功したと言えるでしょうか?
実は、今日の聖書の話は、これと似たようなことが起こります。イエス様が2万人くらいの人たちに奇跡を起こしてパンを与えると、たくさんの人がイエス様についていきました。しかし、その中でイエス様はこうおっしゃったのです。「あなたがたは私を信じるためではなく、ただ、パンをもう一度お腹いっぱい食べたいから私についてきているのでしょう? なくなってしまうパンのために頑張るのではなく、私のもとに来て、いつまでもおいしく食べられる、永遠のいのちのパンを受け取りなさい。」この言葉に大勢の人がつまずいて、離れていってしまいました。でも、イエス様はそれでよかったのです。なぜかというと、本当の信仰の理由がわからないまま2万人の人がイエス様についてくるよりも、たった12人でも本当の信仰の意味をよく理解した上でイエス様について来る弟子たちのほうが良いと、イエス様は考えられたからです。それをはっきりさせるために、イエス様はこのお話(説教)をされました。今日は、このお話の前半を見ていきたいと思います。
「ヨハネの福音書」を初めて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書という本は、多様な背景から来るいくつかの証人の証言が並べてある本です。イエス様を信じる人もいましたし、信じない人もいましたが、共通していることがありました。著者のヨハネは、私たちに二つの事を説得させようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは、「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。ヨハネの福音書の証人たちの証言をみると、イエス様の話に対して、大体三つの反応があることがわかります。「信じるか、信じないか、話を聞き続けるか」です。私たちも、同じように今日の話を通して、その三つの選択肢から選ばなければなりません。
イエス様の話を信じたいと思った人もいましたし、イエス様の話を聞き続けたいと思った人ももちろんいました。しかし、多くの人たちは、イエス様の話の信じがたいところは無視して、信じやすいところだけを信じました。そのため、癒しのしるしだけを求めていた群衆に、イエス様は、彼らがイエス様ご自身を見るように大規模な「しるし」を行われました。イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、「5000人の男たち」のためにー女性と子どもを入れると約2万人ー、すべての人達が望むだけ食べられる量を用意されたのです。人々はイエス様がなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました(ヨハネ6:14)。
今日の聖書箇所は、その続きです。「世に来られるはずの預言者だ」と告白した後、群衆は何をしたのでしょうか?人々はイエス様の力と権威を認めていましたが、強引にイエス様を自分たちの王にしようとしたのです(6:15)。しかし、イエス様は、自分たちの欲を満たすために「自分たちの王」を立てようとした群衆から逃がれられました。イエス様は、こっそりと弟子たちと一緒にガリラヤ湖の向こう岸に渡られましたが、群衆は、イエス様も弟子たちもそこにいないことを知って、すぐに小舟に乗り込んで、イエス様を捜しにカペナウムに向かいました。
想像してみてください。もし、イエス様が神奈川県の2万人の住民に奇跡的にパンと魚を与えて、その後東京湾を渡って、この会堂にこっそり身を隠そうとされた時、突然、東京湾を自力で渡ってきた大勢の人が「先生、いつここにおいでになったのですか?」と会堂に押し寄せて、イエス様の話を聞こうとしたのです。その群衆の熱心さをみたら、皆さんはどう思いますか?「これは、リバイバルかもしれない!」と単純に思いますよね。それ程、熱心にイエス様を探し求める人は、本物の信仰を持っている人だと思うのは自然だと思います。しかし、講壇に立っておられたイエス様は、このように説教を始められました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
イエス様は、厳しく群衆を戒められます。イエス様がおっしゃったことは厳しいと思いますが、群衆に永遠のいのちに至る「本当の」信仰を持たせたかったのです。このように注意されなかったら、群衆は自分たちの熱心さに満足していたかもしれません。
ですから、イエス様は、群衆が永遠のいのちをいただくことができるようにもう一度、本当の信仰とは何なのかを説明されます。
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。
つまり、イエス様は群衆の熱心さや勤勉さ、熱意を認めてはおられましたが、その「対象」が根本的に違う事を指摘されたのです。イエス様は、神様が認められた「メシア」「救い主」「王」であられ、永遠のいのちに至る食べ物を与えることができるお方です。ガリラヤ湖の上で小舟を一生懸命漕いで、カペナウムを町中探し、この会堂にたどり着いて「なくなってしまう食べ物」を求めることに対して、「それは、骨折り損のくたびれもうけじゃないですか?」とイエス様がおっしゃっているようなものです。暑い中、何時間も世界一おいしいラーメン屋の大行列に並んで、やっと注文できるという時に、「餃子一皿ください」と注文するようなものです。何のために熱心に働くのか、信仰と希望の対象は何なのか、そして、誰に助けを求めているのかを、よく考えなさい、とイエス様は注意されているのです。
しかし、群衆の質問を読むと、それが伝わっていないことがすぐにわかります。
「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエス様に「何の為に働くのかに気をつけなさい。」と注意されたのにもかかわらず、自分たちの「働き方」の方に目が行ってしまいました。「神様が求められるわざ、神様からの最低条件を満たすために、何をすべきでしょうか?」と群衆は聞きます。イエス様が「人の子が永遠のいのちに至る食べ物を「与える」」とおっしゃったのにもかかわらず、「働きの為の対象を変えなさい」と注意されたのにもかかわらず、群衆は、対象を変えずに、もっと神様のために熱心に働きたいと言い続けます。ですから、イエス様は群衆の質問に答えられ、彼らの誤解を解こうとされました。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(6:29)神様が求められることは、「一生懸命働くこと」ではなく、働かないで、群衆の目の前に立っていたイエス様を信じることです。非常にシンプルなことです。しかし、シンプルだからこそ、ハードルが高いのです。
そのシンプルさゆえに、群衆は戸惑い始め、イエス様にこう聞きます。
それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。
群衆がガリラヤ湖を渡って、カペナウムへ行った理由は、イエス様が2万人の人たちのためにパンをお与えになったからです。では、なぜ群衆は、更なる印をイエス様に求めたのでしょうか?それは、彼らがイエス様のおっしゃったことをやっと理解できたからです。群衆はこう考えたのです。もし、イエス様が、モーセ以上の預言者で、モーセ以上のしるしを行い、モーセ以上の救いをもたらしてくれるなら、5つのパンと2匹の魚の奇跡で2万人のお腹を満たすよりも、「天から降るマナ」のようなダイナミックなしるしを行うべきだと群衆は思いました。もし、イエス様のお言葉を聞いて、「そう簡単にイエス様が永遠のいのちを与えてくださることを信じられない。もっと証拠がほしい。」と思ったのなら、それは、彼らがイエス様が求めておられる信仰を理解した証拠なのです。
しかし、旧約聖書に記されている「天から降ったマナ」は、ダイナミックなしるしであることは間違いないですが、イエス様がおっしゃる「なくならない食物」でしょうか?出エジプト記を読むと、マナは一日で腐ってしまうパンなのです。群衆は、イエス様が示される「永遠のいのちに至るパン」という信仰の「対象」には目が行かず、イエス様が行われた奇跡にこだわってしまうのです。
群衆がイエス様の話を誤解してしまっても、イエス様は、彼らが信じやすくなるために何もされませんでした。その反対のことをされました。イエス様は、もっとシンプルに語られ、さらにハードルをあげられたのです。
まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。 33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。
群衆はこれを聞いて、ワクワクしながら心が騒いだと思います。「イエス様がまたしるしを行われる!」と心の中で思ったかもしれません。ですから、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」 と群衆が言います。しかし、イエス様は、群衆が聞きたくないような結論をおっしゃいます。
「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」の「もの」とは、物質の【モノ】ではなく、いのちを与える【者】ーすなわち、人ーなのです。「わたしがいのちのパンです」という表現の仕方も、聖書の神様のお名前の「わたしはある」と非常に似ていて、イエス様が神様と同様であることをほのめかしているのです。神様が与えてくださる、「天から下って来た」永遠のいのちのパンは、神の子であるイエス様ご自身なのです。そして、私たちがイエス様の下へ行き、イエス様を信じることは、「いのちのパン」を食べること、「いのちの水」を飲むことなのです。ですから、わたしたちの「いのちのパン」として、イエス様が来られると言うことが、最高の「しるし」とも言えます。神様から見ると、これ以上の「奇跡」はないのです。
しかし、群衆はそれを聞いて、小声で文句を言い始めました。旧約聖書で、神の民が荒野をさまよっていたとき、モーセの奇跡を見て、不信仰から「不平」をいって、神様とモーセに訴えたことがありました。ここで、同じようなことが起こっています。群衆が「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」 と文句を言ったとき、彼らの不信仰と神様に対する反抗が露わになりました。
そう聞くと、イエス様が説教者として失敗されたと思うかもしれません。しかし、イエス様はこの状況を、こう見られます。
36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。 37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。 44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。
イエス様は、群衆を説得するためにしるしを行いませんでしたし、彼らが、もう少し信じやすくなるために説教されませんでした。群衆がイエス様のことを信じられなかった理由は、イエス様の説教が難しすぎたからではありません。もし、イエス様の説教の目的が、できるだけ多くの人たちを説得することだったとすれば、イエス様の説教は失敗だったと言わざるを得ません。イエス様の理解では、ご自分を信じる者は「父がわたしに与えてくださる者」であり、信じない者は「父が引き寄せてくださらなかった者」なのです。したがって、イエス様にとって、多くの人が信じないということは失敗ではありませんでした。
神様がイエス様に与えられた任務は、「父がわたしに与えてくださる者」を「決して外に追い出したり」(37節)せず、「わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせること」(38節)でした。それこそが、救い主としてのイエス様の「成功の基準」だったのです。ですから、イエス様の説教の目的は、群衆をふるいにかけることだったと言えます。御父が送ってくださる民が誰なのかを明らかにすることによって、イエス様は、どの人たちを守り、どの人に永遠のいのちを与えるべきなのかを確認されたのです。そのため、イエス様は群衆にこうおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(47節)ですから、この説教のポイントは、イエス様は、私たちの信仰の対象は何なのかを確認しておられるのです。
ヨハネ6:22-47の流れを確認した上で、皆さんに覚えていただきたいことが三つあります。一つ目のポイントはこれです。「イエス様は、イエス様のパンを熱心に捜し求める2万人の大群衆よりも、イエス様のことばを信じる一人を喜ばれるのです。」
私たちは、霊的な成長をいろんな角度から見る時があります。大勢の人が教会に来ているので、聖霊様が働いていると思うときがあります。熱心にイエス様の教えを追い求めている人を見て、「信仰が芽生えているかもしれない」と思うときがあります。また、ある人の活動や奉仕の量を見て、「あの人は信仰深い」と思うときもあります。しかし、イエス様はいろんな角度から人々を見るよりも、シンプルに考えられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。 」ですから、イエス様の下に2万人集まったとしても、100万人集まったとしても、1億人集まったとしても、その人たちに信仰がなければイエス様は満足されないのです。
シンプルだからこそ、グレーゾーンがなく、白黒にはっきり分けられるのです。私たちはそう聞くと、抵抗を感じるかもしれません。しかし、イエス様はこう回答されます。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。」(38節)イエス様にとって、神様のみこころを行うことだけが喜びであり、他のことをご自分の判断基準に入れる事はなさいません。私たちもイエス様と同じように、イエス様のことばを信じることが、神様のみこころであることを受け止めているでしょうか?それ以外の事柄について、神様の御心と同じくらい大切であると思ってしまう様な事はないでしょうか?
二つ目に覚えていただきたいポイントは、これです。「キリスト教の信仰とは、消えてしまうパンのために頑張るのではなく、決してなくならないいのちのパンを、自分が働いてなくても、イエス様が与えてくださることを信じることなのです。」
イエス様は私たちにこう注意されます。「消えてしまうパンのために、すべてを犠牲にして一生懸命働く信仰は、いのちや喜びを与えません。むしろ、悲しみ、失望、そして虚しさ、ついには死に至る信仰になってしまうのです。」イエス様が私たちに差し出してくださる信仰は、「働かないで、決してなくならない、いのちのパンを与えてくださるイエス様に頼る」信仰です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがありません。」(6:35)
ただ、イエス様のもとに行くだけで、頑張らなくても与えられる永遠のいのちのパン。もしこれが本当なら、すべてが変わりますよね? 働く意味。成功とお金を持つ意味。人を愛する意味。そして、生きる意味まで。自分の飢え渇きを満たすために生きる人生ではなく、すべてが満たされているからこそ生きる人生に変わるのです。それが、キリスト教の信仰です。今、私たちが食べているパン、今、あなたが歩んでいる生き方は、消えてしまうパンのためでしょうか? それとも、イエス様が差し出してくださった、私たちの飢え渇きを完全に満たすいのちのパンのためでしょうか? 私たちの信仰の熱心さではなく、私たちの信仰の「対象」が何であるか。私たちはイエス様をごまかすことはできません。私たちははっきり答える必要があります。
最後に覚えていただきたいことは、これです。「イエス様の使命は、すべての人を無理やり説得することではありません。イエス様の使命は、神様の信頼と私たちの信仰を裏切らないことなのです。」
イエス様はすでに知っておられます。この集まりの中に、イエス様のもとに来て、イエス様の言葉を聞いても、心の中で「うーん、私にはそこまで、いのちのパンは必要ないかな…」と思う人がいることを。イエス様の使命は、すべての人を無理に説得することではありません。しかし、今日の聖書の箇所を聞いて、「あっ!?私は消えてしまうパンを食べていたな…。イエス様のいのちのパンをもっと食べたいな」と思うなら、安心してください。イエス様の使命は、いのちのパンを食べたいものに、永遠のいのちを与えることだからです。これが御父からいただいた使命なのです。
私たちは、永遠のいのちのパンを自分で作る必要はありませんし、探す必要もありません。イエス様は、そのパンを食べたいと願うすべての人たちをご自分のもとへ招いておられるのです。私たちは、ただ、イエス様のもとに行くだけなのです。イエス様は、私たちの飢えと渇きを満たしてくれるいのちのパンを用意してくださることを約束されます。
そして、イエス様は、ご自分に使命を与えられた神様からの信頼と、私たちのイエス様への信頼を裏切らないように、全力を尽くされました。イエス様はご自分のいのちを捧げるまでに私たちへの約束を守られたのです。ヨハネの福音書6:51で、イエス様はこうおっしゃいます。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」食物は、もともといのちがあったものなのです。イエス様は、ご自分の天のいのちを、十字架の上で捧げられたことによって、神様と私たちへの約束を完全に守られました。これほど信頼できる、誠実な方がおられるでしょうか?今週も、イエス様を頼り、与えてくださるいのちのパンを食べ続けて行きましょう。お祈りします。